2017年08月06日

マンガ「はだしのゲン」関連記事集成

 本日は8月6日。
 第二次大戦中、アメリカによって広島に原爆が投下され、何の罪もない非戦闘員が大量虐殺された日である。
 核という最悪の兵器が、非戦闘員の大量虐殺を目的に実際に使用されたのは、今のところ人類史上で日本の広島と長崎のみ。
 しかし核兵器自体は性能を格段に向上させながら、世界中に拡散し続けている。

 毎年この時期になると、当ブログで何度か投稿してきたマンガ「はだしのゲン」関連記事へのアクセスが延びる。
 これまでの関連記事を再編したまとめを、再浮上させておきたい。
 
 
 マンガ「はだしのゲン」の作者である中沢啓治さんは、2012年にお亡くなりになってしまった。
 その何年も前から、視力が弱っていてもう漫画は描けなくなっていたことは知っていた。
 だから長らく構想中だった「はだしのゲン」の第二部、東京編がついに描かれなかったことについては、覚悟はできていた。
 それにしても、子供の頃から読み耽ってきたマンガの作者の訃報を耳にすると、強いショックは感じた。
 
 よく言われることだが、「はだしのゲン」は、作品の周囲にまとわりつく政治性によって毀誉褒貶の激しい漫画だったが、そんな雑音を超えて読み継がれるべき価値のある名作だった。
 ここに紹介されている呉智英の「不条理な運命に抗して」と言う一文に、そのことは的確に表現されている。
 以下、一部引用。
  
 私は他の場所で書いたことがある。「はだしのゲン」は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だと。
 二種類の政治屋とは、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。


 私も作品内に一部含まれる「政治性」は、描かれた時点の「時代の空気」みたいなものであって、そこを云々することに大した意味は無いと考えている。
 それはたとえば平安時代の文学作品に対して「方位や日時の吉凶を気にしてばかりいるのは誤った迷信である」などと批判することが無意味であるのと同様だ。
 この作品の凄みは、作者自身が実体験として潜り抜けてきた、戦中の軍国主義や原爆の惨禍、そして国が「国民の生命と生活を守る」という正統性を失った戦後の混乱期の描写が、どれも間違いなく「本物」としての質量を備えているということにあり、その点において空前絶後の漫画作品なのだ。
 それも、現実の悲惨さのみを強調するのではなく、生きるためなら罪を犯すこともいとわず、あくまで明るく「ガハハ」と笑いながら戦中戦後を駆け抜ける爽快さがあり、「生きのびる」ということに対する大肯定があるところが凄いのである。
 こうした爽快さがあってこそ、昨今の「サヨク排斥」の風潮が強いネット掲示板の中においてすら、「はだしのゲン」は根強い人気で年若い読者の心をいまだにつかみ続けているのである。

 私はネットをはじめてそろそろ十五年になろうとしているけれども、その最初期に某巨大掲示板の「はだしのゲン」テーマのスレッドを読み、そのあまりのカオスぶりにのけぞってしまった記憶がある。
 何しろ書き込みの大半が広島弁で、無意味に「ギギギ…」とか「ラララ…」とか「ラわーん」とか「くやしいのう、くやしいのう」「おどりゃ、クソ森!」などのレスが連なり、それでも作品への愛情に満ちていて、たまに訪れるネット右翼的な荒らしに対しても「きたえかたがちがうわい!」と余裕の対応を返す、素晴らしすぎる雰囲気だった。
 そうしたネット住人の「悪乗りも含めた作品への愛情」は、「はだしのゲン」の公式サイトにも濃縮されて刻み込まれている。
 子供の頃、一度でも読んだことのある人なら抱腹絶倒まちがいなしの、異常な公式サイトである。
 もう一度書くけど、これ、ファンサイトじゃなくて「公式」ですよ!
 中でも、「はだしのゲン」のあらすじをAAで再現し尽くした「はだしのゲソ」は感動モノとしか言いようがない。
 作者である中沢啓治さんは作中のゲンのイメージそのままに、組織嫌いで頑固な一匹オオカミであったが、ファンに対しては限りなく寛容だったのだ。
 
 結局「はだしのゲン」は戦後の広島編までが描かれ、生き残ったゲン、隆太、勝子それぞれが東京に旅立つシーンで完結となった。
 もし続きが描かれたとしたら、ゲンはおそらくこの後も様々な苦難に遭遇しながらも、絵描きとして身を立てていったことだろう。
 少し心配なのが、隆太だ。
 願わくば、再びヤクザの鉄砲玉になってしまっていませんように……
 隆太なら、戦後広島編でも才能を発揮していた「啖呵売」の腕がある。
 あの才能があれば、たとえば葛飾柴又あたりのテキ屋の親分さんに見出されるかもしれないし、年代的には寅さんとも面識ができていたりするかもしれない。
 そんな妄想とともに、中沢先生の死を悼んだことを覚えている。

