急に寒くなった。
長年薄着に馴染んでいるけれども、無理せずほどほどに。
冷えると背中や腰に不調が出やすくなる。
今年もインフルエンザが流行の兆し。
インフルについては、周囲がバタバタ倒れても、私は毎年かからずに過ごしてきた。
でも、油断はしないように。
インフルの予防接種は、様々な情報から、「気休め」だと判断した。
否定はしないが私はパス。
とりあえずVC摂取。
これも気休めだとは思うが、人には自分の納得する気休めを選ぶ自由はある(笑)
2017年12月01日
2017年12月02日
秋の色彩2017
先の11月中、近場で何度か紅葉狩りに出かけられたのはありがたかった。
秋の色彩をどう描けばいいかということは、もうずっと長く考えてきた。
このところ、少しだけ分かってきた気がする。
秋と言えば紅葉、やっぱり「赤」や「黄色」のイメージが強いが、それだけでは秋にならない。
空の青、常緑樹の緑、それもあった上での、赤や黄色なのだ。
そして、午後の傾いた陽光に透過される、逆光の中での色彩だ。
と、ここまでは以前から感じていた。
最近なんとなくつかめてきたのは、これは秋の色彩に限らず風景画全般に言えることだが、どうやら描き過ぎは良くないということだ。
「よく観て描く」
これは絵の基本中の基本だ。
絵描きはものをよく観るし、ついつい観えるもの全部を描きたくなる。
しかし、実際の風景には情報量が多過ぎて、そのままでは絵にならない。
美しい風景に出会ったとき、ただシャッターを切っただけでは、その時感じた風景とは全く違うものが写真に映る。
人間に感覚は、実際の風景をかなり「編集」して認識している。
微に入り細を穿って描けば描くほど、「実物」には似るが、「脳内で編集され、美しいと感じた像」からは、遠ざかることもあるのだ。
風景の場合、「いかに描かないか」という、引き算の感覚も必要だ。
そう言えば、むかし造園イラストのバイトをやっていた時、師匠にもそのような指導を受けた気がする。
身に染みて意味が分かってくるのに、二十年かかってしまった(苦笑)
ちょっとまた、水墨画や日本画の画集を引っ張り出してみよう。
絵本も良さそうだ。
秋の色彩をどう描けばいいかということは、もうずっと長く考えてきた。
このところ、少しだけ分かってきた気がする。
秋と言えば紅葉、やっぱり「赤」や「黄色」のイメージが強いが、それだけでは秋にならない。
空の青、常緑樹の緑、それもあった上での、赤や黄色なのだ。
そして、午後の傾いた陽光に透過される、逆光の中での色彩だ。
と、ここまでは以前から感じていた。
最近なんとなくつかめてきたのは、これは秋の色彩に限らず風景画全般に言えることだが、どうやら描き過ぎは良くないということだ。
「よく観て描く」
これは絵の基本中の基本だ。
絵描きはものをよく観るし、ついつい観えるもの全部を描きたくなる。
しかし、実際の風景には情報量が多過ぎて、そのままでは絵にならない。
美しい風景に出会ったとき、ただシャッターを切っただけでは、その時感じた風景とは全く違うものが写真に映る。
人間に感覚は、実際の風景をかなり「編集」して認識している。
微に入り細を穿って描けば描くほど、「実物」には似るが、「脳内で編集され、美しいと感じた像」からは、遠ざかることもあるのだ。
風景の場合、「いかに描かないか」という、引き算の感覚も必要だ。
そう言えば、むかし造園イラストのバイトをやっていた時、師匠にもそのような指導を受けた気がする。
身に染みて意味が分かってくるのに、二十年かかってしまった(苦笑)
ちょっとまた、水墨画や日本画の画集を引っ張り出してみよう。
絵本も良さそうだ。
2017年12月04日
マンガ「拳児」
書店でたまにチェックしている雑誌に、月刊「秘伝」がある。
日本の古武術や中国拳法等の、いわゆる「格闘技」化されていない武術がメインテーマで、主に実際「やる側」の読者を想定した雑誌だ。
私自身は今現在、武道や格闘技を実践しているわけではないけれども、興味や憧れは昔からあったので、ぼちぼち読書は続けている。
情報収集の一環として雑誌「秘伝」もたまに手に取っていて、十二月号で面白い人気投票をやっていた。
武道や格闘技をテーマとしたマンガの人気投票である。
現在発売中の雑誌なので詳しい結果はそちらを見てもらうとして、トップ3がいずれも「実際にあり得るリアルな武術描写」を売りとする作品であるという結果が、いかにも「武術をやる側の読者」を多く抱えるこの雑誌らしかったのだ。
同じ主旨の人気投票を広く一般向けの雑誌でやれば、TVアニメ化されていたり、現在連載中の人気作品がやはり強いはずだ。
しかし今回第一位に輝いたのは、四半世紀前の、しかもアニメ化されていないやや地味な少年マンガ作品「拳児」だったのだ。
●「拳児」原作:松田隆智 マンガ:藤原芳秀
88〜92年、週刊少年サンデー連載作品である。
サンデーには昔から「がんばれ元気」(76〜81年、小山ゆう)「六三四の剣」(81〜85年、村上もとか)等の、王道中の王道みたいな少年成長物語の枠があったが、この作品はその直系にあたる。
先行する「元気」「六三四」も、ともにボクシングや剣道のリアルな描写を売りにしていた。
少年マンガ的なファンタジーを極力排した、「現実にあり得る」リアルのグレードである。
格闘技経験者が「元気」の試合中の心理描写を「まさにあんな感じ」と絶賛するのを見たことがあるし、剣道経験者の私から見た「六三四」は、多くの剣道マンガの中でも飛び抜けてリアルだった。
そんな「リアル」な武道・格闘マンガの系譜の中でも、極め付けがこの「拳児」ではなかっただろうか。
もちろん今読むと、作中で扱われる中国拳法の描写や解説に、マンガ的な誇張も多々あるのはわかる。
しかし、広く一般向けのエンタメ作品という枠内では、この作品あたりが「リアルの極」ということになるだろう。
原作は中国武術の実践研究家の松田隆智であり、藤原芳秀のシャープでオリエンタルな描線も、内容によく合っていた。
目の肥えた「やる側」を納得させる絵や情報量と、予備知識のない者にも読ませる物語性が、高いレベルで両立されている、稀有な作品だったと思う。
ライバル役との最終決戦が少しあっさりした印象だったが、あらためて読んでみると、元々この作品は「ライバル対決」がストーリーの本筋ではなかったのだ。
主人公・剛拳児が出会う人々は、武術家も市井の人々も、みなそれぞれの「人生」を感じさせた。
縁ある人との出会いこそが、この作品のテーマだったのだ。
リアルタイムで読んでいた時は、香港編に登場した蘇崑崙が大好きだった。
拳児の「老師」にして良き兄貴分、小柄でちょび髭のちょっと胡散臭いルックスながら、八極拳や螳螂拳など様々な武術の使い手。
いつも「ヒャッヒャ」と笑いながら、闘いにおいては苛烈な火山のような爆発力を見せる、痛快な達人。
すっかり大人になってから読み返すと、普段は料理店の店主や農夫として過ごしながら、実は武術の達人だった人々の姿が強く印象に残る。
本物の実力と覚悟を持った時、人はこんなにも漂々と自由にふるまえるのかと、味わい深く読むことができるのだ。
神仏与太話ブログ的に補足するなら、前に紹介した高藤聡一郎の本を合わせ読むと、作中の「気」に関する描写が理解しやすくなるだろう。
また、舞台は日本から台湾、香港、そして大陸へと移行し、日本の的屋社会や中華街、中国的な秘密結社の在り様も、かなり詳細に描かれる。
東アジアで広範に共有される「仁義」「侠」を元にした倫理観や、人と人とのつながりは、社会の分断やヘイトが表面化する現代、よけいに読み応えが感じられるだろう。
武術マンガというカテゴリを外してみても、一人の少年の成長物語として本当に真っ当で素晴らしい。
私がこの作品を読み始めたのは十代で、ちょうど意識的に絵の修行を始めた頃のことだった。
剣道経験があったせいもあるが、作中の技術を修得するにあたって肝に銘じるべき示唆の数々は、まるで自分に向けられているように感じたことを覚えている。
「みだりに弟子をとるな。みだりに師につくな」
「天命に沿って人生を歩むものは、必要な時期に必要な師に出会える」
「武術を志すなら、優れた武術家の優れた動作を多く見なければならない」
「優れた技を実体験すれば、修練の先にそこに至ることができる」
「技は先に大きく伸びやかに、後に小さく引き締める」
「一度にたくさんやって一つも身に付かないより、一つ一つを正確に身に付けよ」
「何か新しいことを身に付ける時は、それまでの自分を一度バラバラに破壊する覚悟を持て」
「手を出すときは心に情けを残すな。心に情けが残る時には手を出すな」
これらの内容は、読後もずっと長く記憶に残った。
今でも私は自分で絵を描いたり、人を指導したりする時、繰り返し反芻している。
小学校高学年あたりから上の、とくに何かの道を志す子供たちに、もっともっと広く読まれてほしい名作なので、このカテゴリ児童文学で紹介しておくことにする。
日本の古武術や中国拳法等の、いわゆる「格闘技」化されていない武術がメインテーマで、主に実際「やる側」の読者を想定した雑誌だ。
私自身は今現在、武道や格闘技を実践しているわけではないけれども、興味や憧れは昔からあったので、ぼちぼち読書は続けている。
情報収集の一環として雑誌「秘伝」もたまに手に取っていて、十二月号で面白い人気投票をやっていた。
武道や格闘技をテーマとしたマンガの人気投票である。
現在発売中の雑誌なので詳しい結果はそちらを見てもらうとして、トップ3がいずれも「実際にあり得るリアルな武術描写」を売りとする作品であるという結果が、いかにも「武術をやる側の読者」を多く抱えるこの雑誌らしかったのだ。
同じ主旨の人気投票を広く一般向けの雑誌でやれば、TVアニメ化されていたり、現在連載中の人気作品がやはり強いはずだ。
しかし今回第一位に輝いたのは、四半世紀前の、しかもアニメ化されていないやや地味な少年マンガ作品「拳児」だったのだ。
●「拳児」原作:松田隆智 マンガ:藤原芳秀
88〜92年、週刊少年サンデー連載作品である。
サンデーには昔から「がんばれ元気」(76〜81年、小山ゆう)「六三四の剣」(81〜85年、村上もとか)等の、王道中の王道みたいな少年成長物語の枠があったが、この作品はその直系にあたる。
先行する「元気」「六三四」も、ともにボクシングや剣道のリアルな描写を売りにしていた。
少年マンガ的なファンタジーを極力排した、「現実にあり得る」リアルのグレードである。
格闘技経験者が「元気」の試合中の心理描写を「まさにあんな感じ」と絶賛するのを見たことがあるし、剣道経験者の私から見た「六三四」は、多くの剣道マンガの中でも飛び抜けてリアルだった。
そんな「リアル」な武道・格闘マンガの系譜の中でも、極め付けがこの「拳児」ではなかっただろうか。
もちろん今読むと、作中で扱われる中国拳法の描写や解説に、マンガ的な誇張も多々あるのはわかる。
しかし、広く一般向けのエンタメ作品という枠内では、この作品あたりが「リアルの極」ということになるだろう。
原作は中国武術の実践研究家の松田隆智であり、藤原芳秀のシャープでオリエンタルな描線も、内容によく合っていた。
目の肥えた「やる側」を納得させる絵や情報量と、予備知識のない者にも読ませる物語性が、高いレベルで両立されている、稀有な作品だったと思う。
ライバル役との最終決戦が少しあっさりした印象だったが、あらためて読んでみると、元々この作品は「ライバル対決」がストーリーの本筋ではなかったのだ。
主人公・剛拳児が出会う人々は、武術家も市井の人々も、みなそれぞれの「人生」を感じさせた。
縁ある人との出会いこそが、この作品のテーマだったのだ。
リアルタイムで読んでいた時は、香港編に登場した蘇崑崙が大好きだった。
拳児の「老師」にして良き兄貴分、小柄でちょび髭のちょっと胡散臭いルックスながら、八極拳や螳螂拳など様々な武術の使い手。
いつも「ヒャッヒャ」と笑いながら、闘いにおいては苛烈な火山のような爆発力を見せる、痛快な達人。
すっかり大人になってから読み返すと、普段は料理店の店主や農夫として過ごしながら、実は武術の達人だった人々の姿が強く印象に残る。
本物の実力と覚悟を持った時、人はこんなにも漂々と自由にふるまえるのかと、味わい深く読むことができるのだ。
神仏与太話ブログ的に補足するなら、前に紹介した高藤聡一郎の本を合わせ読むと、作中の「気」に関する描写が理解しやすくなるだろう。
また、舞台は日本から台湾、香港、そして大陸へと移行し、日本の的屋社会や中華街、中国的な秘密結社の在り様も、かなり詳細に描かれる。
東アジアで広範に共有される「仁義」「侠」を元にした倫理観や、人と人とのつながりは、社会の分断やヘイトが表面化する現代、よけいに読み応えが感じられるだろう。
武術マンガというカテゴリを外してみても、一人の少年の成長物語として本当に真っ当で素晴らしい。
私がこの作品を読み始めたのは十代で、ちょうど意識的に絵の修行を始めた頃のことだった。
剣道経験があったせいもあるが、作中の技術を修得するにあたって肝に銘じるべき示唆の数々は、まるで自分に向けられているように感じたことを覚えている。
「みだりに弟子をとるな。みだりに師につくな」
「天命に沿って人生を歩むものは、必要な時期に必要な師に出会える」
「武術を志すなら、優れた武術家の優れた動作を多く見なければならない」
「優れた技を実体験すれば、修練の先にそこに至ることができる」
「技は先に大きく伸びやかに、後に小さく引き締める」
「一度にたくさんやって一つも身に付かないより、一つ一つを正確に身に付けよ」
「何か新しいことを身に付ける時は、それまでの自分を一度バラバラに破壊する覚悟を持て」
「手を出すときは心に情けを残すな。心に情けが残る時には手を出すな」
これらの内容は、読後もずっと長く記憶に残った。
今でも私は自分で絵を描いたり、人を指導したりする時、繰り返し反芻している。
小学校高学年あたりから上の、とくに何かの道を志す子供たちに、もっともっと広く読まれてほしい名作なので、このカテゴリ児童文学で紹介しておくことにする。
2017年12月05日
投稿マヴォ
9月にこちらのブログにアップしたマンガ「夜鳴き」を、先月、竹熊健太郎さんの管理する「投稿マヴォ」に掲載して頂きました。
「夜鳴き」:投稿マヴォ
承認制ですが誰でも投稿可能で、よほど問題のない限り掲載はしてもらえるサイトです。
見開きとスクロール画面で読み易く、当ブログの画像掲載方式より、かなり快適に読めると思います。
まだお読みでない方も、もう読んだという方も、この機会にどうぞ!
