「山登りをするけど誰か一緒に行く?」
そう聞くと、メンバーの一人が手を挙げた。
早朝宿を起ち、朝一のバスで登山口に最も近い停留所に降り立つ。
心おどらせながら、ゆるく登り傾斜になった舗装道路を歩きはじめる。
真夏のことなので、日が昇ると同時にアスファルト道路は猛烈に暑くなってくる。
早くも汗びっしょりになりながらしばらく歩くと、道路わきの暗がりに、小さな滝と祠が見えた。
落水の音と共に滝の飛沫が辺りの体感温度を下げ、それまで続いていたアスファルト道路の輻射熱を優しく緩めていた。
右手に小さな手水場があり、青銅の竜の口から清水が垂れている。
どうやら滝から引いた水のようだ。
手で水を受けて口に運ぶと、冷たく清冽な味覚にのどが痺れる。
これはいいと、手持ちのボトルの中身を飲み干してから、竜神さんの水に入れ替えた。
ここでの水汲みは、以後何度となく繰り返すことになる私のお山詣での、馴染みの入山儀式になった。
さらに進むと、道端に「旧参道」というサインが出ている。
旧の名に相応しく、入り口からもう草が生い茂っていて、とてもまともに通れそうになく見える。
危険を感じてそのまま舗装道路を登ることにしたのだが、この判断は完全に間違っていた。
後からわかったのだが、旧道はところどころ消えかかりながらも頂上にある神社まで続いていたし、舗装道路はあくまで車用の道で、傾斜は緩やかだが距離がやたらに長かったのだ。
結果的には灼熱地獄のような道を、旧道の倍ほどの時間をかけて登るはめになった。
登りで懲りたため、下りは旧道を通ったのだが、あまりの涼しさに驚いたりした。
ともかく、登りである。
どこまで続くのかわからない車道を延々と歩く。
何度も「もう限界か」という疲労を乗り越えながら、それでも着かない山頂を目指して歩き続ける。
見晴らしだけは素晴らしいので、自分の体がどんどん高度を上げ、雲の世界に近づいていく様が刻々とわかる。
たとえば普段都会人が生活している市街では、空の世界は目の前の建物のすぐ上にあるように見える。
空が限りなく高いことを頭ではわかっていても、実感としてその高さを感じることは少ない。
ところが山に入ってみると、自分が汗を流して登った分だけの高さを、体感として知ることができる。
見晴らしの良いところで遠望すると、山や谷や、遠くまでのびる川に囲まれた空間の広さを、目の当たりにすることができる。
何もない空を見上げるだけでは認識できなかった空間の広さを、自然は包み込むことで表現してくれるのだ。
そして、そこまで登ってもまだ届かない、雲や太陽や月の高さも、原始的な感覚として思い知ることができる。
暑さと疲労に苛まれながら、「山って高いなあ」とか「空はもっと高いのか」とか、「意外と自分の足も捨てたもんじゃないとか、様々な思いが頭を巡る。
映像でも写真でも文字情報でもなく、体で知ることができる。
体で知ったことは、確実に意識も変容させる。
山頂に近づくほどに、植生は深くなり、木の樹齢は重なっていく。
チャンネルの切り替わった意識が、「ここは普通の場所ではない」と考える。
中世人のような「畏れ」の感覚が目覚めてくる。
そうこうしているうちに、山頂付近の駐車場に着いた。
歓喜のままに、ぶっ倒れるように一休み。
大鳥居をくぐり、いよいよ境内へ。
とたんに空気がシンと冷え、澄みきる。
それまでの植林された杉とは一段も二段もスケールの違う原生林が、参道をとりかこんでいる。
ぞくりと胸から腰にかけて震えが走る。
徐々に巨大化していく杉の群れに、自分の体の方がどんどん小さく縮んでいくような錯覚を覚える。
原生林の目に沁みるような濃い緑に、真っ赤な幟の列が強烈な対比を生んでいる。
「これか……」
愛読する作家が熱を込めて紹介していたお山の描写が、決して誇張ではなかったことを知る。
ぞく、
ぞく、
ぞく……
私は憑かれたように神域奥深くへと歩を進めていった。
(続く)