手伝っていた劇団はメンバーの大半が被災者で、心身共に余裕が無いのは私だけではなかったらしく、この年の本公演は8月の一回きりとなった。
メンバーの皆さんは、ただ日々を過ごすことに追われながらも、それぞれの表現を求め、何も言われなくとも自主練などでしぶとく活動していたはずだ。
自分がそうだったので、それはよくわかる。
どちらかというと私は、演劇人というより絵描きの物作りの一つとしての参加だったので、芝居の練習という形ではなかったけれども、「描く」ということは続けていた。
絵も文章も「作品」と言えるほどにまとまった形にはできなかったけれども、折にふれスケッチやメモは描き続けていた。
振り返ってみると、我ながらあの状況の中、よく描き続けられたと思う。
その蓄積は確実に今につながっている。
何のあてもなくとも、ただ描く。
絵描きにとって、それ以上に大切なことなどないのだ。
当時の記録を探ってみると、スケッチやメモがとくに数多く残っているテーマが「夢」だった。
私は幼少の頃から睡眠時に見る「夢」というものに興味を持っていて、独自に探求していた。
あまり夢に没入すると「現実」への適応が難しくなるのだが、幸か不幸か震災後は仕事が少なく、時間だけはたっぷりある状態だったので、夢の記録が多く残せたのだろう。
内容的にも面白いものが多く、このブログのカテゴリ:夢で公開しているものは、当時の記録の蓄積が母体になっている。
被災生活、そしてカルト教団によるテロ事件の影響で、生来の孤独癖がかなり進行していたのだが、だからこそこうした極めて浮世離れした記録が可能になったとも言えるのだ。
そして10月のある夜、私は衝動的に旅に出た。
午後十一時近く、JRにゆられていた。
まるで現実感はなく、夢の中にでもいるようだった。
ほんの数時間前まで、こんなことになるとは考えてもみなかった。
震災でイエローカードを貼られた安アパートで、いつものように寝転がって夜を過ごすはずだった。
午後九時頃、南向きの、ボロアパートには不釣り合いな広いベランダから空を見上げた。
わずかに欠けたほとんど満月。
フルムーンの一晩前。
南の空高く、輝く月が私の頭を強くはたいた。
一年間の酷い現実世界から醒まして、一年前の濃い夢の時間を呼び寄せた。
(ああ、十月で満月だ!)
居ても立ってもいられなくなって、なんのあてもないままに、突発的に部屋を出た。
その一年前、私は古い友達からの手紙に誘われ、ある小さな海岸へ行った。
そこでは毎年中秋の名月の頃、『月の祭』と呼ばれる祭があって、縁あって集まった狂い人たちが、三日三晩乱痴気騒ぎを繰り広げるのだ。
古い友達からの誘い
月の祭
後から思い出してみると、あれが現実のことだったのか、よく分からなくなってくる。
毎日の生活は固くて、確かで、あの『月の祭』の時間とは余りに差がありすぎて、本当にあったこととは思えなくなってくるのだ。
それは夢の時間と似ているかもしれない。
夢を見ているときには、完全にそれが本当のことだと思っているのに、目が覚めて時間の質が変化すると、とたんに姿が霞んでしまう……
ついさっきJRに乗り込んだばかりなのに、もう自室からは遠く離れたあの海岸への最寄駅に着いている気がした。
私の心ははやっていた。
一刻も早くあの海岸へ行こうと、駅前市街の夜道を小走りに駆けていた。
一年前に一度バスで通っただけの道が、これ以上確かなことはないほどはっきり記憶によみがえってきた。
分かれ道に差し掛かれば足が勝手に正解を選んだ。
あの月のきれいな海岸へ一刻も早く着かなければならないのだから、それは出来て当り前のことだった。
夢の中では、強く望んだことは必ずかなえられる。
空だって自由自在に飛べるのだ。
ただし、弱気は禁物。
空飛ぶ自分に少しでも疑問が湧けば、すぐに墜落してしまう……
ごくたまに、私はとても非常識になる。
普段は常識的であろうと努めているのだが、その時ばかりはそういう抑制はまるで効かなくなる。
衝動的な行動がその後の進路を決めてしまったことも何度かあり、その度に正気に返ってから愕然としたりすることになる。
今度はいったい、どうなってしまうのだろうか?
月のきれいな海岸に向かっていることに心踊らせながら、その片隅で正気の部分の私が少しだけ心配していた。
(続く)