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2017年05月13日

へんろみち3

 幼児期以降も、ずっと「山登り」は好きだった。
 小学生の頃はよく六甲山に連れて行ってもらったし、自然学校やキャンプは毎回楽しみにしていた。

 中高生の頃は「学校の裏山」が好きで、よく登っていた。
 私の母校は当時創立二十年ぐらいの私立中高一貫校、一応受験校だった。
 創立者の園長先生が、自分が青春時代を過ごした旧制高校に非常に思い入れのある人で、その校風を再現しようと努めた学校だった。
 当時はまだ私立受験校としては中堅と言ったところで、エリート校と言うほどではなく、その分きつい生徒指導と留年基準で締め上げて学習効果を上げる方針をとっていた。
 その結果、当時ですら非常に時代錯誤な、今から考えると驚きを通り越して失笑してしまうような指導が行われていた。
 漫画「魁!男塾」の連載開始当初には、あのファンタジックな内容が「あるあるネタ」として仲間内では盛り上がっていたし、ずっと後になって北朝鮮のTV番組が日本で紹介されるようになった時には、昔の仲間で飲んでいる時に「あれ見ると、なんか懐かしい気分がするな」と語り合ったりするほどだった。
 教師による生徒への体罰は日常茶飯事だった。
 私は今でも感覚が狂っていて、新聞雑誌で「教師の不祥事」として報道される体罰事件の99パーセントは「こんな些細なことがニュースになるのか」と感じてしまう。
 しかもほぼ男子校(女子も少しだけいた)だったので、巷にあふれる青春物語等とはほぼ無縁な学生生活で、もっと昔の、それこそ旧制高校時代に青春時代を過ごした作家の青春記の方が、かえって共感できたりした。

 そんな学生時代であったので、毎年留年の危機を繰り返しながらなんとか辿りついた卒業式で、一番に感じたことは、わが師の恩でも友との別れでもなく、抑えようもなくこみ上げてくる「解放感」だった。
 私は成績別クラス編成で最下位のクラスにずっと所属していたので、学年が終わるごとに2〜3人の友人が学校を去って行った。
 死屍累々の中、なんとか卒業にこぎつけたので、実感としては「卒業」というより「出所」に近かった。
 「お勤めごくろうさまです!」と一声かけてほしいところだった。

 私は早々に勉学の方には見切りをつけ、留年しないようにギリギリの線は保ちながら、もっぱら絵を描いていた。
 受験校だったのだが、学年に一人ずつぐらいは音楽や美術を志望する変わり種が紛れ込んでいて、私もそうした生徒だったのだ。
 所属がほぼ一人だけの美術部で、毎日校舎最上階のすみっこにある小さな部室にこもって、デッサンしたり本を読んだりしていた。
 窓の外を眺めると、夕暮れの山の端に、応援団の歌う「寮歌」がこだましているのが聞こえたりしていた。
 勇壮な校歌や応援歌も歌っていたが、私は断然、哀調を帯びた寮歌が好きだった。
 私自身は寮生ではなく自宅通学だったのだが、かつて旧制高校の学生を表現した「バンカラ」という言葉の空気を伝える寮歌に心ひかれていた。
 
 ダン、ダン、ダンダンダン……

 叩きつける大太鼓とともに流れてくる寮歌の蛮声。
 私もそれにあわせて、よく口ずさんでいた。
 創立者である園長先生が、自分の母校の寮歌をそのまま引き継いだというその歌は、昔の旧制高校生の大先輩がバイオリンの伴奏で作ったものと伝えられていた。
 昔から、せっかく勉学のために入った学校で、少しわき道にそれてしまう先輩方がいたのだなと、思わず嬉しくなってしまう伝説だった。
 風の便りでは、愛憎渦巻く(笑)我が母校は、今はもうすっかり普通の校風になってしまったと聞く。
 時代には全く合わなくなったであろうあの「寮歌」は、まだ歌い継がれているのだろうか?
 今でも私は夕暮れ時になると、なんとなく昔憶えた「寮歌」を口ずさむことがある。

 厳し過ぎる学校生活の中で「自分」を取り戻せるのが、ほぼ私専用アトリエになっていた美術部の小さな部室と、校舎の背後に迫る裏山だった。
 学校は溜池や低山が散在する平野の真っ只中に位置していて、とにかく自然環境には恵まれていた。
 敷地内に池や竹藪があり、いくつか裏山に登れるルートもあった。
 校門から校舎に至るまでの長い長い道のりの途中で、雉や野兎、サンショウウオを見かけたこともあった。
 中高生くらいだと「街」に対する憧れが強くなるので、そうした「田舎」の環境も、生徒にはあまり歓迎されていなかったが、私は好きだった。
 ごくたまに体育や生物の授業で裏山に入ることもあったが、私のように単なる楽しみとして登っている生徒はほとんどいなかったのではないかと思う。
 当時はまだ週休二日制以前で、土曜の午前中は授業があった。
 午後からは五時まで好きにしてよかったので、私は部室か裏山かのどちらかで過ごすことが多かった。
 気候が良い時は体育用のジャージに着替えて裏山に登った。
 低い山だがけっこう起伏に富んでいて、尾根伝いに一山越えると地元の大きな神社に行けた。
 境内で柏餅を売っていて、おやつによく食べた。
 学校から少し登ったところに視界の開けた岩場があり、そこが私のお気に入りだった。
 天気次第では瀬戸内の島の連なりも遠く眺められて、息の詰まりがちな厳しい学校生活をしばし離れることができた。
 そこのことは友人にも教えず、秘密基地っぽく一人で通っていた。
 中高生の頃の私は、他にも自宅近くの遺跡公園など、「一人で物を考えたり、絵を描いたり、本を読んだりできるところ」を何か所か確保していて、今でもそうした行動パターンは続いている。

 振り返ってみると、これは幼児期に祖父母宅でやっていたのを、多少規模を拡大してそのまま繰り返していたようにも思える。
 地理的にもけっこう近い。
 そして90年代に入ってから知ったのだが、私が中高生の頃好きだったあの裏山は、熊野修験者の行場とも山続きになっていたらしい。
 無意識のうちに、私はそうした世界に心惹かれていったようだ。
(続く)
posted by 九郎 at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする