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2017年03月31日

本をさがして10

 1995年、カルト教団によるテロ事件が起こった後、その「解釈」を巡っては、いくつかの方向性があったのではないかと思う。
 一つには、まず何よりも「宗教」の起こした事件として論じる方向があり、「いやあれは宗教ではない」という反論も含め、「宗教とテロ」や「宗教と国家」というテーマが、あらためて持ち上がっていた。
 もう一つは、「国家転覆を企図する閉鎖的な集団が起こした事件」という点から、連合赤軍事件等の「政治案件」と比較しての論点があり、確かに教団信者の年齢層の上限あたりは、そうした事件の世代とも重なっていた。
 おそらく治安当局や報道の主力世代は、そうしたケースを念頭に置きながら、ことにあたっていたのではないかと思う。
 そしてもう一つ忘れてはならないのが、「サブカルチャー」という文脈からの言説だった。
 かの教団の、とくに三十代あたりの幹部信者の多くは、マンガやアニメで育った世代で、教団刊行物や宣伝手法、使用されている用語等に、明らかにその影響が見て取れた。
 当時のサブカルチャー界隈で活躍していた作家やライターの多くが教団幹部と同世代であり、直接の知り合いであったケースも多数あったようで、一時騒然とした雰囲気だったと記憶している。
 同世代的な視点から事件を論じたものには、たとえば以下のような本があった。


●「ジ・オウム―サブカルチャーとオウム真理教」(太田出版)
●「オウムという悪夢―同世代が語るオウム真理教論」(別冊宝島)

 事件当時私は二十代で、かの教団信者の年齢層の下限あたりに引っかかっていた。
 周囲で色々取り沙汰される噂話も含めると、どうやら「知り合いの知り合い」くらいの距離感で何人か信者がいるらしいことがわかった。
 人脈的に意外に近い。
 興味の分野もかなり近い。
 しかし、強い違和感はある。
 当時は「何がどう同じで、何がどう違うのか」を中々言葉にできず、もどかしさを感じていたので、こうした自分より一世代上のサブカルチャーの担い手たちの言葉を、貪るように読んでいた。
 
 教団幹部と同世代が事件を論ずると、どうしても話者の「自分語り」の部分が出てくる。
 教団に身を投じた者たちと、生まれ育ってきた時代背景の共通する、身を投じなかった自分自身の生い立ちからふり返る。
 自分の心の奥底にもある「ハルマゲドン」と切り結ぶ。
 そんな試みの中で、私が繰り返し読んだのは、上掲の二冊や以下の本だった。


●「私とハルマゲドン」竹熊健太郎(ちくま文庫)
●「篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝」竹熊健太郎(河出文庫)
 事件直後に書かれた自伝的作品と、それ以降のインタビュー集である。
 事件そのものを扱った一冊目に対し、二冊目は一部触れるにとどまっているけれども、どこかでつながった仕事であると感じるのである。

 サブカルチャーの中から、教団を論ずるだけでなく、直接対決にまで至ったケースもあった。
 90年代当時、週刊SPA!誌上で最も勢いのあった連載作品「ゴーマニズム宣言」の小林よしのりである。
 連載開始当初は「ギャグマンガ家が独自の視点から世間に物申す」というスタイルだったのが、次第にエンジンがかかって部落差別や菊タブー、薬害事件等のシリアスなテーマを扱い、時には最前線に立つ「社会派マンガ」として成長していく。
 そんな流れの中でかのカルト教団の話題も出るようになり、ついには教団から刺客を送られ、VXガスで暗殺されかける事態に至るのである。
 事件当時の掲載誌はこの作品と共に、鈴木邦男や宅八郎の記事も同時に連載されていて、「事件を報じる」というよりは「誌上でも局地戦が起こっている」というような雰囲気になっていたと記憶している。
 マンガと現実が交錯し、サブカルチャーが現実の「リアクション」であることを逸脱する、非常に刺激的な作品で、現在でも掲載誌をかえながら語り続けられている。
 現在の私は「ゴーマニズム宣言」の全ての主張には必ずしも同意出来なくなっているけれども、小林よしのりという語り手の「作家的良心」には、変わらず信頼を置いている。
 何かあった時、「小林よしのりはどう考えているのだろう?」と気になる存在であり続けているのだ。
 90年代の作品で好きなのは、薬害事件を扱った以下の本。


●「新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論」小林よしのり(幻冬舎)
 この作品以降、「ゴー宣」と小林よしのりは別次元に突入したと感じられる一冊である。
 その変化には賛否が分かれると思うが、少なくともこの作品は、今も一読の価値があると信ずる。
 カルト教団を直接扱ってはいないが、内容的には通底していると感じる。
 
 テロ事件当時、週刊SPA!とともに切り込んだ記事を掲載していたのが「週刊プレイボーイ」だった。
 中でも藤原新也の「世紀末航海録」が凄かった。
 連載の中で、かの教祖の生い立ちに関わる、ある「想念」が語られたことがあった。
 この「想念」が今後どのように展開していくのかと息を潜めて読んでいたのだが、ついに連載内では続きが語られることはなかった。
 やや唐突な話題の切り上げ、転換が行われ、何らかの圧力が働いたのかとも思わせるものがあった。
 そうした経緯も含め、全てが語られる「完結編」ともいえるのが、2000年代に入ってから刊行された以下の本である。


●「黄泉の犬」藤原新也(文春文庫)
 私が知る限り、「教祖の闇」に最も切り込んだのはこの一冊ではないかと感じているのである。

 90年代の私は、事件はやはり「宗教」にカテゴライズされるべきだろうと考えていた。
 サブカルチャーの文脈ももちろん含まれるだろうけれども、サブカルではハルマゲドンは起こせまいと思っていた。
 今は少し違っていて、「宗教のサブカル化」こそが事件の引き金になったのではないかと考え始めている。
 このことはまた、記事を改めて。
(続く)
posted by 九郎 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする