90年代初頭以降、つかず離れず、折にふれて再読しているマンガ家がいる。
つげ義春である。
学生時代、たまたま手に取った作品集は、まさに衝撃だった。
●「ねじ式・紅い花」つげ義春(小学館叢書)
80年代後半から90年代前半というのは、おそらく出版が最も盛り上がっていた時期で、マンガでも評価の定まった「名作」は軒並みハードカバー化されていた。
そんな流れの中でつげ義春の作品も再評価され、書店に並んでいたのだ。
つげ義春のマンガ家としてのキャリアは、50年代、貸本の世界から出発し、推理モノや時代モノ、ときにはSF等も手掛けていた。
そこからはみ出し、独自の世界に漂い始めたのが60年代半ばごろ。
80年代半ばにふっつりと筆をとらなくなるまでに、あの「つげ義春」の作風が断続的に発表されていくことになる。
私が読み始めたのはその数年後で、まだ筆をおいてからの期間が浅かった頃のことだった。
同じ90年代、代表作の「無能の人」「ゲンセンカン主人」「ねじ式」が、自身熱心なファンである監督、俳優らによって映画化され、新作が待望される機運があったと思う。
私も映画館に足を運び、「熱心なファンによる映像化」を楽しみながら、そんな期待を抱いていた時期もあった。
今はちょっと違う。
新作は読みたいことは読みたいけれども、ファンが待望したから描けるというタイプの作品ではないことはよく分かっている。
つげ義春に対して、それは求めてはいけないのだ。
つげ義春がマンガを描かなく(描けなく)なって既に30年経つ。
つげ義春が、私たちファンの愛してやまないあの「つげ義春」の作品を描くことで、心身を削ってしまったのであろうこと、または、削ったからこそ描けた作品であっただろうことなんとなく了解できる。
つげ義春が今でも「寡作のマンガ家」としていてくれて、何年かに一度インタビュー等で消息が知れる。
もしかしたら新作が読める日が来るかもしれないという、ほのかな期待がある。
それだけで、今の私はもう十分だ。
今後の一生を、折にふれ再読し、味わうことができるだけの分量は、もう描かれている。
私は創作物に微妙な好みがある。
「作者自身が登場するメタフィクション」は好きだが、いわゆる「私小説」はあまり好きではない。
つげ義春のマンガは「私小説的な作品」と紹介されることが多いが、私の見立てではどちらかというと「作者が登場するメタフィクション」に近いと思っている。
どうしようもない貧しさと性を描きながらも、漂々とした軽みと透明感がある。
汚くない。
優しさがある。
懐かしさがある。
私にとってのつげ義春は、「夢と漂泊のマンガ家」だ。
読むことが、夢そのもの。
読むことが、漂泊そのもの。
怪異な夢を描いたマンガ作品だけでなく、何気ない日常の点景を描いた作品であっても、どこか「漂」とした空気が漂う。
たまにふらりと遍路に出たい衝動に駆られる私は、全く同じ感覚で、たまにつげ義春の作品を読み返したくなるのである。
今手に取るなら、以下のコレクションが手頃だろう。
【つげ義春コレクション 全9冊(ちくま文庫)】
90年代に刊行された「つげ義春全集」の文庫化。
文庫サイズながら印刷状態が良く、初期作やエッセイ等も網羅されたコレクションになっている。
1「ねじ式/夜が摑む」
今やつげ義春の代名詞にもなっている「ねじ式」が二色刷りで収録されているほか、「ゲンセンカン主人」「必殺するめ固め」など、「夢」をモチーフにした作品を中心に収録。
異色作目白押しの一冊だが、著者の作品を初めて読もうという人には、ややハードルが高いか。
2「大場電機鍍金工業所/やもり」
夢と並んで著者が得意とする、私小説「風」の作品を多数収録。
昭和の風景、昭和の青春。
最初の一冊としては、こちらがお勧め。
3「李さん一家/海辺の叙景」
60年代中盤から後半にかけて、じわじわと私が愛してやまないあの「つげ義春」に変貌していく過程が見える作品集。
とくに「海辺の叙景」の印刷が良く、二十年越しで惚れ直した。
4「近所の景色/無能の人」
著者ほとんど唯一の、同一設定による連作「無能の人」を中心に収録。
5「紅い花/やなぎ屋主人」
旅をテーマにした作品集。
これも「最初の一冊」にはお勧め。
6「苦節十年記/旅籠の思い出」
マンガ以外の自伝的文章、紀行文、夢日記、イラスト等を収録。
7「四つの犯罪/七つの墓場」
8「腹話術師/ねずみ」
9「鬼面石/一刀両断」
50年代から60年代中盤までの初期作を中心に集成した三冊。
90年代の私は、やはり「夢」をテーマにした作品が一番好きだった。
今でももちろん好きだが、今回読み返してみると「海辺の叙景」「沼」「紅い花」あたりの、ピンと張り詰めた情緒がとても心地良く感じた。
年を取るごとに、味わい方は変わり、好きな作品は変遷する。
つげ義春は一生ものなのだ。