祭をさがして-1
祭をさがして-2
そして震災やカルト事件で、自分のやりたいことが一旦リセットされてしまったように感じた95年。
震災記-1
震災記-2
震災記-3
祭の影-1
祭の影-2
私は一度立ち止まって、じっくり読書をしたくなっていた。
元々本を読むのは好きだったのだが、小説等の創作作品が中心だった。
昔から興味のあった神仏や宗教について、創作経由ではなくちゃんと知りたくなった。
独学なので、はじめのうちは初歩的な解説書やエッセイ的な読み物から入るのは仕方ないとして、できれば経典、教典等の原典まで読み進めてみたいと思った。
本来ならもう少し早く、学生時代に存分にこうした読書をすべきだったのかもしれないが、こういうことは「内的必然」が無ければどうしようもないものだ。
ちょうど震災やカルト等の、目の前の「圧倒的な現実」が強烈すぎて、フィクションがあまり読めなくなっていた時期でもあった。
まだネットが一般化していない90年代は、何か本を探そうとすると、とにかく足を使わなければならなかった。
本、それも宗教関連の専門書を探すとなると、街の本屋さんでは間に合わない。
大型書店か大型図書館、古書店巡りをすることになる。
昔の本探しは「足が棒になるほど歩き回ること」と、ほぼイコールだった。
読書するということは、まずは読みたい本を探す旅であり、目星をつけた本を訪ねる旅であり、その果てにようやく本を読むことで起こる脳内の旅の入り口にたどりつくことができるのだ。
あと宗教関連だと、直接神社仏閣や団体に出向くことも含まれてくる。
中でも古書店の役割は大きい。
上は名のある古書店の本棚最上段から、下はBOOK OFFの百円均一コーナーまで、その気になって探すと古本屋の本棚は、宗教やちょっと怪しいオカルトでいっぱいだ。
あちこちで開かれている「チャリティー古本市」の類も見逃せない。
専門店では何万円もする本が、(滅多にないことだが)無造作に百円均一で並んでいたりする。
今に続く私の神仏趣味は、震災後から2000年頃にかけての濃い読書体験に始まっている。
当時出会った数々の良書や、それにたどりつくまでに浴びるほど乱読した雑本の類の蓄積が、この神仏与太話ブログ「縁日草子」の基礎になったのだ。
その頃、私がよく通っていた古本市があった。
毎年春先に開かれる古本市で、不用の本を一般から集めて売り捌き、収益はアジアからの留学生のための支援にまわされるという趣旨だった。
単行本が300円、文庫や新書は100円均一の値付けだったので、けっこう掘出物があった。
ただ難を言えば、こうした古本市はビジネスではないので専属スタッフがおらず、本の整理がほとんどされていなかったことだ。
一見さんは膨大な本の山の前で、ただ呆然と立ち尽くすことになりやすい。
貧乏だった私は、とにかく安く必要な本を揃えたい一心で、暇を見つけては発掘作業のような本探しを続けていた。
発掘作業というのはたとえ話でも何でもなくて、たまに落盤事故まがいの「本の雪崩」に遭遇し、身の危険を感じることもあった(笑)
これではラチがあかないと、後に「古本ボランティア」として整理を手伝っていた時期もあった。
自分の欲しい本を探すのが主目的だったで、ボランティアとしてはやや動機が不純だったのだが、それでも素人ぞろいの中では「本に詳しい人」としてゴー腕をふるった。
売上アップに貢献し、古本市を主宰しているスタッフの人に感謝されたりした。
馬鹿な私は、少しおだてられると全力で木に登ってしまう。
自分のための資料探しという当初の目的はどこへやら、無意味に高性能な「古本整理マシーン」と化して、只働きに夢中になった。
手段が目的化するとは、まさにこのことである。
自分で言うのもなんだが、私は生来凝り性で生真面目なので、一旦始めたことは徹底するのだ。
独自に古本整理のノウハウを理論化し、わかりやすくレポートにまとめ、スタッフの皆さんに配ったこともある。
そのレポートは私がボランティアを卒業した後も、何年か読み継がれていたようだ。
内容のさわりを覚えている範囲で再現してみよう。
・本はとにかく何らかの形で整理されたものを表に出しましょう。未整理のダンボールは奥でいいです。ごちゃごちゃのままでは普通の人は探せません。整理した分だけ売れ、その分新しく表に出すことができます。
・段ボールを上下にカットして薄い箱二つにし、本を一重に並べるようにすると、探しやすく、積み重ねも可能になります。
・以下のような売れやすいものは専用のコーナーに。
・時代小説や歴史小説は全巻揃いの状態でくくっておけば、必ず売れてスペースが空きます。
・その他流行作家は作家別で箱詰め。
・児童書や絵本。
・辞書の類(学生や留学生のお客さんが多いので)
・岩波文庫/新書、中公文庫/新書は専用箱へ。
・文芸のハードカバーは意外に売れないので後回しでもいいです。
・「窓ぎわのトットちゃん」と「サラダ記念日」と赤川次郎の文庫はとにかく数が多いので、見つけたらそれぞれ専用箱へ。
最後の項目などは、いかにも90年代っぽい(笑)
このように獅子奮迅の大活躍を繰り広げたところで、得るものは少ない。
岩波文庫や新書で出ている古典や基礎文献はすぐに揃うが、それらは金さえ払えば誰にでも買える資料だ。
値段が高いか安いかの違いに過ぎない。
本当に欲しい「手に入り難い」文献に巡り合うことなど、滅多にあるものではない。
しかし不思議なことに毎年数冊は、欲しくてたまらなかった絶版本が、本の山から顔をのぞかせて「待ってたよ」と私に微笑む。
しかもご丁寧に、本棚からちょっとはみ出していたりするのだ。
この瞬間の快感を言葉で表現するのは難しい。
ジャンルは違えど、何らかのマニアの人にだけ、私の気持ちはわかってもらえるのではないだろうか。
ともかく、歩き回ったり積み下ろしたりというような地道な「肉体労働」とともに、私は勉強を開始するのに必要な分量の本を、まずはガサッと揃えることができた。
今ならネット検索が入り口として適当になるだろうから、肉体労働の要素は大幅に減っているかもしれない。
しかし一言いわせてもらえば、何ごとかをある程度の専門性を持って、自主的に勉強しようとするならば、ネットで得られる情報だけでは全く足りない。
勉強は座ったままではできないのだ。
くたくたになるまで足を使うというプロセスは、時代を超えて必須なのである。
これは何かについて学んだ人なら、誰もが通ってきた道ではないかと思う。
(続く)