 マンガ「はだしのゲン」と、その関連書籍の主なものは以下の通り。

●「はだしのゲン」汐文社版
 他の版は表現に一部修正があるそうなので、「昔読んだものをもう一度読みたい」という場合はこれ。
●「はだしのゲン自伝」
 著者中沢啓治の自伝。「はだしのゲン」は、事実そのものではないものの、元々著者の自伝的な作品なので、描かれなかった続編をあれこれ想像するヒントがここにある。
●「絵本はだしのゲン」
 マンガ版を元に、原爆投下前後をフルカラーで再現した取扱注意な一冊。

 昔は学級文庫にも「ゲン」や「カムイ伝」などの強烈な作品が置かれていたものだが、今はもうそんなことはないのだろうなあ……
 広島の原爆資料館のマネキン人形も撤去されたと聞く。
 3.11後の日本で、今後ますます大切になってくる作品だと思うのである。
 
 この時期になると、コンビニに漫画「はだしのゲン」の廉価版がよく並んでいた。
 かなり以前から恒例化していて、確か刊行されていない年もあったと思うのだが、ほぼ毎年店頭にあった。
 昔の「週刊少年ジャンプ」掲載分の「第一部」のみが集英社から刊行されることが多かったが、続編に当たる「第二部」も中公から廉価版で出されていた年もあった。
 今年はまだ見ていないが、そろそろ棚に並ぶかもしれない。

 何年か前、学校や図書館からの排斥運動が起こったりもしているけれども、何か騒ぎが起きる度に注目が集まり、逆に本は売れ、読者は増え続けている。
 世の中にはいじればいじるほどでかくなる不死身の怪物が存在する。(やや下ネタでスマン)
 漫画「はだしのゲン」もまさにそうした生命力をもつ怪物で、焚書しようと下手に手を出せば、必ず逆効果になる。 

 色々と議論はあっても、作品が数十年にわたって読み継がれるのには理由がある
 単純に、漫画としてむちゃくちゃ面白いのだ。

 反戦反核の内容であるということは、読み継がれている理由の一要素に過ぎない。
 内容が「重要だ」という理由だけでは、多くの人はわざわざ作品を手にとったりしない。
 人は日々生きることに忙しく、いくら重要な事柄が描かれた作品であっても、その重要さだけを理由に鑑賞する意欲を持つのは、よほど真面目な人だけである。
 唯一「読んで面白い」という要素だけが、多くの読者の財布の紐を緩ませ、ページをめくる時間を割かせるのである。

 作者の中沢先生には、そのあたりのことがよく分かっていたのだろう。
 大切なことを描いているということ自体に寄りかからず、甘えず、漫画としての面白さを保持しながら、血を吐くような自信の思いを込めて作品を紡ぐという離れ業をやってのけたのだ。
 その背景にはおそらく、原爆が投下された地獄の広島を、誰にも頼らず生き抜いてきた経験があったことだろう。
 地べたを這いずる庶民の乾いたリアリズムが、作品の内容にも制作姿勢にも貫かれているからこそ、エンターテイメントとして優れた作品が生まれたのだ。

 出版不況の中、コンビニ版が毎年のように刊行されたのも、それだけの売り上げが見込めるということだろう。
 資本主義社会において「エンターテイメントとして優れている」「面白い」ということは最強なのだ。
 売れる本は時代を超えて刊行され続け、いくら内容が良くても売れない本は消えていく。
 
 原爆地獄の広島で、家族や友人たちを虐殺され続けたかつての少年が、その怨念を背負ってたった一人、ペンをとった。
 単身、人類最強兵器や超大国に喧嘩を売ったのだ。
 戦時中の爆撃機VS竹槍どころではない、核兵器VSペンなのだ。
 まともに考えれば勝てるわけがないのである。
 事実、作者が希求した核廃絶への道のりはまだまだ遠い。
 核抑止論という極めて原始的なパワーバランスの在り方は、原始的であるだけに、突き崩すことは容易ではない。
 世界中の頭脳が知恵を結集しても、いまだこの野蛮な理屈をひっくり返せていない。
 それでも、「はだしのゲン」は世界中で読み継がれている。
 野蛮な最強兵器の存在に、ほんの一矢でも反撃し得ているのが、知識人の言説などではなく、一匹狼気質の被爆者が描いた「たかがポンチ絵」なのだ。
 これを「奇跡の善戦」と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
 野蛮で巨大な力に対抗できるのは、こちらも原始的な、虐殺された側の「怨」の一念という情動しかないのである。
 
 およそ勝てるはずのない喧嘩を売って、けっこう戦えてしまっている男を見たとき、たとえその男の政治的発言に考えの違うところがあったとしても、私の美意識では「およばずながら助太刀いたす」と呟くのが正しい。
 義侠心とか大和魂とか武士道とか、呼び方はなんでもかまわないのだが、腹をくくって戦いを挑む男を後ろから切りつけるような真似は美しくないのである。

 助太刀と言っても、せいぜいマイナーなブログで本を紹介し、自分でもコンビニ版を購入して再読するくらいしかできないのがなんとも歯がゆいのであるが。

 ともかく、「はだしのゲン」をもっと世界に!
posted by 九郎 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする