2017年12月09日

青春ハルマゲドン1

 ハルマゲドンという言葉がある。
 元来はユダヤ、キリスト、イスラムの終末思想で使用される語で、善と悪の最終決戦が行われる地名とされている。
 現在では「終末」全般を指す言葉として、とくにサブカルチャーの世界では世界的に通用している。

 日本のサブカルチャーでは70年代から「ノストラダムスの大予言」などで「終末予言ブーム」が起こった。
 当時の終末テーマ最大の傑作である永井豪のマンガ「デビルマン」(72~73年)では、デーモン軍とデビルマン軍の決戦が「最終戦争(アーマゲドン)」と呼称されていた。
 表記の多少の相違はあるが、これがサブカル作品で「ハルマゲドン」の語が使用された嚆矢にあたるだろう。
 70年代には「デビルマン」をはじめ、終末テーマの作品が多数制作された。

 70年代:終末サブカルチャー

 そうした70年代サブカルの流れを総決算したのが、70年代末から80年代前半にかけて執筆された平井和正による小説「幻魔大戦」シリーズである。
 その源流となったマンガ版「幻魔大戦」(67年。原作:平井和正 作画:石森章太郎)が、80年代前半のこの時期に角川アニメ第一作として劇場アニメ化された。
 TVコマーシャルでは毎日のように「ハルマゲドン接近!」という宣伝文句が繰り返され、この言葉が日本の日常に定着するきっかけとなった。
 しかしこの頃になると「終末の物語」自体は既に飽和しつつあり、サブカルチャーの最先端は「終末後の世界」でのサバイバルを描くことに移行しつつあった。
 そうした流れについては、以前紹介したことがある。

 80年代:「終末後」のサブカル

 その後の90年代は文字通りの世紀末で、フィクションの中の「終末」も総決算の時期を迎えつつあったが、サブカルチャーの中では既に消費され尽した感があり、ややマイナーな扱いになっていたと記憶している。
 それでも70〜80年代の作品をリバイバルしたような、質的には優れた作品が多く制作された。

 世紀末サブカルチャー

 私は世代的・資質的に、こうした「ハルマゲドンストーリー」にどっぷりつかって少年期から青年期を過ごした。
 70年代以降のそうしたサブカルチャーの動向にリアリティを与えていたのは、他ならぬ現実世界の諸課題だった。
 東西冷戦、歯止めなく拡散する核兵器、公害の惨禍等は、若者が生真面目に考えれば考えるほど「人間はもうお終まいだ」という絶望感に結びつきやすかった。
 終末ブーム自体は、間欠泉のように時代を超えて吹き出すもので、歴史上いくらでも繰り返されている。
 20世紀末のそれに特色があったとすれば、天変地異による「神様まかせ」の滅亡ではなく、科学技術の発達による「人為的な滅亡」が、空想ではなく実際に可能になったという点だ。
 21世紀を待たずにこの世は終わる……
 70〜80年代の空気を体感した少年少女で、そんな未来像を、真に受けるというほどではなくとも、「そういうこともありそうだ」と思っていた割合は、かなり多かったのではないだろうか。
 実を言えば私も、そんな子供の中の一人だった。
 そして私の青年期はちょうど90年代、世紀末の真っ只中にあり、震災やカルト等の終末感漂う事件の直撃を受けた。
 私の青春は、まさにハルマゲドンとともにあった。
 テロ事件を起こしたかのカルト教団の、当時二十代から三十代だった主要メンバーも、そのあたりの感覚は共有していたはずだ。

 結局、90年代の「前世紀末」に終末は来なかったが、それから二十年近く経った今でも、「現実の危機」自体は一向解消されず、むしろ拡散、進行している。
 フィクションのストーリーのようにバタバタと短期間で「人類滅亡」に至る可能性は低いとしても(可能性が「ない」とは言えない)、このまま千年も二千年も人類が安泰であるという可能性は更に低いだろう。
 散発的な戦争や環境破壊、自然現象により、百年〜数百年のスパンで衰亡していくであろうという予測こそ、ごく常識的である。
 現に存在する危機や不安を解消することなく、そのリアクションだけを打ち消すことは困難だ。
 生真面目で敏感な若者が危機感を募らせるのは、ある意味では非常に真っ当な感覚であり、一概に否定されるべきではない。
 しかしそれは、終末思想をベースにしたカルトの生まれる土壌でもあり得るのだ。
(続く)
posted by 九郎 at 23:51| Comment(0) | 90年代 | 更新情報をチェックする