2017年07月20日

メディアミックスとマンガ

 コミカライズという言葉がある。
 メディアミックスの在り方の一形態で、他のジャンルの作品をマンガに変換(コミック化)することを指す。
 コミカライズの場合、マンガはあくまで派生作品である。

 1953年に日本でTV放送が始まったごく初期段階から、メディアミックス的な作品展開はあった。
 多人数を対象に無料で視聴できるTVでの露出は、ながらくメディアミックスの中でも重要なパートを占めてきたのだ。
 そしてその当時から、今でいう「コミカライズ」にあたる、TV番組のマンガ化も行われていた。
 例えば現在でも人気の「月光仮面」は、川内康範の原作で1958年にTVドラマとしてスタートし、並行して貸本や雑誌連載のマンガ版も制作されていた。(雑誌連載版は開始当初、後に「エイトマン」で人気を博す桑田次郎が作画を担当していた)

 日本の子供向けTV番組は、長らく雑誌連載マンガと濃密な関連を持ってきた。
 コミカライズとは逆に、マンガからスタートしてアニメや特撮番組に派生した作品も多数にのぼる。
 そもそも日本初の30分枠TVアニメ「鉄腕アトム」は、監督である手塚治虫自身が雑誌連載していた同名作品をアニメ化したものだった。
 その成功を受けて制作された初期TVアニメの多くは、原作マンガの人気が先行する「アニメ化作品」である。
 60年代の「人気マンガを原作とするTVアニメ」には、例えば以下のようなものがある。

【鉄腕アトム】(手塚治虫)
 1963年1月〜1966年12月、全193話(モノクロ)
【鉄人28号】(横山光輝)
 1963年10月〜1966年5月、全97話(モノクロ)
【エイトマン】(平井和正/桑田次郎)
 1963年11月〜 1964年12月、全56話(モノクロ)
【サイボーグ009】(石森章太郎)(劇場版1966年)
 1968年4月〜9月、 全26話(モノクロ)
【ゲゲゲの鬼太郎】(水木しげる)
 1968年1月〜1969年3月、全65話(モノクロ)

 雑誌掲載マンガの人気作品がTVアニメ化され、メディアミックスで更に人気が沸騰するという形は、少年マンガのヒットパターンの王道として今に続いている。

 人気マンガのアニメ化が相次いだ60年代だが、もちろんマンガを原作としないTV独自の子供番組も多く制作されていた。
 現在でも人気の「ウルトラマン」第一作が制作されたのもこの頃だ。

【ウルトラマン】
 1966年7月〜1967年4月、全39話(カラー)

 ウルトラマンのシリーズは70年代にかけて継続し、コミカライズ作品も多数制作された。

 1970年代に入り、子供向けTVアニメや特撮番組が定着する中で、TVアニメの企画先行でマンガ家が作品を制作するという流れが出てきた。
 以下に現在でも人気が継続している作品を挙げてみよう。

【仮面ライダー】(石森章太郎)
 1971年4月〜1973年2月、全98話
【デビルマン】(永井豪)
 1972年7月〜1973年3月、全39話
【マジンガーZ】(永井豪)
 1972年12月〜 1974年9月 、全92話
【ゲッターロボ』(永井豪/石川賢)
 1974年4月〜1975年5月、全51話
【秘密戦隊ゴレンジャー】(石森章太郎)
 1975年4月〜1977年3月、全84話

 これらのTV企画先行作品は、マンガ版とTV版の間に「主従関係」は無い。
 マンガ家の名前は「原作者」とクレジットされ、ほぼ同時進行で「原作マンガ」も雑誌掲載されたが、必ずしも同一内容ではなく、TV版とマンガ版でそれぞれ別の展開になることも多々あった。
 アニメより制約が少ない分、「原作」が暴走し、ほとんど別作品のようになることすらあった。
 この「暴走する原作」というテーマは、記事をあらためて述べてみたい。

 こうして並べてみると、たった数年間に仮面ライダー、スーパーロボット、スーパー戦隊のフォーマットが出揃ってしまっているのが凄まじい。
 これに同時進行でシリーズが制作されていたウルトラマンと、70年代の最終ランナーとして現れた「ガンダム」を加えると、更に壮観である。
 日本のとくに男の子向けエンタメの基礎は70年代で完成してしまっている感すらあるのだ。
(続く)
posted by 九郎 at 18:16| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年07月21日

ビデオ普及以前のコミカライズ

 日本でビデオ録画機が普及したのは80年代に入ってからだったと記憶している。
 私の体感では、80〜81年のガンプラブーム最盛期にはまだ周囲でビデオ機器は見かけなかったので、その後の普及だったはずだ。
 80年代以前、TV番組は放送されたその時に視聴するしかなかった。
 ラジカセ等の録音機器は既に普及していたので、音声を録音して残すということはあったし、今より再放送は頻繁にあったけれども、基本的には「一期一会」で視るものだった。
 録画や映像配信、ビデオソフトが溢れるほど存在する現在とは、全く感覚が違っていたのだ。
 録画して視聴するという鑑賞法が無かった時代には、とくに子供向け番組の「コミカライズ」の果たす役割は大きかった。
 TVより平易な表現で再構成されたマンガを、自分のペースで繰り返し読むことができるので、設定が理解しやすく、キャラクターを真似て描くときの見本にもなる。
 単行本でまとめて読むと、一話ごとのエピソードの連なりから構成される「大きな物語」を楽しむこともできる。
 手元に「マンガ本」といういつでも開けるモノがあることで、毎週の放映時間に受動的に視聴するだけでなく、積極的に作品に入り込むことが可能になるのだ。
 とくに「ウルトラマン」や「仮面ライダー」は、シリーズ化することで各エピソードや各番組を超えた「サーガ」を形成するようになり、シリーズ横断で平易に読ませるコミカライズ作品は新たな魅力を発揮した。
 この両シリーズにはコミカライズ作品がとくに多数制作されたが、70年代当時私が好きで読んでいたのは、以下の作品だ。


