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2017年10月01日

ヒガンバナ2017

 10月に入りました。
 毎年楽しみにしているヒガンバナもそろそろお終い。
 今年は通勤途上で「白いヒガンバナ」の群生を見付けました。

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 白いヒガンバナ自体はけっこうあちこちで見かけますが、これほど密生しているのを見たのは初めてです。

 それから先週、久々に葛城の里に足を延ばしてきました。
 葛城のヒガンバナは毎年本当に見事で、私が特に好きなのは二上山から當麻寺周辺。
 田園地帯をのんびり散策すると、そこここに華麗な風景が広がっています。

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 この週末は軽く登山へ。
 キノコが生え始めた山道を楽しんできました。
 前にお知らせしたきのこ展2017、既に開幕しています。
 公式サイトはこちら
 私はどうやら行けそうにないのですが、ほんの少しだけ展示に参加させてもらっています。

 今月もぼちぼち行きましょう!
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | 季節の便り | 更新情報をチェックする

2017年10月03日

転びました

 しばらく前になりますが、ワタクシ転びました。
 転んだと言っても転倒事故ではなく、ものすごく遅ればせながら、諸事情からガラケーをスマホに乗り換えたのです。
 どうでもいいことですけど(笑)

 そもそもガラケーを持ち始めたの自体が、すでに遅すぎの2007年から。
 ガラケーは死なずなどという頑固親父みたいな記事を書いたのが2013年。
 それから四年以上経って、ようやくの乗り換えです。

 使ってみて数か月。
 2日に一回の充電で済む程度の使用頻度なので、いまだ機能の全貌は把握できていませんが、ネットやPC関連の体勢には多少変化がありました。
 まず、コンパクトデジカメと音楽プレーヤー、kindleの使用頻度の低下です。
 これはまあ、仕方がない。
 とくにバッテリーのへたってきたウォークマンは、そろそろ卒業かな……
 スナップ写真の撮りやすさと画質自体はコンパクトデジカメの方がまだ上だと思いますが、私は普段、腰痛対策に手物削減方針をとっています。
 写真撮影目的の外出でない限り、デジカメは持ち歩かなくなりました。
 家電量販店の音楽プレーヤーとコンパクトデジカメの売り場が激減するわけです。

 電子書籍の読書も、スマホにkindleアプリを導入して解決。
 PC向けのpdf書籍はさすがに画面が小さすぎて読めませんが、通常のkindle本なら何の不自由もありません。
 老眼が始まってるのでスマホでマンガもしんどいですね。

 色々使い勝手を試行錯誤中のこの頃です。
posted by 九郎 at 22:48| Comment(0) | 電脳覚書 | 更新情報をチェックする

2017年10月05日

デスクトップPC御臨終、データ復旧

 何故かPCやネット関連機器というものは、一時期にバタバタが集中しがちな気がする(苦笑)
 先月、メインで使っていたデスクトップPCが突然機能停止。
 9年物のXP搭載機を、オフラインでだましだまし使っている状態だった。
 XP向けの各種ソフトでの画像処理に慣れ切っていたため、なかなか乗換に踏み切れなかったのだが、これはまあ自己責任なので仕方がない。
 しかし、クラッシュ直前まで何の故障の兆候もなかったため、半年分ほどの作業量のバックアップが取れていなかったのは痛かった。
 あわててネットでデータ復旧を検索してみる。
 第一に心がけるべきは、電源を切ってそのままの状態で保管すべし!
 うろたえて何度も電源を入れたり切ったりするとそれだけダメージが重なっていくケースが多いとのこと。

 ここでメーカー修理に出すと、PCの機能は回復してもデータ自体は消滅することになりがちだ。
 私の場合は骨董品級のPC本体は、とおの昔に保証期間も切れているのでもう諦めるとして、半年分のデータ復旧の方法を探ることにした。
 そう言えば仕事場の近所に「パソコン110番」みたいな看板が出ていたなと思い出し、早速帰りにお店を覗いて現状を相談してみた。
 ダメージの程度にもよるが、かなりの確率でデータは残っているものなのだそうだ。

 後日PC本体を持ち込んで診断してもらうと、「レベル2」のトラブルだったがデータ自体はきれいに残っていたそうで、復旧の見積もりは25000円ほど。
 この費用には壊れたPCの引き取りも含まれているそうなので、少し迷ったがGOサインを出した。
 結局、持ち込みから一週間後に復旧データを受け取ることができた。
 この種の業者さんは初めての利用だったが、修理にかなり時間がかかり、消えたデータは諦める他ないメーカー修理に比べ、コストに見合ったサービスであるという好印象を持った。

 しかしそもそもは私の無精が原因なので、今後はこまめのバックアップを心がけるよう肝に銘じた一幕だった。
posted by 九郎 at 22:40| Comment(2) | 電脳覚書 | 更新情報をチェックする