(ぶっちゃけ、閲覧数稼ぎです!)
竹熊健太郎さんについては、これまでにも何度か紹介してきました。
一番まとまっているのは、以下の記事。
野望は死なず!
「夜鳴き」:投稿マヴォ
承認制ですが誰でも投稿可能で、よほど問題のない限り掲載はしてもらえるサイトです。
見開きとスクロール画面で読み易く、当ブログの画像掲載方式より、かなり快適に読めると思います。
まだお読みでない方も、もう読んだという方も、この機会にどうぞ!
(ぶっちゃけ、閲覧数稼ぎです!)
竹熊健太郎さんについては、これまでにも何度か紹介してきました。
一番まとまっているのは、以下の記事。
野望は死なず!
2017年12月06日
また一つ
カテゴリ「児童文学」、今回の記事は作品ではなく「街の本屋さん」の話題。
たまにのぞきに行っていた児童書専門店が、閉店してしまったことを知った。
高齢の「おばあちゃん」が経営しておられたので、いつかこの日が来ることは覚悟していたのだけれども。
(一応書いておくと、お亡くなりになったわけではなく「健康上の理由」とのこと)
地元では有名、たぶん全国的にもファンが多いはずの、老舗中の老舗だった。
報道もされているようなので名前を出すと、神戸・岡本の「ひつじ書房」である。
こじんまりした古風な店舗に、こだわりの児童書や関連書がぎっしり詰め込まれた、静かな雰囲気の本屋さんだった。
定番の絵本が欲しくなった時、「とりあえずあそこに行ってみよう」と思えるお店だった。
並べてある本の選択には、私の好みや考え方とはちょっと違う面も感じられたのだが、だからこそ逆に「あそこに置いてある本なら大丈夫!」という信頼感が持てた。
また一つ、お気に入りの店が消えた。
長い間、ありがとうございました。
たまにのぞきに行っていた児童書専門店が、閉店してしまったことを知った。
高齢の「おばあちゃん」が経営しておられたので、いつかこの日が来ることは覚悟していたのだけれども。
(一応書いておくと、お亡くなりになったわけではなく「健康上の理由」とのこと)
地元では有名、たぶん全国的にもファンが多いはずの、老舗中の老舗だった。
報道もされているようなので名前を出すと、神戸・岡本の「ひつじ書房」である。
こじんまりした古風な店舗に、こだわりの児童書や関連書がぎっしり詰め込まれた、静かな雰囲気の本屋さんだった。
定番の絵本が欲しくなった時、「とりあえずあそこに行ってみよう」と思えるお店だった。
並べてある本の選択には、私の好みや考え方とはちょっと違う面も感じられたのだが、だからこそ逆に「あそこに置いてある本なら大丈夫!」という信頼感が持てた。
また一つ、お気に入りの店が消えた。
長い間、ありがとうございました。
2017年12月08日
カテゴリ「90年代」ひとまず最終章へ
2011年1月、ふと思い立って1995年の阪神淡路大震災の被災体験から語り起こしたこのカテゴリ90年代。
書くほどに当時のしんどさがよみがえって来て難渋していた所に、3.11東日本大震災と、それに伴う原発事故が起こり、過去の出来事どころではなくなってしまった。
カテゴリ「釜」
それでも何とか書き綴り、被災体験記を一段落できたのが2012年。
そして今年2017年1月、また思い立って90年代に関する手記に再び手を付け、行ったり来たりしながらも、当時関西サブカルの片隅で生息していた私から見た90年代を覚書にしてきた。
時系列を整理してみると、以下のようになる。
●93〜94年、小劇場の舞台美術を担当していた頃
祭をさがして-1
祭をさがして-2
●同時期の94年、古い友人に誘われ、不思議な祭に参加
月物語
●そして95年、阪神淡路大震災被災
震災記GUREN-1
震災記GUREN-2
震災記GUREN-3
●震災と、それに続くカルト教団のテロ事件に衝撃を受けた顛末
祭の影-1
祭の影-2
●生来の孤独癖をこじらせ、一人に戻った顛末
本をさがして-1
本をさがして-2
本をさがして-3
本をさがして-4
へんろみち-1
へんろみち-2
へんろみち-3
へんろみち-4
被災体験と並んで当時の私に衝撃を与えたカルト教団のテロ事件。
私はかの教団と直接関係は持たないものの、「知り合いの知り合い」くらいの距離感にはあった。
教団に入信した多くの若者たちに対し、多くの面で共感は出来なかったが、理解できる側面もあった。
もっともこうした距離感は、事件当時20〜30代の、サブカルや宗教、精神世界界隈にいた者にとっては広く共有される感覚だったのではないかと思う。
事件後、劇団などのチームでの活動から離れ、一人で取り組んでいた読書や遍路も、あの事件について考えることが大きなテーマとしてあった。
そして中々言葉にできないままに二十年以上が過ぎてしまったのだが、この一年集中して90年代についての覚書を書き続けてきて、気付いたこともある。
どうやら「サブカルチャー」という切り口でなら、自分にも語れることがあるのではないかということだ。
世紀末サブカルチャー
次回更新より、このカテゴリ「90年代」ひとまずの最終章、「青春ハルマゲドン」を順次アップしてみたいと思う。
書くほどに当時のしんどさがよみがえって来て難渋していた所に、3.11東日本大震災と、それに伴う原発事故が起こり、過去の出来事どころではなくなってしまった。
カテゴリ「釜」
それでも何とか書き綴り、被災体験記を一段落できたのが2012年。
そして今年2017年1月、また思い立って90年代に関する手記に再び手を付け、行ったり来たりしながらも、当時関西サブカルの片隅で生息していた私から見た90年代を覚書にしてきた。
時系列を整理してみると、以下のようになる。
●93〜94年、小劇場の舞台美術を担当していた頃
祭をさがして-1
祭をさがして-2
●同時期の94年、古い友人に誘われ、不思議な祭に参加
月物語
●そして95年、阪神淡路大震災被災
震災記GUREN-1
震災記GUREN-2
震災記GUREN-3
●震災と、それに続くカルト教団のテロ事件に衝撃を受けた顛末
祭の影-1
祭の影-2
●生来の孤独癖をこじらせ、一人に戻った顛末
本をさがして-1
本をさがして-2
本をさがして-3
本をさがして-4
へんろみち-1
へんろみち-2
へんろみち-3
へんろみち-4
被災体験と並んで当時の私に衝撃を与えたカルト教団のテロ事件。
私はかの教団と直接関係は持たないものの、「知り合いの知り合い」くらいの距離感にはあった。
教団に入信した多くの若者たちに対し、多くの面で共感は出来なかったが、理解できる側面もあった。
もっともこうした距離感は、事件当時20〜30代の、サブカルや宗教、精神世界界隈にいた者にとっては広く共有される感覚だったのではないかと思う。
事件後、劇団などのチームでの活動から離れ、一人で取り組んでいた読書や遍路も、あの事件について考えることが大きなテーマとしてあった。
そして中々言葉にできないままに二十年以上が過ぎてしまったのだが、この一年集中して90年代についての覚書を書き続けてきて、気付いたこともある。
どうやら「サブカルチャー」という切り口でなら、自分にも語れることがあるのではないかということだ。
世紀末サブカルチャー
次回更新より、このカテゴリ「90年代」ひとまずの最終章、「青春ハルマゲドン」を順次アップしてみたいと思う。
2017年12月09日
青春ハルマゲドン1
ハルマゲドンという言葉がある。
元来はユダヤ、キリスト、イスラムの終末思想で使用される語で、善と悪の最終決戦が行われる地名とされている。
現在では「終末」全般を指す言葉として、とくにサブカルチャーの世界では世界的に通用している。
日本のサブカルチャーでは70年代から「ノストラダムスの大予言」などで「終末予言ブーム」が起こった。
当時の終末テーマ最大の傑作である永井豪のマンガ「デビルマン」(72~73年)では、デーモン軍とデビルマン軍の決戦が「最終戦争(アーマゲドン)」と呼称されていた。
表記の多少の相違はあるが、これがサブカル作品で「ハルマゲドン」の語が使用された嚆矢にあたるだろう。
70年代には「デビルマン」をはじめ、終末テーマの作品が多数制作された。
70年代:終末サブカルチャー
そうした70年代サブカルの流れを総決算したのが、70年代末から80年代前半にかけて執筆された平井和正による小説「幻魔大戦」シリーズである。
その源流となったマンガ版「幻魔大戦」(67年。原作:平井和正 作画:石森章太郎)が、80年代前半のこの時期に角川アニメ第一作として劇場アニメ化された。
TVコマーシャルでは毎日のように「ハルマゲドン接近!」という宣伝文句が繰り返され、この言葉が日本の日常に定着するきっかけとなった。
しかしこの頃になると「終末の物語」自体は既に飽和しつつあり、サブカルチャーの最先端は「終末後の世界」でのサバイバルを描くことに移行しつつあった。
そうした流れについては、以前紹介したことがある。
80年代:「終末後」のサブカル
その後の90年代は文字通りの世紀末で、フィクションの中の「終末」も総決算の時期を迎えつつあったが、サブカルチャーの中では既に消費され尽した感があり、ややマイナーな扱いになっていたと記憶している。
それでも70〜80年代の作品をリバイバルしたような、質的には優れた作品が多く制作された。
世紀末サブカルチャー
私は世代的・資質的に、こうした「ハルマゲドンストーリー」にどっぷりつかって少年期から青年期を過ごした。
70年代以降のそうしたサブカルチャーの動向にリアリティを与えていたのは、他ならぬ現実世界の諸課題だった。
東西冷戦、歯止めなく拡散する核兵器、公害の惨禍等は、若者が生真面目に考えれば考えるほど「人間はもうお終まいだ」という絶望感に結びつきやすかった。
終末ブーム自体は、間欠泉のように時代を超えて吹き出すもので、歴史上いくらでも繰り返されている。
20世紀末のそれに特色があったとすれば、天変地異による「神様まかせ」の滅亡ではなく、科学技術の発達による「人為的な滅亡」が、空想ではなく実際に可能になったという点だ。
21世紀を待たずにこの世は終わる……
70〜80年代の空気を体感した少年少女で、そんな未来像を、真に受けるというほどではなくとも、「そういうこともありそうだ」と思っていた割合は、かなり多かったのではないだろうか。
実を言えば私も、そんな子供の中の一人だった。
そして私の青年期はちょうど90年代、世紀末の真っ只中にあり、震災やカルト等の終末感漂う事件の直撃を受けた。
私の青春は、まさにハルマゲドンとともにあった。
テロ事件を起こしたかのカルト教団の、当時二十代から三十代だった主要メンバーも、そのあたりの感覚は共有していたはずだ。
結局、90年代の「前世紀末」に終末は来なかったが、それから二十年近く経った今でも、「現実の危機」自体は一向解消されず、むしろ拡散、進行している。
フィクションのストーリーのようにバタバタと短期間で「人類滅亡」に至る可能性は低いとしても(可能性が「ない」とは言えない)、このまま千年も二千年も人類が安泰であるという可能性は更に低いだろう。
散発的な戦争や環境破壊、自然現象により、百年〜数百年のスパンで衰亡していくであろうという予測こそ、ごく常識的である。
現に存在する危機や不安を解消することなく、そのリアクションだけを打ち消すことは困難だ。
生真面目で敏感な若者が危機感を募らせるのは、ある意味では非常に真っ当な感覚であり、一概に否定されるべきではない。
しかしそれは、終末思想をベースにしたカルトの生まれる土壌でもあり得るのだ。
元来はユダヤ、キリスト、イスラムの終末思想で使用される語で、善と悪の最終決戦が行われる地名とされている。
現在では「終末」全般を指す言葉として、とくにサブカルチャーの世界では世界的に通用している。
日本のサブカルチャーでは70年代から「ノストラダムスの大予言」などで「終末予言ブーム」が起こった。
当時の終末テーマ最大の傑作である永井豪のマンガ「デビルマン」(72~73年)では、デーモン軍とデビルマン軍の決戦が「最終戦争(アーマゲドン)」と呼称されていた。
表記の多少の相違はあるが、これがサブカル作品で「ハルマゲドン」の語が使用された嚆矢にあたるだろう。
70年代には「デビルマン」をはじめ、終末テーマの作品が多数制作された。
70年代:終末サブカルチャー
そうした70年代サブカルの流れを総決算したのが、70年代末から80年代前半にかけて執筆された平井和正による小説「幻魔大戦」シリーズである。
その源流となったマンガ版「幻魔大戦」(67年。原作:平井和正 作画:石森章太郎)が、80年代前半のこの時期に角川アニメ第一作として劇場アニメ化された。
TVコマーシャルでは毎日のように「ハルマゲドン接近!」という宣伝文句が繰り返され、この言葉が日本の日常に定着するきっかけとなった。
しかしこの頃になると「終末の物語」自体は既に飽和しつつあり、サブカルチャーの最先端は「終末後の世界」でのサバイバルを描くことに移行しつつあった。
そうした流れについては、以前紹介したことがある。
80年代:「終末後」のサブカル
その後の90年代は文字通りの世紀末で、フィクションの中の「終末」も総決算の時期を迎えつつあったが、サブカルチャーの中では既に消費され尽した感があり、ややマイナーな扱いになっていたと記憶している。
それでも70〜80年代の作品をリバイバルしたような、質的には優れた作品が多く制作された。
世紀末サブカルチャー
私は世代的・資質的に、こうした「ハルマゲドンストーリー」にどっぷりつかって少年期から青年期を過ごした。