●「ザ・ウルトラマン」内山まもる
 ウルトラマンシリーズは漫画原作の存在しないTVオリジナルだが、コミカライズ作品は数多い。
 楳図かずおの「ウルトラマン」や、桑田次郎の「ウルトラセブン」、石川賢の「ウルトラマンタロウ」等、名のあるマンガ家による特徴的な作品もあった。
 中でも子供時代の私がハマっていたのがこの内山まもる版で、当時の児童向けマンガとしては異例なリアルタッチに強く引きつけられた。
 今見返すと意外なほど線が少ないのがまた凄い。
 少ない描線でリアルに見せるのは、本物の画力が無いと不可能なのだ。
 本来、無表情なウルトラマン達が、この手練れのマンガ家の手にかかれば、デザイン的には無表情なままに、巧みに感情表現して見える。
 ある意味これは「能」レベルに達しているのではないかと感じるのである。


●「仮面ライダー」山田ゴロ
 仮面ライダーはTV番組とほぼ同時に「原作者」石森章太郎によるマンガ版(厳密に言うと「原作」ではない)も執筆された。
 話がややこしいのだが、この石森版とは別にTV版の仮面ライダーを下敷きにしたコミカライズ版も、いくつか存在した。
 私が好きだった山田ゴロ版は、71年のライダー第一作から75年のストロンガーで一旦シリーズが終了した後の78年から執筆された作品である。
 そもそもは79年から再開された新しい仮面ライダー(スカイライダー)へとつなげるための「前触れ」的な雑誌連載として企画されたようだ。
 仮面ライダー1号、2号、V3、ライダーマン、X、アマゾン、ストロンガーまでの流れを、独自のエピソードも交えながらダイジェストで要領よく描き、続くスカイライダー、スーパー1の世界観に巧みに接続させている。
 それぞれのライダーに充てられたページ数は少ないが、TV版の設定を踏襲しながら、石森版に描かれる「改造人間の悲しみ」というテーマもきちんと盛り込み、かつ低年齢層に無理なく読みこなせる描写になっている。
 これはまさに「離れ業」である。
 とくにライダーマンについては、他のどのバージョンよりもこの山田ゴロ版が最も描写が充実している。
 ストロンガー編で7人ライダーが初めて集結し、最後の決戦に臨む際の盛り上がりは、私を含めた当時の子供たちの間で「語り草」になっている。


 80年代に入ってビデオ機器普及した後も、「低年齢向けに再構成されたコミカライズ作品」は制作され続けた。
 ガンダム以降のリアルロボット路線は作品自体が一話完結ではなくなり、ドラマが複雑になりがちだった。
 何度か見逃しても話がつながり、低年齢層にもあらすじが追えるようにする役割は、コミカライズ作品が担ってきたのだ。
 録画機器の発達やビデオソフトの充実、映像配信の普及した今も、低年齢層からの需要は変わらず存在するのである。
(続く)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年07月22日

暴走する石森DNA

 子供の頃、アニメや特撮番組を低年齢向けマンガにした作品が好きで、よく読んでいた。
 70年代、そうしたコミカライズ作品制作が、一つのピークに達していた時のことである。
 当時はあまり厳密に「原作と派生作品」の関係は意識しておらず、マンガのTV化もTVのマンガ化もとくに区別はしていなかったはずだ。
 色々区別なく読み進める中で、たまに少々雰囲気の違うマンガが紛れ込んでいることには気付いていた。
 一応TV番組と同一タイトル、同一基本設定でありながら、内容が「TVとちがってちょっと怖い」感じがする一群のマンガ作品があったのだ。
 最初に意識したのは「仮面ライダー」あたりだったと思う。
 その頃の私は前回記事でも紹介した山田ゴロ版を愛読していたが、「原作者」石森章太郎が自らペンをとったバージョンも読んでいた。
(石森章太郎は1985年以降「石ノ森」表記になるが、今回記事中では扱う作品の多くが「石森」時代のものであるため、こちらで記述する)
 山田ゴロ版も低年齢向けマンガとしてはかなりショッキングな描写が含まれていたが、それでもTV版ライダーシリーズの「枠」は守ってある感じはした。
 ところがTV版の初代ライダーとほぼ同時期に執筆された石森マンガ版は、子供心にも「これは別物!」という印象を持ったのだ。


●「仮面ライダー」全三巻(中公文庫)

 まず絵柄がちょっと怖かった。
 当時の石森マンガの中ではかなり描き込まれた描線で、画面も暗く、恐怖マンガのようなダークな雰囲気が漂っていた。
 内容も「仮面ライダー」という素材を使いながらも、シリアスなSFとして真っ向から描かれており、文明批判的な描写も多く、なんとなく「大人向け?」と思ったのを覚えている。
 70年代の石森章太郎は多くのTVヒーローの「原案」を担当しながら、自ら執筆したマンガ版では「独自展開でシリアスなSFを描く」というパターンで数々の作品を世に出している。
 仮面ライダーと同様、「暴走」とも思えるほどのTV版からの逸脱ぶりで強烈な内容になった作品は数多く、「人造人間キカイダー」や「イナズマン」「ロボット刑事」あたりは今読んでもかなり面白い。


●「人造人間キカイダー」全四巻(秋田文庫)

 そうした路線の集大成ともいうべきなのが、87年から執筆された「仮面ライダーBlack」だろう。
 同名のTV版とはライダーのデザインもストーリーも全く違う、堂々たるSF巨編になっている。


●「仮面ライダーBlack」全三巻(小学館文庫)


 70年代には子供心に「ちょっと違う、怖い」と感じたTVと同タイトルのマンガ版は、他にもたくさんあった。
 あとで気付いたのだが、その多くが石森章太郎の「弟子筋」にあたるマンガ家によるものだった。
 名前を挙げるなら、永井豪や石川賢の作品である。
 永井豪は石森のアシスタント出身、石川賢は永井豪と共にダイナミックプロで活動しており、作品に「暴走する石森DNA」のようなものが受け継がれているのかもしれない。

 70年代当時の永井豪も全盛期と呼ぶべき状態にあり、「デビルマン」「マジンガーZ」「グレートマジンガー」「グレンダイザー」「キューティーハニー」等、多数の原案とマンガ版を担当していた。
 中でもマンガ版「デビルマン」には才能と狂気が結晶し、極めて異常にして高密度な作品になった。
 戦後日本マンガの一つの到達点と言っても過言ではないこの作品については、記事をあらためて紹介する。

 石川賢の描くマンガ版も異彩を放っていた。
 私が石川賢の作品と始めて出会ったのは、小学校低学年の頃だった。
 当時の私は仮面ライダーと共にウルトラマンシリーズにはまり切っており、怪獣図鑑をはじめ、様々な書籍や玩具を集めていた。
 その中に「ウルトラマンタロウ」を漫画化した単行本があり、作者が石川賢だったのだ。
 子供心に私は、何か見てはいけないものを見てしまったような恐怖とうしろめたさを感じつつ、石川版「タロウ」の暴力と怪奇と哲学の世界に耽溺した。
 今読むと「ウルトラマンを踏み台に石川賢をやっている」としか見えなかったりするのだが、それこそが石川賢の「芸風」なのだ(笑)


●「ウルトラマンタロウ」石川賢

 永井豪が原案を担当し、TVアニメにもなった「ゲッターロボ」「ゲッターロボG」は、同じダイナミックプロの石川賢がマンガ版を担当した。
 こちらも手加減抜きのハードな描写で、70年代スーパーロボットマンガの最高峰と言ってよいだろう。


●「ゲッターロボ」「ゲッターロボG」石川賢

 このシリーズは、後に執筆された「ゲッターロボ號」で再起動され、「真ゲッターロボ」「ゲッターロボアーク」と、2003年まで描き継がれた。
 スケールの大きなサーガとして石川賢の代表作に成長することになったのである。

 石川賢は他ジャンルの原作をマンガにするコミカライズの名手、それも原作の忠実な再現ではなく、独自アレンジを得意としていた。
 ある意味「原作レイプ」と呼ばれかねない作風なのだが、そもそも選択される原作が独自アレンジごときではびくともしないパワーを持っているケースが多かったので、そうしたアプローチが批判対象になることはあまりなかった。
 原作の強烈な「枠」を石川ワールドで食い破るカタルシスこそが、作品の魅力だったのだ。
 80年代以降に描かれた原作付き作品の力作には、例えば以下のようなものがある。


●「魔界転生」
●「神州纐纈城」

 石森、永井、石川と、子供の頃から「暴走」タイプの作品を読み込んできたので、今でも私はこの種の作品が好きだ。
(続く)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年07月23日

終末サブカルチャー

 70年代サブカルチャーの流行の一つに「終末ブーム」があった。
 五島勉「ノストラダムスの大予言」(祥伝社)が刊行されたのが1973年、少年マンガの世界でも「人類滅亡」が数多く描かれた。
 中でも後のサブカルチャーへの影響と言う点では、「幻魔大戦」と「デビルマン」の二作品は特筆されるべきだろう。


●「幻魔大戦」平井和正/石森章太郎(秋田文庫)
 1967年、週刊少年マガジン連載。
 光と闇の戦いというテーマを超能力SFで描いた元祖のような作品。
 連載自体は単行本二巻分で終了したが、髑髏が映し出された月が地球に落下してくるラストシーンは強烈で、長く読み継がれ、多くの続編が描かれることになる。

●「新幻魔大戦」平井和正/石森章太郎(秋田文庫)
 1971年〜1974年、SFマガジン連載。
 続編というより、「幻魔大戦」の世界をパラレルワールド的に拡大再構成し、新たな起点となった作品。
 原作は小説形式で執筆されており、マンガの中で文章の占めるパートが大きい変則的な表現形式である。
 後に原作自体も小説版として発表されている。

 原典になった70年代前後の二作以降、原作者の平井和正の小説版、石森章太郎のマンガ版はそれぞれ別に描かれることになる。
 石森マンガ版は1979年〜1981年、雑誌「リュウ」連載。
 平井小説版は1979年〜86年頃まで執筆され、中断。
 1983年には序盤ストーリーが角川アニメ第一作として劇場作品にもなっており、「ハルマゲドン」という言葉が一般化するきっかけとなった。
 平井小説版が80年代サブカルチャーにもたらした影響は極めて大きい。
 私も中高生の頃、まともにその波をかぶっていたのだが、それについてはまた記事をあらためて述べたい。
(平井小説版は2000年代に入ってから続編が描かれており、40年の時を経て1967年マンガ版に一つの決着が付けられた)


 そして、いよいよ永井豪「デビルマン」のことである。
 1972〜73年、週刊少年マガジン連載。
 私は14歳の頃、はじめてこの漫画版を読んだ。
 初出時からはかなり年数がたっていたが、昔は今よりずっと書店の本の回転が緩やかだったのだ。
 それまでにも前回記事で紹介した石川賢「ウルトラマンタロウ」や、TVアニメの「デビルマン」「マジンガーZ」「ゲッターロボ」などは試聴していた。
 私の世代は永井豪率いるダイナミックプロの作風で育ったような所があったのだ。
 しかし、漫画「デビルマン」の衝撃は、それまでとは全くレベルが違っていた。
 子供の頃好きだったアニメ版とは、基本設定に共通点はあるものの、ビジュアルもストーリーも完全に別物だったのだ。

 凶悪なデーモンの合体を受け、狂った破壊衝動と正気の間でのた打ち回る主人公・不動明。
 悪魔と合体しつつも、最後まで自分自身の精神を守った主人公の姿は、読んだ当時の14歳という年齢のもたらす不安定な精神状態と同期して、まるでわがことのように感じられた。
 貪るように何度も繰り返し再読したため、コミック全五巻の内容を全て頭の中に再現できるようになった。
 寝ても覚めても「デビルマン」のことを考え続け、街中で「ビル・マンション」と書いてある看板が視界に入ると思わず振り返ったこともあった(笑)
 もちろん絵の模写もたくさん描いた。
 今風に言うなら完全に「中二病」なのだが、読むこと、描くことで癒される何者かが、確実に当時の私の中にあったのだ。
 私が「14歳の狂気」を乗り切れたのは、この漫画「デビルマン」のおかげと言っても過言ではない。

 そしてはるかに時を経た2000年代、CGをはじめたばかりの頃、ペンタブレットの練習に、中高生の頃から描き慣れたデビルマンの絵を何枚も描いた。
 中々思い通りに動いてくれないカーソルをリハビリのようなつもりでのたくらせながら、ひたすら描いた。
 絵描きとしてもう一度生まれなおすつもりで、ただ黙々と懐かしい「デビルマン」のキャラクター達を描き続けるうちに、思春期の頃、明確な意志をもって絵を描き始めた時の熱が、私の中に蘇ってきた。

ac-04.jpg


 同じ時期、悪評高い実写版映画「デビルマン」が公開された。
 いい年こいて大人げないとは思いながらも黙っていることができなくて、当時全盛期だった某巨大ネット掲示板の当該スレッドで、固定HNで実写版批判の急先鋒に立ったこともあった(笑)
 スレッドで「同志」の皆さんと交流しながら、ネットでのやりとりについて多くのことを学んだ。
 大人になってからも、私は「デビルマン」に支えてもらったのだ。
 
 今現在「自分の中の凶暴な何者か」と対決中の少年少女には是非手に取ってほしい本作だが、入手の際には注意が必要だ。
 多くの加筆バージョンや続編が刊行されているので、なるべく初出に近いものを手に取ってほしいのだ。
 敬愛してやまない永井豪先生には大変申し訳ないのだが、この作品ばかりは加筆が入る度にバランスが悪くなっていくように感じる。
 絵描き目線で言えば、技術的に未熟(と本人には思える)な過去の絵を直したくなる心情は痛いほどわかる。
 しかし作品というものは時として、作家自身にすらうかつに手を出せない、危ういバランスの上に成立した脆く美しい結晶体になるもののようだ。
 後年の加筆が少ないバージョンで、今現在入手し易いのが、以下の三種である。


●「デビルマン 愛蔵版」永井豪(KCデラックス)
●「デビルマン 全三巻」永井豪(KCスペシャル)
●「デビルマン 完全復刻盤 全五巻」永井豪(KCコミックス)

 序盤の作画にはさすがに時代を感じるが、ストーリーの衝撃は全く色褪せない。
 デーモンの無差別合体、第一次総攻撃を受け、人類が疑心暗鬼から相互に監視し合い、殺し合って自滅していく展開は、テロと分断の時代を迎えた今読むと、改めて慄然とさせられるのである。

 70年代からサブカルチャーにおける終末ブームは何度も繰り返されてきた。
 記事中で紹介した代表的な作品は、多くのフォロワーを生み、作者自身のリバイバルも重ねらられたが、繰り返されることにはそれなりの理由がある。
 その終末描写にリアリティを与えているのは、他ならぬ現実の社会なのだ。
(続く)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年07月25日

青年はサブカルチャーに一度死ぬ

 70年代前後の雑誌連載マンガは質的に一つのピークをむかえており、後の作品に多大な影響を及ぼしたものは数多い。
 60年代から始まるTVアニメとのメディアミックスは読者を開拓し、マンガを読む習慣を持つ年齢層は次第に広がっていった。
 少年誌が青年読者にも購読されるようになったのはこの頃のことだろう。
 読者の年齢層が上がると、内容にも「歯ごたえ」が求められ、必ずしもハッピーエンドでは終わらないシリアスなストーリーが描かれるようになった。
 終末ブームの世相も背景にしながら、この時期の作品には幾多の「世界滅亡」が描かれ、前回記事では後続作品への影響の大きさから「幻魔大戦」「デビルマン」の二作を例として紹介した。
 そして世界滅亡とまでは行かなくとも、主人公の死や破滅が描かれる作品も数多くあった。
 70年代前後に青年層に支持され、「青年の死」が描かれた作品の中で、後続作品に多大な影響を残した作品の例としては、「カムイ伝」「あしたのジョー」が挙げられる。
 前回紹介した二作品と共に、以下に制作年と当時の作者の年齢をまとめてみよう。
(「幻魔大戦」については続編の「新幻魔大戦」と一連のものとして扱っている)

【カムイ伝】(1964〜71年)
 白土三平(32〜39歳)
【幻魔大戦】【新幻魔大戦】(1967年、1971〜74年)
 原作:平井和正(29歳、33〜36歳)
 マンガ:石森章太郎(29歳、33〜36歳)
【あしたのジョー】(1968〜73年)
 原作:高森朝夫=梶原一騎(32〜37歳)
 マンガ:ちばてつや(29〜34歳)
【デビルマン】(1972〜73年)
 永井豪(27〜28歳)

 多少のバラつきはあるものの、以下のような共通点が見受けられる。

・70年代前後、青年層に支持される。
・シリアスでリアルな展開の末、主人公の「死」が描かれる。
・作品制作中に絵柄がリアルタッチに変化する。
・描き起こされた時点の作者の年齢が三十歳前後。

 このような傾向から、仮説というか、いつもの如く与太話を展開してみよう。

 商業誌のマンガ家やマンガ原作者のデビューは早く、十代から二十代前半であることが多い。
 初期には読者と「同年代」的な感性の作品で腕を磨き、実力を蓄積する。
(早熟な場合はこの時期からヒットを飛ばす)
 そして幾多の淘汰を超え、構成力や画力が向上し、体力的にも十分残された三十歳前後のタイミングで、「完全燃焼」の作品が生まれる……
 週刊マンガ誌を追っていると、そんなケースを目にすることが多い。
 若くしてデビューしたマンガ家はある意味「純粋培養」で、実体験と言えるのは「マンガを描くこと」だけだ。
 アラサーくらいの年齢で一度「元々持っているもの=青少年期の感性」が全部吐き出され、作中の主人公と共に、表現者として一度死ぬ。
 それで本当に燃え尽きてしまい、作品が描けなくなるマンガ家もいる。

 読者の方も、少年期から青年期にかけて、心の在り方が変化する。
 青年はいずれ大人にならざるを得ない。
 自分というものが一度リセットされ、疑似的な死と再生を経なければならない刻限が迫ってくる。
 そうした不安定な時期に、同じようにもがく作者と作品は、心に深く刺さりやすい。
 鮮烈に描かれた「青年の完全燃焼の死の物語」は、民俗を喪失した現代の青年に、疑似的な通過儀礼として機能しているのかもしれないのだ。
 少なくとも私には、その心当たりがある。

 とりわけ「主人公の死」と「世界の終り」が同期した終末サブカルチャーは、危うい魅力を持っている。
 いつの時代も青年は自分しか見えていないものだ。
 今の自分が無くなるなら、この世界も無くなってしまえばいい……
 ありがちな短絡だが、それを乗り超え、この泥まみれの世の中で、役を演じていけるかどうかが問われることになる。
 そこで道を踏み外せば、ピュアであるほど地獄は深くなる。

 本物の物語作者は、「死」や「終末」を描いた後に、そのまま読者を放置したりしない。
 必ず蘇って「再生」を描く。
 先に挙げた作品で言えば、白土三平は後に「カムイ伝 第二部」を描き上げた。
 平井和正と石森章太郎は「幻魔大戦」で滅びを描き、「新幻魔大戦」で再生を描いた。
 ちばてつやは「ジョー」の直後に「おれは鉄兵」を描き、永井豪は「デビルマン」の直後に「バイオレンスジャック」を描いた。
 それらの作品には、前作ほどの衝撃や切れ味はないかもしれない。
 それでもしぶとく描かれた作品は、不思議な懐の深さをもって、読者に「それでも死ぬな。しぶとく生きろ」と語りかけるのである。
 
(70年代マンガについての章、了)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年07月26日

へんろみち16

 子供の頃から「歩く」ことが好きだった。
 特に山登りが楽しかった。
 山に登って景色を見たり、お弁当を食べたりするのはもちろんのこと、息を切らせながら自然の中を歩いている感覚そのものが好きだった。
 それからずっと、歩いてきた。

 へんろみち-1
 へんろみち-2
 へんろみち-3

 登山や歩行について、とくに誰かの指導を受けたことはなかったが、自分なりに「歩く」経験だけは積んできた。
 車にもバイクにもあまり興味はなかった。
 自転車にはやや関心があり、高校生の頃にはまだ流行る前のマウンテンバイクを乗り回していたが、結局「歩き」に戻った。
 長い間、自分が好きな「歩き」が、果たして他と共有されうる志向なのかどうか、分からなかった。
 本格的な登山とも違うし、いわゆるアウトドアとも少し違う。
 ただ、歩く。
 できれば自然の中がいい。
 自然の中を歩く過程で、必要があればアウトドアもやるが、それも必要最小限の装備がいい。野宿が可能ならそれでいい。
 歩きたい自然豊かな道を探しているうちに、熊野を歩くようになり、自分のやりたいことは「遊行」「遍路」だったのだなと、ようやく気がついた。
 そんな風に自分の志向に名がついたのは、阪神淡路大震災に被災した後のことだった。
 ものの考え方もやりたいことも全て一旦リセットされ、再構築のためにひたすら本を読み漁った。

 本をさがして-1
 本をさがして-2
 本をさがして-3
 本をさがして-4

 その頃、五木寛之の風の王国」を読んだ。
 この作品については、以前にも何度か紹介したことがある。
 ただ「歩く」というたった一つの行為を軸に、古代・中世・近代・現代がつなぎ合わされ、「歩く」ということが思想にまで高められる不思議な物語である。
 貪るように読み耽り、また歩いた。
 歩いた後、また何度も再読した。


●「風の王国」五木寛之(新潮文庫)

 私自身の身体にたっぷり「歩き」が蓄積された後読むと、それだけ物語を楽しむことが出来るようになった。
 作中の登場人物のように翔ぶように山野を「ノル」ことはまだ出来ないが、多少は歩けるようになった。
 体力になるべく頼らない「歩き」の技術を少しは身につけてきたのだ。

 今の私は、自分が「歩き」を好む理由をいくらか言葉にすることができる。
 歩きによる「遊行」や「遍路」は「離れる」ことだ。
 車や電車などの乗り物に乗ると、「繋がり」ができやすい。
 端的に言えばナンバープレートや運行ダイヤ、監視カメラ等によって、自分の行動が常に他者に捕捉されやすい状態になる。
 別にことさら隠密行動をとりたい理由がある訳ではないのだが、そうした「行動の捕捉」に端的に表れるような、様々な「繋がり」からふっつり離れて、足の向くままに流れてみたいという衝動があるのだ。
 誰にも連絡を取らない、取れない状況に自分を置き、ただひたすら一人で歩きたい。
 その結果が野垂れ死になら、それはそれで良い……
 この小説は、心にふと兆す瞬間があるそうした衝動に、魅惑的な筋立てを与えてくれる、一幕の甘美な夢だ。
 ネットやスマホで他者との常時接続が当り前になった今の世に、このような小説がいまだ版を重ねているのは、考えてみれば不思議なことだ。
(続く)
posted by 九郎 at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年07月27日

へんろみち17

 90年代初頭からぼちぼち熊野遍路を始めていた私だが、さすがに被災した95年は出かけなかった。
 遍路の魅力は「日常からの遊離」にある。
 被災生活はそれ自体が強烈な「非日常」だったので、わざわざ遍路に出かけようという衝動が湧かなかったという表現もできるだろう。
 被災体験と、それに続くカルト教団のテロ事件に衝撃を受け、私の中に元々あった孤独癖は限りなく昂進した。
 それは当時、舞台美術スタッフとして参加していた演劇活動を続けるのが困難になるほどだった。

 祭の影-1
 祭の影-2

 なんとか被災生活を潜り抜け、演劇活動に一区切りをつけた96年夏、久々に熊野へ出かけたい気分になった。
 当時お世話になっていた師匠の事務所では、偶然熊野古道関連の仕事をやっていた。
 それまでにも断片的に熊野は体験していたが、バイトを通じて知識や認識が広がり、またうずうずと旅の虫が蠢き始めた。
 その頃の私は、他の何よりも孤独に浸ることを求めていたのだ。

 熊野古道にはいくつかのルートがある。

kumano-04.jpg


【中辺路】
 紀伊田辺から熊野本宮大社に至る山越えの道。ハイキングコースとして整備されており、車道が並行していてアクセスし易いので人気が高い。
 その他のルートは以下の通り。

【紀伊路】
 大阪天満あたりからはじまり、和歌山市を経て紀伊田辺に至る、平坦な区間の多い道。
【大辺路】
 紀伊田辺から那智の浜、新宮速玉大社へと至る海辺の道。

 奈良県五條から十津川、十津川温泉を経て熊野本宮大社に至「十津川路」や、伊勢方面から新宮速玉大社に至る「伊勢路」もあるが、ここまで紹介した五本の道は現在大半が国道に重なっているので、「古道」の風情は部分的に味わえるにとどまる。

 現在でも車道とほとんど重なっておらず、地道がよく残っているルートもある。

【雲取越】
 那智大社と熊野本宮大社をほぼ直線でつなぐ、かなりアップダウンの多い山道。

 そして、当時の私の目にとまったのが、以下のルートだった。

【小辺路】
 高野山と熊野本宮大社をほぼ直線でつなぐ、かなりアップダウンの多い山道。

 地図上では直進であっても、場所は紀伊半島の真ん中の山岳地帯である。
 実際はかなり険しい登山道を二泊三日で歩き切らなければならず、山中泊も含まれる。
 完全な修験者むけである大峰奥駆けルートはのぞくとして、いわゆる「熊野古道」の中で最もキツいのが、この小辺路ルートなのだ。

