そろそろGWか。
年度初めの4月は馬鹿正直に頑張りすぎないよう、適度に手を抜きながら乗り切った。
そしてついに5月!
思い返せば一年前の5月末、生涯初めての開腹手術を経験した。
大げさではなく、死ぬかと思った。
鼠径ヘルニア(脱腸)まとめ
術後の経過は順調で、この一年は長年の付き合いの胃腸炎も起こさずにこれている。
胃腸の調子が良いのは、ヘルニア治療を受けたおかげかもしれない。
考えてみれば、物理的に腸が出たり引っ込んだりすることが身体の負担にならないわけがない。
そこが改善されれば胃腸炎も起こしにくくなるということは十分考えられる。
でもまあ、ここで調子に乗らずに養生しなければならない。
何と言っても、もうおっさんなのだ。
胃腸の調子が良い分、ちょっと体重は増加傾向。
せっかく減量に成功したのだから元の木阿弥にならぬよう、糖質制限の強化に努めなければ。
酒は焼酎をロックで少々。
焼酎なら糖質0なのでセーフ!
最近気に入っていたのは黒霧島。
本当は泡盛が好きなのだが、こちらはコンビニでカップでも売っているので入手しやすく、美味い。
けっこう人気のようで、立ち寄ったコンビニの店員さんに「これ美味いっすよね〜」と声をかけられたことが何度かあった(笑)
今はもう、あまり量は飲まないので、一升買っとけば3〜4週間はもつ。
ところがつい最近、近所のスーパーで泡盛の一升パックが取り扱いになってるのを見つけてしまった!
●久米島の久米仙 パック 30度 1800ml
やっぱり美味い。
ツーフィンガーぐらい注いで氷を浮かべ、少し溶けるのを待って口に含むと、うっとりしてしまう。
30度なので好みによってはミネラルウオーターや炭酸水で割ってもいいと思うが、私は昔からロックが好きだ。
あと、これはあまり賛同してもらったことがないのだが、あてには具沢山の味噌汁!
キリッと冷えたロックの焼酎と、熱い味噌汁の具!
軽く一杯やりながら、5月もぼちぼち行きましょう。

2017年05月01日
2017年05月02日
大河「おんな城主 直虎」
そろそろ一回記事にしておこう。
今年のNHK大河「おんな城主 直虎」のことである。
去年の「真田丸」が面白過ぎたこともあり、実は始まる前はちょっと不安視していた。
事跡がほとんど残っていない人物で、しかも基本設定の「女城主」ということも確定した史実とは言えないのに、果たして一年の長丁場をもたせられるのか、心配だったのだ。
ところがふたを開けてみればかなり面白い。
近年の大河では異例なほど丁寧に描かれた子役三人がまず素晴らしかったし、成長後の次郎法師、直親、政次の三人も熱演中だ。
とくに小野政次役の高橋一生の演技は、毎回緊張感をもって注視している。
主役の直虎はじめ、キャストは全体にはっきりわかりやすい演技になっている中、政次とその父・小野政直だけが「影」をもつ抑えた演出になっており、対比が鮮やかだ。
父が政次に遺した「お前も必ず同じことをする」という予言めいた一言は、果たして呪縛か解放か?
先行きに目が離せないのである。
内容的には、派手な合戦シーンこそ少ないものの、統治や経済の在り方がけっこう取り上げられているのが面白い。
今川仮名目録が周辺の国にも影響を与えている様や、寺社の権限、金融業の発達、物流、労働力の調達など、興味深いテーマがちゃんとストーリーと絡めて描かれている。
軍記ものでは「華」とされるいくさが、実際には政治や外交の一つの結果に過ぎないことが、ドラマとして伝わってくる。
個人的には、民族音楽やスライドギターを多用した音楽も面白い。
第16回「綿毛の案」では、噂話を流すシーンで、今でいうラップみたいな盛り上がりを見せたところがあった。
あれは「祭文語り」等の放浪芸を元にしているのではないかと思うが、今の私の好みにドンピシャだ。
音楽や芸能指導をしている人のセンスがとても良いと思う。
視聴率的にはやっぱり振るわないようだが、それは観ないやつが悪い!
今更有名どころの戦国武将や合戦シーンばかり求めるのがアホ!
スタッフ、キャストには、ぜひこのままの姿勢で頑張ってほしい!
今年のNHK大河「おんな城主 直虎」のことである。
去年の「真田丸」が面白過ぎたこともあり、実は始まる前はちょっと不安視していた。
事跡がほとんど残っていない人物で、しかも基本設定の「女城主」ということも確定した史実とは言えないのに、果たして一年の長丁場をもたせられるのか、心配だったのだ。
ところがふたを開けてみればかなり面白い。
近年の大河では異例なほど丁寧に描かれた子役三人がまず素晴らしかったし、成長後の次郎法師、直親、政次の三人も熱演中だ。
とくに小野政次役の高橋一生の演技は、毎回緊張感をもって注視している。
主役の直虎はじめ、キャストは全体にはっきりわかりやすい演技になっている中、政次とその父・小野政直だけが「影」をもつ抑えた演出になっており、対比が鮮やかだ。
父が政次に遺した「お前も必ず同じことをする」という予言めいた一言は、果たして呪縛か解放か?
先行きに目が離せないのである。
内容的には、派手な合戦シーンこそ少ないものの、統治や経済の在り方がけっこう取り上げられているのが面白い。
今川仮名目録が周辺の国にも影響を与えている様や、寺社の権限、金融業の発達、物流、労働力の調達など、興味深いテーマがちゃんとストーリーと絡めて描かれている。
軍記ものでは「華」とされるいくさが、実際には政治や外交の一つの結果に過ぎないことが、ドラマとして伝わってくる。
個人的には、民族音楽やスライドギターを多用した音楽も面白い。
第16回「綿毛の案」では、噂話を流すシーンで、今でいうラップみたいな盛り上がりを見せたところがあった。
あれは「祭文語り」等の放浪芸を元にしているのではないかと思うが、今の私の好みにドンピシャだ。
音楽や芸能指導をしている人のセンスがとても良いと思う。
視聴率的にはやっぱり振るわないようだが、それは観ないやつが悪い!
今更有名どころの戦国武将や合戦シーンばかり求めるのがアホ!
スタッフ、キャストには、ぜひこのままの姿勢で頑張ってほしい!