70年代以降のそうしたサブカルチャーの動向にリアリティを与えていたのは、他ならぬ現実世界の諸課題だった。
東西冷戦、歯止めなく拡散する核兵器、公害の惨禍等は、若者が生真面目に考えれば考えるほど「人間はもうお終まいだ」という絶望感に結びつきやすかった。
終末ブーム自体は、間欠泉のように時代を超えて吹き出すもので、歴史上いくらでも繰り返されている。
20世紀末のそれに特色があったとすれば、天変地異による「神様まかせ」の滅亡ではなく、科学技術の発達による「人為的な滅亡」が、空想ではなく実際に可能になったという点だ。
21世紀を待たずにこの世は終わる……
70〜80年代の空気を体感した少年少女で、そんな未来像を、真に受けるというほどではなくとも、「そういうこともありそうだ」と思っていた割合は、かなり多かったのではないだろうか。
実を言えば私も、そんな子供の中の一人だった。
そして私の青年期はちょうど90年代、世紀末の真っ只中にあり、震災やカルト等の終末感漂う事件の直撃を受けた。
私の青春は、まさにハルマゲドンとともにあった。
テロ事件を起こしたかのカルト教団の、当時二十代から三十代だった主要メンバーも、そのあたりの感覚は共有していたはずだ。
結局、90年代の「前世紀末」に終末は来なかったが、それから二十年近く経った今でも、「現実の危機」自体は一向解消されず、むしろ拡散、進行している。
フィクションのストーリーのようにバタバタと短期間で「人類滅亡」に至る可能性は低いとしても(可能性が「ない」とは言えない)、このまま千年も二千年も人類が安泰であるという可能性は更に低いだろう。
散発的な戦争や環境破壊、自然現象により、百年〜数百年のスパンで衰亡していくであろうという予測こそ、ごく常識的である。
現に存在する危機や不安を解消することなく、そのリアクションだけを打ち消すことは困難だ。
生真面目で敏感な若者が危機感を募らせるのは、ある意味では非常に真っ当な感覚であり、一概に否定されるべきではない。
しかしそれは、終末思想をベースにしたカルトの生まれる土壌でもあり得るのだ。
(続く)
2017年12月11日
青春ハルマゲドン2
人類の終末を描いたサブカルチャー作品は、主に70年代に多数制作されたが、同時期の「終末」を描いたのでない作品にも、いくつか共通点の見える名作があった。
そこから妄想を広げ、ある「仮説」を綴ったことがある。
詳細は以下の記事。
青年はサブカルチャーに一度死ぬ
紹介した中から、三作ピックアップしてみよう。
【カムイ伝】(1964〜71年)
白土三平(32〜39歳)
【あしたのジョー】(1968〜73年)
原作:高森朝夫=梶原一騎(32〜37歳)
マンガ:ちばてつや(29〜34歳)
【デビルマン】(1972〜73年)
永井豪(27〜28歳)
多少のバラつきはあるものの、以下のような共通点が見受けられる。
●70年代前半、青年層に熱狂的に支持される。
●シリアスでリアルな展開の末、主人公の青年の「死」で幕を閉じる。
●作品制作中に絵柄がリアルタッチに変化する。
●描き起こされた時点の作者の年齢が三十歳前後。
商業誌のマンガ家のデビューは早く、十代から二十代前半であることが多い。
初期には読者と「同年代」的な感性の作品で腕を磨き、実力を蓄積する。
若くしてデビューしたマンガ家はある意味「純粋培養」で、実体験と言えるのは「マンガを描くこと」だけだ。
アラサーくらいの年齢で一度「元々持っていた青少年期の感性」が全部吐き出され、「完全燃焼」の作品が生まれる。
作中の主人公と共に、表現者として一度死ぬ。
読者の方も、少年期から青年期にかけて、心の在り方が変化する。
青年はいずれ大人にならざるを得ず、自分というものが一度リセットされ、疑似的な死と再生を経なければならない刻限が迫ってくる。
そうした不安定な時期に、同じようにもがく作者と作品は、心に深く刺さりやすい。
いつの時代も青年は、「青年の死」を描いた作品や、夭折した青年表現者の作品に心ひかれるものだ。
もしかしたら70年代に多く描かれた終末物語は、大枠としてはそうした青春物語の中に含まれながら、20世紀末の世相を反映した一変種であったのかもしれない。
ただ「主人公の死」と「世界の終り」が同期した終末物語には、他にはない危うさも含まれている。
今の自分が無くなるくらいなら、この世界も無くなってしまえばいい……
ありがちな短絡だが、それを乗り超え、この泥まみれの世の中で、役を演じていけるかどうかが問われることになる。
そこで道を踏み外せば、ピュアであるほど地獄は深くなるのだ。
20世紀末へ向けての助走が始まっていた80年代、とくに中盤以降は「終末後のサバイバル」を描く作品が全盛期を迎えていた。
詳細は以下の記事。
80年代「終末後」のサブカル
中でもメガヒットとなった「北斗の拳」「風の谷のナウシカ」「AKIRA」が、その後のマンガ、アニメ等のサブカルチャー作品に与えた影響は計り知れない。
ビジュアル面の密度も、この三作以前と以後では、全く次元が違ってしまったのだ。
そうしたシリアスな近未来モノの隆盛に先立ち、80年代の初頭から爆発的にヒットし始めていたのが、ベクトルとしては真逆を指すような「ラブコメ」だったことは興味深い。
こちらも多くの作品が制作されたが、代表作は以下の二つになるだろう。
●「タッチ」あだち充(81〜86年、週刊少年サンデー)
●「めぞん一刻」高橋留美子(80〜87年、週刊スピリッツ)
恋愛をテーマにしたマンガ作品はそのずっと以前から存在していたが、80年代ラブコメの特徴は、主に男性向けの少年誌、青年誌で連載されたことだ。
少年マンガ、青年マンガのカテゴリの中で、ストーリーの添え物ではなく主題として恋愛が描かれることは、それまでほとんど無かった。
派手なバトル描写に代わり、キャラクター達が非常に細やかな演技し、感情表現し、絵柄も洗練されていた。
目の肥えた女性読者の鑑賞に堪えるレベルの「恋愛」が導入されることで、少年誌、青年誌の表現の幅は格段に広がったのだ。
80年代はバブルによる好景気で、物質的には非常に恵まれた時代だった。
明るい青春、楽しい青春
かけがえのない青春
謳歌すべき青春
その裏では「このままの狂騒がいつまでも続くはずがない」という漠とした不安も、確かに存在した。
70年代から持ち越された戦争や環境破壊の危機感は、何一つ解消されないままに拡大していたのだ。
終末後のサバイバルの物語
青春期の日常の細やかな機微を描いたラブコメ
一見真逆に見える作品群が、ほぼ並走するようにヒットしていたことは、実は同じコインの裏表であったのかもしれない。
そこから妄想を広げ、ある「仮説」を綴ったことがある。
詳細は以下の記事。
