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2017年09月15日

世紀末サブカルチャー2

(90年代、世紀末感覚を描いたマンガ作品紹介の続き)


●「寄生獣」岩明均
 88〜95年、月刊アフタヌーン連載。
 近年アニメ化や実写映画化が相次ぎ、コンビニ版などで目にした人も多いと思う。
 増えすぎた人類の「捕食者」としての生命体・パラサイトが、当の人間自身に寄生し、表面上は判別が出来ないという基本設定、その異種生命体と人類との「あいの子」が抑止力として機能する点は、永井豪「デビルマン」の系譜を継いでいる。
 本作の新規性は、モンスターデザインとリアリズムの語り口にあったと言えるだろう。
 戦闘や捕食のシーンで必要に応じて姿を変える寄生獣のデザインは抽象芸術を思わせ、それまでのモンスターデザインとは一線を画したスマートさがあった。
 ヘンリー・ムアの彫刻を想起した読者も多かったことだろう。
 そして物語の範囲を個人レベル、日常レベルに限定し、細部を徹底したリアリズムで描いてある所がまた良かった。
 この種の作品は「強さのインフレ」によって「地球滅亡」まで暴走しがちなものだが、安易にその手法をとらないストイックさ、地味さが、世紀末サブカルチャーにあっては逆に新しかったのだ。
 パラサイトと合体した主人公は異種生命体の視点を取り入れることにより、人間の道徳や善悪の価値観は一旦相対化されている。
 人類が地球の生命圏の破壊者であることを認めながらも、主人公の少年・シンイチは心の痛みと共に、人類の一員として最強の群体パラサイト「後藤」に止めを刺す。
 人類の悪や毒を単純に比定したり肯定したりするのではなく、矛盾をそのまま飲み込みながら、一市民として自分の人生を守る選択をする。
 分かりやすくシンプルな極論が好まれがちなエンタメの世界で、作者自身も迷いに迷った結果であろうこの終幕は、深く静かに印象に残った。
 現実の世紀末の90年代にあって、誰かが描かなければならない大切な作品であったと、改めて感じる。


●「行け! 稲中卓球部」古谷実
 93〜96年、週刊ヤングマガジン連載。
 この作品は通常、「学園ギャグ」に分類されるはずなので、この記事中で取り上げることには奇異の念を抱かれるかもしれない。
 しかし90年代当時の私は、この作品の底に確かに流れる「世紀末感覚」を見ていた。
 ごく普通の中学のあまり活発ではない卓球部を舞台に、「ダメ人間」コンビである前野と井沢のコンビを軸に、物語は展開される。
 赤塚不二夫、山上たつひこ等によって確立された、「狂気を帯びたキャラクターが日常を破壊する」構図のギャグマンガの系譜に連なる作品である。
 この作品のオリジナルは、狂気の主人公・前野の傍らに常に立っている相方・井沢の存在にある。
 漫才コンビで言えば「ボケ」に対する「ツッコミ」に相当する立ち位置の井沢によって、前野の狂気は一旦受け止められ、翻訳され、一種の「愛嬌」に変換される。
 このタイプのギャグ作品では、主人公の狂気が次第に周囲に感染を広めることで破壊すべき日常が消失し、作品自体も壊れてしまうケースが多い。
 しかし「稲中」の場合は前野の無二の理解者であり、自身も狂気の世界に片足を突っ込んだ井沢が「防波堤」となって、周囲への感染が防がれていたのではないかと思うのである。
 前野をはじめとする卓球部員達には、90年代の中高生の誰もが漠然と感じていた不安や、年齢なりのナイーブさがあった。
 このまま「ダメ人間」で居続けることはできず、いずれこのつまらなくも楽しい学校生活は終わってしまうという不安。
 少年時代の終りと共に地球も滅びてくれないかという現実逃避。
 地球環境、エコへの強い関心と、現実社会への無関心。
 いずれも当時の中高生が抱いていた一種の世紀末感覚であり、作品内で描かれるギャグの多くは、そうした感覚を露悪的に晒すことで成立していたのではないだろうか。
 作者・古谷実は本作以降、次第にギャグから離れ、シリアスな少年犯罪や狂気の世界を描くようになるのだが、その萌芽は全て「稲中」の中にあったのだ。
 そして長く続いた作品の終幕は、同系統のギャグ作品でよく見られる「狂気の蔓延」とは別の形で、わりとあっさり訪れた。
 幕を下ろしたのは、実は作品中盤で登場し、成り行きから井沢に惹かれるようになった少女・神谷ちよこではなかったかと思う。
 前野と井沢の、この年齢にありがちな(そして少々同性愛的な)少年同士のつながりの深さに、くさびを打ち込めるのは異性の存在だけなのだ。
 最終回近く、たまたま二人だけになった前野と神谷が言葉を交わすシーンがあり、とても印象深かったことを覚えている。
 前野・井沢コンビの距離感は作品の根幹である。
 そこに変化があるということは……
 ぎこちなさから「なんとなくの和解」に至るやり取りを味わいながら、「ああ、この作品も終わってしまうのだな」と、寂しさと共に了解できたのだ。

 以上二作は、個人的にも非常に思い出深いマンガだ。
 当時私が住んでいた風呂無しトイレ共同四畳半のボロアパートの近くに、小さな本屋があった。
 一人で店をやっている若い店長さんがけっこうなマンガ好きらしく、品ぞろえや配置にこだわりを感じた。
 経営は苦しかったらしく、年々エロスペースが拡大していくことに痛々しさを感じながら、応援の意味でよくマンガを物色しに立ち寄っていた。
 その店長の推しで手に取ったのが、先に紹介した二作だったのだ。
他にも、今回は詳しく紹介しないけれども、94〜96年に週刊少年チャンピオンで連載された山口貴由「覚悟のススメ」や、89年から描き起こされ、現在に至る長期連載になっている三浦健太郎「ベルセルク」も、勧めてもらった覚えがある。
 どちらも90年代当時の世紀末感覚を反映したヒット作と言えるだろう。
 たまに立ち寄った時、レジで言葉少なに作品評や情報をやり取りする間合いが、とても好きだった。
 ああいう「街の本屋さん」での本との出会いは、90年代頃が最後ではなかったかと記憶している。
 今はもう、小規模書店そのものが、ほとんど絶滅してしまった。

 90年代のマンガを語る時、話題に挙げざるを得ないのが、「週刊ヤングサンデー」である。
 一応メジャー青年誌であるにも関わらず、テロリストや連続殺人者を描いた力作が多数掲載され、他にも人肉食シーンが問題になって回収騒ぎが起こった作品があったり、エロ描写で有害図書追放運動の標的になった作品があったりと、とにかく切れ目なく「事件」が起こるアナーキーな週刊マンガ誌だったのだ。
 試みに、当時の主な問題作をいくつか並べてみよう。

●「Angel」遊人
 88〜91年連載。性描写が問題になる。
●「ichigo 二都物語」六田登
 90〜94年連載。連続殺人者を描く。
●「バクネヤング」松永豊和
 95〜97年連載。連続殺人者を描く。
●「マイナス」沖さやか
 96〜97年連載。人肉食描写が問題になる。

 そして90年代終盤から2000年代初頭にこのヤンサンに連載された最凶問題作が、以下に紹介するマンガである。


●「ザ・ワールド・イズ・マイン」新井英樹
 97〜01年、週刊ヤングサンデー連載。
 終末テーマに限定しなくとも、90年代のマンガ作品全般の中でも突出した問題作ではないだろうか。
 少年犯罪、テロ、カルト、天変地異、ハルマゲドン等、世紀末をイメージさせるあらゆるアイテムがぶち込まれた、まさに破壊と殺戮の巨大マンダラである。
 70年代から連綿と描かれ続けた「終末物語」の、究極の進化形とも言えるのではないだろうか。
 全編衝撃に満ち、心の痛み無しには読み続けられない本作だが、中でも衝撃的だったのは終盤に明かされた主人公の生い立ちだった。
 主人公のカリスマ性を帯びた少年犯罪者の内面が、実は全く空虚な「オウム返し」でしかなかったというどんでん返しである。
 社会から徹底的に打ち捨てられた空っぽでイノセントな孤児が、周囲の過剰な忖度や願望の反映により巨大なカリスマとして祭り上げられ、世界を滅ぼす役割を果たしてしまう展開には、2010年代のまさに今、読み返すべき寓意が込められているのではないかと思う。
 大長編の全編差し障りだらけの内容から刊行機会にあまり恵まれないこの作品、もっともっと読まれ、語られるべき価値がある。
(続く)
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする