できることなら、山の向こうへ消えてしまいたい――
たまにそんな衝動に駆られることがある。
もちろん、そんな気ままが許される身分ではない。
身過ぎ世過ぎの合間をぬって、日帰りで登山やハイキングに出かけたり、夏季になんとかまとまった日数の山歩きを楽しむのがせいぜいだ。
それでもなんとなく憧れとして「山の向こうへ」というイメージは残っていて、たぶん今後もずっと消えることはない。
そんな感覚を、自分はいつ頃から抱いていたのか?
記憶を遡ってみると、幼児の頃の原風景にまで行き着く。
幼い頃の私は、両親が共働きだったので、昼間の時間帯を祖父母の家で過ごしていた。
祖父母宅は、古墳のような小山と、小川の流れに挟まれた小さな村にあった。
小山の麓には道が三本、川に平行に通っており、各所で何本か、縦につながっていた。
一番上段の水平移動道の片端、山に向かって右手に祖父母宅があり、反対側の左端には「観音さん」の御堂があった。
その御堂から石段をおりると公園があり、山手に登ると村の墓場があった。
小山の麓を流れている小川には欄干のない小さな橋が架かっていて、渡ってしばらく田んぼ道を歩くとバス道があった。
そうしたごく狭い範囲が、幼い私の世界の、ほとんど全てだった。
小さな世界ではあったけれども、周辺は自然豊かな農村で、幼児の遊びのネタが尽きることは無かった。
その頃気になって仕方がなかったのが、祖父母宅の裏に控える、古墳のような小山のことだった。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
ある時期から、そんなことを考えるようになっていた。
山の周囲のことはよく知っていた。
いつも遊んでいたし、子供なので大人の通らない「隙間」も通路として利用できた。
だからある意味では周囲の大人たち以上に、場所と場所のつながりについて、詳しく知っていたとも言える。
しかし小山そのものは、子供が勝手に登ることは禁じられていたので、幼い私の中では巨大な空白地帯として、好奇心を刺激されていた。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
時間の経過とともに、子供の空想は着々と蓄積されていく。
そして噴出口を求め、マグマのようにエネルギーをためこんで行く。
「山をどんどん登って行くと、どうなるのだろう?」
「山の向こうには何があるのだろう?」
空想が臨界点を超えたある日、幼い私は決然として裏山に登り始めたのだった……
祖父母宅のあった地域は、広々とした平野の真っ只中に位置していた。
あちこちに溜池や小山が散在しており、幼児の私が登り始めた裏山も、そんな中の一つだった。
岩が多く、樹木はまばらで、植物相はさほど深くない。
子供の遊び場ではあったが、幼児が一人で勝手に登るには、時期尚早だ。
それでも私は登らなければならなかった。
その時をおいて「山の向こう」に辿り着くことはないと確信しきっていた。
今となっては意味不明の、幼児特有の頑固さで、私はそう思い定めていた。
家の裏に迫った岩と岩の隙間に、子供の目にはたまたま道らしく見える所があった。
「ここが入り口か!」
勝手に判断して、私は登り始めた。
潅木の枝の下をくぐり、草のにおいをかぎながら、どんどん先へと進んでいく。
木や草や岩のトンネルを抜ける道行き。
最初は少しためらったが、すぐに面白さの方が上回った。
登れば登るほどトンネルは延びていくようだった。
少し怖くなり、後悔し始めていたが、もはや後には引けない。
怖いのと同時に、この状況をドキドキしながら面白がっている自分もいて、とことん進まなければ気がすまなくなっていた。
どれぐらい登ったことだろう?
時間にして見ればほんの数分のことだったかもしれないが、幼児の私にとっては、とてつもない冒険だった。
茂みのトンネルを抜けると、急に視界が急に開けてきた。
そこは静かな木立の中だった。
しんと白っぽく時間が止まり、足元の下草を踏む音が、カサカサと耳に響いてきた。
一体ここはどこなのかと、魅入られたようにトコトコと前進する幼児の私。
自分はついに「山の向こう」へ辿り着いたのか?
そんな期待とともに歩を進めてみると、意外な風景が目の中に飛び込んできた。
そこは墓地だった。
観音さんの御堂の上にあり、私もよく遊びに行っていた村のお墓だったのだ。
大人になった今考えてみれば、不思議なことは一つもない。
私は祖父母の家から小山の反対側にある墓地まで、山頂を経由して辿り着いたに過ぎなかった。
しかし子供心には、それは異様な出来事に感じられた。
空想の中では山はどこまでも続き、見知らぬ世界につながっているはずだった。
それなのに、まっすぐ登った結果が自分の知っている場所になるのは不思議でならなかった。
まっすぐ上に登ったはずなのに、横に到着してしまった?
子供なりの理屈では、とても納得のいかない現象に思えたのだ。
納得はいかなかったけれども、私は自分の身に超常現象が起こったような気がして興奮した。
何かこの世の大切な秘密事項の一端に触れたつもりになり、大変満足だった。
そして自分の「大冒険」を噛み締めながら、観音さんから帰るいつもの道を通って、祖父母宅へ急いだのだった。
このようにして、私はおそらく人生初の「入峰修行」「遍路」を経験した。
今から考えるとあぶない話である。
山が小さかったから良かったものの、もし普通の山に勝手に入り込んでいたら、立派な神隠し事件になっていたかもしれない。
しかし私は幸運にも無事生還し、それで味をしめてしまった。
思い定めて山に入るときの酩酊するような感覚、登りきって新しい展望が開けたときの興奮は忘れがたく、以後の私は「山の向こう」に関心を持ち続けることになる。
十年ほど前になるだろうか、私はかつての祖父母宅周辺の様子をGoogle Earthの航空写真で確認してみたことがある。
あの懐かしい家はもう無いのだが、幼い頃の記憶とそれほど違わない、相変わらずの村の風景があった。
違っている所と言えば、昔よりお墓の部分が広がって、茂みが少なくなっている所くらいだった。
確かめてみれば、幼児の頃の「冒険」の舞台は、本当に小さな小さな、山と呼べるかどうかもわからない平野の「ふくらみ」に過ぎなかった……
山の向こうには何がある?
今でも私は、その空想癖から抜け切れずにいる。
(続く)