青年はサブカルチャーに一度死ぬ
紹介した中から、三作ピックアップしてみよう。
【カムイ伝】(1964〜71年)
白土三平(32〜39歳)
【あしたのジョー】(1968〜73年)
原作:高森朝夫=梶原一騎(32〜37歳)
マンガ:ちばてつや(29〜34歳)
【デビルマン】(1972〜73年)
永井豪(27〜28歳)
多少のバラつきはあるものの、以下のような共通点が見受けられる。
●70年代前半、青年層に熱狂的に支持される。
●シリアスでリアルな展開の末、主人公の青年の「死」で幕を閉じる。
●作品制作中に絵柄がリアルタッチに変化する。
●描き起こされた時点の作者の年齢が三十歳前後。
商業誌のマンガ家のデビューは早く、十代から二十代前半であることが多い。
初期には読者と「同年代」的な感性の作品で腕を磨き、実力を蓄積する。
若くしてデビューしたマンガ家はある意味「純粋培養」で、実体験と言えるのは「マンガを描くこと」だけだ。
アラサーくらいの年齢で一度「元々持っていた青少年期の感性」が全部吐き出され、「完全燃焼」の作品が生まれる。
作中の主人公と共に、表現者として一度死ぬ。
読者の方も、少年期から青年期にかけて、心の在り方が変化する。
青年はいずれ大人にならざるを得ず、自分というものが一度リセットされ、疑似的な死と再生を経なければならない刻限が迫ってくる。
そうした不安定な時期に、同じようにもがく作者と作品は、心に深く刺さりやすい。
いつの時代も青年は、「青年の死」を描いた作品や、夭折した青年表現者の作品に心ひかれるものだ。
もしかしたら70年代に多く描かれた終末物語は、大枠としてはそうした青春物語の中に含まれながら、20世紀末の世相を反映した一変種であったのかもしれない。
ただ「主人公の死」と「世界の終り」が同期した終末物語には、他にはない危うさも含まれている。
今の自分が無くなるくらいなら、この世界も無くなってしまえばいい……
ありがちな短絡だが、それを乗り超え、この泥まみれの世の中で、役を演じていけるかどうかが問われることになる。
そこで道を踏み外せば、ピュアであるほど地獄は深くなるのだ。
20世紀末へ向けての助走が始まっていた80年代、とくに中盤以降は「終末後のサバイバル」を描く作品が全盛期を迎えていた。
詳細は以下の記事。
80年代「終末後」のサブカル
中でもメガヒットとなった「北斗の拳」「風の谷のナウシカ」「AKIRA」が、その後のマンガ、アニメ等のサブカルチャー作品に与えた影響は計り知れない。
ビジュアル面の密度も、この三作以前と以後では、全く次元が違ってしまったのだ。
そうしたシリアスな近未来モノの隆盛に先立ち、80年代の初頭から爆発的にヒットし始めていたのが、ベクトルとしては真逆を指すような「ラブコメ」だったことは興味深い。
こちらも多くの作品が制作されたが、代表作は以下の二つになるだろう。
●「タッチ」あだち充(81〜86年、週刊少年サンデー)
●「めぞん一刻」高橋留美子(80〜87年、週刊スピリッツ)
恋愛をテーマにしたマンガ作品はそのずっと以前から存在していたが、80年代ラブコメの特徴は、主に男性向けの少年誌、青年誌で連載されたことだ。
少年マンガ、青年マンガのカテゴリの中で、ストーリーの添え物ではなく主題として恋愛が描かれることは、それまでほとんど無かった。
派手なバトル描写に代わり、キャラクター達が非常に細やかな演技し、感情表現し、絵柄も洗練されていた。
目の肥えた女性読者の鑑賞に堪えるレベルの「恋愛」が導入されることで、少年誌、青年誌の表現の幅は格段に広がったのだ。
80年代はバブルによる好景気で、物質的には非常に恵まれた時代だった。
明るい青春、楽しい青春
かけがえのない青春
謳歌すべき青春
その裏では「このままの狂騒がいつまでも続くはずがない」という漠とした不安も、確かに存在した。
70年代から持ち越された戦争や環境破壊の危機感は、何一つ解消されないままに拡大していたのだ。
終末後のサバイバルの物語
青春期の日常の細やかな機微を描いたラブコメ
一見真逆に見える作品群が、ほぼ並走するようにヒットしていたことは、実は同じコインの裏表であったのかもしれない。
(続く)
2017年12月12日
青春ハルマゲドン3
90年代、20〜30代であった「若者」は、テロ事件を起こしたかの教団の主要な信者と同世代であった。
当時の若者文化について考えるなら、その前段階の「80年代の中高生」について、整理しておかなければならない。
かく言う私の成育歴も、その中にすっぽりと含まれている。
これまでの記事では、90年代に先駆けた70〜80年代サブカルチャーについて、私が実際に体感してきた範囲で紹介してきた。
そこには、迫りくる「終末」への危機感が、濃厚に反映されていたと感じる。
もう一つ近似する要素を付け加えるなら、そのキーワードは「オカルト」だ。
この要素については、別カテゴリでまとめたことがある。
黒い本棚(70〜80年代オカルト)
70年代はTVやマンガなどのサブカルチャーの世界で、心霊や超能力、UFOやUMA等のオカルトが、人気テーマの一つとしてクローズアップされ始めた始めた時期だった。
マンガと並んでサブカルの裾野部分にあたる歌謡曲の世界でも、UFOやモンスターや透明人間が取り上げられ、大ヒットになった。
80年代はさらに一歩進んで、ホラーやオカルトテーマの作品が、広く一般向けのマンガ雑誌の一番人気になったり、ハイレベルな秘教的行法や世界観が、手軽な新書版や月刊専門誌で世に流布される段階に入った。
オカルトの世界は嘘と真、虚構と現実、確定情報と未確認情報の狭間のグレーゾーンにこそ魅力の源泉があり、エンタメとして楽しむ分には罪がない。
しかし、無批判にオカルト情報をばらまくことには、いくつか問題点もあった。
●完全なペテン、詐欺行為も多い点。
●不出来なフィクションを「実話である」と偽装することで、ある種の「リアルさ」「面白さ」が出てしまう点。
●語っている当人が「実話」のつもりでも、その事実認識や解釈に議論の余地がある場合が多い点。
●そのまま真に受ける者が出るという点。
こうした問題点を抱えながらも、当時オカルトは様々に形を変えて流布され続けた。
サブカルチャーの世界で需要があるという事実は、資本主義社会においてかなり強力だ。
何しろ70〜80年代という時代は、サブカルチャーの最大市場である「子ども」が、やたらに多かった。
現在の「少子高齢化ニッポン」とは全く違う世相が、そこにはあったのだ。
戦後すぐの第一次ベビーブームに次ぐ出生数のピーク、第二次ベビーブームがあったのが70年代前半。
以後はなだらかに減り続け、今に至る。
90年代の若者(=80年代の中高生=第二次ベビーブーム世代)は、同学年の人数が多く、受験競争の厳しい世代でもあった。
大学入試に共通一次が実施されたのがまさに80年代そのもの(79〜89年)で、当初は過熱する受験戦争の負担軽減がうたわれたものの、結局は多教科の詰め込み、大学の序列化を加速させてしまった。
そして当時の中高生は、同時にビジネスにおける巨大市場でもあり、成熟し切ったサブカルチャーやレジャーで「青春の謳歌」を煽りに煽られた。
一方では受験戦争が過熱され、もう一方では消費行動を激しく煽られる。
どちらも首謀者は、当時の「大人たち」である。
「将来のために必死で勉強しろ!」
「若者はもっと青春を謳歌しろ!」
矛盾した真逆の要求に加え、戦争や環境破壊への危機感を煽る「終末ブーム」があり、虚実を混交させる「オカルトブーム」もあった。
この混沌とした諸々の要求を、当時の大人たちは以下のようにアクロバットに接ぎ木した。
「将来のため、中高生のうちは余計なことは考えず必死で勉強しろ! 無事大学に入ってから存分に遊べ!」
ついでに書くなら、その言葉通りを実行した大学生に対しては、「最近の学生は遊んでばかりだ!」などと悲嘆憤慨して見せたりしていた(笑)
今の私も含め、大人などというものは所詮「その程度」である。
自分の目の前、半径1メートルの範囲の義務と責任を果たし、日々の仕事の成果を上げるのに必死なだけなので、深い考えあってのことではない。
言うこと全部を真に受ける必要はないのだ。
この世のまことを求める志ある中高生諸君は、自分の人生は自分で考えるのが良い。
大人の言うことは、まあ半分くらい耳を貸しておけば、それで十分過ぎるのである。
当時の若者文化について考えるなら、その前段階の「80年代の中高生」について、整理しておかなければならない。
かく言う私の成育歴も、その中にすっぽりと含まれている。
これまでの記事では、90年代に先駆けた70〜80年代サブカルチャーについて、私が実際に体感してきた範囲で紹介してきた。
そこには、迫りくる「終末」への危機感が、濃厚に反映されていたと感じる。
もう一つ近似する要素を付け加えるなら、そのキーワードは「オカルト」だ。
この要素については、別カテゴリでまとめたことがある。
黒い本棚(70〜80年代オカルト)
70年代はTVやマンガなどのサブカルチャーの世界で、心霊や超能力、UFOやUMA等のオカルトが、人気テーマの一つとしてクローズアップされ始めた始めた時期だった。
マンガと並んでサブカルの裾野部分にあたる歌謡曲の世界でも、UFOやモンスターや透明人間が取り上げられ、大ヒットになった。
80年代はさらに一歩進んで、ホラーやオカルトテーマの作品が、広く一般向けのマンガ雑誌の一番人気になったり、ハイレベルな秘教的行法や世界観が、手軽な新書版や月刊専門誌で世に流布される段階に入った。
オカルトの世界は嘘と真、虚構と現実、確定情報と未確認情報の狭間のグレーゾーンにこそ魅力の源泉があり、エンタメとして楽しむ分には罪がない。
しかし、無批判にオカルト情報をばらまくことには、いくつか問題点もあった。
●完全なペテン、詐欺行為も多い点。
●不出来なフィクションを「実話である」と偽装することで、ある種の「リアルさ」「面白さ」が出てしまう点。
●語っている当人が「実話」のつもりでも、その事実認識や解釈に議論の余地がある場合が多い点。
●そのまま真に受ける者が出るという点。
こうした問題点を抱えながらも、当時オカルトは様々に形を変えて流布され続けた。
サブカルチャーの世界で需要があるという事実は、資本主義社会においてかなり強力だ。
何しろ70〜80年代という時代は、サブカルチャーの最大市場である「子ども」が、やたらに多かった。
現在の「少子高齢化ニッポン」とは全く違う世相が、そこにはあったのだ。
戦後すぐの第一次ベビーブームに次ぐ出生数のピーク、第二次ベビーブームがあったのが70年代前半。
以後はなだらかに減り続け、今に至る。
90年代の若者(=80年代の中高生=第二次ベビーブーム世代)は、同学年の人数が多く、受験競争の厳しい世代でもあった。
大学入試に共通一次が実施されたのがまさに80年代そのもの(79〜89年)で、当初は過熱する受験戦争の負担軽減がうたわれたものの、結局は多教科の詰め込み、大学の序列化を加速させてしまった。
そして当時の中高生は、同時にビジネスにおける巨大市場でもあり、成熟し切ったサブカルチャーやレジャーで「青春の謳歌」を煽りに煽られた。
一方では受験戦争が過熱され、もう一方では消費行動を激しく煽られる。
どちらも首謀者は、当時の「大人たち」である。
「将来のために必死で勉強しろ!」
「若者はもっと青春を謳歌しろ!」
矛盾した真逆の要求に加え、戦争や環境破壊への危機感を煽る「終末ブーム」があり、虚実を混交させる「オカルトブーム」もあった。
この混沌とした諸々の要求を、当時の大人たちは以下のようにアクロバットに接ぎ木した。
「将来のため、中高生のうちは余計なことは考えず必死で勉強しろ! 無事大学に入ってから存分に遊べ!」
ついでに書くなら、その言葉通りを実行した大学生に対しては、「最近の学生は遊んでばかりだ!」などと悲嘆憤慨して見せたりしていた(笑)
今の私も含め、大人などというものは所詮「その程度」である。
自分の目の前、半径1メートルの範囲の義務と責任を果たし、日々の仕事の成果を上げるのに必死なだけなので、深い考えあってのことではない。
言うこと全部を真に受ける必要はないのだ。
この世のまことを求める志ある中高生諸君は、自分の人生は自分で考えるのが良い。
大人の言うことは、まあ半分くらい耳を貸しておけば、それで十分過ぎるのである。
(続く)
2017年12月14日
青春ハルマゲドン4
ここまで、90年代に20〜30代であった「若者」の成育過程にあたる、70〜80年代の世相やサブカルチャーの状況について、過去記事から抜粋しながら振り返ってきた。
それは90年代にテロ事件を起こしたかの教団の主要な信者層が、入信前に見てきた時代風景であり、当時20代であった私の中高生時代ともほぼ重なる。
率直に言って私は、かの教団信者とかなり近似した傾向を持っていたという自覚がある。
サブカルチャーとして「終末」も「オカルト」も存分に享受して育っていたし、生い立ちに絡んで宗教への関心は強くあった。
世間一般のレジャーや「明るい青春の謳歌」には何となく馴染めず、もっと深く自分を見つめ、燃焼させ得るものを求めていた。
だからこそ90年代の真っ只中、阪神淡路大震災に被災し、カルトに騒然となった時期には強い衝撃を受けたのだし、その後の二十年以上、何らかの「おとしまえ」をつけようと足掻いてきた。
私と、かの教団に入信した多くの同世代。
彼我を分けたのは何だったのか?
あるいは、分けるものなど何もなかったのか?
