子供、とくに男の子は「戦争ごっこ」が大好きだ。
この記事の中では「戦争ごっこ」をかなり広い意味でとらえ、「闘争」の要素が含まれる遊び全般というほどの意味にしておこう。
その分類で行くと、男の子の遊びは九割がた以上「戦争ごっこ」であるということになるだろう。
サブカルチャーの分野でも、男の子向けはほとんどが「バトルもの」で占められているが、子供の素朴な欲求に合わせきることが求められる分野である以上、これは仕方のないことだろう。
テレビ番組やマンガ、ゲームなどのサブカルチャーは、「心の駄菓子」だ。
駄菓子ばかりではいけないが、子供がこの娑婆世界を強く生き抜くためには、大人の推奨しがちな「清潔なもの、優良なもの」ばかりでもいけない。
多少の「俗悪」は必要なのだ。
わがニッポンの子供向けサブカルチャーの作り手は、玩具メーカーの先兵という一面を持ちながらも、同時に子供たちの心に夢と希望の種を植える理想主義も、決して捨てはしない。
これは戦後の子供向けサブカルの始祖である手塚治虫から、脈々と受け継がれる作り手の良心であり、その一点において保護者は信頼しても良いと思う。
男の子は動物的本能として、どうしようもなく闘争心を持っている。
表面上どんなに大人しく見えようと、心の奥底には攻撃性が標準装備されているものだ。
それは「あってはならないもの」として封印できるものではない。
自分の中の闘争心や攻撃性を、どうしようもなく在るものとしてまずは認め、それを飼いならさなければならない。
暴発させるのではなく、友人関係が破綻しない範囲での闘争心の制御は、主に遊び、「戦争ごっこ」の中で培われる。
遊びの際のモラルの在り方を示すのが、男の子向けサブカルチャーの役割なのだ。
戦いは、なるべく避けるべきである。
戦いは、誰かを守るためのものである。
戦いにおいても、恥ずべき振る舞いはある。
そして戦いは、最終的には平和を守るためのものである。
以上のような基本パターンを身につけるには、物語の中で繰り返し味わい、遊びの中で体験するのが一番だ。
昨今の私から見ればやや潔癖に過ぎる風潮の中では、公教育で「喧嘩をするな」と教えることはできても、「喧嘩のやり方」を教えるのは不可能だ。
清く正しい建前から外れた領域は、保護者がサブカルチャーもうまく活用しながら教えていく他ない。
とは言え、バトルもののサブカルチャーが、子供の心のモラル育成において万能であるというわけではもちろんない。
テレビを見ていればOK、マンガを読んでいればOK、ゲームをやっていればOKなどという、単純な話ではない。
バトルのパターンを浴びるほど体験することで攻撃性が助長されることもある。
とくにゲームなどで「人の姿に見えるキャラクター」を、反射神経で殴打したり銃撃しまくるような表現をとるものには注意が必要だ。
人は攻撃性を本能として持っているが、同時に人の姿を持つものにたいして攻撃を抑制する本能も持っている。
上記のような表現をとるゲームは、その抑制側の本能を解除してしまうケースがあるのだ。
戦いをシミュレートしたいなら、武道や格闘技などで、生身の人間を相手に、自分でも実際に痛みを味わいながら体験する方が、まだましだ。
戦争ごっこも、バトルもののサブカルチャーも、武道や格闘技も、男の子の攻撃性を馴致するのに、決して万能ではないが、有効なツールではある。
世のお母さん方は男の子の「戦い好き」にほとほと呆れ、眉をひそめているだろうけれども、日本のサブカルチャーのビッグネームの中には、筋金入りのミリタリーマニアがけっこう多く存在する。
アニメの世界では、たとえばジブリの宮崎駿やガンダムの富野由悠季がそうであるが、彼らはかなり古典的な反戦主義者でもある。
戦争ごっこと反戦平和は、男の子の中で共存し得るのだ。
単純に禁止するのではなく、放置するのでもなく、注意深く見守ってあげてほしい。