私はスピードを落として、さくさくと浜辺の砂を踏んだ。
灯りはともっているけれども、人の気配はあまりなかった。
少なくとも『月の祭』が今日ではないことは分かった。
軽い失望。
海の家のスペースに何人か集まって、映画上映会のようなことをやっていた。
私は声をかけて、来意を告げた。
やはり『月の祭』は、やっていなかった。
今年は少し早目に、一ヶ月前に祭は終えたのだという。
ああ、そう言えばもう一か月たったか、と一人が笑った。
祭のスタッフとして参加して、そのまま居着いてごろごろしていたのだそうだ。
ともかくまあ、あがんなさいよと、私は仲間に加えてもらった。
あれこれ話すうちに、一同の内の何人かが「ああ、去年のあの絵を描いてた人か」と思い出してくれた。
よく来たなあと、一杯ごちそうしてくれた。
ハンモックにくるまれた赤ちゃんをあやしていた若いお母さんが、一冊の本を取り出して、私の生年月日を聞いてきた。
ネイティブ・アメリカンの生れ月によるトーテム占いだという。
何のことはない、インディアンの星座占いみたいなものなのだが、「あなたはワタリガラスですね」と言われて、私は何か心の奥深いところでショックを受けた。
この日、この時でなかったら、こんな衝撃はうけなかったかもしれない。
ワタリガラス?
ワタリガラス!
今まで自分に持ってきた疑問の多くが、この一言でほぼ解き明かされたような気がした。
ワタリガラスは一所には居られない。
あちこちを渡り歩いて、その場その集団に助力し、力を与えてまわる役割を果す。
義理堅く、自分に厳しい。
自分に厳しいが、そのことが元で周囲の人間を傷付けてしまうことがある。
ワタリガラスは、ネイティブ・アメリカンの重要なトーテムの一つであると同時に、世界各地にトーテムとして崇拝する部族を持つ。
日本では熊野にその名残をとどめる……
私としては珍しく、その占いを信じた。
普段占いの類にはとくに関心が無いのだが、一期一会のタイミングが偶然合ったということだと思う。
その瞬間から、私は自分をワタリガラスだと信じ、ワタリガラスとしてものを視、考え、行動するようになった。
彼女はまるでインディアンの呪術師のようだった。
いともあっさりと、私はワタリガラスに変身させられてしまった。
今も、その呪術は私の中に生きている。
色々話したり、海を眺めたりしながら夜を過ごした。
夢の中のまた夢のような時間は過ぎ、夜が白み始めた。
秋の夜明け前、海辺は深々と冷え込んでくる。
髭のおじさんが、「どこかで見たことのある顔だな」と笑いながら、火鉢でゆっくりと作ったおかゆをごちそうしてくれた。
夜明け前のおかゆは、素晴らしく旨かった。
たっぷりの水と一すくいの米で作ったおかゆが、ワタリガラスの夢を心地よく覚まして、朝の世界に着陸させようとしていた。
私は寝袋に潜り込んで、起きて見る夢の世界から通常の眠りの世界に入った。
目が覚めたとき、あたりに人影はなかった。
煙をかき消したように、一人もいなくなっていた。
昨日の酔いのせいか、くらっと眩暈を感じた。
しばらくじっと明るいビーチを見ていた。
それから誰にともなく「帰ります」と一声かけ、寝袋を片付けて、とろとろと砂浜を歩いた。
古びた灯台を曲がるとき、もう一度振り返った。
お世話になりました、と言った。
(続く)