2017年05月03日
おりがみ「井伊家の赤備」
毎年この時期に作っている「おりがみ兜」、今年のネタはせっかく大河が「直虎」なので、井伊家の赤備をテーマにしてみよう。
赤備と言えば武田や真田も高名だが、今回モデルにしたのは井伊直政所用と伝えられる、朱塗りに巨大な金の天衝の頭形兜。
井伊家歴代の原型になったとされるものである。


井伊直政は、現在放映中の大河ドラマでは「虎松」にあたる。
五目並べに負け、いい顔で悔し泣きしていたあの小さい男の子だ。
(今気づいたけど、「直」で「政」か。。。)
折り方はこれまでにも何度か紹介してきた「変わり兜」からのアレンジ。
おりがみ兜
八咫烏の兜
おりがみ「六文銭兜」
以下の本に折り図が掲載されている。
●「変わりおりがみ」杉村卓二著(保育社カラーブックス
本来は対角線が1:2のひし形にカットした紙から折っていくのだが、今回は頭部を赤、天衝にあたる箇所を金にしたかったので、一工夫。
裏地が赤の金箔折り紙を、以下のように折った所からスタートする。

好みで色々試してみれば、作例に近いものができると思う。
今回使用したのは以下のおりがみ。
●トーヨー 豪華金箔調おりがみ 24cm角 金赤 6枚入
これまでのおりがみ兜まとめ記事は、こちら。
赤備と言えば武田や真田も高名だが、今回モデルにしたのは井伊直政所用と伝えられる、朱塗りに巨大な金の天衝の頭形兜。
井伊家歴代の原型になったとされるものである。


井伊直政は、現在放映中の大河ドラマでは「虎松」にあたる。
五目並べに負け、いい顔で悔し泣きしていたあの小さい男の子だ。
(今気づいたけど、「直」で「政」か。。。)
折り方はこれまでにも何度か紹介してきた「変わり兜」からのアレンジ。
おりがみ兜
八咫烏の兜
おりがみ「六文銭兜」
以下の本に折り図が掲載されている。
●「変わりおりがみ」杉村卓二著(保育社カラーブックス
本来は対角線が1:2のひし形にカットした紙から折っていくのだが、今回は頭部を赤、天衝にあたる箇所を金にしたかったので、一工夫。
裏地が赤の金箔折り紙を、以下のように折った所からスタートする。

好みで色々試してみれば、作例に近いものができると思う。
今回使用したのは以下のおりがみ。
●トーヨー 豪華金箔調おりがみ 24cm角 金赤 6枚入
これまでのおりがみ兜まとめ記事は、こちら。
2017年05月05日
広げた風呂敷の畳み方3 マンガ「無限の住人」のこと
ああ、そう言えばこのGWから、実写版「無限の住人」の劇場公開が始まっているのだなあと思い出す。
キムタク本人が珍しく必死で宣伝中とか。
原作のマンガ版は以前読み耽ったことがあるので、実写版も興味はあった。
事前情報の範囲では、つまらなくはなさそうだけど、実際観に行くには「もう一押し」欲しい。
どうせキムタクが出るのなら、主役の万次じゃなくて、狂気の殺し屋「尸良(しら)」を熱演して役者開眼!!! とかだったら絶対観に行くのだけれど(笑)
しばらくは私が信頼する目利きの皆さんのレビュー待ち。
今回は映画公開に便乗して原作についてである。
沙村広明の原作マンガは93年から月刊アフタヌーン誌で連載され、「これ本当に完結するのか?」と長らくファンを悶えさせる長期連載人気作の一つになっていたが、2012年無事完結。
私は2000年頃から気になりながらも「これは溜めておいて完結近くになってから一気に読むべし!」という勘が働いて、あえて黙殺してきた。
2009年頃「そろそろか?」と読み始め、一気にハマって繰り返し再読、妄想交じりの深読みをしながら完結まで追いかけた。
同時期に同様のハマり方をした「GANTZ」「シグルイ」とともに、完結までの数年間をたっぷり味わいつくした。
同時期に同様のハマり方と言えばもう一作、「ベルセルク」もあるのだが、こちらはいまだ終りの気配が見えない。
マンガ「GANTZ」については、これまでにも何度か語ってきた。
広げた風呂敷の畳み方1
広げた風呂敷の畳み方2
●「無限の住人」沙村広明(アフタヌーンKC)
少々注意すべきは、このマンガ「時代劇」ではない。
江戸の風景に仮託した「バイオレンスファンタジー」に分類するのが妥当なので、年長の「時代劇ファン」が読むと面食らうかもしれない。
リアルな描写に頼れない分、筋立てやバトルの「質」が問われるのであり、この作品はそこが面白いのである。
読者の期待が高まり切った長期連載人気作は、終わり方のハードルもどんどん高くなっていく。
思い入れの強いファンを多数抱えれば抱えるほど正解はなくなり、どのように終わっても文句はでる。
それは、ヒットしたことで「隅々まで語りつくせる場」を得たことの代償とも言える。
まずそこまでたどり着いたこと自体が凄いし、多大な重圧の中、完結させられたのならなお凄いと素直に思う。
だから私は好きな作者、好きな作品については、基本的に作者の描いたラストをそのまま味わうこと、肯定することを前提に読む。
以前「GANTZ」について語った時にも、そのような読み方を提示したつもりだ。
私が「無限の住人」で最も興味深く味わったのは、「当初の筋書と、勝手に動き始めたキャラの関係」だった。
マンガの長期連載作品において、作者も読者も度々体験し、最も面白く感じるのは、「キャラが勝手に動き出す」という現象ではないだろうか。
日本の雑誌連載マンガの醍醐味はそこにあり、その現象を起こしやすくするためのノウハウこそが、作者や編集者の手腕と言っても良い。
当初はさほど重要ではなかった脇役が、暴走によって作中で重みを増すことはよくあるし、あらかじめ「枠」を嵌められがちな主役級を、存在感で食ってしまうことすらある。
本作において、そのような「予想外の成長」を遂げた代表格が、先にも名を出した殺し屋「尸良(しら)」だと思う。
この男、まさに最悪のゲス野郎である。
登場した最初の時点から、嗜虐趣味で「仕事」以外で女子供まで殺しまくるサイコだった。
それが、主人公万次に右手首を切り落とされると、残った右腕の肉を自らそぎ落とし、骨を武器に仕立て上げて復活する。
苦痛で白髪に変わり、狂気と残虐性はアップ、おそらくこのあたりから作者の想定外にはみ出し始めていたのではないかと思う。
さらに別の登場人物に残った左腕を切られ、滝つぼに叩き落される。
落下の衝撃で左目を失明し、痛覚も失うのだが、それでも復活。
その後、あるきっかけで不死身の主人公万次の左腕を得て、自身も不死を獲得する。
キャラクターの存在感、生命力にじわじわと引きずられ、作者にも制御不能になりつつある過程が非常にスリリングだ。
尸良は元々、「万次とヒロインVS天津影久率いる逸刀流」という、ストーリーの本筋にからむキャラクターではない。
だから最終話に向けたクライマックスへの展開以前に、やや離された位置で決着が付けられた。
作者が途中から尸良を隔離したのは賢明な判断だったと思うし、「本筋のクライマックス」は、それはそれとしてよく盛り上げ、綺麗に終わらせたと思う。
しかし、私が作品鑑賞で重視する「感情のピーク」という点では、やはり「尸良の悲惨な野垂れ死に」のシーンこそ、強く印象に残ってしまう。
長期連載ではこのような「想定外」は往々にして起こるもので、それも含めて、やはり「無限の住人」は名作だったと思うし、作者はよくぞ描き切ったと思うのだ。
本作「無限の住人」は、今公開中の実写版以外にも、アニメ版等の派生作品がある。
その中でも私が一番好きなのが、和製ハードロックバンド・人間椅子のイメージアルバムである。
●「無限の住人」人間椅子
人気漫画のイメージアルバムでありながら、同時に人間椅子のオリジナルアルバムでもある極上の一枚。
実写化やアニメ化の際には、もうごちゃごちゃ言わんと収録曲の「刀と鞘」か「辻斬り小唄無宿編」をオープニングに、「無限の住人」をエンディング主題歌にすれば良いと昔から思っていた。
マンガのファンに一回でも聴いてもらえれば、そのクオリティは理解してもらえると思うのだが、ビジネス上の理由からか、現在までに一度も実現していない(悲)
とにかく動画サイトででもどこでも、タイトル曲「無限の住人」だけは聴いた方が良い。
ハードでアコースティックでプログレでしかも「和」の世界と言う、人間椅子にしか不可能な離れ業である。
ジャケットも手掛けたマンガ家・沙村広明は、元々人間椅子のファンだったそうなので、ここまでの仕上がりには感涙したのではないかと思う。
この機会に、原作ファンは必聴!
