そのうちの一つが、全てがリセットされた95年頃、書店でたまたま見つけた一冊の文庫本の衝撃だった。
五木寛之「日本幻論」である。
それなりに小説は読んでいたのだが、実はそれまでこの作家の作品を読んだ経験はなかった。
もちろん名前は知っていたのだが、書店で手に取ったのは全くの偶然、気まぐれだったはずだ。
パラパラとページをめくって流し読みをすると、一気に引き込まれた。
レジに直行し、そのまま貪るように読んだ。
歴史の影に埋没した様々な民衆の姿、「隠岐共和国」、「かくれ念仏」、そして「蓮如」。
この本にはかつて存在し、今はもうほとんど痕跡も残っていない民衆の生き方が紹介されていた。
一般に日本人は「長いものには巻かれろ」式で、支配層に対してきわめて従順であることばかりが強調されがちであるが、幻の隠岐共和国や加賀一向一揆のように「下から持ち上がった形での自治体制」が存在したかもしれないという点に、強い興奮を覚えた。
当時は新潮文庫から出ていたのだが、現在はちくま文庫版が入手しやすいようだ。
●「日本幻論―漂泊者のこころ: 蓮如・熊楠・隠岐共和国」五木寛之(ちくま文庫)
その頃よく立ち寄っていた喫茶店で、この本を飽きもせず何度も何度も興奮しつつ読み耽った記憶がある。
繰り返し読み返すうちに文庫本のカバーはボロボロになり、本の角は摩滅して丸くなった。
このままではいつ本自体が崩壊してもおかしくない。
その後も何度となく再読するであろうことがはっきり分かっていたので、先に刊行されていたハードカバー版を探し出し、控えに購入した。
あるとき、行きつけの大型書店で、新刊発売記念としてサイン会が開催されたことがあった。
私はポケットにボロボロになった方の「日本幻論」を忍ばせ、新刊本を手にサインの列に並んだ。
自分の順番が回ってきたとき、恐る恐る「あの、失礼ですが、こちらの本にサインをいただいてもよろしいですか?」と、古びた文庫本を差し出した。
「いいですよ、両方とも書きましょう」
五木寛之さんは笑いながら新刊本とともに受け取ってくださった。
サインを書き終わるまでの短い時間、雑談に付き合ってくださった。
「この本は自分でも気に入っているんですよ」
「僕は祖父と父が浄土真宗の僧侶なんですけど、この本を読んであらためて仏教や他の宗教のことを学ぶようになりました」
「それは嬉しいですね。これからも勉強なさってください」
作家にとっては数多くのファンの中の一人との、他愛もない雑談だったはずだが、私にとっては大切な思い出になった。
だから、今も続けているのである。
最初の一冊「日本幻論」を手に取って以降、五木作品の中から同様のテーマを扱った作品を追うようになった。
刊行時期が近く、ほぼ続編と言える内容なのが、以下の本である。
●「蓮如―聖俗具有の人間像」五木寛之(岩波新書)
私は浄土真宗の僧侶の家に生まれ、結局自分では得度はしなかったものの、同年代の中では比較的「真宗風土」のようなものを体感して育ってきたと思う。
そんな私なので、宗祖である親鸞についてはそれなりに知識があり、「歎異抄」くらいは手に取ったことがあったけれども、蓮如についてはほとんど何も知らなかった。
ただ、勤行の折に読まれる「御文章」の筆者であるらしいということぐらいしか知識がなかった。
鎌倉新仏教の祖師の一人としての親鸞は、教科書にも載っているし、一般に紹介される機会も多いのだが、本願寺中興の蓮如はそうではない。
一般のイメージとして「教えの親鸞、組織の蓮如」という類型があり、浄土真宗、とくに東西本願寺から一歩でも離れると、蓮如の名が話題にのぼることは少なかったのではないかと思う。
蓮如に関する事跡が、書籍などを通じて紹介されるようになったのはわりに近年のことで、そのような機運の醸成に貢献したものの一つが、五木寛之の一連の著作であったということは言えるだろう。
子供の頃から独特の抑揚と共に耳にし、自分でも音読してきた「御文章」。
それは、どのような内容だったのか?
それは、どのような時代背景で成立したのか?
