もちろん子供なので「記紀」そのものではなく、絵本やマンガ、アニメ化されたものを楽しんだのだが、「国生み」「黄泉の国」「岩戸隠れ」「大蛇退治」などなど、どのエピソードも奇想天外で面白く感じた。
同じ頃、昭和天皇についてはとくに思うところはなかった。
歴史の授業で習ったり、歴史モノに出てきたりする、幾人もの天皇の子孫であることは、頭では理解していたが、普段の意識では「たまにTVで見るおじいちゃん」という以上には、何の感想も持っていなかった。
マンガ「はだしのゲン」ではかなり批判的に描かれていて、作中のゲンや著者の中沢啓治がなぜそのように感じるようになったかは理解できたが、その怒りを「わがこと」と感じるまでには至らなかった。
なにしろ、子供だったのだ。
色々自分で考えて判断できる年齢になったのは、ちょうど今の天皇が即位してからになる。
90年代の幕開けとほぼ同時に「平成」は始まり、それからずっと見続けてきたが、私が今の天皇に感じるのは「頭の下がる思い」と言うほかない。
知も徳も兼ね備え、柔和な物腰の中に「鋼の意志」も垣間見える。
日本で最も不自由な、がんじがらめの立場に置かれながら、抑制された「お言葉」と移動のタイミングを武器に、たえず静かなメッセージを発し続けるお姿は、見事としか言いようがない。
子供の頃から神社も好きだった。
自宅近くに比較的大きな住吉神社があった。
当時はまだ季節のお祭も盛んで、隣接する溜池で釣りをしたり、境内にあった地区のプールで泳いだり、ときに社殿の屋根によじ登って怒られたりしながら、毎日のように遊んでいた。
日本神話も、天皇も、神社の佇まいも、どれも自分にとっては好もしい。
しかし、それでもなお「引っかかる」ものがある。
それが何なのかを知りたくて、90年代の私は本を読み漁っていた。
まずは「古事記」そして「風土記」だ。
古事記、記紀神話、日本の古伝承についての本も数えきれないほど刊行されていて、何から読んだらよいのか迷うところだ。
以前の仏教全般の記事でも述べたけれども、そういう時はごくオーソドックスなものから読んだ方が良い。
古事記のオーソドックスと言えば、以下に紹介するものになると思う。
●「新版 古事記 現代語訳付き」(角川ソフィア文庫)
私が90年代によく読んだのは角川文庫のもう一つ古い方の版だが、こちらの新版も良い。
●「古事記(上)全訳注」(講談社学術文庫)
●「古事記」(岩波文庫)
●「風土記」(岩波文庫)
風土記は日本の古典の中でも最古層に属するが、内容的にはさほど難解なものは無い。より原典に近い雰囲気を感じ取るには岩波文庫版がお勧め。
●「風土記」(平凡社ライブラリー)
手軽に親しむには現代語訳されているこちらの版がお勧め。
大人になって読み返してみた原典は、やはり途方もなく面白かった。
ただ、「記紀神話」をもって「日本古来」とするには、少々但し書きが必要であることも分かってきた。
事実だけ視るならば、古事記や日本書紀は、その成立当時有力だった各氏族の伝承を(かなり政治的に)集大成した「新たな神話大系」だ。
記述通り開闢以来伝えられてきたものではもちろんないし、史実としては「皇紀」と同じだけ遡れるものでもありえず、たかだか千数百年、主に宮中で本が伝承されてきたにすぎない。
その間も、「古事記」そのものや、天皇という存在が一般庶民にもずっと親しまれてきたという事実はない。
実際の庶民の信仰では雑多な神仏習合の時代の方がはるかに長いし、長さだけで言うなら記紀よりはるか以前から続いたアニミズムこそが「本来の姿」ということになるだろう。
記紀神話に価値がないと言っているわけではない。
それは非常に魅力的な神話体系であるし、政治的に集大成されたものとはいえ、古代の神々や天皇の行跡が、善悪を超えてかなり赤裸々に記述されているところは興味深い。
不思議な懐の深さ、大らかさは感じられる。
だが、これだけが日本ではないのだ。
何万年もかけてこの列島に様々な人々や神仏が渡来し、混じり合い、変容してきたこと全部が日本なのであって、歴史上どこかの時点に「正解」があるわけではない。
本来の国柄であるとか、純粋な神道などというものが歴史のどこかにあったとすること自体が、近世以降の国学〜復古神道〜国家神道という一連の流れから出た「新説」に過ぎないのだ。
●「国家神道」村上重良(岩波新書)
国家神道は、一言でいうなら「きわめて短期間で破綻した近代日本の新興宗教」だ。
史実ではありえない神話を現実の天皇制に仮託して強引に「復古」し、その結果国を滅ぼしたカルトであり、国家権力を背景にした官製カルトであることを考えると、悪質さは日本史上でも突出していると言える。
国家神道体制が確立する過程で起こった、神社合祀、神仏分離、廃仏毀釈により、庶民の信仰や鎮守の森が破壊され、人心も自然も荒廃していった過程は、まなり早い段階から南方熊楠によって鋭く指摘されていた。
●「神社合祀に関する意見」南方熊楠
また、90年代の私の「最初の一冊」である五木寛之「日本幻論」の中の、「隠岐共和国の幻」の章にも、それらの問題は集約されて語られている。
この本には、柳田国男と南方熊楠も取り上げられている。
記紀だけでなく「民俗学」もまた、在りし日の日本の姿を知るには欠かせない。
●「遠野物語・山の人生」柳田国男(岩波文庫)
私が神社や現天皇、日本神話自体には心惹かれながら、どうしても違和感がぬぐえなかったのは、「国家神道」という官製カルトが原因であった。
そしてそれは決して過去の遺物ではないのである。
戦前回帰を志向している神職はわりにたくさん存在して、エコやスピリチュアル趣味で無邪気に神社巡りをするうちに、国家神道的な刷り込みがなされてしまう場合も無しとは言えない。
某総理大臣夫人などはその口かもしれない。
ただ、繰り返すけれども、カルトが生じたからと言って、母体となった記紀神話を否定するわけではない。
カルトはあらゆる宗教、信仰から等しく生じうるのだ。
(続く)