(今現在amazonでは高値がついているが、再発もあるかもしれない)
キムタク本人が珍しく必死で宣伝中とか。
原作のマンガ版は以前読み耽ったことがあるので、実写版も興味はあった。
事前情報の範囲では、つまらなくはなさそうだけど、実際観に行くには「もう一押し」欲しい。
どうせキムタクが出るのなら、主役の万次じゃなくて、狂気の殺し屋「尸良(しら)」を熱演して役者開眼!!! とかだったら絶対観に行くのだけれど(笑)
しばらくは私が信頼する目利きの皆さんのレビュー待ち。
今回は映画公開に便乗して原作についてである。
沙村広明の原作マンガは93年から月刊アフタヌーン誌で連載され、「これ本当に完結するのか?」と長らくファンを悶えさせる長期連載人気作の一つになっていたが、2012年無事完結。
私は2000年頃から気になりながらも「これは溜めておいて完結近くになってから一気に読むべし!」という勘が働いて、あえて黙殺してきた。
2009年頃「そろそろか?」と読み始め、一気にハマって繰り返し再読、妄想交じりの深読みをしながら完結まで追いかけた。
同時期に同様のハマり方をした「GANTZ」「シグルイ」とともに、完結までの数年間をたっぷり味わいつくした。
同時期に同様のハマり方と言えばもう一作、「ベルセルク」もあるのだが、こちらはいまだ終りの気配が見えない。
マンガ「GANTZ」については、これまでにも何度か語ってきた。
広げた風呂敷の畳み方1
広げた風呂敷の畳み方2
●「無限の住人」沙村広明(アフタヌーンKC)
少々注意すべきは、このマンガ「時代劇」ではない。
江戸の風景に仮託した「バイオレンスファンタジー」に分類するのが妥当なので、年長の「時代劇ファン」が読むと面食らうかもしれない。
リアルな描写に頼れない分、筋立てやバトルの「質」が問われるのであり、この作品はそこが面白いのである。
読者の期待が高まり切った長期連載人気作は、終わり方のハードルもどんどん高くなっていく。
思い入れの強いファンを多数抱えれば抱えるほど正解はなくなり、どのように終わっても文句はでる。
それは、ヒットしたことで「隅々まで語りつくせる場」を得たことの代償とも言える。
まずそこまでたどり着いたこと自体が凄いし、多大な重圧の中、完結させられたのならなお凄いと素直に思う。
だから私は好きな作者、好きな作品については、基本的に作者の描いたラストをそのまま味わうこと、肯定することを前提に読む。
以前「GANTZ」について語った時にも、そのような読み方を提示したつもりだ。
私が「無限の住人」で最も興味深く味わったのは、「当初の筋書と、勝手に動き始めたキャラの関係」だった。
マンガの長期連載作品において、作者も読者も度々体験し、最も面白く感じるのは、「キャラが勝手に動き出す」という現象ではないだろうか。
日本の雑誌連載マンガの醍醐味はそこにあり、その現象を起こしやすくするためのノウハウこそが、作者や編集者の手腕と言っても良い。
当初はさほど重要ではなかった脇役が、暴走によって作中で重みを増すことはよくあるし、あらかじめ「枠」を嵌められがちな主役級を、存在感で食ってしまうことすらある。
本作において、そのような「予想外の成長」を遂げた代表格が、先にも名を出した殺し屋「尸良(しら)」だと思う。
この男、まさに最悪のゲス野郎である。
登場した最初の時点から、嗜虐趣味で「仕事」以外で女子供まで殺しまくるサイコだった。
それが、主人公万次に右手首を切り落とされると、残った右腕の肉を自らそぎ落とし、骨を武器に仕立て上げて復活する。
苦痛で白髪に変わり、狂気と残虐性はアップ、おそらくこのあたりから作者の想定外にはみ出し始めていたのではないかと思う。
さらに別の登場人物に残った左腕を切られ、滝つぼに叩き落される。
落下の衝撃で左目を失明し、痛覚も失うのだが、それでも復活。
その後、あるきっかけで不死身の主人公万次の左腕を得て、自身も不死を獲得する。
キャラクターの存在感、生命力にじわじわと引きずられ、作者にも制御不能になりつつある過程が非常にスリリングだ。
尸良は元々、「万次とヒロインVS天津影久率いる逸刀流」という、ストーリーの本筋にからむキャラクターではない。
だから最終話に向けたクライマックスへの展開以前に、やや離された位置で決着が付けられた。
作者が途中から尸良を隔離したのは賢明な判断だったと思うし、「本筋のクライマックス」は、それはそれとしてよく盛り上げ、綺麗に終わらせたと思う。
しかし、私が作品鑑賞で重視する「感情のピーク」という点では、やはり「尸良の悲惨な野垂れ死に」のシーンこそ、強く印象に残ってしまう。
長期連載ではこのような「想定外」は往々にして起こるもので、それも含めて、やはり「無限の住人」は名作だったと思うし、作者はよくぞ描き切ったと思うのだ。
本作「無限の住人」は、今公開中の実写版以外にも、アニメ版等の派生作品がある。
その中でも私が一番好きなのが、和製ハードロックバンド・人間椅子のイメージアルバムである。
●「無限の住人」人間椅子
人気漫画のイメージアルバムでありながら、同時に人間椅子のオリジナルアルバムでもある極上の一枚。
実写化やアニメ化の際には、もうごちゃごちゃ言わんと収録曲の「刀と鞘」か「辻斬り小唄無宿編」をオープニングに、「無限の住人」をエンディング主題歌にすれば良いと昔から思っていた。
マンガのファンに一回でも聴いてもらえれば、そのクオリティは理解してもらえると思うのだが、ビジネス上の理由からか、現在までに一度も実現していない(悲)
とにかく動画サイトででもどこでも、タイトル曲「無限の住人」だけは聴いた方が良い。
ハードでアコースティックでプログレでしかも「和」の世界と言う、人間椅子にしか不可能な離れ業である。
ジャケットも手掛けたマンガ家・沙村広明は、元々人間椅子のファンだったそうなので、ここまでの仕上がりには感涙したのではないかと思う。
この機会に、原作ファンは必聴!
(今現在amazonでは高値がついているが、再発もあるかもしれない)
2017年05月06日
カテゴリ「積ん読崩し」
子供の頃から本が好きだった。
もっぱらエンタメ中心の読書だったが、二十代半ばあたりから仏教をはじめとする宗教関連の本や、絵を描くための資料を集積するようになった。
当時も今も狭い部屋は本でいっぱいなのだが、少しずつ整理を始めたのが2年前の年明け。
本の処分を思い立ったことにはいくつか理由がある。
思い付くままに列挙してみる。
・必要不可欠な資料はほぼ揃え終わり、取捨選択の時期に来ていること。
・ごく単純に、部屋の容量を超えてしまっていること。
・蔵書に記憶が追い付かず、同じ本を複数所持し始めていること。
・ネットの画像検索が充実してきて、アナログの写真や画像資料の必要性が薄れたこと。
・有名どころの著作権切れ作品は、ネットでも無料電子本でも読める環境になったこと。
まあ、要するに「そろそろ潮時」だったということだ。
概算で4000冊を超えていたであろう本を分別し、処分すべきは処分する。
整理を始めてから500冊ぐらいは、迷うことなくガンガン減らせた。
よほど偏愛する作家でない限り、エンタメ作品は基本的に処分。
とくに売れ筋の作品は、自分で所持しなくても世から消えることはない。
宗教や芸術、文化等についての本も、評価の定まったスタンダードな本はどこの図書館でも借りられるので処分。
とくに著作権の切れているものはネットや無料本でも読めるものが多いので、ばっさり処分してさしつかえない。
中には「ありがとう、そしてさようなら」という本もある。
自分なりに学び始めた当初、その分野の入り口の解説として楽しみつつ多くを得たが、そろそろ卒業すべしと判断した著者の本である。
梅原猛さん、中沢新一さん、荒俣宏さんの本は箱詰めにするほどいっぱいあったが、この十年ほど手に取っていない。
厳選した一部を残し、感謝と共に処分。
さようなら、また誰かの学びに役立ってください。
700冊減を超えたあたりで、処分のペースがガクンと落ちた。
いつか読もうと思っていてまだ読んでいなかった本を、順に読み始めたからだ。
一念発起してみると、今まさに読むべきだと感じる本が意外に多い。
十年前、二十年前だと、背伸びして無理に読んでも価値が分からなかっただろう。
過去の自分の目利きを誉めたい。
始めてからそろそろ二年半、本の整理ばかりしてはいられないのでスローペースながら、これまでに1200冊ほど減らした。
この分ならあと300冊分くらいはいけそうか。
このカテゴリ「積ん読崩し」では、整理の過程で積ん読を解消した本のレビューや、そこまでは行かなくとも基本情報についての覚書を残しておくことにする。