2017年10月07日

90年代の手記「月物語」1

 今年もまた中秋の名月、十月の満月の時期が過ぎていこうとしている。
 毎年この頃になると、もう二十年以上前になってしまった、同じ時期の満月の夜のことを思い出す。
 誰にでも忘れられない思い出の一つや二つはあるはずだ。
 長い時間が過ぎても、結局いつもそこに舞い戻ってしまうような記憶。
 私の場合は、その満月の夜がそうだ。
 90年代半ば、まだ若かった私は、その夜不思議な祭に参加することになった。
 この祭については、以前にも何度か紹介してきた。

 祭をさがして5
 祭をさがして6
 どんと1
 どんと2

 その祭に衝撃を受けた当時の私は、あまり時間を置かずに原稿用紙にして30枚程度の手記を書いた。
 手記の一部は、先に挙げたカテゴリ「どんと」で紹介したが、当該カテゴリの主旨に沿ってミュージシャン・どんとに関する記述のみのダイジェスト版だった。
 元々の手記は広く公開するあてもなく書いたもので、そのままブログにアップできる性質のものではなかったのだ。

 今年の始め、思い立ってカテゴリ:90年代の続きを延々と書き続けてみて、やはりどうしても「あの夜」に関する記事の完全版をアップしておかなければならないと感じた。
 これまでの記事と重複する内容も多いが、なるべく元の手記の雰囲気を損なわないよう、最低限の修正を加えて紹介してみよう。
 90年代当時、一人称「僕」の書いた手記「月物語」である。

     *     *     *

 十月の初め、古い友達から手紙が来た。
 バイトから帰って何気なく郵便受けを開けると、珍しく封書が届いていた。
 茶封筒を裏返すと見覚えのある汚い字。
 名前を見てドキッとした。
 最初に手紙を出したのは僕の方だった。
 八月の終わり頃のことだ。
 僕は、ある小劇団の舞台美術をやっている。
 そして九月の頭に、その劇団の公演が迫っていた。
 本番を十日後にひかえ、あわよくばノルマでかかえたチケットをさばこうと、いろんな名簿のページを繰っていた。
 そして、高校の時の名簿の中に、同じクラスだった彼の名前を見付けたのだ。
 名簿を見ながら、宛名書きの手を止めて、彼のことを思い出した。
 彼はある事情で、高一の3学期に転校していったのだが、その前の一年間、部屋を借りて一人で住んでいた。
 僕はその部屋によく遊びに行っていた。
 今でもその部屋のことをよく覚えている。
 何をするでもなく、だらだらと寝転がって時間をつぶすのにぴったりの部屋だった。
 高一の終りに、ふっと消えてしまった友達。
 どこかで僕は、彼の軌跡をたどろうとしていたのかもしれない。
 なんとなく懐かしくなって、公演のチラシに「どうしてる?」と書き添えてそいつに送ってみた。
 すると、九月の公演が終って一ヶ月たった十月の初めに、やっと返事が来たのだ。
 僕はその手紙を片手に、建築基準法を明らかに違反した、くらくらするほど急な階段を駆け登り、急いで部屋に帰って封を切った。
 茶封筒と同じクラフト紙の、手書き原稿一色刷りの、安っぽくて嘘くさいチラシが入っていた。

 『月の祭』

 それが、チラシの告知するイベントの名前だった。
 時は十月十九日から二十二日まで。
 四日間オールナイトで、ぶっ通し。
 それで参加協力金が二千円。
 それぞれの日の夕方から夜にかけてはライブがあって、二十一日にはなんと、ボ・ガンボスのどんとがソロで演ると書いてある。
 本当か?
 嘘じゃないのか?
 当時のボ・ガンボスといえば、押しも押されもしないトップバンドだった。
 他にも、「フリーマーケット」や「気功シンポジューム」(なんじゃそれ!)「寝袋持参なら宿泊無料」「出張ドロマッサージ」「深夜のライブ」等々、僕を含めた「ある種の人間」の心をとらえずにおかない魅力的なフレーズが、そのチラシの中にはいくつもいくつも踊っていた。
 そして余白部分には、高校時代によく見慣れていた、ミミズの這ったような汚い手書き文字が書き込まれていた。
「H、芝居のチラシ、ありがとな。受け取った時にはもう公演が終っとって、間に合わへんかった。すまん。今度、こっちでおもろいイベントがある。よかったらこいよ」
 実になんとも、想像力を刺激される便りだった。
 二日間迷った末に、書いてあった電話番号を試してみた。
 高校一年の三月、夜の公園グラウンドで別れて以来の連絡だったのだ。
 呼び出し音が二回鳴った後、遠い回線の向こうで受話器がとられた。
 はじめ、お互いの声がわからなかったのは、距離のせいばかりだっただろうか?
 電話の内容を、ここにそのまま再現することは出来ない。
 要点だけ、書き留めておこう。
 彼は別の高校を卒業後、ずっと放浪を続けていたそうだ。
 スタッフとして参加しているこの『月の祭』が終ったら、また長い旅に出るそうだ。
 僕は『月の祭』に是非とも参加したいと、そう彼に伝えた。
「そやけど昔は俺ら、どっちも坊主刈りやったやろ?
 顔、わかるかな?」
 僕がそうきくと、彼は笑いながら答えた。
「大丈夫や。俺、今、モヒカンやもん」
 それで、電話を終えた。
 電話を切った後、僕はふと気が付いて、モヒカンの話が本当かどうか考えた。
 高校の頃、僕達はずっと、そういうくだらないけれどもセンスが試されるような騙し合いを続けていたことを思い出したのだ。
 先手を打たれたかな?
 などと考えながら、僕は『月の祭』が、身悶えするほど待ち遠しくなった……

 十月二十日。
 夜中、バイトから帰る。
 急いでリュックに荷物を詰めかえる。寝袋、スケッチブック、筆記用具……
 すぐにでも出発するつもりだった。
 今から出れば、最終電車までには会場最寄駅に着くだろう。
 駅から祭のある海岸まで、何キロあるのか知らないが、適当に歩いていればきっと朝までには着くだろう。
 徹夜でやっているというライブに潜り込んで、盛り上がっているうちに、気が付いたら隣にモヒカン男がいるかもしれない……
 僕は出発のその日までに、そういう気持のいい空想を繰り返していたのだった。
 荷物をリュックに詰め終え、僕はベランダに出た。
 狭く汚い部屋には不釣り合いに広い、ここだけが自慢のベランダだ。
 僕の部屋は山すそのアパートの三階にあって、南向きのベランダに出ると、広く海が見渡せた。
 手すりから身を乗り出すと、その日はとくに空気が綺麗で、海の向う側の海岸線を示す銀やオレンジや赤の街の灯りがちらついて見えた。
 月はほぼ満月。
 ちょうど中秋の名月の時期にあたり、『月の祭』の由来も、この時期のフルムーンなのだそうだ。
 毎年この時期の満月の期間、祭をやっているそうで、もう今年で四回目だという。
 眺めているうちに、僕は遠い海岸線の上空あたりに、雲のかたまりを発見した。
 明るい月の光に輪郭を白く照らし出された、大きな雲のかたまりだった。
 いやな予感がした。
 177をプッシュして、天気予報を確かめてみると、予感が的中してしまった。
 今夜のお祭会場あたりは雨になるそうだ。
 どうする?
 今日はやめにするか?
 様子を見て明日出発にするか?
 僕は真剣に悩んだ。
 思い描いていた楽しい計画が崩れることはすごく悔しかった。
 なんとか計画を強行したかったが、今までに何度か経験している野宿の旅行で、夜中の雨ほど始末におえないものはないことを、いやというほど知っていた。
 このまま強行すれば情けないことになるのは目に見えていた。
 結局、やめることにした。
 そのかわり、明日は朝一で出発することにした。
 そんなに焦ることはない。
 たかが八時間ほど到着が遅れるだけだと、自分をむりやり納得させた。
 その夜はついに眠らないまま、ベランダで酒を飲みながら朝を待った。
(続く)
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2017年10月08日

90年代の手記「月物語」2

 十月二十一日早朝。
 僕は始発電車に乗り込んだ。
 同じようなコースで、奈良県南部、熊野の山に何度も「修行」に行っていたので、乗り継ぎのタイミングなどは慣れたものだった。
 途中で軽く朝飯を食いながら、十時前には最寄駅に到着した。
 本当なら駅から歩きたかったのだが、今はもう、少しの時間でも惜しかったのでバスに乗ることにした。
 二十分ほど待つと、海岸行きのバスが来た。
 乗り込んで二十五分程走ると、終点のバス停に着いた。
 そこは小さな漁港だった。
 一見、僕の思い描いていたようなお祭の情景はどこにも見当たらなかった。
 僕はポケットから例の嘘くさいチラシを取り出し、これから自分がどこへむかえばいいのかヒントを探した。
 しかし、描いてある地図はいい加減すぎて、全然当てにならなかった。
 とりあえず「バス停から歩いて五分」という言葉と、奈良の山奥での「修行」で培われた直感を頼りに、適当にこの辺を歩いてみることにした。
 あたりを見渡すと、海岸線の方に、古びた灯台が突っ立っているのが見えた。
 おそらく、もう実際の役には立っていないのだろう。
 表面のコンクリートは茶色みたいな変な色になっている。
 僕はその灯台と、隣に続く、ぼろぼろの石垣の見える城跡みたいな小山に「ピン」と来た。
 あの向こうに何かある。
 僕は山歩きや散歩に関しては、結構自信を持っているので、目の前の漁港を抜けて、灯台の方へと歩いて行った。
 テトラポットの中に突き刺したみたいな、その小さな古い灯台を横切ると、曲がり角の向こうから、何かおかしな音楽がかすかに聞こえてきた。
 どこかで聞いたことのあるような、インドっぽい太鼓の音色だった。
 僕は一人、にやにやしながら「ほらな!」と思った。
 灯台を曲がると、そこは目的地の小さなビーチだった。

 到着したのは午前十一時頃だった。
 着いたのはいいけど、『月の祭』の会場が想像以上のスサマジサだったので、僕はたまげてしまった。
 そこは旅館のプライベートビーチみたいになっている小さな砂浜だった。
 中心は海の家のような所だった。
 そこは海岸斜面地に建った旅館の地階を、流木やレンガを使って改装したもので、まるで東南アジアの市場みたいな雰囲気だった。
 そのまわりの砂浜に、インディアンのテントや、竹や流木を組み合わせてシートを張った即席の店、岩が大きくえぐれた崖に照明音効機材を設置したステージなどが、ところせましと立ち並んでいた。

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 僕の聞いた太鼓の音は、岩のえぐれたステージわきに座る、どこの国の人間かわからない格好をした一団が演奏していたものだった。
 気圧されながらも砂浜を歩いて行くと、向こうから長髪に装飾品をじゃらじゃらつけた若い男がやって来て「おはよ〜」と言う。
 あんた誰やねんと思いながらも挨拶を返すと、そのままどこかへ歩き去ってしまった。
 竪穴式住居よりもっと簡単な店や、中心である海の家内には一人も人間がいない。
 僕と、さっきの長髪の男と、太鼓のやつら以外に人影はなかった。
 後で、午前中から午後にかけてのこの時間帯は、みんな夜間の大騒ぎで疲れ果てて、自分のテントや上の民宿で眠っている時間帯だと知ったのだが、その時はまだそんな事情はわからなかった。
 チケットすら買えないまま、仕方ないので砂浜に荷物を下ろし、その辺りのスケッチなんかをして時間をつぶした。
 二時間程そうしていると、徐々に目が覚めた人達がテントから這い出して来た。
 男女取り混ぜて色んな人がいたけど、だいたい二種類に人種が分かれているようだった。
 一つは僕を含めた若いやつら。
 こいつらは格好は普通の人と少し違うけど、若いだけあって、まだそれほど「深く」はなかった。
 もう一つは、だいぶ年くってる人達。
 こちらは本当にディープな雰囲気の人達で、人生そのものがもうこういう感じの人達なんだろうなあと言う、かっこいいオーラを発散していた。
 そういう色んな人達がだんだん増えて来て、午後の二時を過ぎる頃には結構な人数になってきた。

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 でかい流木に座ってスケッチを続けていると、「スミマセン」と片言の日本語が聞こえてきた。
 振り返ると、背の高いガイジンの若い女の人がいた。
「とっても上手ですね! わたしのお店の看板を描いてもらえませんか?」
 にこにこ笑いながらそう言った。
 彼女はジョアンといって、机一つでタコスの店をやっているそうだ。
 机だけでは寂しいので何か看板が欲しいと言う。
 いいですよ、と答えると、
「わあ! ありがとう! じゃあ、お礼にタコスを食べ放題にしてあげるね!」
 と喜んでくれた。
 僕はあまりお金がなかったので、「ああ、これで食べ物は確保できたなあ」と一安心した。
 それで、なにか看板の材料はないかと探していると、砂浜の向こうからぶらぶらと、ちょっとジャマイカっぽい格好の男が歩いてきた。
 ああ、本当だったのか……
 手を上げて、そいつの名前を呼んだ。
 僕はそいつの名前をよく知っていた。
 男はモヒカン頭だった。
(続く)
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2017年10月09日

90年代の手記「月物語」3

「おお!」
 しばらくはこっちが誰かわからなかったみたいだが、二、三秒おいてから返事があった。
「来てくれたんか!」
「うん、昼前からおったんやけどな、みんな寝とったみたいやわ」
「そうそう、昨日徹夜やったからなあ」
「チケット、まだ持ってへんねんけど、ある?」
「あるで。ちょっと待ってな」
 そいつは、腰からじゃらじゃら吊下げている首飾りのうちの一つをはずした。
 それは木片に「月」という焼き印を押し、紐を通したものだった。
「これ、首にかけといて。ちょっと俺、まだ仕事あるから。ごめんな、後で話しょう」
「うん、ほんなら、また」
「また」
 僕はチケットを首にかけて、モヒカン男を見送った。

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 それから手頃な流木の切れ端を拾い、石に絵を描いて売っているおばさんに少しペンキを借りて、ジョアンのタコス屋の看板を描いた。
 彼女のリクエストで「喜」という文字をデザインしてみた。
 石屋のおばさんと世間話をしながら描いていると、モヒカン男がビール瓶を片手にやって来た。
「まあ飲んでーな。せっかく来てくれたんやから、最初の一本ぐらいおごるわ」
 僕がジョアンに看板を頼まれたことを話すと、
「へ〜、そうやったなあ。お前、絵描くの好きやったもんなあ」
 と、しばらく僕のスケッチブックを見ていた。
「あ、ちょっとライブの準備始まったみたいやから行ってくるわ」
「忙しそうやな。悪いな、気ぃ使わして」
「そんなん別にええって。今日のライブはおもろいで〜。どんとも出るからな!」
「うん」
 どうやら本物が出るらしい。

 その後すぐに看板を描き終えたので、僕もステージの方へ行ってみた。
 スタッフの人がマイクを確かめたり、ギターの音の調節をしたりしていた。
 砂浜に座って様子を見ていると、隣にも突っ立って様子を見ている、ジーンズの上下に雪駄ののっぽさんがいた。
 なんか見たことがあるやつだと思ったら、どんと本人だった。
 どんとは立ったりしゃがんだりしながら様子を見ていたが、そのうち飽きてきたのか、その辺りにいた子供を相手に話し始めた。
「みんな年いくつや? へ〜、みんな四才か。ほんなら四才が四人やな!」
 とか、ものすごくテキトーなことをニコニコしながらしゃべっていた。
 ステージ上では女性ボーカルの渋いバンドがリハをやっていた。当時の僕は彼女が誰だか知らなかったが、後にシンガーのHALKO(桑名晴子)さんだったと知った。
 リハーサルとはいいながら、同じ砂浜でフリーマーケットをやっているので、みんな演奏を聴いていた。
 こういうアバウトさは、僕は大歓迎だった。
 みんなもきっとそうだったと思う。
 バンドのリハが終ると、今度はどんとがステージに立った。目の前で軽く三曲ほどやってくれて、ちょっと得した気分になった。
 僕の隣ではいつの間にかモヒカン男も聴いていた。
 どんとの音合せが終ると、後は夕方からのライブを待つばかりとなった。

 日が落ちると、いよいよライブが始まった。
 最初はあの女性(HALKO)のバンドだった。
 座って弾いているスライドギターの人が無茶苦茶カッコよかった。
 どこから湧いて来たのかと思うほど人が集まって来た。
 狭い海岸に、二百人くらいは集まっていたのではないだろうか。
 崖の岩をくりぬいたような所に蠟燭を何十本も並べた、異様にカッコいいステージの周りには、大人や子供や赤ちゃんなど、あらゆる年齢層の人間が集まっていた。
 ライブの大音量とは逆に、空には満月が浮かび、潮が静かに満ちてきて、昼間の情景とはまた違った、独特の雰囲気になってきた。
 座って聴いている人は一人もいなかった。
 みんな踊りながら、思い思いに動き回っていた。
 海に駆け込み、水しぶきを上げながら踊り続ける女の人もいた。
 僕も演奏に合わせて、ミュージシャンの人達のスケッチを描き散らし、何事かと集まってきた人にどんどんばらまいた。
 中盤になり、どんとがステージに駆け上がってきた。
 黒いハットに赤いチェックのスーツ、バカでかい蝶ネクタイに両端のとんがったサングラス、顔にはバシバシのメイクといういで立ちで、
「それではどんとのロックンロールショーをはじめます!」
 と、見た姿そのまんまの宣言をした。

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 そういう派手な登場をしておいて、ちゃんと自分でギターの箱を開け、おもむろに用意を始めたのには爆笑がおこったが、どんと本人は少しも気にせず「スタンドバイミー」という定番中の定番みたいな曲を演奏し始めた。
 あまりの選曲に度肝を抜かれたが、その調子でロックの定番曲をメドレーで演奏されると、嫌でも盛りあげられてしまうのだった。
 それからどんとはギターを三線に持ち替えて一曲やった後、ラストを「ヘイジュード」で盛り上げ、また律儀にギターを自分でしまい「すたこらさっさ」という感じではけていった。
 それからはもうライブはカオス状態になり、再び出てきた女性ボーカルのバンドや和太鼓のグループ、それにどんとも合流して、集団発狂状態になった。
 海で踊り続けていた女の人は、もう寒いのに結局最後まで陸地に上がってこなかった。

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 参加者は全員イカれていたけれども、中でも彼女は凄かった。
 僕は惚れ惚れしながら彼女をスケッチし、ライブが終った時、敬意をこめてお辞儀をした。
 向うからもお辞儀が返ってきたが、残念なことに月の逆光で、彼女がどんな表情だったのかは見えなかった……
(続く)
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2017年10月10日

