その史実から目を背けないという前提に立つならば、日本古来の「神ながらの道」を学ぶことは、豊饒な世界でありえる。
外来の様々な文化、宗教とゆるやかに折り合いをつけながら伝承され、展開してきた在り様は、非常に面白いのだ。
古代から近現代までの神道の展開を幅広く紹介できるのが、鎌田東二という語り手である。
現在オーソドックスな神社神道の流れから、やや「横道にそれた」人物や言説が多く扱われており、90年代に神道についての読書を始めた当初の私は、好んで著作を読み漁っていた。
●「神界のフィールドワーク」鎌田東二(ちくま学芸文庫)
●「霊性のネットワーク」鎌田東二 喜納昌吉(青弓社)
神社神道から少し横道に入り、あるいは一歩踏み込もうとしたとき、よく目にするのが「古神道」というキーワードだ。
文字通り解釈するならば「古い神道」ということになるけれども、実際には古神道は「新しい」ことが多い。
様々な宗教、宗派で何らかの「革新」が行われる場合、よく採用されるロジックが「原点に還れ」という復古運動で、「古神道」は神道における復古であるケースが多い。
知的に復古すれば国学的な流れになり、神懸りで復古すれば教派神道的な流れになる。
国家神道の場合も「復古」の過程でカルト化したケースだが、近代以降の日本の神道には他にも様々な復古の形があった。
そこには、神道本来のおおらかさを失った強権的な国家神道へのカウンターとしての現れもあったのだ。
そんな「古神道」というカテゴリを幅広く紹介できる語り手が、菅田正昭である。
●「古神道は甦る」菅田正昭(たちばな教養文庫)
●「言霊の宇宙へ」菅田正昭(たちばな教養文庫)
●「複眼の神道家」菅田正昭(八幡書店)
国家神道へのカウンターとしての古神道というモチーフは、70年代から80年代のオカルト界隈でも多く紹介された。
孫引きを重ね、「ゆるふわスピリチュアル」と化した今のオカルト本とは違い、当時刊行されたものは古文献等の原資料からがっちり読み解いてゆく内容であったので、今開いてみても読み応えがあるものが多い。
私が今でも手元に置いているのは、たとえば以下の本。
●「神々の黙示録」金井南龍ほか(徳間書店)
異端の神道家・金井南龍をはじめとするメンバーの座談を編集したもの。
武田洋一名義の編者は、後に多くの古文献を復刻した八幡書店を立ち上げた、武田崇元である。
昔は古書店で割と安く入手しやすかったのだが、何年か前からスピリチュアル界隈で「白山」がプチブームになり、その源流になった本書も再評価されたようで、今は少々高値になっているようだ。
カウンター神道の文脈に登場するキーワードの一つに「古史古伝」というものがある。
一般には「古事記以前の書」と紹介されることが多いのだが、これも現行テキスト自体は「新しい」。
古神道モチーフの中の一つとして、90年代の私は関連書をよく読んだけれども、今は離れている。
内容はそれなりに面白いのだが、どこまでが古伝承でどこからが書き加えなのか判然とせず、そこを掘り下げるほどの興味が持てなかったためだ。
来歴の真贋を棚上げするならば、内容的には「ホツマツタエ」や「カタカムナ」が興味深かったと記憶している。
今、一応手元に残しているのは概説的なものだけで、まあそれで十分だと思っている。
●「古史古伝の謎」(別冊歴史読本)
●「謎のカタカムナ文明」阿基米得(徳間書店)
80年代からオカルト趣味を持っていた私からみると、今刊行されているスピリチュアル関連本はちょっとぬるすぎる。
ぬるいだけでなく、戦前回帰カルトやスピリチュアルマルチの入り口になってしまっているケースが多々あるので、あまりお勧めできない。
古書価格でさほど高くないタイミングで入手できるなら、一昔二昔前の本の方がよほど読み応えがあるのである。
明治時代に国家神道体制が確立して以降は、むしろ弾圧された側の新宗教の方に見るべきものがある。
国家の方が新宗教より狂っていた時代もあったのだ。
先に紹介した菅田正昭「古神道はよみがえる」あたりに幅広く紹介されているけれども、いくつか非常に心惹かれる「教え」があった。
当時、何気なく手に取った白く簡素な冊子があった。
パラパラめくってみると、中ほどにどうやら創世神話を語っているらしい一章があった。
大まかなストーリーは以下のようなものだった。
この世の始まりは泥海
それを味気なく思った月神と太陽神は
泥海の中から魚と巳を引き寄せて、男と女の元とした
シャチ、カメ、フグ、ウナギ等の生き物を引き寄せて、
体の様々な働きを作り、ドジョウを魂とした
小さな人類が生まれては滅び、
最後にメザルが一匹残った
それが今の人間の祖先である

読み進めると、昔どこかで聞いたことがあるような、懐かしい感じがした。
その簡素な冊子「天理教教典」は、当時百二十円ぐらいだった。
江戸末期、中山ミキによって創始された天理教は、とくに関西ではそれなりに信仰されており、親類縁者の中に一人くらいは関係している人がいてもおかしくはないのだが、私自身はとくに何の関わりもなかった。
それにも関わらず、この「泥海神話」に懐かしさのようなものを感じたのは、田んぼと古生物図鑑に囲まれて育ってきた原風景のせいだろうか。
更に詳しく調べてみると、「天理教教典」の神話の記述の元になった、「泥海古記」という不思議な書物が在るらしいことを知った。
この書物「泥海古記」は「どろうみこうき」と読み、「こふき」と表記されることもある。
教祖・中山ミキが折に触れて語った創世神話を、古い信者が書きとめたものであり、筆者や年代によっていくつかの異本がある。
もっとも流布されたものは、教祖の「お筆先」に似せた和歌体で書かれたものだが、結局教祖の納得した内容のものは完成しなかったらしい。
国家神道体制下では記紀神話以外の神話体系は認められず、天理教はこの泥海神話が原因で何度かの弾圧を受けたと言う。
そのため「泥海古記」は厳重に隠蔽されて、実態のつかみづらいものになってしまった。
弾圧の恐れのなくなった戦後、ようやく復元された内容が、現教典の第三章「元の理」である。
90年代から天理教関連の資料を読み始めた一つの成果、そして天理教についてのまとめは、当ブログのカテゴリ:泥海で紹介している。
(続く)