そろそろ、見えかけてきたことがある。
何度か書いてきたことだが、私は中高生の頃、中堅受験校に通っていた。
関西の片田舎にある私立の中高一貫校。
創立者の園長先生が、自分が青春時代を過ごした旧制高校に非常に思い入れのある人で、その校風を再現しようと努めた学校だった。
同じ通学圏内にはいくつかの「名門」と呼ばれる中高一貫校があったが、私が通っていた当時の母校は創立二十年ほどで、受験ランクではまだまだ発展途上だった。
――本物のエリート校に入れなかった生徒の受け皿。
そんな認識を、教師も父兄も、生徒自身も持っていた。
その分きつい生徒指導と留年基準で締め上げて合格実績を上げる、超スパルタ方針をとっていた。
80年代当時ですら非常に時代錯誤な、今から考えると驚きを通り越して失笑してしまうような、戦前回帰の指導が行われていたのだ。
教師による生徒への体罰は日常茶飯事だった。
先生方の中には体罰を好まない人もそれなりにいたはずだが、他ならぬ創立者の園長先生がバリバリの体罰教師だったので、それが「校風」になってしまっていた。
顔や尻が腫れ上がったり、鼻血が出たり、鼓膜が破れたりするのも、さして珍しくなかった。
体罰の理由としては、素行不良はもちろんだが、「宿題をやっていない」「忘れ物をした」「テストの点が悪い」等の、学業不振への罰であることが最も多かった。
厳しい校則と体罰と留年規定で縛り上げ、山ほど宿題を出し、難しい試験を受けさせ、とにかく詰め込むのが、当時の我が母校のスタイルだった。
生徒が恐怖で金縛りになり、萎縮し切った中で行われる授業が、全時間割の半分近くを占めていた。
劣等生の一日は、まずシバかれることから始まるのである。
平手によるビンタで済めばまだマシな方で、グーで殴られることや、棒で頭や尻を打たれることも多かった。
粗いコンクリートの上や、硬いプラスティックの泥落としの上に正座させられることもあり、「カムイ伝」読者であった当時の私は(ソロバン責めか!)と心の中で突っ込んでいた。
在校中の恐怖は深く生徒の心に刻み込まれる。
卒業後、かなり年月が経っても「授業中に恐怖に震える悪夢」を見たというOBは数多い。
今このように列挙すると「話を盛ってる?」と思われるかもしれないが、実態はもっと凄惨だった。
昔のこととはいえ、書くのがはばかられることもいっぱいあるのだ。
私はわりと最近まで感覚が狂っていて、新聞雑誌で「教師の不祥事」として報道される体罰事件の99パーセント以上は、「こんな些細なことがニュースになるのか」と感じていた。
今はそれが異常なことであると普通に感じられるようになってきたので、三十年越しにようやくマインドコントロールが解除されてきたのかもしれない。
時代錯誤な校風、しかもほぼ男子校(女子も少しだけはいた)、中学部だけでなく高等部も坊主刈りだったので、巷にあふれる青春物語等とは全く無縁な学校生活だった。
ちょうどマンガ「魁!男塾」の連載が始まった頃で、あのファンタジックな内容が「あるあるネタ」として仲間内では盛り上がっていた。
これも当時連載されていたマンガ「BE FREE!」の超管理教育の描写なども、「あるあるネタ」として読まれていた。
ずっと後になって北朝鮮の群体の様子が日本で紹介されるようになった時には、昔の仲間で飲んでいる時に「あれ見ると、なんか懐かしい気分がするな」と語り合ったものだ。
そしてもう一つ、90年代にカルト教団によるテロ事件が起きた時にも、当初は報道で流れる教団信者の生活を「どっかで見た風景やなー」と笑い合っていたのだが、すぐに笑い事では済まなくなった。
卒業生の中に、かの教団の主要メンバーがいるらしいことが分かってきたのだ。
事件後しばらくすると、直接の面識は無いものの、何年か上の先輩にあたるその人の名が、度々報じられるようになった……
それは90年代にテロ事件を起こしたかの教団の主要な信者層が、入信前に見てきた時代風景であり、当時20代であった私の中高生時代ともほぼ重なる。
率直に言って私は、かの教団信者とかなり近似した傾向を持っていたという自覚がある。
サブカルチャーとして「終末」も「オカルト」も存分に享受して育っていたし、生い立ちに絡んで宗教への関心は強くあった。
世間一般のレジャーや「明るい青春の謳歌」には何となく馴染めず、もっと深く自分を見つめ、燃焼させ得るものを求めていた。
だからこそ90年代の真っ只中、阪神淡路大震災に被災し、カルトに騒然となった時期には強い衝撃を受けたのだし、その後の二十年以上、何らかの「おとしまえ」をつけようと足掻いてきた。
私と、かの教団に入信した多くの同世代。
彼我を分けたのは何だったのか?
あるいは、分けるものなど何もなかったのか?
そろそろ、見えかけてきたことがある。
何度か書いてきたことだが、私は中高生の頃、中堅受験校に通っていた。
関西の片田舎にある私立の中高一貫校。
創立者の園長先生が、自分が青春時代を過ごした旧制高校に非常に思い入れのある人で、その校風を再現しようと努めた学校だった。
同じ通学圏内にはいくつかの「名門」と呼ばれる中高一貫校があったが、私が通っていた当時の母校は創立二十年ほどで、受験ランクではまだまだ発展途上だった。
――本物のエリート校に入れなかった生徒の受け皿。
そんな認識を、教師も父兄も、生徒自身も持っていた。
その分きつい生徒指導と留年基準で締め上げて合格実績を上げる、超スパルタ方針をとっていた。
80年代当時ですら非常に時代錯誤な、今から考えると驚きを通り越して失笑してしまうような、戦前回帰の指導が行われていたのだ。
教師による生徒への体罰は日常茶飯事だった。
先生方の中には体罰を好まない人もそれなりにいたはずだが、他ならぬ創立者の園長先生がバリバリの体罰教師だったので、それが「校風」になってしまっていた。
顔や尻が腫れ上がったり、鼻血が出たり、鼓膜が破れたりするのも、さして珍しくなかった。
体罰の理由としては、素行不良はもちろんだが、「宿題をやっていない」「忘れ物をした」「テストの点が悪い」等の、学業不振への罰であることが最も多かった。
厳しい校則と体罰と留年規定で縛り上げ、山ほど宿題を出し、難しい試験を受けさせ、とにかく詰め込むのが、当時の我が母校のスタイルだった。
生徒が恐怖で金縛りになり、萎縮し切った中で行われる授業が、全時間割の半分近くを占めていた。
劣等生の一日は、まずシバかれることから始まるのである。
平手によるビンタで済めばまだマシな方で、グーで殴られることや、棒で頭や尻を打たれることも多かった。
粗いコンクリートの上や、硬いプラスティックの泥落としの上に正座させられることもあり、「カムイ伝」読者であった当時の私は(ソロバン責めか!)と心の中で突っ込んでいた。
在校中の恐怖は深く生徒の心に刻み込まれる。
卒業後、かなり年月が経っても「授業中に恐怖に震える悪夢」を見たというOBは数多い。
今このように列挙すると「話を盛ってる?」と思われるかもしれないが、実態はもっと凄惨だった。
昔のこととはいえ、書くのがはばかられることもいっぱいあるのだ。
私はわりと最近まで感覚が狂っていて、新聞雑誌で「教師の不祥事」として報道される体罰事件の99パーセント以上は、「こんな些細なことがニュースになるのか」と感じていた。
今はそれが異常なことであると普通に感じられるようになってきたので、三十年越しにようやくマインドコントロールが解除されてきたのかもしれない。
時代錯誤な校風、しかもほぼ男子校(女子も少しだけはいた)、中学部だけでなく高等部も坊主刈りだったので、巷にあふれる青春物語等とは全く無縁な学校生活だった。
ちょうどマンガ「魁!男塾」の連載が始まった頃で、あのファンタジックな内容が「あるあるネタ」として仲間内では盛り上がっていた。
これも当時連載されていたマンガ「BE FREE!」の超管理教育の描写なども、「あるあるネタ」として読まれていた。
ずっと後になって北朝鮮の群体の様子が日本で紹介されるようになった時には、昔の仲間で飲んでいる時に「あれ見ると、なんか懐かしい気分がするな」と語り合ったものだ。
そしてもう一つ、90年代にカルト教団によるテロ事件が起きた時にも、当初は報道で流れる教団信者の生活を「どっかで見た風景やなー」と笑い合っていたのだが、すぐに笑い事では済まなくなった。
卒業生の中に、かの教団の主要メンバーがいるらしいことが分かってきたのだ。
事件後しばらくすると、直接の面識は無いものの、何年か上の先輩にあたるその人の名が、度々報じられるようになった……
(続く)