90年代の手記「月物語」4

 ライブが終ると、さっそくスタッフが機材をバラし始めた。
 野外のライブはこれで終り、後は海の家内の徹夜のライブを残すのみだったのだ。
 演劇をやっている身としては、バラシの大変さをよく知っているので、放っておけなかった。
 ジョアンに荷物を預かってもらい、手伝うことにした。
 モヒカン男に紹介してもらい、他のスタッフに交じって、でかいスピーカーやアンプ等を運んだ。
 僕と同じように、スタッフを手伝っている一般客も何人かいた。
 一時間ほどで片付けを終えると、夜中の十一時になっていた。
「これからが本番やで」
 笑うモヒカン男に案内してもらった。
 中ではもうライブが始まっていて、各種布をうまく使って作られた小さなステージでは、一本の古いアコースティック・ギターを回しながら、飛び入りを含めて弾き語りをしていた。
 だいたい、ブルース系が多かった。

 モヒカン男は進行の仕事があったので、僕はジョアンの店に預けていた荷物を受け取り、ついでにタコスをごちそうになった。
 ジョアンはさっきまで野外のライブに出ていたバンドの人達と友達らしく、僕のスケッチブックをその人達に見せてくれていたそうだ。
「すごく褒めてたよ」
 そんなお世辞に調子に乗って、近くのベンチで飲んでいたバンドメンバーやどんとの所に挨拶に行き、それぞれを描いたページを受け取ってもらってしまった。
 それからしばらく、ビールを飲みながら屋内のライブを見ていると、銀髪の女の人が声をかけてきた。
「あの〜、ずっと絵を描いてた子やんね? 頼んだら似顔絵とかやってくれる?」
 後で知ったのだが、昼間からずっとスケッチブックを持ってうろうろしていたので「あの絵を描く人」として顔が売れていたらしい。
「あ、いいですよ。今すぐですか?」
「描いてくれる? じゃあ、お礼はどうしようか」
「え〜と、じゃあ、何か飲み物を」
 これでワンドリンクかワンフードで似顔絵を引き受ける、その夜の僕の仕事が始まったのだった。
 銀髪の女の人はシャケさんといった。
「絵描きさんは名前はなんて言うの?」
「僕ですか? Hっていいます」
「Hくんね。あ、ごめん。こんなぺらぺらしゃべらずに、じっとしてた方がいい?」
「ぜんぜんかまいませんよ。どっちかというとその方がいいくらいで」
 初対面の人にあんまりかしこまっていられると、表情や特徴がつかみづらいものだ。
 色々しゃべってもらった方が、キャラクターがつかみやすい。
 それが僕の似顔絵スタイルだった。
 こんな感じでシャケさんを皮切りに五人ほど描き続け、つまりは酔っ払ってお腹もいっぱいになった。
 僕は机に向かって一人で描く絵も好きだが、こうして誰かと向き合って、または誰かを観客にしながら描くのも大好きなのだった。
 そのころモヒカン男は、女の子としきりに何かしゃべりながら盛り上がっている様子だった。
 ジャマしちゃ悪いし、こっちはこっちで結構忙しかったのでそっとしといた。

 午前三時を過ぎた頃、ついに屋内ライブのネタが尽きた。
 僕にとっては一日目だが、最初から祭に参加している人達にしてみれば三日目である。
 そろそろ体力の限界に来ていたのだ。
 海辺の深夜から早朝にかけての時間帯は、想像以上に冷え込んできた。
 ライブを終えて、それでもまだ起きているメンバーは、それぞれいくつかのグループにわかれて、焚火や火鉢にあたりながら、暖をとっていた。
「寒いな〜。風呂行こうぜ、風呂」
 モヒカン男が誘ってくれた。
 僕達は海の家から旅館の風呂場に上がり、夜の海を見渡せる湯につかった。
 そこで初めて、ゆっくり話した。
 昔の話はほとんどしなかった。
 月の祭についての話題ばかりだった。
 八年ぶりで会った高校時代の友人と、こんな所で湯につかっていることが、不思議で仕方がないような、当り前のことのような、妙な感覚でくらくらしていた。
 まあ、単に酔っ払っていただけかもしれないが……

 風呂から上がると、シャケさんが手招きをしていた。
「サンマが焼けたから一緒にどう?」
 僕はシャケさんとサンマをつつきながらビールを飲んだ。
 いったい今日何本目だろうか?
 その後、モヒカン男と、その友達のアーミー服に鼻ピアスの男と一緒に、カルロスと呼ばれていたおじさんのカクテルの店で火鉢にあたった。
 するとそこに、ブルースを歌っていたおじさんがふらふら歩いてきた。
「あれ〜カルロスどこ行ったん? おらへんのん?」
「上で寝てるみたいですよ」
 と鼻ピアスの男が答えた。
「店ほったらかしてなんで寝てるんや。そこの女の子にカクテル頼まれたんやけどなあ。ちょっと起こしてくるわ」
 しばらくするとカルロスと連れ立って帰ってきた。
「いやな、そこの子がなんか飲みたいらしいんよ。え〜と、なんて言うたかな。カ、カ、カルボナーラやったっけ?」
 そうとう酔っているようだ。
 その場にいたみんなが「それはスパゲティ!」とつっこんでげらげら笑った。
 つっこまれた当人は「ああ、そうか」とぽかんとしていた。
 注文の「カルボナーラ」がいつまでたっても届かないので、女の子が店までやってきた。
「あの〜、カルーアミルクたのんでたんですけど……」
 謎が解けて、またみんな爆笑した。
 それから僕達は朝まで飲み明かして、夜明けのゼンザイをみんなで食べた後、それぞれの寝床に着いた。

 僕は砂浜に寝袋を敷いて、リュックを枕にした。
(続く)
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2017年10月11日

90年代の手記「月物語」5

 顔がじりじり熱くなって目が覚めた。
 もうすっかり日が昇っていた。
 近くのテントの前でナンを焼いていた人に、「すいません、今何時かわかります?」と聞いたが、笑って首を振るだけだった。
 月の祭はこの日で最後。
 ライブなどの予定はなく、みんなで祭の余韻を楽しむ『後の祭』という日程だそうだ。

 僕は波打ち際で、四人ぐらいいた子供達と遊んだりして、ゆっくりすごした。
 ちょっとびっくりしたのは、子供の中の一人に「なんでヒゲがないんや? 女か?」と聞かれたことだった。
 その子の周りでは、成人男性はみんな髭を生やしているらしい。
 素晴らしい環境に育っているようだ。
 子供の中の一人はラッキーと呼ばれていて、後で聞いたらどんとのお子さんだった。
 ラッキーは波打ち際で竹の棒を拾って、「これ三線」と言いながら弾く真似をして見せてくれた。
 さすがだと思った。

 海辺ではどっかの神社の人や「超古代史」を研究している人達が、車座になって「しんぽじゅーむ」とやらを開いていた。
 オカルト好きの僕は、普段なら食いつくのだけれど、睡眠不足の状態で聞いているのは不可能な内容だった。

 昨夜とは正反対に、昼間の浜は人が少なかった。
 アジアの猥雑な市場のようだったビーチはすっかり片付き、「日常」に戻っていた。
 波の音と明るい空と子供の遊ぶ声。
 このまま滅びたいほど平和だった。

 子供たちと遊んでいた流れで、のんびりしていたどんととも、少しだけ雑談させてもらった。
 昨夜のライブやその海岸の風景など、なんということもない話題だったが、どこの誰とも知らない人間に構えずに付き合ってくれたのが嬉しかった。
 ライブでの派手なパフォーマンスと、普段のもの静かな佇まいの差が、祭の夜と昼との違いにシンクロしているようにも感じた。
 ハンモックで眠っている赤ちゃんの掌をしげしげと眺めて、「ちっちゃいなぁ、何で動いてんねやろう」とつぶやいていたどんとの姿が、今も忘れられない。

 そうこうしているうちに日が傾いてきた。
 時間の経つのが、本当にはやかった。
「そろそろ帰るわ」
 僕はモヒカン男に声をかけた。
「面白かった。またなんかあったら呼んで」
 モヒカン男がバス停まで見送ってくれた。
 途中、古い灯台を曲がるところで、どんととすれちがった。
「お帰りですか?」
 微笑みながら声をかけてもらった。

 バスの待ち時間があったので、最後に少しモヒカン男と話した。
「昨日、変な女がおって困ったわ。全然知らんのになんか体ひっつけてくるねん。ああいう子、ちょっと怖いなあ」
「なんや、あれ知らん子やったんか? スタッフかなんかかと思たわ」
 そんなどうでもいいようなことを話して時間をつぶした。
 バスが来た。
 僕は乗り込みながら「ほな、また」と言った。
 モヒカン男も軽く手を上げた。
「ほな」

     *     *     *

 90年代半ば、「月の祭」直後に書いた手記の内容は、だいたい以上のようなものである。
 これを描いた時点では、その後「続き」があることなど、想像もしていなかった。
 不思議な巡り合わせの中で、私は「古い友人」とも再会することになった。

 祭の影-1
 祭の影-2
 どんと3
 どんと4
 どんと5

 そして「月物語」は、いまでもなんとなく、続いているのである。
(「月物語」の章、了)
posted by 九郎 at 22:00| Comment(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする

2017年10月13日

SFへの扉 藤子F不二雄先生のこと

 なにげなくTVに視線をおくると、ドラえもんの「バイバイン」の回だった。
 子供の頃読んだマンガ版の記憶がよみがえってくる。
 大好きなおやつのくりまんじゅうを惜しんだのび太が、ドラえもんに「バイバイン」という薬剤を出してもらう。
 食べ物に一滴かけると、五分後に二倍に増えるという秘密道具である。
 一個が二個、二個が四個、四個が八個の倍々ゲームの仕組みになっていて、最初は喜んで何個か残しながら楽しんでいたのび太。
 しかしそのうち食べきれなくなり、くりまんじゅうはあっという間に家に溢れ……
 という恐怖のエピソードで、子供心に「倍々は恐ろしい」と強く印象に残った。
 最後は膨大な量のくりまんじゅうを巨大な風呂敷詰めにし、ロケットで宇宙に追放するというオチだったが、小学校低学年の私は全然すっきりしなかった。
 いくら宇宙が広いとは言え、いつか全宇宙がくりまんじゅうで埋め尽くされる日が来るのではないか?
 そしてそこまで行くのに、そんなに時間はかからないのではないか?
 破滅の時がくるとして、その五分前まで、まだくりまんじゅうは宇宙の半分しかないのだ。
 いまがその五分前でないと、誰が言いきれるだろう?
 言葉にするとそんな恐ろしさを感じていたのだ。

 ドラえもんに限らず、藤子不二雄両先生のマンガには時々「怖い」ものが紛れ込んでいた。
 F先生は、私が生まれてはじめて認識した「好きな作家」だった。
 小学一年生の頃、確か風邪で休んでいたときに、親が小学舘の学習雑誌「小学一年生」を買ってきてくれた。
 そこではじめて「ドラえもん」を読み、ハマってしまったのだ。
 確か付録の小冊子がドラえもん特集で、藤子不二雄先生が二人コンビであることや、ドラえもん創作の秘密、漫画の絵の描き方などが解説されていたと思う。
 私がかなり意識的に絵を描き始めたのも、その小冊子の解説あたりがきっかけかもしれない。
 解説を読み込み、鉛筆で下描きし、ペン入れのまねごとなども楽しんだ。
 写経的な練習法を開始したのもその頃のはずで、ドラえもんの好きなエピソード丸ごと筆写した記憶もある。
 今思うと一枚ずつの絵ではなく、マンガのエピソード丸ごとの筆写を続けていたら、私はもっとマンガが描けていたかもしれない。
 一枚絵とマンガは全くの別物だということに、当時はまだ気づいていなかった。

 懐かしの小学館の学習雑誌は、今は少子化の影響で学年別ではなくなったようだ。
 現行統合誌「小学8年生」は、最近某首相の爆笑紹介漫画で話題になった。





 小学低学年の頃、ドラえもんからはじまってF先生(当時はあくまで藤子不二雄先生だったが)の作品を色々読み漁っていた。
 中でも特に好きだったのが、「モジャ公」だった。



 作品としてはかなりマイナーな部類に入ると思うが、SF作家としてのF先生の持ち味が遺憾なく発揮されている。
 知的でクールで、ユーモアを基調としながら、恐怖もあり、哲学的命題も含まれる。
 ラストエピソードでは「終末」「カルト教祖」も扱われている。
 マンガではあるが、極上の児童文学でもある。
 これを読み込んで「面白い」と感じ取れた子供時代の自分を、褒めてあげたいのだ。
posted by 九郎 at 23:58| Comment(0) | 児童文学 | 更新情報をチェックする

2017年10月18日

「全部×つけたるねん」

 衆院選が近い。
 選挙が迫ると毎回思い出すことがある。
 確か二十年以上前のことだったと思う。
 その時も選挙が迫っていて、母親と話していたらたまたま「最高裁判所裁判官国民審査」の話題になった。
 罷免すべきだと思う裁判官の氏名に×印を記入し、それ以外は何も記入してはならないという、アレである。
 それについての母親のセリフが、以下のものだ。

「いつも全部×つけたるねん。腹立つから!」

 ちょっと笑ってしまったことを覚えている。
 普段は真面目で大人しい母なのだが、生真面目な分、筋の通らぬことには時に強硬な姿勢をとることがある。
 言葉遣いは大雑把ながら、およそ実効性の無い、無意味な儀式と化した国民審査制度自体に対する拒否感には、吹き出しながらも共感してしまった。
 以来私も、「腹立つから全部×」を通して今に至る。

 いつの日か制度が改正され、「罷免すべきでない優良な裁判官に〇を付ける」という真逆の方式になったら、真面目に考えて審査しようと思っている。

 衆院選そのものについては、以前の選挙前に書いた争点は自分で決めるという記事と同様に検討し、投票する。
 争点を誰かに設定してもらおうという心根が、そもそも民主主義ではないと思うのだ。
posted by 九郎 at 21:49| Comment(0) | | 更新情報をチェックする