大人になってから「再会」し、あらためて考えてみるきっかけになったのが、この本だったのだ。
私は何らかのテーマにハマると集中的に読み漁る読書スタイルを持っている。
次に読み進んだのは同じ著者の「風の王国」だった。
●「風の王国」五木寛之(新潮文庫)
ただ「歩く」というたった一つの行為を軸に、古代・中世・近代・現代がつなぎ合わされ、「歩く」ということが思想にまで高められる不思議な物語である。
表の歴史として豊富な文字記録が残っている世界、平地に定住し、農耕を営む「常民」の世界と並行し、かつて存在したもう一つの世界。
定まった住居を持たず、農耕に関わらず、山・川・海を経巡って暮らす「化外の民」の世界。
この物語の中で描かれる、葛城二上山を本拠とする山民をルーツに持つ人々の姿は、著者の綿密な考証により、まるで実在する集団のように生き生きと描かれている。
先に紹介した「日本幻論」は、後半じわじわと蓮如に関する記述が多くなっていくのだけれども、前半はかなり多様な「かつて存在したもう一つの日本」が紹介されている。
その中の一つである「山民」の世界を、物語として読みたい場合はこの作品ということになるだろう。
素晴らしい物語を読み終えると、その甘美な余韻の中で、「この物語は本当にこれで終ってしまったのだろうか?」とか「続きはもう無いのだろうか?」と、欲が出てくる。
無いものねだりは程々に、そうした「楽しくて、やがて寂しき」感覚こそ、大切に味わうのが良い。
今ならそうした「間合い」が理解できるのだが、はじめて「風の王国」を読んだ時、私はまだそこまでわかっていなかった。
同じ作者の「戒厳令の夜」を読んだり、その他の著者の「サンカ」をテーマにした本を読んでみたりしたが、直接「風の王国」に続くものは見出せなかった。
五木寛之の仏教をテーマにした一連の著書は気に入ったので、折に触れて読み進めるうちに、2000年代に入ってからようやく「風の王国」の後日譚と言える記述に出会った。
私が大好きな「日本幻論」「蓮如―聖俗具有の人間像」からつながるテーマを持つ「日本人のこころ1〜6」として刊行されたシリーズである。
こちらも、現在はちくま文庫版が入手しやすいようだ。
どれも「日本幻論」の世界をさらに展開する刺激的な内容なのだが、中でも「風の王国」に連なるのは以下の一冊だった。
●「サンカの民と被差別の世界」五木寛之(ちくま文庫)
中国地方に実在する山の民に連なる人々が、フィクションとして描かれた「風の王国」を読み、熱烈な読者になり、五木寛之自身がそうした人たちに直接会って対話することになる物語。
虚構と現実が交錯して新しい歴史が生み出されていく過程を、ドキドキしながら私は読み耽った。
そしてその仲介の役割を果たした沖浦和光との対談も刊行される。
●「辺界の輝き」五木寛之/沖浦和光(ちくま文庫)
葛城二上山から当麻寺、金剛山。紀ノ川を通過して瀬戸内、中国地方へと、漂白に生きた人々の文字に残されなかった歴史が、対談と言う「語り」の中で描き出されていく。
五木寛之は、作家である。
宗教者ではないし、専門の研究者でもない。
作家の書くものは、小説以外であっても、基本的には「物語」であり、もっと言えば「与太話」だ。
だから作品を読んだことで何かを「学んだ」気になってはいけないのだが、心に何らかの火を灯されるということはあるし、それが作家の力、物語の力と言ってよい。
テキ屋の啖呵のごとく感情を煽り、巧みな口上で魅力的なテーマを叩き売るのが、優れた作家の仕事だ。
学びは後からついてくる。
90年代半ば、あのタイミングで一連の五木寛之の著作に出会えたことは、幸運だったと今でも思っている。
最初の扉は「日本幻論」だった。
はるかに時が流れ、私は数えきれないほどの本を読み、遍路を重ねた末に、雑賀衆の活躍した石山合戦と言うテーマに行き当たっている。
浄土真宗、蓮如、もう一つの日本、化外の民など、昔感銘を受けた要素がすべて詰まったテーマである。
あれから二十年以上たって、最初の扉を今もう一度潜ろうとしているかのような感覚を抱いているのである。
(続く)