2017年09月23日

めぐる輪廻のモノローグ1

 このカテゴリ:あの世では、まず死後四十九日間の「中陰」の期間について、仏教の和讃を軸に絵解きしてきた。
 地味な「神仏与太話ブログ」の中では、検索などで比較的読まれているらしく、以前動画サイトにアップした「死出のブルース」も再生回数はぼちぼち伸びている。



 続いて「地獄」の絵解きに進むつもりだったのだが、諸事情で手を付けられないままに、時間だけが過ぎてしまっている。
 いずれ出発する予定の「地獄ツアー」の準備の一つとして、「あの世」や「生まれ変わり」についての雑想を、覚書として書き留めておきたいと思う。

 今年の秋のお彼岸の中日も過ぎようとしている。
 お盆や正月と並び、お彼岸は「あの世」について、なんとなく考える時期だ。
 とくに熱心な信仰を持っていなくとも、日本人はぼんやりとした「あの世」のイメージは持っている。
 最近はそうでもないが、以前はアニメ「サザエさん」にも、たまにあの世のイメージが描かれることがあった。
 波平と同じ顔をした「ご先祖さま」が、墓石や床の間にポワンと姿を現すシーンを記憶している人は多いのではないだろうか。
 あの雰囲気が日本人の思い描く「あの世」の、一つの典型を示しているのかもしれない。

 もう少しイメージスケッチを続けてみよう。
 亡くなった人の魂は、消滅することなく死出の旅路に入り、あの世へ行く。
 行きっぱなしではなく、盆と正月には家に帰ってくるし、それ以外の時でも仏壇やお墓を通して信可能だ。
 あの世がどこにあるのか、誰もはっきりとは知らない。
 山里ならお山の向こう、海辺なら海の彼方など、自分の思い入れの深い故郷の自然の「向こう」にあるらしいと、なんとなく受け止められている。
 あの世はさほどこの世と変わらないが、やや苦労が少なく、お花に包まれた美しい所だ。
 地獄や極楽はもちろんお話としては知っているが、自分や身内の死後、あまり「大層な」世界に行くとは考えにくい。
 よほどの悪人や飛び抜けた善人でない限り、大多数の人は死後「ほどほどに善いところ」に行き、のんびり暮らす。
 ただ、生前の行状により、「あの世」に至れるまでの期間には個人差が出る。
 行いの良くなかった者や、弔ってもらえない者、この世に執着を残した者などは、道に迷って到着に時間がかかる。
 そしてあの世に行った人は、いずれまたこの世に、たいていは子孫の誰かとして生まれ変わる……

 おおよそこんな感じの死生観を「なんとなく」描いている人は現代でも数多いだろう。
 似たような死生観は、世界中のアニミズム信仰で見られるので、日本人は仏教などの外来宗教を受け入れながらも、わりと古層の信仰を保ってきたのかもしれない。

 故郷の自然や親類縁者に囲まれていれば、死後の不安は相対的には少なくて済んだ。
 地縁血縁が残っていれば、いずれまたこの地に生まれ変わってくることができる。
 ところがその大前提が危機に瀕したことが日本史上何度かあった。
 たとえば中世の戦乱の時代だ。
 度重なる戦や飢饉で弔いきれない膨大な死者が出、里は荒れ果て、生き抜くためにやむなく罪を重ねる人が増えた。
 経済構造が変化し、自然から切り離された都市住民も激増した。
 古来の「あの世」観ではフォローしきれない、死後に不安を感じる膨大な人口が出現した。
 そのニーズにうまく合ったのが、一つには阿弥陀如来の西方極楽浄土だったのだろう。
 かの浄土はこの世の地理条件に縛られず、信じる者全てに解放されていた。
 故郷を遠く離れても、身寄りがなくても、罪を犯した悪人でも、阿弥陀様と向き合う自分の心次第で極楽に行くことができる。
 難行苦行は必要なく、ただ心を込めてその名をお呼びすれば、必ず手を差し伸べてくれる。
 今生きているこの世が地獄そのものの戦乱の時代にあって、浄土信仰が爆発的に広まったのは当然の成り行きだったのだろう。
 そして乱世が終り、人々が再び故郷に定着し、地縁血縁に囲まれるようになってからの浄土信仰は、じわじわ古層の「あの世」と習合し、見分けがつかないものになっていった。
 古い形の「あの世」がなんとなく了解されている時代というのは、ある意味平和で恵まれた時代なのかもしれず、それはそれで一つの在り方だ。
(続く)
posted by 九郎 at 23:52| Comment(0) | あの世 | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