もっぱらエンタメ中心の読書だったが、二十代半ばあたりから仏教をはじめとする宗教関連の本や、絵を描くための資料を集積するようになった。
当時も今も狭い部屋は本でいっぱいなのだが、少しずつ整理を始めたのが2年前の年明け。
本の処分を思い立ったことにはいくつか理由がある。
思い付くままに列挙してみる。
・必要不可欠な資料はほぼ揃え終わり、取捨選択の時期に来ていること。
・ごく単純に、部屋の容量を超えてしまっていること。
・蔵書に記憶が追い付かず、同じ本を複数所持し始めていること。
・ネットの画像検索が充実してきて、アナログの写真や画像資料の必要性が薄れたこと。
・有名どころの著作権切れ作品は、ネットでも無料電子本でも読める環境になったこと。
まあ、要するに「そろそろ潮時」だったということだ。
概算で4000冊を超えていたであろう本を分別し、処分すべきは処分する。
整理を始めてから500冊ぐらいは、迷うことなくガンガン減らせた。
よほど偏愛する作家でない限り、エンタメ作品は基本的に処分。
とくに売れ筋の作品は、自分で所持しなくても世から消えることはない。
宗教や芸術、文化等についての本も、評価の定まったスタンダードな本はどこの図書館でも借りられるので処分。
とくに著作権の切れているものはネットや無料本でも読めるものが多いので、ばっさり処分してさしつかえない。
中には「ありがとう、そしてさようなら」という本もある。
自分なりに学び始めた当初、その分野の入り口の解説として楽しみつつ多くを得たが、そろそろ卒業すべしと判断した著者の本である。
梅原猛さん、中沢新一さん、荒俣宏さんの本は箱詰めにするほどいっぱいあったが、この十年ほど手に取っていない。
厳選した一部を残し、感謝と共に処分。
さようなら、また誰かの学びに役立ってください。
700冊減を超えたあたりで、処分のペースがガクンと落ちた。
いつか読もうと思っていてまだ読んでいなかった本を、順に読み始めたからだ。
一念発起してみると、今まさに読むべきだと感じる本が意外に多い。
十年前、二十年前だと、背伸びして無理に読んでも価値が分からなかっただろう。
過去の自分の目利きを誉めたい。
始めてからそろそろ二年半、本の整理ばかりしてはいられないのでスローペースながら、これまでに1200冊ほど減らした。
この分ならあと300冊分くらいはいけそうか。
このカテゴリ「積ん読崩し」では、整理の過程で積ん読を解消した本のレビューや、そこまでは行かなくとも基本情報についての覚書を残しておくことにする。
2017年05月07日
この世の地獄のノンフィクション
(この記事は「積ん読本」ではなく、以前読んだ本の再読だが、せっかくなのでレビュー)
3月末、ヘッドラインニュースの一つに目が留まった。
そのニュースに注目した人は少なかったかもしれないが、私にとってはチクリと刺さってくるものがあった。
ある死刑囚が、刑の執行を待たず、拘置所で病死したという一報である。
死刑囚の名は関根元。
94年に話題になった「愛犬家連続殺人事件」の主犯と言えば、いくらか記憶のよみがえってくる人もあるかもしれない。
ただ、この事件は極めて異常な犯罪であったにもかかわらず、犯人逮捕の直後の阪神淡路大震災、そしてカルト教団のテロ事件によって引き起こされた報道の奔流に押し流され、続報が人目を引くことはなかったと記憶している。
この事件、何よりもまず主犯の関根元の強烈なキャラクターが異彩を放つ。
本人の社会的地位だけで言えば「極悪人」と呼べるほどの大物ではない。
本職のやくざに対しては(少なくとも表面上は)這いつくばり、自分より弱い立場の物には横暴に振る舞う、半端な「小悪党」にすぎない。
学はないけれども悪知恵がはたらき、脂っこいバイタリティを持ち、ホラ話を聞き流している分には面白いタイプで、本業の「悪徳ペット業者」で満足していれば、まずは世間にありふれた常習軽犯罪者の一人で済んでいただろう。
そうした小悪党の顔を利用しながら、あるいは小悪党でしかなかったからこそ、様々な巡りあわせによって関根の狡知は育て上げられ、身柄を拘束されないままに稀代の連続殺人者に成長した。
関根の殺人の動機の多くは「都合が悪くなったから」とか「小金が手に入るから」というもので、普通それだけでは殺しにまで結びつかない。
発覚のリスクを考えればどう考えても割に合わない動機で、いとも簡単に多数の人間を殺している。
本人の言によれば、その数三十人以上。
長期間にわたってそれだけの連続殺人が可能であったのは、これも本人の表現を借りれば「ボディーを透明にする」という死体損壊・遺棄の手法による。
気分が悪くなるので詳しくは書かないが、独特の言い回しからだけでも不気味な印象は伝わってくると思う。
殺人が発覚するのは死体を残すからであり、死体を埋めたりせずに完全に消滅させれば「行方不明」に過ぎず、罪には問われない――
そんな一見バカバカしくも思える関根の「信念」は、実際にはかなり有効で、捜査当局をさんざん手こずらせた。
共犯者の自供からようやく逮捕に至ったが、本当のところ何人殺してきたのかは明らかではない。
関根は「自分はいつでも人を殺せ、決して捕まることはない」という強烈な自信を持っており、「透明にする」という恫喝で周囲の徐々に馴らして共犯者に仕立て上げた。
その中の一人が、今回紹介するノンフィクション・ノベルの著者である。
https://amzn.to/4ftzHNi
●「共犯者」山崎永幸(新潮社)
https://amzn.to/3CwPXym
●改題文庫版「愛犬家連続殺人事件」志麻永幸(角川文庫)
著者は元々、関根と同業のペット業者だったが、仕事上の成り行きから関りを持つようになり、やがて蟻地獄に引きずり込まれるように死体損壊・遺棄の共犯者にされてしまった人物である。
満期三年の実刑を受けた後、自らの見聞きした事件の全貌を書き綴ったのが本書である。
私は発売当時にこの本を読み、物凄い衝撃を受けていたので、今回の関根元死亡のニュースで「心に刺さるもの」を感じたのだ。
世の中の犯罪には、決して捜査や裁判だけでは明らかにならないものがある。
そこに居合わせた当事者が「語る」からこそ、怪物・関根元の闇の一端が、白日の下に引きずり出されることになったのだ。
著者は実刑を受けた共犯者ではあるけれども、事件当時、他の選択肢があったかどうかについて、他人がとやかく言うことははばかられる。
「人間の死は、生まれた時から決まっていると思っている奴もいるが、違う。それはこの関根元が決めるんだ」
「お前もこうなりたいか」
「子供は元気か」
「元気が何より」
このような言葉を口にし、平然と実行して見せる怪物と対面した時、どれほどの人間が犯罪に引きずり込まれずにいられるだろうか。
もっと深みにはまり、さらに重大な犯罪に手を染めさせられたり、「透明」にされてしまう危険性も十分にあったのだ。
著者が生還しただけでなく、警察に関根の身柄を拘束させるよう立ち回ることができたのも、「語ること」ができるだけの視線を持っていたせいではないかと感じる。
もしそこに著者がいなかったとしたら、関根はその後も長く野放しになり、犠牲者は増えていただろうし、事件の全貌が書き残されることもなかっただろう。
本書は関根元という「人間の形をした地獄」を詳述する一冊であるとともに、自分や家族を守り切りながらその地獄を潜り抜けた男の、サバイバル・ノンフィクションでもあるのだ。
本物の地獄を垣間見る覚悟のある者にだけ勧められる、凄まじい一冊である。
3月末、ヘッドラインニュースの一つに目が留まった。
そのニュースに注目した人は少なかったかもしれないが、私にとってはチクリと刺さってくるものがあった。
ある死刑囚が、刑の執行を待たず、拘置所で病死したという一報である。
死刑囚の名は関根元。
94年に話題になった「愛犬家連続殺人事件」の主犯と言えば、いくらか記憶のよみがえってくる人もあるかもしれない。
ただ、この事件は極めて異常な犯罪であったにもかかわらず、犯人逮捕の直後の阪神淡路大震災、そしてカルト教団のテロ事件によって引き起こされた報道の奔流に押し流され、続報が人目を引くことはなかったと記憶している。
この事件、何よりもまず主犯の関根元の強烈なキャラクターが異彩を放つ。
本人の社会的地位だけで言えば「極悪人」と呼べるほどの大物ではない。
本職のやくざに対しては(少なくとも表面上は)這いつくばり、自分より弱い立場の物には横暴に振る舞う、半端な「小悪党」にすぎない。
学はないけれども悪知恵がはたらき、脂っこいバイタリティを持ち、ホラ話を聞き流している分には面白いタイプで、本業の「悪徳ペット業者」で満足していれば、まずは世間にありふれた常習軽犯罪者の一人で済んでいただろう。
そうした小悪党の顔を利用しながら、あるいは小悪党でしかなかったからこそ、様々な巡りあわせによって関根の狡知は育て上げられ、身柄を拘束されないままに稀代の連続殺人者に成長した。
関根の殺人の動機の多くは「都合が悪くなったから」とか「小金が手に入るから」というもので、普通それだけでは殺しにまで結びつかない。
発覚のリスクを考えればどう考えても割に合わない動機で、いとも簡単に多数の人間を殺している。
本人の言によれば、その数三十人以上。
長期間にわたってそれだけの連続殺人が可能であったのは、これも本人の表現を借りれば「ボディーを透明にする」という死体損壊・遺棄の手法による。
気分が悪くなるので詳しくは書かないが、独特の言い回しからだけでも不気味な印象は伝わってくると思う。
殺人が発覚するのは死体を残すからであり、死体を埋めたりせずに完全に消滅させれば「行方不明」に過ぎず、罪には問われない――
そんな一見バカバカしくも思える関根の「信念」は、実際にはかなり有効で、捜査当局をさんざん手こずらせた。
共犯者の自供からようやく逮捕に至ったが、本当のところ何人殺してきたのかは明らかではない。
関根は「自分はいつでも人を殺せ、決して捕まることはない」という強烈な自信を持っており、「透明にする」という恫喝で周囲の徐々に馴らして共犯者に仕立て上げた。
その中の一人が、今回紹介するノンフィクション・ノベルの著者である。
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●「共犯者」山崎永幸(新潮社)
https://amzn.to/3CwPXym
●改題文庫版「愛犬家連続殺人事件」志麻永幸(角川文庫)
著者は元々、関根と同業のペット業者だったが、仕事上の成り行きから関りを持つようになり、やがて蟻地獄に引きずり込まれるように死体損壊・遺棄の共犯者にされてしまった人物である。
満期三年の実刑を受けた後、自らの見聞きした事件の全貌を書き綴ったのが本書である。
私は発売当時にこの本を読み、物凄い衝撃を受けていたので、今回の関根元死亡のニュースで「心に刺さるもの」を感じたのだ。
世の中の犯罪には、決して捜査や裁判だけでは明らかにならないものがある。
そこに居合わせた当事者が「語る」からこそ、怪物・関根元の闇の一端が、白日の下に引きずり出されることになったのだ。
著者は実刑を受けた共犯者ではあるけれども、事件当時、他の選択肢があったかどうかについて、他人がとやかく言うことははばかられる。
「人間の死は、生まれた時から決まっていると思っている奴もいるが、違う。それはこの関根元が決めるんだ」
「お前もこうなりたいか」
「子供は元気か」
「元気が何より」
このような言葉を口にし、平然と実行して見せる怪物と対面した時、どれほどの人間が犯罪に引きずり込まれずにいられるだろうか。
もっと深みにはまり、さらに重大な犯罪に手を染めさせられたり、「透明」にされてしまう危険性も十分にあったのだ。
著者が生還しただけでなく、警察に関根の身柄を拘束させるよう立ち回ることができたのも、「語ること」ができるだけの視線を持っていたせいではないかと感じる。
もしそこに著者がいなかったとしたら、関根はその後も長く野放しになり、犠牲者は増えていただろうし、事件の全貌が書き残されることもなかっただろう。
本書は関根元という「人間の形をした地獄」を詳述する一冊であるとともに、自分や家族を守り切りながらその地獄を潜り抜けた男の、サバイバル・ノンフィクションでもあるのだ。
本物の地獄を垣間見る覚悟のある者にだけ勧められる、凄まじい一冊である。
2017年05月08日
「落人伝説の里」松永伍一(基本情報のみの覚書)
●「落人伝説の里」松永伍一(角川選書139)
昭和五十七年十月十日 初版発行
【表紙紹介文】
伝説の多くは、文字で記録されなかった事象が、時の経過のなかでかたちを変え、「事実」として言いつがれ、変生したもの、でもあろう。筆者は、そういう「変生した歴史」としての伝説を生み、今なおそれを息づかせる土地を各々に訪ね、時間を遡り、土地人の祈願と意識、さらに長い幻想の本源をたどっていく―― 有形無形の「日本」が失われつつあるなかで試みられた、貴重な歴史探訪というべき一冊である。
【目次】
序章 人はなぜ貴種を伝説化するか
一の章 義経北上譚
二の章 硫黄島の老帝
三の章 高麗郷の若光
四の章 現夢童子の谷 檜枝岐
五の章 落折の洞窟
六の章 秋山郷の野仏
七の章 祖谷の赤旗
八の章 み吉野の鮎
九の章 能登の揚げ羽蝶
十の章 湯西川の平家観光
十一の章 椎葉の山唄
十二の章 近江山中の皇子 君ヶ畑など
十三の章 哀韻の麦屋節 五箇山
十四の章 椿と墓の幻想 五木村
十五の章 変わりゆく秘境・五家荘
十六の章 平維盛の流亡 熊野
十七の章 伊那の宗良親王
【著者:松永伍一】
昭和五年、福岡県生まれ。同二四年、八女高等学校を卒業。
農業に携り、教師をつとめつつ、同人誌「母音」に、主として詩を発表。
三二年、上京。「割礼」「ムッソリーニの脳」等の詩集のほか、「日本農民詩史」全五巻、毎日出版文化賞特別賞受賞。「底辺の美学」「一揆論」、さらに「松永伍一著作集」全六巻など、多くの著書がある。
2017年05月10日
へんろみち1
90年代前半、学生時代のアマチュア演劇活動の延長で、私は芝居を通じて自分なりの「祭」をさがし始めていた。
祭をさがして―1
祭をさがして―2
そんな時期、古い友人からの誘いで不思議な「祭」に参加し、強い衝撃を受けた。
どんと
その直後の95年初め、阪神淡路大震災で被災してしまった。
GUREN-1
GUREN-2
GUREN-3
震災に続くカルト教団のテロ事件等の世相の中、私は身も心も一旦リセットされた。
祭の影-1
祭の影-2
集団で何かをするということが困難になり、昔から関心のあった神仏や宗教について、一人で読書を開始した。
本をさがして-1
本をさがして-2
本をさがして-3
本をさがして-4
夢と言うものについて、かなり集中的に探求していたのも、この頃のことだ。
カテゴリ:夢
90年代のこうした様々な試行錯誤と同時進行で、私は「遍路」にも出るようになっていた。
時期的にはむしろ、こちらの方が早かったかもしれない。
熊野をはじめとする聖地巡礼のことを、当時の私はまだ「遍路」とは認識しておらず、周囲には単に「修行に出てくる」とだけ伝えていた。
夏季などにまとまった休みが取れると、リュックを担いでふらりと旅に出ていた。
以下、私の90年代覚書「へんろみち」の章である。
祭をさがして―1
祭をさがして―2
そんな時期、古い友人からの誘いで不思議な「祭」に参加し、強い衝撃を受けた。
どんと
その直後の95年初め、阪神淡路大震災で被災してしまった。
GUREN-1
GUREN-2
GUREN-3
震災に続くカルト教団のテロ事件等の世相の中、私は身も心も一旦リセットされた。
祭の影-1
祭の影-2
集団で何かをするということが困難になり、昔から関心のあった神仏や宗教について、一人で読書を開始した。
本をさがして-1
本をさがして-2
本をさがして-3
本をさがして-4
夢と言うものについて、かなり集中的に探求していたのも、この頃のことだ。
カテゴリ:夢
90年代のこうした様々な試行錯誤と同時進行で、私は「遍路」にも出るようになっていた。
時期的にはむしろ、こちらの方が早かったかもしれない。
熊野をはじめとする聖地巡礼のことを、当時の私はまだ「遍路」とは認識しておらず、周囲には単に「修行に出てくる」とだけ伝えていた。
夏季などにまとまった休みが取れると、リュックを担いでふらりと旅に出ていた。
以下、私の90年代覚書「へんろみち」の章である。
(続く)
2017年05月11日
へんろみち2
ある日ふらりと旅に出て、目的もなくただほっつき歩いてみたい。
できることなら、山の向こうへ消えてしまいたい――
たまにそんな衝動に駆られることがある。
もちろん、そんな気ままが許される身分ではない。
身過ぎ世過ぎの合間をぬって、日帰りで登山やハイキングに出かけたり、夏季になんとかまとまった日数の山歩きを楽しむのがせいぜいだ。
それでもなんとなく憧れとして「山の向こうへ」というイメージは残っていて、たぶん今後もずっと消えることはない。
そんな感覚を、自分はいつ頃から抱いていたのか?
