祭をさがして-1
祭をさがして-2
何度か舞台を作ったり、高校時代の友人に誘われて不思議な祭に参加したりするうちに一年が過ぎた。
90年代関西サブカルチャーの片隅で、その雰囲気を呼吸しながら、自分なりの祭をさがし始めていた。
当面それは「小劇場」というカテゴリの中で見つけていこうと思っていて、少なくとも95年の年明けまでは、そんな自分になんの迷いも持っていなかった。
95年1月17日未明、突然「それ」はやってきた。
阪神淡路大震災である。
今も生々しく身体によみがえってくる震度7の激震、それから数か月間続いた被災生活の中で、私のものの感じ方は一旦全て解体された。
瓦礫と化した街で、不思議と広く静かな空を見上げながら、感覚が再構築されていく過程は、このカテゴリ90年代の最初の方で詳述している。
記事の投稿順は前後するが、時系列では以下の章「GUREN」が、「祭をさがして」の章の後に続くことになる。
GUREN-1
GUREN-2
GUREN-3
上掲「GUREN」の章では、震災によって「如何に壊れたか」ということを、当時の自分の経験を元に覚書にしてきた。
断続的に書き綴ってみて、「如何に」の前に「何が壊れたか」を書いておかなければ、震災の本当のところは伝わり難いのではないかと感じていた。
震災で破壊されるのは、直接的には地盤であり、建造物であるのだが、そうした物理的な破壊によって否応なくそこに住む人の営みも破壊される。
私の場合で言えば、前章「祭をさがして」で紹介したような、90年代前半に阪神間のサブカルチャーの片隅で活動していた若者の日常が、震災によって一度リセットされたのである。
震災編にあたる「GUREN」の章は、「祭をさがして」の後に構成し直すことで、より伝わりやすいものになると思う。
当時私が参加していた劇団のメンバーは、私も含めて大学近辺のアパート等に住み続けている者が多かった。
劇団などをやっている関係上、とくに男連中は老朽安アパートに居住するケースが多く、程度の差はあれメンバーの大半が被災者になった。
建物が倒壊して重傷を負うメンバーも出てしまい、劇団の活動は一旦休止となった。
当面の目標を失った私は、とにかく生活を続けていくことに追われた。
幸運にも私自身に怪我はなく、住んでいた安アパートも一部損壊程度で済んだ。
身体と住居に被害はなかったが、中々ライフラインや交通手段は復旧せず、収入を得ていたいくつかのアルバイトに全て復帰できたのは2か月以上後になった。
震災直後は感覚が非日常に切りかわっていたので、率直に言って「お祭り気分」もあった。
平時にこういう書き方をすると不謹慎だと思われるかもしれないが、天災などの緊急事態にあって心が湧きたつのは、人間の精神のセーフティーネットのようなものだ。
誰しもそうした心の仕組みを持っているし、それがあるからこそ非常時を乗り切れる。
台風が来るとじっとしておれなくなるようなお調子者こそ、緊急時に即座に救援や情報収集に走り始められるタイプなのだ。
しかし緊急時対応のお祭り気分はそうそう長くは続かない。
キャンプしているような物珍しさ、楽しさが感じられるのは、比較的被害の少ない者に限られるし、ほんの一時のものだ。
その後に待っているのは延々と続く過酷な被災生活で、精神的にも肉体的にも、そして経済的にも、本当に窮乏してくるのはそこからなのだ。
震災のその瞬間、そして直後には「人はあっけなく死ぬ」という事実を突きつけられるのだが、ある程度時間が経過すると「人はなかなか死ねない」という正反対の事実も身に染みてくる。
あっけなく死んでしまうのは確率としては少数派で、他の圧倒的多数は過酷な現実の中で生き続けなければならないのだ。
巨大災害では破壊された街の風景や死傷者数などの刺激的な部分に注目が集まりがちで、報道もそこに偏る。
しかしそれは、言ってみれば「報道のお祭り騒ぎ」に過ぎない。
絵として地味な「延々と続く被災者の窮乏生活」のキツさには、実際そのような立場になってみて初めて愕然と気づかされるのである。
さらにやり切れないのは、そうした被災後の生活は、家族や住居や勤めなど、守るべきものの多い堅気の皆さんにほど、重くのしかかるということだ。
他にも高齢であったり、身体が不自由であったり、小さな子供がいたりということを考えれば、「その後の日常」の比重は限りなく重いものになっていく。
守るものなど何もない、アマチュア演劇にうつつを抜かす若造であった私の苦境など、被災者の中では例外的に軽いものだったとも言えるのである。
(続く)