めぐる輪廻のモノローグ2

 前回記事でざっとスケッチしてみたような日本の死生観は、それ自体はそんなに悪いものではないと思う。
 なんとなく素朴に包み込まれていられれば良いのだけれども、半端に近代化された意識では中々そうも素直に受けいれられない。
 私の中には原風景としての「山」や「里」はあるけれども、今はそこから遠く離れている。
 祖霊の世界である、のんびり平和な「あの世」の風景は、ちょっと退屈そうに感じてしまう。
 それはモノに飽和した現代人の、一つの「退廃」の顕れだろう。
 分かってはいるが、一旦そのような感覚になってしまえば、後戻りは容易ではない。

 死後の世界についての情報は、玉石混交で世に溢れている。
 特に一時期の私は、そのような情報を率先して渉猟していたので、人並み以上に頭でっかちになっている。
 素朴な民俗の世界から漕ぎだしてしまった今となっては、膨大な情報の海の中から、「ひとすくいの自分なりの納得」を見出す他、道はない。
 死後の世界や生まれ変わりについての考えは、他者の考えを鵜吞みにするのではなく、各人それぞれが死に至るまでに時間をかけて練り上げるもの――
 今はそのように思っている。
 だから、私の現時点での考え方を、モノローグとして書きとめている。

 あの世はこの世の写し鏡だ。
 のんびりした地域や時代にはのんびりしたあの世があるし、過酷な時代には過酷なあの世が生まれがちだ。
 現実が厳しいほど、「魂の不滅」を信じたくなる心情はよく分かる。
 人生がただ一回であるとすると、この世はあまりに理不尽だ。
 因果応報という言葉はあるが、この世だけ見ているととてもそうした法則が徹底しているとは思えない。
 弱い者は踏みにじられ、虫けらのように殺戮される。
 強い者は何不自由なく天寿を全うする。
 この世の司法は常に強者に味方する。
 せめて死後の世界では、公平な裁きがあってほしい。
 弱者の屍で栄華を築いた強者には、応分の責め苦があってほしい。
 踏みにじられた弱者には、来世の安息があってほしい――
 古代インドの六道輪廻という考え方は、そういう意味では納得しやすい。
 人の魂は不滅で、生前の行状により次の生の階梯が決定される。
 下は地獄、上は天上の神々の世界だ。
 良い行いを積めば上に昇り、悪い行いを積めば下に堕ちる。
 非常にすっきりした論理に貫かれていて、感覚的に納得しやすいのだ、こうした考え方は時代や地域を超えてリファインされる。
 新宗教の死生観も、用語は現代風になっているが、基本構造は古代バラモン教そのままという例は多い。

 曰く、肉体は滅びても魂は滅びない。
 曰く、良い魂は天上に昇り、悪い魂は地獄に堕ちる。
 曰く、この世は魂の修行の場である。
 曰く、無限の輪廻の中で人間として生まれた幸運に感謝し、修行に励め。
 曰く、魂を進化させ、宇宙の根源霊と合一せよ。

 正直言えば、私も年若い頃、そのような考え方に心惹かれていた時期があった。
 しかし忘れてはいけないのは、この考え方は差別を生みやすいということだ。
 インドの過酷なカーストを今も支えているのは輪廻転生の思想であるし、日本でも因果応報や輪廻と身分制を結びつけられ、社会的な差別が正当化されてきた歴史がある。
 仏教は本来、こうした差別を解消するための改革運動の一面を持っていたはずだが、時代が下ると先祖返りして古代インド的な輪廻観に回帰していることもあるのだ。
 90年代にテロ事件を起こしたカルト教祖が、仏教を称しながら仏菩薩ではなく「シヴァ大神」を祈りの対象にしていたことは、もっと検証されて良いのではないだろうか。
 信仰の実態がかなり正確に反映されていたのかもしれないのだ。

 垂直方向の「霊的進化」の教えは、求道心を持つ生真面目な若者には魅力的に映りやすい。
 それはよくわかるけれども、あまり性急に「正解」を求める姿勢には危うさが付きまとう。
(続く)
posted by 九郎 at 23:59| Comment(0) | あの世 | 更新情報をチェックする

2017年09月28日

めぐる輪廻のモノローグ3

 今生の苦しみは前世の因縁によるのだから、抗わずに受け入れてそれに耐え、善行を積み、良い来世を期待しなさい――
 こうした輪廻観は、身分制の上位階梯にとってはまことに都合が良い。
 過酷な差別や搾取は正当化され、身分制はより強く固定化される。
 何より厄介なのは、理不尽の多いこの世の矛盾を、理屈の上ではシンプルに、万人にわかりやすく説明してしまえることだ。
 それは言い換えれば「サブカルチャーとして強力である」ということでもある。
 神話や物語と結びついて広く民衆に浸透すれば、被差別の側、搾取される側も、むしろ望んでその世界観を受け入れるようになる。
 改革運動としての仏教も、母国インドでは結局衰退し、伝播した各国でもしばしば「先祖返り」を起こした。
 科学技術の世になれば語彙を現代風に改装し、新宗教の教義でもしばしば同じ構図の世界観が使われる。
 露骨に宗教という体裁をとらない場合でも、「スピリチュアル」の名で読み替えられたリ、サブカルチャー作品の設定に使用されたりして、何度でも何度でも復権してきた。

 理不尽で過酷な運命に直面した当人が、ぎりぎりの納得の仕方として「前世の因縁」を想定するのは理解できる。
 そこから劇的な回心や、強く生き延びる力が生まれることもあるだろう。
 たとえば大本開祖・出口なおは、自身の苦難に満ちた半生を、「艮の金神」の国祖退隠神話と重ね合わせ、「建て替え立て直し」の教えを産み落として多くの人を救った。
 しかし、他者が苦難の中にある当人にそれを強制することには違和感を禁じ得ない。
 権力を持つものが身分差別の根拠として持ち出すのは論外として、宗教者が安易に説教に使うのも、私はあまり好きではない。

 かつて3.11の直後、知事職にある老害作家の某が、「津波は天罰、我欲を洗い落とせ」などと、上から目線で妄言を吐いたことがあった。
 その発言に対して、当時の私はかなり感情的な記事を書いた。
 人災が天災の被害を拡大することはあるので、そこは注意しなければならない。
 たとえば熊野本宮の社殿をおし流した明治大水害は、山の木を切り倒し過ぎたことにも原因があったとされている。
 また、当の3.11でも原発の存在により、被害が拡大された面は大きい。
 しかし地球というものは基本的に、人の世の善悪の価値基準などとは関係無くただそこにあり、自然界の法則に従って変化しているだけだ。
 地震も津波も台風も、来るべき時には来るのであって、人間はそれを前提に、地球に「間借り」させてもらうしかない。
 天変地異を人の徳性と結び付けて論ずるのは、仏教でも他の宗教でも史上いくらでもやってきたことだが、さすがに現代の世で指導的立場にあるものが口にすべきことではないと思う。
 同様に、社会的身分や生まれつきのハンディキャップと「前世の因縁」を安易に結びつけること、とくに他者からの強制には、強い不快を感じる。
 元弱視児童であり、成育歴のほとんどを少数派の立場で過ごし、大震災の被災者である私にとって、そこは決して譲れぬ一線だ。
 年若い頃の私が、一時期「魂の不滅」「霊的進化」のストーリーに心惹かれながら、結局引き返すことになったのも、そうした感覚がベースにあったからだろう。

 仏教はそうした世界観の、何をどう改革しようとしたのか?
 仏教の輪廻の説明は、宗派や論者によって、かなり幅がある。
 通俗的な次元では、衆生は生まれ変わり死に変わりを繰り返し、善悪の業によって来世が決まるとされる。
 仏道修行はそこからの脱却を目指すものだが、前提条件の輪廻の在り様は、古代インドや現代スピリチュアルの説明と大差がない場合が多い。
 一方で、仏教は不滅の霊魂の存在を認めないと説明される場合もある。
 
 霊魂は存在しない。
 しかし、輪廻はある。
 では輪廻する主体は一体何なのか?

 当然、そんな素朴な疑問が湧いてくる。
(続く)
posted by 九郎 at 23:38| Comment(0) | あの世 | 更新情報をチェックする

2017年09月30日

めぐる輪廻のモノローグ4

 私は絵と文章で神仏与太話をくり広げているだけの素浪人なので、「仏教における輪廻観」を正しく紹介できる立場にはもちろんない。
 ただ、輪廻についての解説や情報に、それなりの期間、関心を持って接するようにはしてきた。
 これまでにつらつら考えてきた自分なりの理解、モノローグを、簡単な覚書にしておくことくらいは許されるだろう。

 仏教では輪廻からの脱却を説く。
 一方で、霊魂の存在を認めないという。
 では、いったい何が輪廻しているのか?
 宗派や論者によっても説き方に幅があるが、おおよそ仏教では、輪廻によって引き継がれるのは霊魂ではなく「業」であるとされるようだ。
 この「業」という概念も、考えるほどに中々とらえがたくなってくるのだが、私は現時点では以下のように理解している。
 あくまで現時点での理解であり、時間が経てばまたとらえ方が変わるかもしれない。

 まず、この世で物質が循環していることは間違いない事実だ。
 私という存在の構成要素は日々更新されているし、死んでしまえば丸ごと灰になり、外の世界に散じていく。
 私という存在を構成していた物質は、私という状態を通り過ぎてしまえばまた別のモノや生命の構成要素になり、その循環、形態変化は止まることがない。
 私という存在の構成要素が過去に別の人の一部だったこともあるだろう。
 イヌだったこともあるだろうし、ムシケラだったこともあるだろう。
 山川草木、あらゆる可能性が考えられる。
 身体、物質は、たしかに輪廻しているのだ。
 この次元の輪廻には、人間的な道徳律は関与していない。
 ただ自然界の法則に従って、物質が循環しているだけだ。

 心はどうか。
 私という人格は、私という身体の中の生理反応として存在している。
 身体によって心は構成されるので、生まれつきの素養や健康状態によっても、心の在り様は左右される。
 その身体の設計図が、過去から未来へと受け継がれる遺伝情報だ。
 遺伝情報もまた、輪廻している。
 そして人間の場合、遺伝子のつながりを超え、人と人との縁や、文化によっても心は継承される。
 親子や師弟、友人関係の中で人格的影響はつながっていくし、直接の面識はなくとも、書物などのメディアによっても精神の在り様は輪廻する。
 何らかの「作品」を残せば、それだけ機会は増えるだろう。
 人間の心や、社会制度に関して言えば、ある程度コントロールすることが可能だ。
 虐待の連鎖や身分制の弊害、ハンディキャップ等は、正しい認識や社会制度でフォローし、克服することができるので、いかんともしがたい自然法則と同列に考えてはいけない。
 とくに文明社会にあって、輪廻を差別の根拠にすることは、やはり間違っていると思う。

 私という人格は、物質や祖先から受け継いだ遺伝情報と、今生の社会の両方から構成されている。
 血筋や社会に持ち越されてきた「業」を、良くも悪くも受け継いでおり、自分でも新しい業を作り、持ち越して死んでいくだろう。
 私は祖先の中の誰かによく似ているだろうし、血筋の中から私によく似た人物が再び生まれることもあるだろう。

 血縁関係になくとも、直接間接に影響を受けた人の一部は、たしかに私の中に生きている。
 はっきり名を挙げるほどでなくとも、数えきれないほどの衆生の微細なパーツが、私という存在を身体と心の両面から構成している。
 私もこの人生の中で、あるいは死後、海に落としたインクの一滴のように拡散していくだろうし、また何かの偶然で部分的に凝集することもあるだろう。
 年若い頃の私は、いずれ滅びる肉体とは別に、永続する霊魂が「ある」と思い、もっと言えば「あってほしい」と執着していた。
 その後仏教の考え方について自分なりに読み、反芻することで、「無くても良い」と納得するに至った。
 しかしそれは、どうやら輪廻自体はあり、私という存在が完全に消滅することはなさそうだと思えてきたからだ。
 そこからの解脱を説くお釈迦様の境地には程遠く、「浄土」ということについても未整理だ。
 残りの人生の中で掘り下げるべきテーマは、まだまだ残されているのだ。
(「めぐる輪廻のモノローグ」の章、了)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | あの世 | 更新情報をチェックする