記憶を遡ってみると、幼児の頃の原風景にまで行き着く。
幼い頃の私は、両親が共働きだったので、昼間の時間帯を祖父母の家で過ごしていた。
祖父母宅は、古墳のような小山と、小川の流れに挟まれた小さな村にあった。
小山の麓には道が三本、川に平行に通っており、各所で何本か、縦につながっていた。
一番上段の水平移動道の片端、山に向かって右手に祖父母宅があり、反対側の左端には「観音さん」の御堂があった。
その御堂から石段をおりると公園があり、山手に登ると村の墓場があった。
小山の麓を流れている小川には欄干のない小さな橋が架かっていて、渡ってしばらく田んぼ道を歩くとバス道があった。
そうしたごく狭い範囲が、幼い私の世界の、ほとんど全てだった。
小さな世界ではあったけれども、周辺は自然豊かな農村で、幼児の遊びのネタが尽きることは無かった。
その頃気になって仕方がなかったのが、祖父母宅の裏に控える、古墳のような小山のことだった。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
ある時期から、そんなことを考えるようになっていた。
山の周囲のことはよく知っていた。
いつも遊んでいたし、子供なので大人の通らない「隙間」も通路として利用できた。
だからある意味では周囲の大人たち以上に、場所と場所のつながりについて、詳しく知っていたとも言える。
しかし小山そのものは、子供が勝手に登ることは禁じられていたので、幼い私の中では巨大な空白地帯として、好奇心を刺激されていた。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
時間の経過とともに、子供の空想は着々と蓄積されていく。
そして噴出口を求め、マグマのようにエネルギーをためこんで行く。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
「山の向こうには何があるのだろう?」
空想が臨界点を超えたある日、幼い私は決然として裏山に登り始めたのだった……

祖父母宅のあった地域は、広々とした平野の真っ只中に位置していた。
あちこちに溜池や小山が散在しており、幼児の私が登り始めた裏山も、そんな中の一つだった。
岩が多く、樹木はまばらで、植物相はさほど深くない。
子供の遊び場ではあったが、幼児が一人で勝手に登るには、時期尚早だ。
それでも私は登らなければならなかった。
その時をおいて「山の向こう」に辿り着くことはないと確信しきっていた。
今となっては意味不明の、幼児特有の頑固さで、私はそう思い定めていた。
家の裏に迫った岩と岩の隙間に、子供の目にはたまたま道らしく見える所があった。
「ここが入り口か!」
勝手に判断して、私は登り始めた。
潅木の枝の下をくぐり、草のにおいをかぎながら、どんどん先へと進んでいく。
木や草や岩のトンネルを抜ける道行き。
最初は少しためらったが、すぐに面白さの方が上回った。
登れば登るほどトンネルは延びていくようだった。
少し怖くなり、後悔し始めていたが、もはや後には引けない。
怖いのと同時に、この状況をドキドキしながら面白がっている自分もいて、とことん進まなければ気がすまなくなっていた。
どれぐらい登ったことだろう?
時間にして見ればほんの数分のことだったかもしれないが、幼児の私にとっては、とてつもない冒険だった。
茂みのトンネルを抜けると、急に視界が急に開けてきた。
そこは静かな木立の中だった。
しんと白っぽく時間が止まり、足元の下草を踏む音が、カサカサと耳に響いてきた。
一体ここはどこなのかと、魅入られたようにトコトコと前進する幼児の私。
自分はついに「山の向こう」へ辿り着いたのか?
そんな期待とともに歩を進めてみると、意外な風景が目の中に飛び込んできた。
そこは墓地だった。
観音さんの御堂の上にあり、私もよく遊びに行っていた村のお墓だったのだ。
大人になった今考えてみれば、不思議なことは一つもない。
私は祖父母の家から小山の反対側にある墓地まで、山頂を経由して辿り着いたに過ぎなかった。
しかし子供心には、それは異様な出来事に感じられた。
空想の中では山はどこまでも続き、見知らぬ世界につながっているはずだった。
それなのに、まっすぐ登った結果が自分の知っている場所になるのは不思議でならなかった。
まっすぐ上に登ったはずなのに、横に到着してしまった?
子供なりの理屈では、とても納得のいかない現象に思えたのだ。
納得はいかなかったけれども、私は自分の身に超常現象が起こったような気がして興奮した。
何かこの世の大切な秘密事項の一端に触れたつもりになり、大変満足だった。
そして自分の「大冒険」を噛み締めながら、観音さんから帰るいつもの道を通って、祖父母宅へ急いだのだった。

このようにして、私はおそらく人生初の「入峰修行」「遍路」を経験した。
今から考えるとあぶない話である。
山が小さかったから良かったものの、もし普通の山に勝手に入り込んでいたら、立派な神隠し事件になっていたかもしれない。
しかし私は幸運にも無事生還し、それで味をしめてしまった。
思い定めて山に入るときの酩酊するような感覚、登りきって新しい展望が開けたときの興奮は忘れがたく、以後の私は「山の向こう」に関心を持ち続けることになる。
十年ほど前になるだろうか、私はかつての祖父母宅周辺の様子をGoogle Earthの航空写真で確認してみたことがある。
あの懐かしい家はもう無いのだが、幼い頃の記憶とそれほど違わない、相変わらずの村の風景があった。
違っている所と言えば、昔よりお墓の部分が広がって、茂みが少なくなっている所くらいだった。
確かめてみれば、幼児の頃の「冒険」の舞台は、本当に小さな小さな、山と呼べるかどうかもわからない平野の「ふくらみ」に過ぎなかった……
山の向こうには何がある?
今でも私は、その空想癖から抜け切れずにいる。
できることなら、山の向こうへ消えてしまいたい――
たまにそんな衝動に駆られることがある。
もちろん、そんな気ままが許される身分ではない。
身過ぎ世過ぎの合間をぬって、日帰りで登山やハイキングに出かけたり、夏季になんとかまとまった日数の山歩きを楽しむのがせいぜいだ。
それでもなんとなく憧れとして「山の向こうへ」というイメージは残っていて、たぶん今後もずっと消えることはない。
そんな感覚を、自分はいつ頃から抱いていたのか?