 それ以前、90年代前半の私の遍路は、好きだった「お山」や熊野本宮周辺を、寝泊まりしながら歩きまわる程度だった。
 ほんの真似事のようなものだったと言ってよい。
 これだけの難路に挑戦するのは初めてである。
 不安はあったが、被災体験後のヤケクソな心情もあり、思い切り自分をいじめてみたい衝動に駆られ、出発することにした。
 決定を下してしまうと心はむしろ軽くなった。
 私はお盆前後の休暇の日程に向けて、一週間前くらいからあれこれ装備を整え、「精進潔斎」で粗食に努めた。
 ふと思い立って、オリジナルTシャツも作ってみた。
 密教系の梵字をあしらったデザインで、3種類ほど作ったはずだ。
 プリントにはステンシルの手法を使い、無地のTシャツさえあれば手作業で作れるようにした。
 着替えを用意するついでに、ほんの思い付きでやったことだったが、オリジナルTシャツ作りはその後もずっと続けて今に至っている。
 当時描いたデザインの中の一つが胎蔵種字マンダラで、このブログでもアップしたデザインの第一稿になった。
 近年、フリーマーケットで「縁日屋」を出店した際の、一番人気になっている。

t-02.jpg


 私が小辺路を目指したのは、ぶっちゃけ「現実逃避」もあったと思う。
 しかし、逃げて何が悪い。
 色々抱え、頭がパンパンに煮詰まった時は、身体を使って全力で逃げるのが一番で、元々遍路とはそうしたものなのだ。
(続く)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年07月28日

へんろみち18

 96年夏、熊野古道小辺路ルートへ向けて、朝一で出発した。
 電車内で夜明けを迎えながら、朝のうちに高野山には到着した。
 高野山は初めてではなかったが、人影もまばらな朝の風景は、それまでとは全く違った雰囲気を感じた。
 真夏の下界よりかなり涼しい、ピンと張り詰めた清澄な空気の中、高野七口のうちの一つ、大滝口から熊野本宮を目指す。

mandala07.jpg


 遍路の第一歩を踏み出す瞬間は、いつも心踊る。
 これからとんでもなくキツい目に合うことは分かっているのだが、なぜか楽しくて仕方がない。
 出発時の舞い上がった気分と、目的地に着いた時の達成感が、まずは遍路の魅力の双璧だ。
 もちろん途中経過の苦労も良い。
 熊野でする苦労は、全部雄大で美しい自然の中を歩くことでの苦労で、それは楽しみと引き換えなのだ。

 この年の小辺路遍路で、私は素人がやりがちな失敗は全部やった。
 地形を読み間違えて時間と体力を何度も空費した。
 水が足りなくなって渇きに苦しんだ。
 足ごしらえが不十分でマメを潰した。
 山小屋到着が日没に間に合わず、途方に暮れた。
 進行方向のずっと先にクマがいて、緊張感が走った。
 当てにしていたバスに乗り遅れ、結局車道をトボトボ歩き通した。
 それでも、楽しくて仕方がなかった。
 乾き切った喉を水場で存分にうるおしたり、山小屋の朝を野鳥のさえずりで迎えたりしたこと瞬間の映像は、今でも脳裏に鮮明に浮かぶ。
 盛夏の熊野の山々の濃い緑、木立の涼風、苔むした石畳の様も忘れがたい。
 そして何より、二泊三日で歩き通した果てに、熊野本宮で感じたなんともいえぬ情動。

 この年の遍路の印象は強烈だった。
 たぶんそれは、前年95年に体験した「影」の深さと対になっていて、その落差が感動を生んだのだと思う。
 以後十年間ほど、私は毎年のように熊野遍路に出かけるようになる。
 
 熊野と言えばイメージとしてすぐに浮かぶのは「深い森」であり、山岳修験だ。
 実際、私の遍路のメインも山道をただひたすら歩くことだった。
 しかし、繰り返し歩き回って分かってきたことは、熊野には意外に「水」にまつわるイメージが重要であるということだった。
 現地に行かなければ決してわからないということは、世にいくらでもあるのだ。
 たとえば、日本一の大滝として有名な那智の滝は、その姿から「水」の龍神そのものだ。
 新宮速玉大社は現在の所在地からはやや分かりにくくなっているが、そもそもは熊野川の注ぐ熊野灘と関連の深い社だ。
 そして熊野本宮は、旧社地「大斎原(おおゆのはら)」を見れば明らかなように、熊野川の中州のような位置に祀られた社だ。
 熊野信仰の中核をなす三社ともに、水にまつわる信仰の場ということになる。
 水、川、海という要素が熊野には不可欠で、古道の中でも「山を通して海に至る」ルートが、私の中では最もしっくり感じられた。

 熊野遍路を繰り返すうち、とくに好きな場所、好きなルートができた。
 何度か紹介してきた「お山」と大斎原は、私の中で熊野の「二大聖地」になった。
 ルートとしては、高野山と本宮をつなぐ小辺路、本宮と那智をつなぐ雲取越えが気に入った。
 そしてもう一つ、大峰奥駆けの最終区間である、「お山」から本宮までをつなぐルートが素晴らしかった。

 深い森である「山の熊野」を存分に歩き通した後は、ゆっくり温泉に入ってから、「海の熊野」に出る。
 補陀落の海・熊野灘に面する、那智勝浦や新宮、三重県熊野市だ。
 
 那智の浜。
 高野坂。
 王子ヶ浜。
 蓬莱山。
 七里御浜。
 花の窟。

 海辺の古道を歩き、水の信仰の場を巡る。
 たまに海岸に寝転がり、波音に包まれて過ごす時間が、また格別だった。
 当時、遍路の途中で描いたスケッチが、いくつか残っている。

【大斎原】
kumano-17.jpg


【那智の浜】
kumano-18.jpg


【王子ヶ浜】
kumano-19.jpg


【蓬莱山】
kumano-20.jpg


 そんな風に、一週間近く熊野の山や海をぶらついて、名残りを惜しみながら紀勢線で帰路につく。
 その頃には、なんとかこれからも娑婆でやっていけそうな気分になってくるのだった。
(続く)
posted by 九郎 at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年07月29日

へんろみち19

 震災とカルト教団のテロ事件が起きた95年以降、私は神仏や宗教関連の読書を開始していた。
 熊野遍路をやや本格的にスタートさせたのも同じ頃だった。
 私にとっての遍路は、本で得た知識を実地で確かめる体験でもあった。
 遍路では、いくつかの祝詞や真言、般若心経や和讃をよく唱えた。
 そうした唱えことばは、遍路の現場ではかなり「実用的」な機能を持っていた。
 山中で精根尽き果てた時にはお不動さまの真言に助けられた。
 清々しい社に至った時に祝詞を奏上すると、自分の中の感動を乗せることができた。
 海辺の古道を歩く時、念仏和讃のゆったりとしたリズムは、波音にシンクロして心地良かった。
 後にDTMで試みた「音遊び」には、遍路の途上で唱えたイメージが反映されている。





 知識と実体験という意味では、熊野遍路に限らず、色々な場所を「巡礼」した。
 仕事で行く機会のあった沖縄以外は、近畿地方が中心だった。
 住んでいる場所から近いということももちろんあったが、当時の主な興味の対象が近畿地方にあったということがまず大きい。
 天理教の泥海神話に関心を持てば天理市に行き、大本に興味が湧けば丹後・丹波の各地を経巡った。
 特定の宗教、宗派ではないが、六甲山系に点在する「磐座」に興味を持ち、有名無名を問わず、巨石を求めて山中をさまよったこともあった。
 お地蔵さまのことが気になり始めたのも、その頃のことだった。
 普段の散歩でお地蔵さまを見つけると、写真を撮ったりスケッチするようになった。
 関西では地蔵盆が盛んなので、毎年夏休みの終り頃には良い風景、良いスケッチが体験できた。
 そうした体験の蓄積は、カテゴリ地蔵で一部紹介してきた。

 私は根っこの部分ではやはり絵描きなので、本を読んだり遍路をしたりする中でも、スケッチだけは続けていた。
 たまにアクリル絵の具でサイズの大きな作品を描こうと試みるのだが、なかなか形を成さなかった。
 当時はとにかくスケッチ、素描ばかりしていた。
 仏画や仏像の資料を見ながら描き写した。
 山水図の類を見ながら描き写した。
 たびたび動物園に行っては、飼育舎の端っこから順番にクロッキーして回った。
 植物を観察しては、スケッチした。
 バイトで必要に迫られれば、建築物の資料等も丸写しで練習した。
 少しでも関心のある図版はとにかく筆写した。
 誰に見せるわけでもなく、発表のあてもないスケッチを黙々と続けていた。
 劇団から離れ、他にやることもないので、ただただ描いた。

 今ならそうした日々のスケッチをアップするためのSNSの類に事欠かないけれども、当時はまだネットの普及前の90年代である。
 私のような絵描きに限らず、あの頃表現を志す者は、とにかく人に見せることを前提としない「自主練」を、よくやっていた。
 役者をやっていた友人は、好きな脚本を片手に、毎日のように公演のあてのない一人練習をやっていた。
 今考えてみると、そうした自主練は「同行二人」の遍路とどこか通じる、得難い経験だったと思うのだ。
(続く)
posted by 九郎 at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年07月31日

へんろみち20

 遍路を続けて感得したのは、目的地である神社仏閣は「容れもの」に過ぎないということだった。
 参拝だけが目的なら、交通機関を使用した方が効率が手っ取り早い。
 しかし、そうした効率の良さからは生まれない感受性の世界がある。
 古道の自然に包まれ、大量の汗をかき、湧水を飲み、何日もかけて歩き通す過程を経ないと見えない風景というものがあるのだ。
 それを見たら、再び日常生活にかえる。
 それだけのことだった。

 宗教書を読んで、本当に何かが分かるわけではない。
 ただ知識が増えるだけだ。
 知識が増えれば増えただけ、何も知らない自分に気付き、疑問や迷いはかえって増えていく。
 遍路に行って、何かが変わるわけではない。
 どれだけ遠くまで歩いても、自分自身からは一歩も離れられない。
 ただどうしようもない自分を再確認するだけだ。
 読書も遍路も、いつまでたっても届かない蜃気楼を追っているのと似ている。
 しかし、全くの無意味ということでもない。
 知識の範囲を認識できれば、自分がどれだけものを知らないかということは分かる。
 遍路でぶっ倒れるまで歩いてみれば、世界の広さと、自分の足で歩める範囲は体感できる。
 己の身の丈だけは、なんとなく分かるようになるのだ。
 本を読んで何かが分かったと感じたり、遍路を通じて自分が変われたと感じるのは、錯覚に過ぎない。
 さんざん読んで歩いても、そんな勘違いをしなかったのは、我ながら上出来だったと思う。
 同時に、安易に「あるがまま」で充足せず、自主練を積み続けたことも、上出来だったと思う。
 私には絵を描くという「重石」があった。
 賢くなりたいとか癒されたいとかいう欲は、ゼロではないけれども、比重としては軽かった。
 どこまで行っても絵描きなので、絵さえ描ければそれで良かった。

 さんざん本を読んで、さんざん遍路で歩き回った末にむかえた2000年代、私はこじらせた孤独癖が少しだけ減じているのに気が付いた。
 描きたい絵の世界がおぼろげながら見え始めていた。
 そして、まだ娑婆でやれることがありそうだと思えるようになっていた。
(「へんろみち」の章、了)
posted by 九郎 at 18:08| Comment(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする