子供時代に感じる、特有のリアリティというものがある。
たとえば体重測定の場面。
体重計にそっと乗れば軽くなりそうな気がするし、一度測定結果が出た後でも体重計に乗ったまま「フンッ!」と気合いを入れれば少し体重が重くなりそうな気がする。
もちろん、物理的には間違っている。
体重計にそっと乗ろうが気合いを入れようが、その動作によって多少計測針やデジタル数値が揺らぐだけで、結局体重の数値は変わらない。
教育により、頭では物理法則に則った「リアル」を納得できるようになってくるのだが、「気合いによる体重の増減」というような原始的、感覚的な「リアリティ」は、大人になっても心の奥底では残り続ける。
体重計にそっと乗りたくなる気分は、永久不滅だ(笑)
マンガなどのサブカルチャーの世界では、このような「感覚的なリアリティ」は、表現手法として多用される。
原始的であるがゆえに、受け手の感情を激しく揺さぶる効果があるのだ。
わかりやすい例では、マンガ「ドラゴンボール」の世界における「気」の描写がある。
精神エネルギーである「気」によって、登場人物の強さは増減し、時には肉体の体積まで変化する。
登場人物の感情によっても「気」は増減するので、作劇上のアイテムとしては非常に有効だ。
マンガ「ドラゴンボール」作中で最も盛り上がったのは、やはり「フリーザ編」で主人公・悟空がはじめて「超サイヤ人」に変身した瞬間だったのではないだろうか。
作中では「スカウター」という装置により、各登場人物の「戦闘力」は数値化されていて、基本的にはその数値に準じた勝敗がつく。
最強の敵フーリザに対して、悟空は様々な試練や修行を克服することで戦闘力の数値を上げ、対抗していくのだが、その戦闘力の突然変異ともいうべきフリーザにはどうしても及ばない。
どのような試練、どのような修行でも勝てなかった悟空が「伝説の戦士、超サイヤ人」に変貌したのは、目の前で親友を殺されたことが引き金となった「感情の爆発」だった。
主人公が戦士として覚醒する瞬間を感情の爆発と同期させ、戦闘力という冷厳な「数値」を瞬間的に無効化することで、凄まじいカタルシスが生まれたのだ。
あらゆる苦難に堪えてきた主人公が、最後の最後に素の感情を開放するパターンは、古来、通俗的な物語の定番である。
そこに「気」という、感情に同期し、物理法則にまで干渉する精神エネルギーの設定を盛ったことで、「ドラゴンボール」は少年漫画の新しい古典として不朽の作品になったのだと思う。
登場人物の捨て身の覚悟や精神力が、瞬間的に「常識」を突き破るパターンは、「ドラゴンボール」以前から繰り返し少年マンガで試行されてきた。
古典中の古典たる「あしたのジョー」からして、技術に優るライバルに精神力で立ち向かうパターンの連続で、結局最後はそれが原因で「真っ白に燃え尽きる」ことになった。
私の年代だと、子供時代にリアルタイムの雑誌連載で「感動に打ち震えた」経験は、たとえば「キン肉マン」のワンシーンになる。
マンガ「キン肉マン」の世界では、それぞれの超人の強さは「超人強度」という単位で数値化されている。(「強さの数値化」という手法は、もしかしたらこの「キン肉マン」が最初だったかもしれない)
それまで超人強度では最高の「100万パワー」を誇っていたウオーズマンが、「1000万パワー」というあり得ない数値の強敵バッファローマンと対戦したエピソードが、強く記憶に残っているのだ。
通常の戦い方では到底かなわないと覚悟したウオーズマンは、決死の覚悟で最後の技を繰り出すことになる。
主武器であるベアークローを両手使いの2倍とし、通常の2倍、3倍のジャンプや回転により、100万×2×2×3=1200万パワーの「光の矢」と化して、捨て身の攻撃を仕掛けたのだ。
その技は残念ながら寸前でかわされてしまうのだが、瞬間的に超人強度で凌駕することで、バッファローマンの主武器の角は、一本だけ砕かれることになった。
連載当時私は理科好きだったので、「これはちょっとおかしいんとちゃうか?」という疑問が頭をよぎらないでもなかった。
しかしそんな「賢しさ」を突き抜けて、やっぱり感動せざるを得ない「物語の力」があったのだ。
こうした「物理法則を凌駕する精神力」の描写は、もちろん物語の中だけで通用するものだ。
あくまで物語内での「リアリティ」であって、現実世界に通用する「リアル」ではあり得ない。
どのように計っても体重は変わらないし、精神論で圧倒的な物量差は克服できないし、ましてや「神風」など吹くはずもない。
様々な学習や経験により、物語と現実、リアリティとリアルの峻別はしなければならない。
しかし、その上で、それでも一周回って物語を心から楽しめる。
それが大人の嗜みであろうと、今は考えている。