記憶を遡ってみると、幼児の頃の原風景にまで行き着く。
幼い頃の私は、両親が共働きだったので、昼間の時間帯を祖父母の家で過ごしていた。
祖父母宅は、古墳のような小山と、小川の流れに挟まれた小さな村にあった。
小山の麓には道が三本、川に平行に通っており、各所で何本か、縦につながっていた。
一番上段の水平移動道の片端、山に向かって右手に祖父母宅があり、反対側の左端には「観音さん」の御堂があった。
その御堂から石段をおりると公園があり、山手に登ると村の墓場があった。
小山の麓を流れている小川には欄干のない小さな橋が架かっていて、渡ってしばらく田んぼ道を歩くとバス道があった。
そうしたごく狭い範囲が、幼い私の世界の、ほとんど全てだった。
小さな世界ではあったけれども、周辺は自然豊かな農村で、幼児の遊びのネタが尽きることは無かった。
その頃気になって仕方がなかったのが、祖父母宅の裏に控える、古墳のような小山のことだった。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
ある時期から、そんなことを考えるようになっていた。
山の周囲のことはよく知っていた。
いつも遊んでいたし、子供なので大人の通らない「隙間」も通路として利用できた。
だからある意味では周囲の大人たち以上に、場所と場所のつながりについて、詳しく知っていたとも言える。
しかし小山そのものは、子供が勝手に登ることは禁じられていたので、幼い私の中では巨大な空白地帯として、好奇心を刺激されていた。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
時間の経過とともに、子供の空想は着々と蓄積されていく。
そして噴出口を求め、マグマのようにエネルギーをためこんで行く。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
「山の向こうには何があるのだろう?」
空想が臨界点を超えたある日、幼い私は決然として裏山に登り始めたのだった……

祖父母宅のあった地域は、広々とした平野の真っ只中に位置していた。
あちこちに溜池や小山が散在しており、幼児の私が登り始めた裏山も、そんな中の一つだった。
岩が多く、樹木はまばらで、植物相はさほど深くない。
子供の遊び場ではあったが、幼児が一人で勝手に登るには、時期尚早だ。
それでも私は登らなければならなかった。
その時をおいて「山の向こう」に辿り着くことはないと確信しきっていた。
今となっては意味不明の、幼児特有の頑固さで、私はそう思い定めていた。
家の裏に迫った岩と岩の隙間に、子供の目にはたまたま道らしく見える所があった。
「ここが入り口か!」
勝手に判断して、私は登り始めた。
潅木の枝の下をくぐり、草のにおいをかぎながら、どんどん先へと進んでいく。
木や草や岩のトンネルを抜ける道行き。
最初は少しためらったが、すぐに面白さの方が上回った。
登れば登るほどトンネルは延びていくようだった。
少し怖くなり、後悔し始めていたが、もはや後には引けない。
怖いのと同時に、この状況をドキドキしながら面白がっている自分もいて、とことん進まなければ気がすまなくなっていた。
どれぐらい登ったことだろう?
時間にして見ればほんの数分のことだったかもしれないが、幼児の私にとっては、とてつもない冒険だった。
茂みのトンネルを抜けると、急に視界が急に開けてきた。
そこは静かな木立の中だった。
しんと白っぽく時間が止まり、足元の下草を踏む音が、カサカサと耳に響いてきた。
一体ここはどこなのかと、魅入られたようにトコトコと前進する幼児の私。
自分はついに「山の向こう」へ辿り着いたのか?
そんな期待とともに歩を進めてみると、意外な風景が目の中に飛び込んできた。
そこは墓地だった。
観音さんの御堂の上にあり、私もよく遊びに行っていた村のお墓だったのだ。
大人になった今考えてみれば、不思議なことは一つもない。
私は祖父母の家から小山の反対側にある墓地まで、山頂を経由して辿り着いたに過ぎなかった。
しかし子供心には、それは異様な出来事に感じられた。
空想の中では山はどこまでも続き、見知らぬ世界につながっているはずだった。
それなのに、まっすぐ登った結果が自分の知っている場所になるのは不思議でならなかった。
まっすぐ上に登ったはずなのに、横に到着してしまった?
子供なりの理屈では、とても納得のいかない現象に思えたのだ。
納得はいかなかったけれども、私は自分の身に超常現象が起こったような気がして興奮した。
何かこの世の大切な秘密事項の一端に触れたつもりになり、大変満足だった。
そして自分の「大冒険」を噛み締めながら、観音さんから帰るいつもの道を通って、祖父母宅へ急いだのだった。

このようにして、私はおそらく人生初の「入峰修行」「遍路」を経験した。
今から考えるとあぶない話である。
山が小さかったから良かったものの、もし普通の山に勝手に入り込んでいたら、立派な神隠し事件になっていたかもしれない。
しかし私は幸運にも無事生還し、それで味をしめてしまった。
思い定めて山に入るときの酩酊するような感覚、登りきって新しい展望が開けたときの興奮は忘れがたく、以後の私は「山の向こう」に関心を持ち続けることになる。
十年ほど前になるだろうか、私はかつての祖父母宅周辺の様子をGoogle Earthの航空写真で確認してみたことがある。
あの懐かしい家はもう無いのだが、幼い頃の記憶とそれほど違わない、相変わらずの村の風景があった。
違っている所と言えば、昔よりお墓の部分が広がって、茂みが少なくなっている所くらいだった。
確かめてみれば、幼児の頃の「冒険」の舞台は、本当に小さな小さな、山と呼べるかどうかもわからない平野の「ふくらみ」に過ぎなかった……
山の向こうには何がある?
今でも私は、その空想癖から抜け切れずにいる。
(続く)
2017年05月13日
へんろみち3
幼児期以降も、ずっと「山登り」は好きだった。
小学生の頃はよく六甲山に連れて行ってもらったし、自然学校やキャンプは毎回楽しみにしていた。
中高生の頃は「学校の裏山」が好きで、よく登っていた。
私の母校は当時創立二十年ぐらいの私立中高一貫校、一応受験校だった。
創立者の園長先生が、自分が青春時代を過ごした旧制高校に非常に思い入れのある人で、その校風を再現しようと努めた学校だった。
当時はまだ私立受験校としては中堅と言ったところで、エリート校と言うほどではなく、その分きつい生徒指導と留年基準で締め上げて学習効果を上げる方針をとっていた。
その結果、当時ですら非常に時代錯誤な、今から考えると驚きを通り越して失笑してしまうような指導が行われていた。
漫画「魁!男塾」の連載開始当初には、あのファンタジックな内容が「あるあるネタ」として仲間内では盛り上がっていたし、ずっと後になって北朝鮮のTV番組が日本で紹介されるようになった時には、昔の仲間で飲んでいる時に「あれ見ると、なんか懐かしい気分がするな」と語り合ったりするほどだった。
教師による生徒への体罰は日常茶飯事だった。
私は今でも感覚が狂っていて、新聞雑誌で「教師の不祥事」として報道される体罰事件の99パーセントは「こんな些細なことがニュースになるのか」と感じてしまう。
しかもほぼ男子校(女子も少しだけいた)だったので、巷にあふれる青春物語等とはほぼ無縁な学生生活で、もっと昔の、それこそ旧制高校時代に青春時代を過ごした作家の青春記の方が、かえって共感できたりした。
そんな学生時代であったので、毎年留年の危機を繰り返しながらなんとか辿りついた卒業式で、一番に感じたことは、わが師の恩でも友との別れでもなく、抑えようもなくこみ上げてくる「解放感」だった。
私は成績別クラス編成で最下位のクラスにずっと所属していたので、学年が終わるごとに2〜3人の友人が学校を去って行った。
死屍累々の中、なんとか卒業にこぎつけたので、実感としては「卒業」というより「出所」に近かった。
「お勤めごくろうさまです!」と一声かけてほしいところだった。
私は早々に勉学の方には見切りをつけ、留年しないようにギリギリの線は保ちながら、もっぱら絵を描いていた。
受験校だったのだが、学年に一人ずつぐらいは音楽や美術を志望する変わり種が紛れ込んでいて、私もそうした生徒だったのだ。
所属がほぼ一人だけの美術部で、毎日校舎最上階のすみっこにある小さな部室にこもって、デッサンしたり本を読んだりしていた。
窓の外を眺めると、夕暮れの山の端に、応援団の歌う「寮歌」がこだましているのが聞こえたりしていた。
勇壮な校歌や応援歌も歌っていたが、私は断然、哀調を帯びた寮歌が好きだった。
私自身は寮生ではなく自宅通学だったのだが、かつて旧制高校の学生を表現した「バンカラ」という言葉の空気を伝える寮歌に心ひかれていた。
ダン、ダン、ダンダンダン……
叩きつける大太鼓とともに流れてくる寮歌の蛮声。
私もそれにあわせて、よく口ずさんでいた。
創立者である園長先生が、自分の母校の寮歌をそのまま引き継いだというその歌は、昔の旧制高校生の大先輩がバイオリンの伴奏で作ったものと伝えられていた。
昔から、せっかく勉学のために入った学校で、少しわき道にそれてしまう先輩方がいたのだなと、思わず嬉しくなってしまう伝説だった。
風の便りでは、愛憎渦巻く(笑)我が母校は、今はもうすっかり普通の校風になってしまったと聞く。
時代には全く合わなくなったであろうあの「寮歌」は、まだ歌い継がれているのだろうか?
