こうした輪廻観は、身分制の上位階梯にとってはまことに都合が良い。
過酷な差別や搾取は正当化され、身分制はより強く固定化される。
何より厄介なのは、理不尽の多いこの世の矛盾を、理屈の上ではシンプルに、万人にわかりやすく説明してしまえることだ。
それは言い換えれば「サブカルチャーとして強力である」ということでもある。
神話や物語と結びついて広く民衆に浸透すれば、被差別の側、搾取される側も、むしろ望んでその世界観を受け入れるようになる。
改革運動としての仏教も、母国インドでは結局衰退し、伝播した各国でもしばしば「先祖返り」を起こした。
科学技術の世になれば語彙を現代風に改装し、新宗教の教義でもしばしば同じ構図の世界観が使われる。
露骨に宗教という体裁をとらない場合でも、「スピリチュアル」の名で読み替えられたリ、サブカルチャー作品の設定に使用されたりして、何度でも何度でも復権してきた。
理不尽で過酷な運命に直面した当人が、ぎりぎりの納得の仕方として「前世の因縁」を想定するのは理解できる。
そこから劇的な回心や、強く生き延びる力が生まれることもあるだろう。
たとえば大本開祖・出口なおは、自身の苦難に満ちた半生を、「艮の金神」の国祖退隠神話と重ね合わせ、「建て替え立て直し」の教えを産み落として多くの人を救った。
しかし、他者が苦難の中にある当人にそれを強制することには違和感を禁じ得ない。
権力を持つものが身分差別の根拠として持ち出すのは論外として、宗教者が安易に説教に使うのも、私はあまり好きではない。
かつて3.11の直後、知事職にある老害作家の某が、「津波は天罰、我欲を洗い落とせ」などと、上から目線で妄言を吐いたことがあった。
その発言に対して、当時の私はかなり感情的な記事を書いた。
人災が天災の被害を拡大することはあるので、そこは注意しなければならない。
たとえば熊野本宮の社殿をおし流した明治大水害は、山の木を切り倒し過ぎたことにも原因があったとされている。
また、当の3.11でも原発の存在により、被害が拡大された面は大きい。
しかし地球というものは基本的に、人の世の善悪の価値基準などとは関係無くただそこにあり、自然界の法則に従って変化しているだけだ。
地震も津波も台風も、来るべき時には来るのであって、人間はそれを前提に、地球に「間借り」させてもらうしかない。
天変地異を人の徳性と結び付けて論ずるのは、仏教でも他の宗教でも史上いくらでもやってきたことだが、さすがに現代の世で指導的立場にあるものが口にすべきことではないと思う。
同様に、社会的身分や生まれつきのハンディキャップと「前世の因縁」を安易に結びつけること、とくに他者からの強制には、強い不快を感じる。
元弱視児童であり、成育歴のほとんどを少数派の立場で過ごし、大震災の被災者である私にとって、そこは決して譲れぬ一線だ。
年若い頃の私が、一時期「魂の不滅」「霊的進化」のストーリーに心惹かれながら、結局引き返すことになったのも、そうした感覚がベースにあったからだろう。
仏教はそうした世界観の、何をどう改革しようとしたのか?
仏教の輪廻の説明は、宗派や論者によって、かなり幅がある。
通俗的な次元では、衆生は生まれ変わり死に変わりを繰り返し、善悪の業によって来世が決まるとされる。
仏道修行はそこからの脱却を目指すものだが、前提条件の輪廻の在り様は、古代インドや現代スピリチュアルの説明と大差がない場合が多い。
一方で、仏教は不滅の霊魂の存在を認めないと説明される場合もある。
霊魂は存在しない。
しかし、輪廻はある。
では輪廻する主体は一体何なのか?
当然、そんな素朴な疑問が湧いてくる。
(続く)