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2017年09月26日

めぐる輪廻のモノローグ2

 前回記事でざっとスケッチしてみたような日本の死生観は、それ自体はそんなに悪いものではないと思う。
 なんとなく素朴に包み込まれていられれば良いのだけれども、半端に近代化された意識では中々そうも素直に受けいれられない。
 私の中には原風景としての「山」や「里」はあるけれども、今はそこから遠く離れている。
 祖霊の世界である、のんびり平和な「あの世」の風景は、ちょっと退屈そうに感じてしまう。
 それはモノに飽和した現代人の、一つの「退廃」の顕れだろう。
 分かってはいるが、一旦そのような感覚になってしまえば、後戻りは容易ではない。

 死後の世界についての情報は、玉石混交で世に溢れている。
 特に一時期の私は、そのような情報を率先して渉猟していたので、人並み以上に頭でっかちになっている。
 素朴な民俗の世界から漕ぎだしてしまった今となっては、膨大な情報の海の中から、「ひとすくいの自分なりの納得」を見出す他、道はない。
 死後の世界や生まれ変わりについての考えは、他者の考えを鵜吞みにするのではなく、各人それぞれが死に至るまでに時間をかけて練り上げるもの――
 今はそのように思っている。
 だから、私の現時点での考え方を、モノローグとして書きとめている。

 あの世はこの世の写し鏡だ。
 のんびりした地域や時代にはのんびりしたあの世があるし、過酷な時代には過酷なあの世が生まれがちだ。
 現実が厳しいほど、「魂の不滅」を信じたくなる心情はよく分かる。
 人生がただ一回であるとすると、この世はあまりに理不尽だ。
 因果応報という言葉はあるが、この世だけ見ているととてもそうした法則が徹底しているとは思えない。
 弱い者は踏みにじられ、虫けらのように殺戮される。
 強い者は何不自由なく天寿を全うする。
 この世の司法は常に強者に味方する。
 せめて死後の世界では、公平な裁きがあってほしい。
 弱者の屍で栄華を築いた強者には、応分の責め苦があってほしい。
 踏みにじられた弱者には、来世の安息があってほしい――
 古代インドの六道輪廻という考え方は、そういう意味では納得しやすい。
 人の魂は不滅で、生前の行状により次の生の階梯が決定される。
 下は地獄、上は天上の神々の世界だ。
 良い行いを積めば上に昇り、悪い行いを積めば下に堕ちる。
 非常にすっきりした論理に貫かれていて、感覚的に納得しやすいのだ、こうした考え方は時代や地域を超えてリファインされる。
 新宗教の死生観も、用語は現代風になっているが、基本構造は古代バラモン教そのままという例は多い。

 曰く、肉体は滅びても魂は滅びない。
 曰く、良い魂は天上に昇り、悪い魂は地獄に堕ちる。
 曰く、この世は魂の修行の場である。
 曰く、無限の輪廻の中で人間として生まれた幸運に感謝し、修行に励め。
 曰く、魂を進化させ、宇宙の根源霊と合一せよ。

 正直言えば、私も年若い頃、そのような考え方に心惹かれていた時期があった。
 しかし忘れてはいけないのは、この考え方は差別を生みやすいということだ。
 インドの過酷なカーストを今も支えているのは輪廻転生の思想であるし、日本でも因果応報や輪廻と身分制を結びつけられ、社会的な差別が正当化されてきた歴史がある。
 仏教は本来、こうした差別を解消するための改革運動の一面を持っていたはずだが、時代が下ると先祖返りして古代インド的な輪廻観に回帰していることもあるのだ。
 90年代にテロ事件を起こしたカルト教祖が、仏教を称しながら仏菩薩ではなく「シヴァ大神」を祈りの対象にしていたことは、もっと検証されて良いのではないだろうか。
 信仰の実態がかなり正確に反映されていたのかもしれないのだ。

 垂直方向の「霊的進化」の教えは、求道心を持つ生真面目な若者には魅力的に映りやすい。
 それはよくわかるけれども、あまり性急に「正解」を求める姿勢には危うさが付きまとう。
(続く)
posted by 九郎 at 23:59| Comment(0) | あの世 | 更新情報をチェックする