ただ、輪廻についての解説や情報に、それなりの期間、関心を持って接するようにはしてきた。
これまでにつらつら考えてきた自分なりの理解、モノローグを、簡単な覚書にしておくことくらいは許されるだろう。
仏教では輪廻からの脱却を説く。
一方で、霊魂の存在を認めないという。
では、いったい何が輪廻しているのか?
宗派や論者によっても説き方に幅があるが、おおよそ仏教では、輪廻によって引き継がれるのは霊魂ではなく「業」であるとされるようだ。
この「業」という概念も、考えるほどに中々とらえがたくなってくるのだが、私は現時点では以下のように理解している。
あくまで現時点での理解であり、時間が経てばまたとらえ方が変わるかもしれない。
まず、この世で物質が循環していることは間違いない事実だ。
私という存在の構成要素は日々更新されているし、死んでしまえば丸ごと灰になり、外の世界に散じていく。
私という存在を構成していた物質は、私という状態を通り過ぎてしまえばまた別のモノや生命の構成要素になり、その循環、形態変化は止まることがない。
私という存在の構成要素が過去に別の人の一部だったこともあるだろう。
イヌだったこともあるだろうし、ムシケラだったこともあるだろう。
山川草木、あらゆる可能性が考えられる。
身体、物質は、たしかに輪廻しているのだ。
この次元の輪廻には、人間的な道徳律は関与していない。
ただ自然界の法則に従って、物質が循環しているだけだ。
心はどうか。
私という人格は、私という身体の中の生理反応として存在している。
身体によって心は構成されるので、生まれつきの素養や健康状態によっても、心の在り様は左右される。
その身体の設計図が、過去から未来へと受け継がれる遺伝情報だ。
遺伝情報もまた、輪廻している。
そして人間の場合、遺伝子のつながりを超え、人と人との縁や、文化によっても心は継承される。
親子や師弟、友人関係の中で人格的影響はつながっていくし、直接の面識はなくとも、書物などのメディアによっても精神の在り様は輪廻する。
何らかの「作品」を残せば、それだけ機会は増えるだろう。
人間の心や、社会制度に関して言えば、ある程度コントロールすることが可能だ。
虐待の連鎖や身分制の弊害、ハンディキャップ等は、正しい認識や社会制度でフォローし、克服することができるので、いかんともしがたい自然法則と同列に考えてはいけない。
とくに文明社会にあって、輪廻を差別の根拠にすることは、やはり間違っていると思う。
私という人格は、物質や祖先から受け継いだ遺伝情報と、今生の社会の両方から構成されている。
血筋や社会に持ち越されてきた「業」を、良くも悪くも受け継いでおり、自分でも新しい業を作り、持ち越して死んでいくだろう。
私は祖先の中の誰かによく似ているだろうし、血筋の中から私によく似た人物が再び生まれることもあるだろう。
血縁関係になくとも、直接間接に影響を受けた人の一部は、たしかに私の中に生きている。
はっきり名を挙げるほどでなくとも、数えきれないほどの衆生の微細なパーツが、私という存在を身体と心の両面から構成している。
私もこの人生の中で、あるいは死後、海に落としたインクの一滴のように拡散していくだろうし、また何かの偶然で部分的に凝集することもあるだろう。
年若い頃の私は、いずれ滅びる肉体とは別に、永続する霊魂が「ある」と思い、もっと言えば「あってほしい」と執着していた。
その後仏教の考え方について自分なりに読み、反芻することで、「無くても良い」と納得するに至った。
しかしそれは、どうやら輪廻自体はあり、私という存在が完全に消滅することはなさそうだと思えてきたからだ。
そこからの解脱を説くお釈迦様の境地には程遠く、「浄土」ということについても未整理だ。
残りの人生の中で掘り下げるべきテーマは、まだまだ残されているのだ。
(「めぐる輪廻のモノローグ」の章、了)