2017年08月01日

2017年8月の体調管理

 暑いです!
 エアコン嫌いのお年寄りが死亡したニュースなども目にします。
 周りに田んぼがあって気化熱で涼がとれる地域は別として、ヒートアイランド化した都市部居住の皆さんは適切にエアコンを使用しましょう。
 原発抜きでも日本の電力は十分足りており、百歩譲ってピーク時に不足が出るとしても、それは割合の低い家庭用が原因ではありません。
 公的施設や企業などの大口需要がまずは対応すべき問題ですので、個人レベルで無理してまでエアコン使用を控える必要は、全くありません。
 日々のニュースのお天気コーナーでも、外出に注意喚起されるような日が続いています。
 同じニュース番組内で「今からちょうど三年後、○○開催!」などと世界的野外スポーツイベントの宣伝に余念がありませんが、とても正気の沙汰とは思えませんね(苦笑)

 暑いと同時に、物凄く寒いこともあります。
 エアコンを効かせ過ぎの屋内のことです。
 公共施設はさすがに最近はエアコン控えめが多いのですが、交通機関や商業施設はとんでもなく冷やしている所が結構あります。
 通過するだけなら問題ありませんが、喫茶店や映画館、バスや電車などである程度の時間動かずに過ごすと、体が芯から冷えきってしまうことがあります。
 外の猛烈な熱気との落差がまた酷く、体にこたえます。
 
 私は去年から、外出時には登山用のストール常備で対応しています。
 タオル一枚肩に羽織るだけでも冷え方が全然違い、疲れ方も全然違います。

 エアコンは適宜使用、睡眠時間の確保で、酷暑を乗り切って行きましょう!
posted by 九郎 at 00:54| Comment(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2017年08月02日

ラクガキ帳とメモ帳についての覚書

 絵や文章を日常的にかくので、ラクガキ帳とメモ帳は必携だ。
 B5ノートに絵も文章もごちゃまぜにかいていた。
 複数の仕事を抱えるようになってからは、スケジュール管理用の手帳をそうしたラクガキ帳と兼用にしていて、沖縄手帳を使っていた時期もあるのだが、ここ数年は用途別に使い分けるようになった。
 色々書き込めるサイズのスケジュール手帳は、けっこう重くかさばる。
 腰痛対策で日常使いのリュックを小型のものに代えた時、スケジュール管理は手のひらサイズの手帳にし、ラクガキ、メモもそれぞれ別にしたのだ。

 絵も文章も、ラクガキやメモ段階で最も大切なのは「なぐりがきの快適さ」だ。
 以下に、私の思うそれぞれの快適さの条件を覚書にしておく。

 絵が中心のラクガキ帳は、裏写しなければ枚数は少なくて良いが、サイズは必要だ。
 このところよく使っているのは、100均で売っているA4サイズのスケッチブックか、ミスコピーを裏返しに二つ折りにしてホッチキスで綴じた冊子。
 どちらもまともな画材とは言えないのだが、そこが大切だ。
 ラクガキ帳は、なるべく安上がりで使いつぶせ、どう間違っても人に見せる「作品」にしない前提のものの方が良い。
 ある程度以上の品質の紙を前にすると、どうしても心に「かまえ」が出てしまう。
 ちゃんとした紙にはちゃんとした絵を描きたくなる。
 しかし、アイデアスケッチの段階では、失敗を恐れず自由に手を動かした方が良い。
 なるべくかまえず、のびのびと手を動かすためにも、紙質ははっきり「悪い」方が良いのだ。
 これは貧乏性というよりは、「素材はそれぞれに最適な場面で使いたい」という、絵描きの本能のようなものだ。
 けっこう高名な絵師やマンガ家、イラストレーターでも、アイデアスケッチ段階ではわざと裏紙を使うという人は多い。
 そう言えば、わが敬愛するイラスト魔神・生頼範義も、下絵にカレンダーの裏を使っていたっけ。
 もちろん「もったいない精神」もあるだろうが、「あえて裏紙」という部分も絶対あると思うのだ。

 なぐりがきから一段階精度を上げる際には、やっぱりスケッチブックの定番の紙質が心地よくなる。


●マルマン 図案シリーズ スケッチブック
●マルマン オリーブシリーズ スケッチブック
 お手頃価格で鉛筆や水彩に十分対応できる紙質。サイズも各種あり。

 鉛筆は使い慣れた三菱ハイユニ2Bがメイン。

 文章中心のメモ帳は、サイズはもっと小さくて良い。
 私の場合は簡単なスケッチも含めて考えるので、「無地の新書サイズ」くらいがほど良い。
 こちらは紙質には多少こだわりたい。
 なぐりがき、はしりがきの際のペン先の滑りが、執筆する際の意欲にけっこう影響するのだ。
 最近よく使っている廉価版でそこそこの書き味の万年筆がある。


●プラチナ萬年筆 万年筆プレピー ブラック

 そのペン先が心地よく滑り、裏写りしない紙質のものを探す。
 新書サイズで無地、紙質も相応となると、わりと選択肢は限られる。


●【ツバメ】KITERAオリジナル B6変形ノート(無地)
 紙質で言うとこの小型ノートがベストなのだが、私が使うには枚数が少ない。
 文案メモを取り続けると2〜3か月しかもたないので、もう少し厚みが欲しい。
●ホワイトヴィンテージノート(新書サイズ)【無地】 N27
 ということで、今はこちらをメインで使用。
 日常的に何か思いついたらすぐに書き留めたり、文案を練ったりし続けても1年以上もつ。
 厚みはあるが、新書サイズなのでかさばりすぎず、重すぎない。

 文章については、手書きを挟まず直接キーボードで入力していた時期もあったが、一回手書きをしてみるスタイルに回帰した。
 脳内の思考に同期させ、走り書き、なぐりがきを一旦形にする。
 とりあえず言葉の断片、フレーズ、素材を、ガサッと出してしまう。
 その後、キーボードで「編集」するのが最もストレスが少ないと感じる。

 絵でも文章でも、心的ハードルをいったん下げ、気持ちよく手を動かしてみる。
 精度を上げるのはその後にした方が、私の場合は結局は速いのだ。
posted by 九郎 at 22:32| Comment(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする

2017年08月03日

スケッチ鉛筆覚書

 絵描きなので、鉛筆デッサン、鉛筆スケッチにはけっこう思い入れがある。

 デッサンと見取り稽古

 ここ数年、鉛筆を削って使っている。
 長らく削らなくてもいい「鉛筆芯ホルダー」を愛用していたが、思うところあって削る鉛筆に回帰した。
 貴重な制作時間を確保するため、色々便利な道具も試してみた。
 しかし、時間短縮で能率を上げたら絵の質が上がるかというと、そうでもないなと感じるようになった。
 書道で墨をする時間が大切であるように、鉛筆を好みの状態に削り出すという時間もまた大切なのだと、今さらのように気づいたのだ。

【ナイフ】
 鉛筆を削るなら切り出しナイフがベストだ。
 カッターナイフでも切れ味に問題はないが、刃が薄いので「しなる」分、鉛筆のような木材を削る時には不便を感じる。
 一昔二昔前は、鉛筆を削るなら「肥後の守」と言われていたものだが、最近はあまり売っていないし、たまに見かけてもけっこう高い。
 研ぐ技術がないとかえって危なかったりする。
 今お勧めなのは、OLFAのクラフトナイフのシリーズだ。


●オルファ クラフトナイフS
 切れ味、耐久性が申し分なく、文具店やホームセンターで安く手軽に入手できるのが大変素晴らしい。
 アウトドアの使用にも十分に耐えられるだろう。
 夏休みの工作などにもカッターナイフよりこちらをお勧めしたいが、昨今の刃物に対する(私に言わせれば過剰な)規制の風潮の中では難しいかもしれない。

 普通のカッターナイフを使う場合でも、いい加減な作りのものだと快適に削れず、ケガの元だ。
 その点、OLFA製品だったら間違いがない。


●カッターナイフ
 ステンレス刃のシンプルデザイン。
 こういう製品を手に取ってみると、さすが世界のオルファだなと認識を新たにする。
 極上のプロダクトデザインと切れ味を堪能できる一本だ。

 鉛筆を削るのは全ての工作の基本中の基本だ。
 子供の日常から刃物を取り上げ、工作と、ちょっとした怪我をする機会まで奪ったことが、他人の痛みに対する創造力の欠落につながっていると、個人的には考えている。

【鉛筆】
 手で鉛筆を削ると、木の削り心地も重要な要素になってくる。
 100均の鉛筆で使われているような正体不明の粗い木材だと、削る段階で創作意欲が減退してしまう。
 鉛筆画を志すなら、安価なものでも良いから、せめて名の通ったメーカー品を入手した方が良く、あとは「好み」としか言いようがない。
 とにかく描きはじめてみれば、技量の向上とともに自然と鉛筆の質にまで注意が向くようになるだろう。
 デッサン教室では、ステッドラーのルモグラフか、三菱ハイユニのどちらかを使う人が多いはずだ。


●ステッドラー ルモグラフ 12硬度セット
 6B、5B、4B、3B、2B、B、HB、F、H、2H、3H、4H


●三菱鉛筆ハイユニ アート22本セット
 10B、9B、8B、7B、6B、5B、4B、3B、2B、B、HB、F、H、2H、3H、4H、5H、6H、7H、8H、9H、10H

 これらの硬度が全部必須というわけではなく、自分の筆圧とか手法によって必要とする硬度や本数は違ってくる。
 私の場合、受験生の頃は三菱ハイユニ派だった。
 ルモグラフとハイユニでは同じ硬度表示でも硬さに違いがある。
 ハイユニの方が一段階ずつくらい柔らかめの印象があり、木の削り心地が好みだったのだ。
 ルモグラフの方が少しだけ高価で、近所で手に入りづらかったという理由もある。
 がっちりした鉛筆デッサンから離れ、都市部に居住するようになり、イラスト系の絵を描く機会が増えてからは、ルモグラフなどのステッドラー製品をよく使っていた。
 近年、手で鉛筆を削る意義を再発見してから、初心に帰る意味でハイユニを買いなおした。
 とりあえず濃い方から4B、2B、HB、2Hの4本。
 私は受験生の頃から、あまり鉛筆の種類は増やさずにタッチのバリエーションで描き分ける方だった。
 何年か鉛筆を削って使ってみた今の好みは、やっぱり相変わらずハイユニかルモグラフだった。
 切らさないように常備しているのは2Bと4Bで、その日の気分や用途によってルモグラフとハイユニ、濃さを使い分ける感じだ。
 一枚の絵の中ではあまり種類は使わず、ほとんど一本で完結させることが多い。

 スケッチの最初に、ガサッと面をとって構図を決めるのに便利なのが、以下のもの。

●スケッチ用平型鉛筆
 もう三十年ほど同じものを使っている。
 おそらく海外メーカーのものだが、そうした軸に印刷してあった情報は年月とともに摩りきれてしまって何一つ残っていない。
 平形の極太芯で、けっこう使っているのだが、なにしろ極太なので全然減らない(笑)
 今でも画材店でたまに似たものを見かけるが、たぶん私の生涯は今持っている一本で足りる。
 未確認だが、たぶん以下のものに近い。


●ホルベイン スケッチングペンシル2B

【芯ホルダー、シャープペン】
 大前提としては、軽さといい、描き味といい、スケッチにはやっぱり普通の鉛筆が最高だ。
 自分に合うよう削り出した鉛筆で、じっくり時間をかけてスケッチするのは何ものにも替えがたい贅沢な時間なのだが、中々そうも言っていられない人は多いだろう。
 私自身は最近あまり使わなくなったが、以前多用していた、削らなくてすむシャーペンや芯ホルダーも紹介しておこう。
 
●0.9ミリシャープペン。
 基本的に、絵を描くときにはシャープペンではなく鉛筆の方がいいのだが、0.9ミリぐらいの太い芯なら十分絵を描くのにも使える。
というか、普段の筆記用具としても、スタンダードな0.5ミリより0.7とか0.9ぐらいの方が、芯がポキポキ折れないのではるかに書きやすいと思う。
 芯がよく折れる太さが定番になっているのは、替え芯をたくさん売るためのシャーペン屋の陰謀ではないか、などとアホなことを考えてしまったりもする(笑)

●マークシート用シャープペン
 100均で購入したが、これが意外とスケッチに使える!
 マークシート記入用に、平形の太く濃い芯が入っているので、なかなか折れないし、描く方向によって太さの使い分けができ、カリグラフィのようなタッチをつけることもできる。


●ステッドラー 2ミリ芯ホルダー
 こちらはスケッチ用具としては定番中の定番。
 ほとんどがプラスチック素材なので、けっこう軽くて鉛筆に近い感覚で描ける。
 安いがけっこう頑丈で、私はもう二十年以上同じものを使っている。
 誰にでもお勧めできる一本だ。

 
●パイロット 芯ホルダー
 濃さのバリエーションが豊富。
 私は3B以上の濃い芯を、木炭のようにこすって広げて使っていた。


【消しゴム】
 最後に消しゴムについて。
 鉛筆画の際、練りゴムを使う人、流派も多いと思うが、私は昔からほとんど使わなかった。
 木炭の時は使ったが、鉛筆の時は普通のMONO消しゴムを使っていた。
 今は薄型のものが発売されていて、重宝している。

●MONO消しゴム スマート
 横向きに使うとちょうどノート一行分が消せる仕様なので、スケッチの時に広く消す時にも細かく鋭く消す時にも便利に使える。



 色々書いたが、鉛筆スケッチに興味がある人は、まずはハイユニかルモグラフの2Bあたりから。
 漫画原稿の下描きなどにもお勧めだ。
posted by 九郎 at 18:15| Comment(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする

2017年08月04日

スケッチ用具覚書

【スケッチブック】
 アイデアスケッチ段階のラフなラクガキなら、あえて紙質を悪く、何かの裏紙に描く発想については、前々回の記事にした。
 ラフスケッチではなく、ある程度描き込んだ「作品」にする場合は、そこそこの紙質は必要になる。
 お手頃価格で鉛筆や水彩に十分対応できる定番スケッチブックが、以下のもの。
 サイズも各種そろっている。


●マルマン 図案シリーズ スケッチブック
 A3サイズ以下はこちらのシリーズ。
●マルマン オリーブシリーズ スケッチブック
 F6やF8、B3等の大きなサイズはこちらのシリーズ。

 とくに水彩用紙の場合、高級紙は慣れないとかえって扱いが難しいと感じることもあるだろう。
 まずは思い切って描ける値段帯のプレーンな紙で枚数をこなしてみるのがお勧めだ。
 子供に買い与える場合でも、この水準の紙質は欲しいところだ。
 百均スケッチブックだと、絵の具を使うとボロが出ることが多々あるので、絵を描く楽しさが損なわれたしまう。

【椅子付きリュック】
 屋外スケッチの時、楽に描くためには椅子が欲しくなる。
 数年前「椅子付きリュック」というものを試しに購入してみた。


●バックパックチェア OD013
 現在品切れ中のようだが、椅子付きリュックというくくりでamazonを探してみた中では飛び抜けて安く、2000円ほどだった。
 バックパック購入時の常識として、最低でも6000円クラスでないと耐久力に問題があるもの多いのだが、お試しで使い潰す覚悟で安物買いした。
 まずは椅子付きリュックというものを実際に使用してみて、サイズや機能、強度など、自分の好みをチェックしてみる。
 サイズと機能面ではけっこう気に入っている。
 本体重量は1.4キロということだが、それなりに荷物を入れても、背負って負担になるほどではない。
 何よりも、背中からおろして一動作で、どこでも邪魔にならない程度の椅子になってくれるのが良い。
 椅子の骨組みが背中に当たるかとも思ったのだが、ストラップの調節で意外と邪魔にならないようにできる。むしろ骨組みがあることでリュックと背中に隙間ができ、通気が確保されて快適だ。
 椅子はそれなりに高さがある。
 レジャー用の軽量な折りたたみ椅子は、腰痛持ちには低すぎるものが多いので、この高さはありがたい。
 屋外スケッチの時、地べたや低い椅子に長時間座ると腰がつらいのだが、これくらい高さがあるとかなり楽だ。
 これ以上の座り心地を求めるなら、椅子サイズがもう一回りふた回り大きく重くなるので、リュックではなくキャリータイプを選ばなければならないだろう。
 そうなると用途が全く違ってくるし、行動範囲も狭まる。 
 リュックはB4スケッチブックがぎりぎり入るか入らないかぐらいで、通常はA4サイズ対応ということになるだろう。
 宿泊や本格的な登山は無理だろうけれども、普段使いや日帰り屋外スケッチには必要十分。
 そして数年間、折にふれ使ってみたが、いまだ健在(笑)
 とりあえず、買ってすぐ壊れるような粗悪品ではなかった。

【色鉛筆】
 学生時代から劇団所属、環境イラストのバイト時代までは、60色セットの水彩色鉛筆をよく使っていた。
 今現在、入手し易く使いやすいのは、例えば以下のものになると思う。


●ステッドラー 水彩色鉛筆 カラトアクェレル60色

 注文仕事を請ける場合は色数が必要だが、自分で好きに描くなら60色は必要ないかもしれない。
 24色や36色セットから初め、好みの色を探っていくのがお勧め。

 子供に買い与えるなら水彩タイプでなくとも、スタンダードなトンボや三菱の色鉛筆がやっぱり良い。
 お手頃価格で品質も十分、近所で各色バラ売りまで手に入るだろうから、非常に使いやすい。
 24色以上のセットなら、大人の使用にも十分耐えると思う。
 水に溶かす必要がなく、何から選んだらよいかわからないなら、このあたりから手に取ってみるのがお勧め。


●トンボ鉛筆 色鉛筆 24色
●三菱鉛筆 色鉛筆 880 24色

 色鉛筆については、子供に買い与える場合でも、決して百均のものに手を出してはいけない。

【水彩絵の具】
 普段使いのスケッチ用ということであれば、私は今でもサクラクレパスのマット水彩を使っている。
 最近の小学生向けには、軟らかめに解いたサイズの大きなポリチューブタイプがスタンダードになっているが、昔懐かしの硬めの濃度のものも「ラミネートタイプ」として売られている。
 大人向けにはやっぱりこちらだ。


●サクラクレパス 絵の具 マット水彩 ラミネート 24色
 紫系など、混色では綺麗に出ない色もあるので、24色以上がお勧めだ。
 あらかじめ各色をパレットに出しておき、固形絵の具のように使えば、野外スケッチにも対応できる。

 水彩絵具も、百均のものは×。

 このように、私がお勧めするのは特別な画材ではなく、「お手頃価格で十分な品質」のプレーンなものになってくる。
posted by 九郎 at 22:05| Comment(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする

2017年08月05日

アナログとデジタルについての覚書

 なんだかんだで、CGをはじめてからそろそろ15年近くなった。
 立ち上がりは遅いが一旦はじめるとのめり込む性分である。
 半端なことは気にくわないので、絵を描くのにPCを導入してからは、下描きから着色仕上げまで全てPC上でやる手法をメインにしてきた。
 デジタルで絵を描くことのメリットは数多い。
 思い付くままに挙げてみよう。

・アナログ画材と比べ、相対的にはコストが安い。
・画材の準備と片付けの手間がないので、作業の中断、再開が容易。
・修正、編集が容易。
・複製(ネットへのアップ、印刷向けの画質調整)が容易。
・作品はデータなので保管にスペースをとらない。

 ただ、メリットはそのままデメリットにも裏返りやすい。

・コストがかからず、作業の中断、再開、修正が容易なので、製作に緊張感が薄れやすい。
・CG向けの手法を採ると、誰でも似たような作風になりやすい。
・実体としての作品が残らず、データが飛ぶリスクは大きい。

 個人的には、デジタルは「編集」に向いていると思う。
 面として色を塗るのには向いているが、描線の精度はまだまだ低い。
 漫画家やイラストレーターでも、線画まではアナログでやる人は数多い。
 私もアイデアスケッチや線画については、やはりアナログに回帰しつつある。

 CGと並行して、今でもアナログで最後まで仕上げる絵も描くが、「せっかくアナログで描くなら」と思うことがいくつかある。

【せっかくアナログで描くなら】
・それなりに大きなサイズで描きたい。
・絵の具を塗り重ねた厚みのある表現がしたい。
・デジタルで描いた多くの作品の中から、「これはぜひアナログで追求したい」と立ち上がってきたテーマについて、手掛けたい。

 これはいずれ描きたいと願っている、大きなサイズのマンダラについても、もちろん適用される。
 マンダラ、何を観たいか描きたいか

 絵描きのハシクレで、写実デッサンがそこそこできて、CGにも手を出しているので、たまに中高生から相談を受ける。
 ま、近所の便利屋ですわ(笑)

 美術系受験の写実デッサンについては、以前まとめて記事にした。
 デッサンと見取り稽古

 中高生から美術系受験ではなく、漫画やイラストの技術的な相談を受けた場合、まずこう答える。
「鉛筆画とペン画は全く違うから、モノクロのペン画が上達したければ、下描き無しでペンで直接ラクガキする習慣をつけましょう」
 それができていれば次にこう答える。 
「好きで得意なキャラはいくらでも描けるだろうから、それを出発点にして、全年齢・性別の人物、小道具、背景など、自分の絵柄で描ける範囲をじわじわ広げ、できれば全宇宙のカバーを目指しましょう」
 絵が一通り描けるなら、さらにこう答える。
「漫画だけ読んで目新しいストーリーが作れるのは天才だけだから、漫画以外の文学、美術、音楽など、貪欲に吸収し、色んな体験も積み、自分なりのテーマを見つけましょう。大学進学もバイトも就職も、全部修行になります」

 加えて最近は、自分のPCを持っている中高生も多いので、CGについての相談を受けることもある。
 本音をぶっちゃけると、
「中高生風情がCGなど十年早いわ!! まず手描きを極めろ!!!」
 と一喝したくなるのだが、そこは時代の流れに迎合し、ひきつった微笑みを浮かべつつ、
「う〜ん、CGと言っても、基本はアナログ画材がPCに置き換わるだけだから、ある程度手描きができてからでないと、楽しくなくて続かないよ」
 などと、かなりマイルドな言葉に変換してしゃべる。
 手描き修行を疎かにしてCGを始めてしまうと、大したことのない元絵でもそれなりに雰囲気のある仕上がりに「編集」できてしまうので、それで絵が上手くなったと錯覚してしまうこともあるのだ。
 ただ、CGの設備投資は、アナログ画材に比べると安上がりなので、彩色をデジタルで行うのはアリだろう。
 また、若いうちからネットに作品をアップし、(叩かれることも含めて)刺激を受けるのは悪いことではない。

