僕は始発電車に乗り込んだ。
同じようなコースで、奈良県南部、熊野の山に何度も「修行」に行っていたので、乗り継ぎのタイミングなどは慣れたものだった。
途中で軽く朝飯を食いながら、十時前には最寄駅に到着した。
本当なら駅から歩きたかったのだが、今はもう、少しの時間でも惜しかったのでバスに乗ることにした。
二十分ほど待つと、海岸行きのバスが来た。
乗り込んで二十五分程走ると、終点のバス停に着いた。
そこは小さな漁港だった。
一見、僕の思い描いていたようなお祭の情景はどこにも見当たらなかった。
僕はポケットから例の嘘くさいチラシを取り出し、これから自分がどこへむかえばいいのかヒントを探した。
しかし、描いてある地図はいい加減すぎて、全然当てにならなかった。
とりあえず「バス停から歩いて五分」という言葉と、奈良の山奥での「修行」で培われた直感を頼りに、適当にこの辺を歩いてみることにした。
あたりを見渡すと、海岸線の方に、古びた灯台が突っ立っているのが見えた。
おそらく、もう実際の役には立っていないのだろう。
表面のコンクリートは茶色みたいな変な色になっている。
僕はその灯台と、隣に続く、ぼろぼろの石垣の見える城跡みたいな小山に「ピン」と来た。
あの向こうに何かある。
僕は山歩きや散歩に関しては、結構自信を持っているので、目の前の漁港を抜けて、灯台の方へと歩いて行った。
テトラポットの中に突き刺したみたいな、その小さな古い灯台を横切ると、曲がり角の向こうから、何かおかしな音楽がかすかに聞こえてきた。
どこかで聞いたことのあるような、インドっぽい太鼓の音色だった。
僕は一人、にやにやしながら「ほらな!」と思った。
灯台を曲がると、そこは目的地の小さなビーチだった。
到着したのは午前十一時頃だった。
着いたのはいいけど、『月の祭』の会場が想像以上のスサマジサだったので、僕はたまげてしまった。
そこは旅館のプライベートビーチみたいになっている小さな砂浜だった。
中心は海の家のような所だった。
そこは海岸斜面地に建った旅館の地階を、流木やレンガを使って改装したもので、まるで東南アジアの市場みたいな雰囲気だった。
そのまわりの砂浜に、インディアンのテントや、竹や流木を組み合わせてシートを張った即席の店、岩が大きくえぐれた崖に照明音効機材を設置したステージなどが、ところせましと立ち並んでいた。
僕の聞いた太鼓の音は、岩のえぐれたステージわきに座る、どこの国の人間かわからない格好をした一団が演奏していたものだった。
気圧されながらも砂浜を歩いて行くと、向こうから長髪に装飾品をじゃらじゃらつけた若い男がやって来て「おはよ〜」と言う。
あんた誰やねんと思いながらも挨拶を返すと、そのままどこかへ歩き去ってしまった。
竪穴式住居よりもっと簡単な店や、中心である海の家内には一人も人間がいない。
僕と、さっきの長髪の男と、太鼓のやつら以外に人影はなかった。
後で、午前中から午後にかけてのこの時間帯は、みんな夜間の大騒ぎで疲れ果てて、自分のテントや上の民宿で眠っている時間帯だと知ったのだが、その時はまだそんな事情はわからなかった。
チケットすら買えないまま、仕方ないので砂浜に荷物を下ろし、その辺りのスケッチなんかをして時間をつぶした。
二時間程そうしていると、徐々に目が覚めた人達がテントから這い出して来た。
男女取り混ぜて色んな人がいたけど、だいたい二種類に人種が分かれているようだった。
一つは僕を含めた若いやつら。
こいつらは格好は普通の人と少し違うけど、若いだけあって、まだそれほど「深く」はなかった。
もう一つは、だいぶ年くってる人達。
こちらは本当にディープな雰囲気の人達で、人生そのものがもうこういう感じの人達なんだろうなあと言う、かっこいいオーラを発散していた。
そういう色んな人達がだんだん増えて来て、午後の二時を過ぎる頃には結構な人数になってきた。
でかい流木に座ってスケッチを続けていると、「スミマセン」と片言の日本語が聞こえてきた。
振り返ると、背の高いガイジンの若い女の人がいた。
「とっても上手ですね! わたしのお店の看板を描いてもらえませんか?」
にこにこ笑いながらそう言った。
彼女はジョアンといって、机一つでタコスの店をやっているそうだ。
机だけでは寂しいので何か看板が欲しいと言う。
いいですよ、と答えると、
「わあ! ありがとう! じゃあ、お礼にタコスを食べ放題にしてあげるね!」
と喜んでくれた。
僕はあまりお金がなかったので、「ああ、これで食べ物は確保できたなあ」と一安心した。
それで、なにか看板の材料はないかと探していると、砂浜の向こうからぶらぶらと、ちょっとジャマイカっぽい格好の男が歩いてきた。
ああ、本当だったのか……
手を上げて、そいつの名前を呼んだ。
僕はそいつの名前をよく知っていた。
男はモヒカン頭だった。
(続く)