少年マンガも例外ではなく、アニメや特撮等のTV番組と連動するヒット作にも、終末感をベースにしたものが多くあった。
終末サブカルチャー
そうしたサブカルチャーの動向にリアリティを与えていたのは、他ならぬ現実世界の諸課題だった。
東西冷戦、歯止めなく拡散する核兵器、公害の惨禍等は、若者が生真面目に考えれば考えるほど「人間はもうお終まいだ」という絶望感に結びつきやすかった。
終末ブーム自体は、間欠泉のように時代を超えて吹き出すもので、歴史上いくらでも繰り返されている。
20世紀末のそれに特色があったとすれば、天変地異による「神様まかせ」の滅亡ではなく、科学技術の発達による「人為的な滅亡」が、空想ではなく実際に可能になったという点だ。
21世紀を待たずにこの世は終わる……
70年代の空気を体感した少年少女で、目前に迫った終末を真に受けるというほどではなくとも、「そういうこともありそうだ」と思っていた割合は、かなり多かったのではないだろうか。
実を言えば私も、そんな子供の中の一人だった。
漠然としたものであるにせよ、そうした「終末感」はいずれかの時点で克服されなければならない。
現実世界に存在する危機、社会不安が解消されればそれが一番の特効薬だ。
しかしそうした「大きな課題」というものは、実際には社会全体が長い時間をかけて一つ一つ解決していく他ない。
若者の眼には「遅すぎる」と映るそのペースは、終末感をより深めることにもなっただろう。
現実の社会の遅々とした歩みに堪え、矛盾に堪え、平凡な日常を淡々とこなすためのある種の「鈍さ」こそが、終末感克服の鍵になる。
70年代当時から、世に溢れる「終末予言」の類に対する、常識的な批判はもちろんあった。
ノストラダムスの予言とされているものは、かなり恣意的な解釈によるものが多いことはかなり早期から指摘されていたが、そうした批判はあまり広まらなかった。
身もふたもない言い方をすれば、批判対象である予言本の類より「おはなしとしての面白さ」で劣っていたのだ。
現に存在する危機や不安を解消することなく、そのリアクションとしての終末感だけを打ち消すことは困難で、そこに終末思想をベースにしたカルトの生まれる土壌があった。
現実からは一旦切り離し、あくまでサブカルチャーの範囲内でのことだが、作り手と受け手の間では、いくつかのパターンの「終末」の克服の仕方はあった。
一つは、終末を描く作品がブームに乗って乱造されることで陳腐化し、読む方が食傷してしまうというパターンである。
滅びの物語が商業ペースで数限りなく繰り返されることで、マンネリギャグのような感覚まで至ってしまえば、それはそれで克服の一つの形だった。
もう一つは、カタストロフ自体は不可避であると仮定し、「その先」を描くことで希望を見出そうとするパターンだ。
これは既に70年代には何人かの先進的な作者が試行し始めており、80年代に本格化した。
80年代サブカルチャーの主流は、「終末後の世界」を描くことにあったと言っても良いだろう。
そしてもう一つ、サブカルチャーの作品内で「本気で終末を回避する」ことを目指すパターンもあった。
80年代、今でいうところの「中二病」真っ盛りであった私が、同時代で体感してきた「終末後のサブカル」について、覚書にしておきたいと思う。
(続く)