 漫画イラストで、線画がある程度描けて、編集や彩色をPCでやりたいという場合は、次のように勧める。
「ペンタブレットを買うなら、面積は狭くていいから、筆圧感知のしっかりしたものにした方がいい」
 具体的な銘柄まで書くと、まあワコムのIntuosシリーズの中から、予算と好みに応じて選ぶことになると思う。



 ペンタブレット(略してペンタブ)は、簡単に言えばペン型のマウスで、筆圧まで関知できるタブレット上にペン型で描画することによって、PCモニターの中で直接絵が描けるようにするためのツールだ。
 当然、タブレットの面積が広いほど価格が高くなるが、広くて高価だからと言って一概に「描きやすい」とは限らないところが要注意である。
 私の用途、好みで言えば、Sサイズでも十分、Mサイズより大きくなると、むしろ使いづらいと感じる。
 中高生ならまずはSサイズで良いと思う。

 せっかく小遣いをはたいて買ったなら、後は使い倒して慣れることだ。
 お勧めなのは、日常のPC操作の全てを、マウスの代わりにペンタブでやってしまうこと。
 モニター上のカーソルと、タブレット上のペンの動きが噛み合って、自然に操作できるようになれば、絵を描くのにも不自由はなくなる。
 若い者なら一週間ほど特訓すれば、すぐ慣れるだろう。

 まあ、いくら操作に慣れても、手描き以上の実力にはならんのですけどね。。。
 健闘を祈る!!!!
posted by 九郎 at 21:01| Comment(0) | 妄想絵画論 | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

マンガ「はだしのゲン」関連記事集成

 本日は8月6日。
 第二次大戦中、アメリカによって広島に原爆が投下され、何の罪もない非戦闘員が大量虐殺された日である。
 核という最悪の兵器が、非戦闘員の大量虐殺を目的に実際に使用されたのは、今のところ人類史上で日本の広島と長崎のみ。
 しかし核兵器自体は性能を格段に向上させながら、世界中に拡散し続けている。

 毎年この時期になると、当ブログで何度か投稿してきたマンガ「はだしのゲン」関連記事へのアクセスが延びる。
 これまでの関連記事を再編したまとめを、再浮上させておきたい。
 
 
 マンガ「はだしのゲン」の作者である中沢啓治さんは、2012年にお亡くなりになってしまった。
 その何年も前から、視力が弱っていてもう漫画は描けなくなっていたことは知っていた。
 だから長らく構想中だった「はだしのゲン」の第二部、東京編がついに描かれなかったことについては、覚悟はできていた。
 それにしても、子供の頃から読み耽ってきたマンガの作者の訃報を耳にすると、強いショックは感じた。
 
 よく言われることだが、「はだしのゲン」は、作品の周囲にまとわりつく政治性によって毀誉褒貶の激しい漫画だったが、そんな雑音を超えて読み継がれるべき価値のある名作だった。
 ここに紹介されている呉智英の「不条理な運命に抗して」と言う一文に、そのことは的確に表現されている。
 以下、一部引用。
  
 私は他の場所で書いたことがある。「はだしのゲン」は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だと。
 二種類の政治屋とは、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。


 私も作品内に一部含まれる「政治性」は、描かれた時点の「時代の空気」みたいなものであって、そこを云々することに大した意味は無いと考えている。
 それはたとえば平安時代の文学作品に対して「方位や日時の吉凶を気にしてばかりいるのは誤った迷信である」などと批判することが無意味であるのと同様だ。
 この作品の凄みは、作者自身が実体験として潜り抜けてきた、戦中の軍国主義や原爆の惨禍、そして国が「国民の生命と生活を守る」という正統性を失った戦後の混乱期の描写が、どれも間違いなく「本物」としての質量を備えているということにあり、その点において空前絶後の漫画作品なのだ。
 それも、現実の悲惨さのみを強調するのではなく、生きるためなら罪を犯すこともいとわず、あくまで明るく「ガハハ」と笑いながら戦中戦後を駆け抜ける爽快さがあり、「生きのびる」ということに対する大肯定があるところが凄いのである。
 こうした爽快さがあってこそ、昨今の「サヨク排斥」の風潮が強いネット掲示板の中においてすら、「はだしのゲン」は根強い人気で年若い読者の心をいまだにつかみ続けているのである。

 私はネットをはじめてそろそろ十五年になろうとしているけれども、その最初期に某巨大掲示板の「はだしのゲン」テーマのスレッドを読み、そのあまりのカオスぶりにのけぞってしまった記憶がある。
 何しろ書き込みの大半が広島弁で、無意味に「ギギギ…」とか「ラララ…」とか「ラわーん」とか「くやしいのう、くやしいのう」「おどりゃ、クソ森!」などのレスが連なり、それでも作品への愛情に満ちていて、たまに訪れるネット右翼的な荒らしに対しても「きたえかたがちがうわい!」と余裕の対応を返す、素晴らしすぎる雰囲気だった。
 そうしたネット住人の「悪乗りも含めた作品への愛情」は、「はだしのゲン」の公式サイトにも濃縮されて刻み込まれている。
 子供の頃、一度でも読んだことのある人なら抱腹絶倒まちがいなしの、異常な公式サイトである。
 もう一度書くけど、これ、ファンサイトじゃなくて「公式」ですよ!
 中でも、「はだしのゲン」のあらすじをAAで再現し尽くした「はだしのゲソ」は感動モノとしか言いようがない。
 作者である中沢啓治さんは作中のゲンのイメージそのままに、組織嫌いで頑固な一匹オオカミであったが、ファンに対しては限りなく寛容だったのだ。
 
 結局「はだしのゲン」は戦後の広島編までが描かれ、生き残ったゲン、隆太、勝子それぞれが東京に旅立つシーンで完結となった。
 もし続きが描かれたとしたら、ゲンはおそらくこの後も様々な苦難に遭遇しながらも、絵描きとして身を立てていったことだろう。
 少し心配なのが、隆太だ。
 願わくば、再びヤクザの鉄砲玉になってしまっていませんように……
 隆太なら、戦後広島編でも才能を発揮していた「啖呵売」の腕がある。
 あの才能があれば、たとえば葛飾柴又あたりのテキ屋の親分さんに見出されるかもしれないし、年代的には寅さんとも面識ができていたりするかもしれない。
 そんな妄想とともに、中沢先生の死を悼んだことを覚えている。

 マンガ「はだしのゲン」と、その関連書籍の主なものは以下の通り。

●「はだしのゲン」汐文社版
 他の版は表現に一部修正があるそうなので、「昔読んだものをもう一度読みたい」という場合はこれ。
●「はだしのゲン自伝」
 著者中沢啓治の自伝。「はだしのゲン」は、事実そのものではないものの、元々著者の自伝的な作品なので、描かれなかった続編をあれこれ想像するヒントがここにある。
●「絵本はだしのゲン」
 マンガ版を元に、原爆投下前後をフルカラーで再現した取扱注意な一冊。

 昔は学級文庫にも「ゲン」や「カムイ伝」などの強烈な作品が置かれていたものだが、今はもうそんなことはないのだろうなあ……
 広島の原爆資料館のマネキン人形も撤去されたと聞く。
 3.11後の日本で、今後ますます大切になってくる作品だと思うのである。
 
 この時期になると、コンビニに漫画「はだしのゲン」の廉価版がよく並んでいた。
 かなり以前から恒例化していて、確か刊行されていない年もあったと思うのだが、ほぼ毎年店頭にあった。
 昔の「週刊少年ジャンプ」掲載分の「第一部」のみが集英社から刊行されることが多かったが、続編に当たる「第二部」も中公から廉価版で出されていた年もあった。
 今年はまだ見ていないが、そろそろ棚に並ぶかもしれない。

 何年か前、学校や図書館からの排斥運動が起こったりもしているけれども、何か騒ぎが起きる度に注目が集まり、逆に本は売れ、読者は増え続けている。
 世の中にはいじればいじるほどでかくなる不死身の怪物が存在する。(やや下ネタでスマン)
 漫画「はだしのゲン」もまさにそうした生命力をもつ怪物で、焚書しようと下手に手を出せば、必ず逆効果になる。 

 色々と議論はあっても、作品が数十年にわたって読み継がれるのには理由がある
 単純に、漫画としてむちゃくちゃ面白いのだ。

 反戦反核の内容であるということは、読み継がれている理由の一要素に過ぎない。
 内容が「重要だ」という理由だけでは、多くの人はわざわざ作品を手にとったりしない。
 人は日々生きることに忙しく、いくら重要な事柄が描かれた作品であっても、その重要さだけを理由に鑑賞する意欲を持つのは、よほど真面目な人だけである。
 唯一「読んで面白い」という要素だけが、多くの読者の財布の紐を緩ませ、ページをめくる時間を割かせるのである。

 作者の中沢先生には、そのあたりのことがよく分かっていたのだろう。
 大切なことを描いているということ自体に寄りかからず、甘えず、漫画としての面白さを保持しながら、血を吐くような自信の思いを込めて作品を紡ぐという離れ業をやってのけたのだ。
 その背景にはおそらく、原爆が投下された地獄の広島を、誰にも頼らず生き抜いてきた経験があったことだろう。
 地べたを這いずる庶民の乾いたリアリズムが、作品の内容にも制作姿勢にも貫かれているからこそ、エンターテイメントとして優れた作品が生まれたのだ。

 出版不況の中、コンビニ版が毎年のように刊行されたのも、それだけの売り上げが見込めるということだろう。
 資本主義社会において「エンターテイメントとして優れている」「面白い」ということは最強なのだ。
 売れる本は時代を超えて刊行され続け、いくら内容が良くても売れない本は消えていく。
 
 原爆地獄の広島で、家族や友人たちを虐殺され続けたかつての少年が、その怨念を背負ってたった一人、ペンをとった。
 単身、人類最強兵器や超大国に喧嘩を売ったのだ。
 戦時中の爆撃機VS竹槍どころではない、核兵器VSペンなのだ。
 まともに考えれば勝てるわけがないのである。
 事実、作者が希求した核廃絶への道のりはまだまだ遠い。
 核抑止論という極めて原始的なパワーバランスの在り方は、原始的であるだけに、突き崩すことは容易ではない。
 世界中の頭脳が知恵を結集しても、いまだこの野蛮な理屈をひっくり返せていない。
 それでも、「はだしのゲン」は世界中で読み継がれている。
 野蛮な最強兵器の存在に、ほんの一矢でも反撃し得ているのが、知識人の言説などではなく、一匹狼気質の被爆者が描いた「たかがポンチ絵」なのだ。
 これを「奇跡の善戦」と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
 野蛮で巨大な力に対抗できるのは、こちらも原始的な、虐殺された側の「怨」の一念という情動しかないのである。
 
 およそ勝てるはずのない喧嘩を売って、けっこう戦えてしまっている男を見たとき、たとえその男の政治的発言に考えの違うところがあったとしても、私の美意識では「およばずながら助太刀いたす」と呟くのが正しい。
 義侠心とか大和魂とか武士道とか、呼び方はなんでもかまわないのだが、腹をくくって戦いを挑む男を後ろから切りつけるような真似は美しくないのである。

 助太刀と言っても、せいぜいマイナーなブログで本を紹介し、自分でもコンビニ版を購入して再読するくらいしかできないのがなんとも歯がゆいのであるが。

 ともかく、「はだしのゲン」をもっと世界に!
posted by 九郎 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2017年08月07日

70年代の叫び

 今、カルメン・マキの歌声をヘビーローテーションで聴いている。
 

●ベスト・オブ・カルメン・マキ&OZ

 カルメン・マキ&OZの活動期、私は完全に子供だったので視界に入っていなかった。
 その後も、好きなアーティストの何人かが影響を受けた「原典」らしいという知識はあった。
 2000年代に入ってから、古武術の甲野善紀さん、精神科医の名越康文さんとともに対談している本を手に取った。


●「スプリット―存在をめぐるまなざし歌手と武術家と精神科医の出会い」
 カルメン・マキ、甲野善紀、名越康文(新曜社)

 その本を読んでから俄然興味が出てきて、また70年代の音楽自体が好みだったこともあり、上掲のCDを入手した。
 以来、何年かに一度のペースで聴き込む時期を持っている。
 今回ハマっているのは、70年代あたりの終末ブーム関連の覚書を記しているためだ。
 時代の空気を再現するには「音」が大きな力を発揮する。
 日本の女性ロックボーカルの元祖の、切り裂くような叫び声。
 本物のシャウトを聴きながら、ぼちぼちと過去を振り返っている。 
posted by 九郎 at 23:50| Comment(0) | カミノオトズレ | 更新情報をチェックする

2017年08月08日

「終末後」のサブカル1

 70年代、終末ブームの世相の影響を受けながら、また逆にそうした世相を醸成する要素の一つとして、サブカルチャーの世界でも「世界の終末」を描く作品が数多く制作された。
 少年マンガも例外ではなく、アニメや特撮等のTV番組と連動するヒット作にも、終末感をベースにしたものが多くあった。

 終末サブカルチャー

 そうしたサブカルチャーの動向にリアリティを与えていたのは、他ならぬ現実世界の諸課題だった。
 東西冷戦、歯止めなく拡散する核兵器、公害の惨禍等は、若者が生真面目に考えれば考えるほど「人間はもうお終まいだ」という絶望感に結びつきやすかった。
 終末ブーム自体は、間欠泉のように時代を超えて吹き出すもので、歴史上いくらでも繰り返されている。
 20世紀末のそれに特色があったとすれば、天変地異による「神様まかせ」の滅亡ではなく、科学技術の発達による「人為的な滅亡」が、空想ではなく実際に可能になったという点だ。
21世紀を待たずにこの世は終わる……
 70年代の空気を体感した少年少女で、目前に迫った終末を真に受けるというほどではなくとも、「そういうこともありそうだ」と思っていた割合は、かなり多かったのではないだろうか。
 実を言えば私も、そんな子供の中の一人だった。

 漠然としたものであるにせよ、そうした「終末感」はいずれかの時点で克服されなければならない。
 現実世界に存在する危機、社会不安が解消されればそれが一番の特効薬だ。
 しかしそうした「大きな課題」というものは、実際には社会全体が長い時間をかけて一つ一つ解決していく他ない。
 若者の眼には「遅すぎる」と映るそのペースは、終末感をより深めることにもなっただろう。
 現実の社会の遅々とした歩みに堪え、矛盾に堪え、平凡な日常を淡々とこなすためのある種の「鈍さ」こそが、終末感克服の鍵になる。

 70年代当時から、世に溢れる「終末予言」の類に対する、常識的な批判はもちろんあった。
 ノストラダムスの予言とされているものは、かなり恣意的な解釈によるものが多いことはかなり早期から指摘されていたが、そうした批判はあまり広まらなかった。
 身もふたもない言い方をすれば、批判対象である予言本の類より「おはなしとしての面白さ」で劣っていたのだ。
 現に存在する危機や不安を解消することなく、そのリアクションとしての終末感だけを打ち消すことは困難で、そこに終末思想をベースにしたカルトの生まれる土壌があった。

 現実からは一旦切り離し、あくまでサブカルチャーの範囲内でのことだが、作り手と受け手の間では、いくつかのパターンの「終末」の克服の仕方はあった。
 一つは、終末を描く作品がブームに乗って乱造されることで陳腐化し、読む方が食傷してしまうというパターンである。
 滅びの物語が商業ペースで数限りなく繰り返されることで、マンネリギャグのような感覚まで至ってしまえば、それはそれで克服の一つの形だった。

 もう一つは、カタストロフ自体は不可避であると仮定し、「その先」を描くことで希望を見出そうとするパターンだ。
 これは既に70年代には何人かの先進的な作者が試行し始めており、80年代に本格化した。
 80年代サブカルチャーの主流は、「終末後の世界」を描くことにあったと言っても良いだろう。

 そしてもう一つ、サブカルチャーの作品内で「本気で終末を回避する」ことを目指すパターンもあった。

 80年代、今でいうところの「中二病」真っ盛りであった私が、同時代で体感してきた「終末後のサブカル」について、覚書にしておきたいと思う。
(続く)
posted by 九郎 at 20:58| Comment(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年08月09日

「終末後」のサブカル2

 70年代以降、作品テーマが「終末」から「終末後」へと移行する先進的な例としては、やはり永井豪の一連の作品を挙げなければならない。

 永井豪の出世作とされているのが68年〜72年まで連載された「ハレンチ学園」だ。
 掲載誌は当時新興の週刊少年ジャンプで、この作品のヒットにより、雑誌の人気も定着している。
 当時の少年誌としては「過激」なエロ描写を導入したギャグ作品で、永井豪は「先鋭的なギャグ漫画家」、「週刊少年ジャンプの立役者」として、まずは地歩を築いたのだ。
 今の眼で見るとなんということもないエロ描写も、表現の開拓時代には激しい批判にさらされた。
 各地の教育委員会やPTAから目の敵にされ、焚書に近い扱いも受けたという。
 そうした「魔女狩り」にも似たヒステリックな排斥運動は作品にも反映され、作中の「ハレンチ大戦争編」では、排斥側とレギュラーキャラが激しい殺し合いを演じるまでにエスカレートした。
 他愛のないギャグで始まった作品が、一種の「終末」を描く展開へと暴走したのだ。

 ヒット作「ハレンチ学園」に続くのが、73年から週刊少年マガジン連載、日本マンガ史上最大級の問題作「デビルマン」である。
 ギャグ作家としての実績を足掛かりに、この時期からの永井豪は本来志向していたSF作品に傾斜していく。
 テーマがシリアスになり、作画密度が濃くなっていくにつれ、作品で描かれる「終末感」は、さらに強烈に研ぎ澄まされていった。
 前作「ハレンチ学園」でのエロ描写に続き、「デビルマン」ではアメコミ調の筋肉描写、血がしぶき肉が引き裂かれる激しいバイオレンス描写が導入された。
 永井豪は、少年誌における性と暴力の表現の開拓者であったのだ。
 連載時の「デビルマン」は、必ずしも大ヒットした作品とは言えなかったが、後のエンタメ作品に与えた影響は計り知れない。
 現代から近未来を舞台にしながら、神や悪魔や妖怪、科学技術と呪術が混在する「伝奇SF」の世界観は、以後エンタメの一大ジャンルとして成長することになる。

 完膚なきまでに世界を滅亡させた「デビルマン」完結直後、その破滅の風景を引き継ぐように執筆開始されたのが「バイオレンスジャック」だった。
 73年から週刊少年マガジンで連載が開始されたこの作品は、巨大地震で破壊され、隔絶され、戦国時代さながらの無法地帯と化した関東を舞台とする。
 弱肉強食の荒野に忽然と現れた謎の巨人・バイオレンスジャックと、怪異な鎧を身にまとう魔王・スラムキング、そして懸命のサバイバルを続ける孤児集団の少年リーダー・逞馬竜を軸に、野望と絶望、希望渦巻く物語は展開されていく。
 今でこそ「近未来の破壊された無法地帯」という舞台設定は描き尽された感があるが、「バイオレンスジャック」は世界的に見てもかなり発表時期が早かった。
 74年に週刊連載終了後、月刊少年マガジンで77年〜78年まで連載された本作は、続く80年代、奔流のように描かれるようになった「終末後」という作品テーマの嚆矢となったのである。

 70年代の永井豪は、まさに神か悪魔が取り憑いているとしか思えないような「全盛期」にあった。
 当ブログで触れてきた「ハレンチ学園」「デビルマン」「マジンガーZ」「バイオレンスジャック」以外にも、「オモライくん」「キューティーハニー」「手天童子」「凄ノ王」等々、ここにはとても書ききれないほど、マンガ史に残る傑作の数々を集中的に執筆している。

 怒涛の70年代を通過した後の83年、永井豪は「バイオレンスジャック」の掲載誌を青年誌「週刊漫画ゴラク」に移し、再開させた。
 読者の間口の広さと引き換えに表現に制約の多い少年誌を離脱し、性と暴力の描写を存分に叩き込める場を得て、作品世界はビッグバンのような膨張を遂げた。
 永井豪の作品世界の80年代時点での集大成、最長編の大河ドラマとして、90年まで描き続けられることになった。
 それは、バイオレンスアクションであり、SFであり、神話であり、作者の内宇宙を反映したメタフィクションであり、破滅に終わった「デビルマン」への、長大な鎮魂歌でもあったのだ。

 バイオレンスジャックの世界には、「終末後」というテーマでは避けて通れない、注目すべきいくつかの「暗示」があった。

世界が破壊されても、それで全てが終るわけではない。
 カタストロフの後も、なお生き延びる人はある。
 壊れた世界には、虚飾を排した解放感はある。
 しかしそこは、むき出しの本能、むき出しの暴力が支配する阿修羅の世界である。
 それでも人は、その世界で強く生き抜かなければならない。
(続く)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2017年08月11日

武蔵の大踊り

 そろそろお盆進行。
 毎年この時期になると思い出す、ある盆踊りがある。
 もう二十年以上前、熊野遍路のまねごとを始めたばかりの頃、たまたま通りかかった山村で出くわした盆踊りだ。

 大和や熊野の山々の更に奥、奈良県十津川村に「武蔵」という小さな山村がある。
 そこで行われた「大踊り」がそれだった。
 今は使われていない小さな小さな学校校庭の会場、集まった人々が両手に扇を持ち、櫓の周りを「廻らない」不思議な踊り。
 昔描いたスケッチに少し着色してアップしておこう。

gen-13.jpg


 山村の夜景も、集まった人数も、会場も、全てがこじんまりした「小さな世界」なのに、みっしりと歴史や文化が詰まった感じの、素晴らしい盆踊りだった。
 修行と称してよく熊野の山奥を歩き回った私とは言え、本来縁もゆかりも無い土地の盆踊りなのに、なぜか子供の頃のことを懐かしく思い出してしまう、夢のような体験だった。

 いつの日か、ぜひもう一度行ってみたい。
posted by 九郎 at 00:53| Comment(0) | 熊野 | 更新情報をチェックする