今でも私は夕暮れ時になると、なんとなく昔憶えた「寮歌」を口ずさむことがある。
厳し過ぎる学校生活の中で「自分」を取り戻せるのが、ほぼ私専用アトリエになっていた美術部の小さな部室と、校舎の背後に迫る裏山だった。
学校は溜池や低山が散在する平野の真っ只中に位置していて、とにかく自然環境には恵まれていた。
敷地内に池や竹藪があり、いくつか裏山に登れるルートもあった。
校門から校舎に至るまでの長い長い道のりの途中で、雉や野兎、サンショウウオを見かけたこともあった。
中高生くらいだと「街」に対する憧れが強くなるので、そうした「田舎」の環境も、生徒にはあまり歓迎されていなかったが、私は好きだった。
ごくたまに体育や生物の授業で裏山に入ることもあったが、私のように単なる楽しみとして登っている生徒はほとんどいなかったのではないかと思う。
当時はまだ週休二日制以前で、土曜の午前中は授業があった。
午後からは五時まで好きにしてよかったので、私は部室か裏山かのどちらかで過ごすことが多かった。
気候が良い時は体育用のジャージに着替えて裏山に登った。
低い山だがけっこう起伏に富んでいて、尾根伝いに一山越えると地元の大きな神社に行けた。
境内で柏餅を売っていて、おやつによく食べた。
学校から少し登ったところに視界の開けた岩場があり、そこが私のお気に入りだった。
天気次第では瀬戸内の島の連なりも遠く眺められて、息の詰まりがちな厳しい学校生活をしばし離れることができた。
そこのことは友人にも教えず、秘密基地っぽく一人で通っていた。
中高生の頃の私は、他にも自宅近くの遺跡公園など、「一人で物を考えたり、絵を描いたり、本を読んだりできるところ」を何か所か確保していて、今でもそうした行動パターンは続いている。
振り返ってみると、これは幼児期に祖父母宅でやっていたのを、多少規模を拡大してそのまま繰り返していたようにも思える。
地理的にもけっこう近い。
そして90年代に入ってから知ったのだが、私が中高生の頃好きだったあの裏山は、熊野修験者の行場とも山続きになっていたらしい。
無意識のうちに、私はそうした世界に心惹かれていったようだ。
小学生の頃はよく六甲山に連れて行ってもらったし、自然学校やキャンプは毎回楽しみにしていた。
中高生の頃は「学校の裏山」が好きで、よく登っていた。
私の母校は当時創立二十年ぐらいの私立中高一貫校、一応受験校だった。
創立者の園長先生が、自分が青春時代を過ごした旧制高校に非常に思い入れのある人で、その校風を再現しようと努めた学校だった。
当時はまだ私立受験校としては中堅と言ったところで、エリート校と言うほどではなく、その分きつい生徒指導と留年基準で締め上げて学習効果を上げる方針をとっていた。
その結果、当時ですら非常に時代錯誤な、今から考えると驚きを通り越して失笑してしまうような指導が行われていた。
漫画「魁!男塾」の連載開始当初には、あのファンタジックな内容が「あるあるネタ」として仲間内では盛り上がっていたし、ずっと後になって北朝鮮のTV番組が日本で紹介されるようになった時には、昔の仲間で飲んでいる時に「あれ見ると、なんか懐かしい気分がするな」と語り合ったりするほどだった。
教師による生徒への体罰は日常茶飯事だった。
私は今でも感覚が狂っていて、新聞雑誌で「教師の不祥事」として報道される体罰事件の99パーセントは「こんな些細なことがニュースになるのか」と感じてしまう。
しかもほぼ男子校(女子も少しだけいた)だったので、巷にあふれる青春物語等とはほぼ無縁な学生生活で、もっと昔の、それこそ旧制高校時代に青春時代を過ごした作家の青春記の方が、かえって共感できたりした。
そんな学生時代であったので、毎年留年の危機を繰り返しながらなんとか辿りついた卒業式で、一番に感じたことは、わが師の恩でも友との別れでもなく、抑えようもなくこみ上げてくる「解放感」だった。
私は成績別クラス編成で最下位のクラスにずっと所属していたので、学年が終わるごとに2〜3人の友人が学校を去って行った。
死屍累々の中、なんとか卒業にこぎつけたので、実感としては「卒業」というより「出所」に近かった。
「お勤めごくろうさまです!」と一声かけてほしいところだった。
私は早々に勉学の方には見切りをつけ、留年しないようにギリギリの線は保ちながら、もっぱら絵を描いていた。
受験校だったのだが、学年に一人ずつぐらいは音楽や美術を志望する変わり種が紛れ込んでいて、私もそうした生徒だったのだ。
所属がほぼ一人だけの美術部で、毎日校舎最上階のすみっこにある小さな部室にこもって、デッサンしたり本を読んだりしていた。
窓の外を眺めると、夕暮れの山の端に、応援団の歌う「寮歌」がこだましているのが聞こえたりしていた。
勇壮な校歌や応援歌も歌っていたが、私は断然、哀調を帯びた寮歌が好きだった。
私自身は寮生ではなく自宅通学だったのだが、かつて旧制高校の学生を表現した「バンカラ」という言葉の空気を伝える寮歌に心ひかれていた。
ダン、ダン、ダンダンダン……
叩きつける大太鼓とともに流れてくる寮歌の蛮声。
私もそれにあわせて、よく口ずさんでいた。
創立者である園長先生が、自分の母校の寮歌をそのまま引き継いだというその歌は、昔の旧制高校生の大先輩がバイオリンの伴奏で作ったものと伝えられていた。
昔から、せっかく勉学のために入った学校で、少しわき道にそれてしまう先輩方がいたのだなと、思わず嬉しくなってしまう伝説だった。
風の便りでは、愛憎渦巻く(笑)我が母校は、今はもうすっかり普通の校風になってしまったと聞く。
時代には全く合わなくなったであろうあの「寮歌」は、まだ歌い継がれているのだろうか?
今でも私は夕暮れ時になると、なんとなく昔憶えた「寮歌」を口ずさむことがある。
厳し過ぎる学校生活の中で「自分」を取り戻せるのが、ほぼ私専用アトリエになっていた美術部の小さな部室と、校舎の背後に迫る裏山だった。
学校は溜池や低山が散在する平野の真っ只中に位置していて、とにかく自然環境には恵まれていた。
敷地内に池や竹藪があり、いくつか裏山に登れるルートもあった。
校門から校舎に至るまでの長い長い道のりの途中で、雉や野兎、サンショウウオを見かけたこともあった。
中高生くらいだと「街」に対する憧れが強くなるので、そうした「田舎」の環境も、生徒にはあまり歓迎されていなかったが、私は好きだった。
ごくたまに体育や生物の授業で裏山に入ることもあったが、私のように単なる楽しみとして登っている生徒はほとんどいなかったのではないかと思う。
当時はまだ週休二日制以前で、土曜の午前中は授業があった。
午後からは五時まで好きにしてよかったので、私は部室か裏山かのどちらかで過ごすことが多かった。
気候が良い時は体育用のジャージに着替えて裏山に登った。
低い山だがけっこう起伏に富んでいて、尾根伝いに一山越えると地元の大きな神社に行けた。
境内で柏餅を売っていて、おやつによく食べた。
学校から少し登ったところに視界の開けた岩場があり、そこが私のお気に入りだった。
天気次第では瀬戸内の島の連なりも遠く眺められて、息の詰まりがちな厳しい学校生活をしばし離れることができた。
そこのことは友人にも教えず、秘密基地っぽく一人で通っていた。
中高生の頃の私は、他にも自宅近くの遺跡公園など、「一人で物を考えたり、絵を描いたり、本を読んだりできるところ」を何か所か確保していて、今でもそうした行動パターンは続いている。
振り返ってみると、これは幼児期に祖父母宅でやっていたのを、多少規模を拡大してそのまま繰り返していたようにも思える。
地理的にもけっこう近い。
そして90年代に入ってから知ったのだが、私が中高生の頃好きだったあの裏山は、熊野修験者の行場とも山続きになっていたらしい。
無意識のうちに、私はそうした世界に心惹かれていったようだ。
(続く)