そこから妄想を広げ、ある「仮説」を綴ったことがある。
詳細は以下の記事。
青年はサブカルチャーに一度死ぬ
紹介した中から、三作ピックアップしてみよう。
【カムイ伝】(1964〜71年)
白土三平(32〜39歳)
【あしたのジョー】(1968〜73年)
原作:高森朝夫=梶原一騎(32〜37歳)
マンガ:ちばてつや(29〜34歳)
【デビルマン】(1972〜73年)
永井豪(27〜28歳)
多少のバラつきはあるものの、以下のような共通点が見受けられる。
●70年代前半、青年層に熱狂的に支持される。
●シリアスでリアルな展開の末、主人公の青年の「死」で幕を閉じる。
●作品制作中に絵柄がリアルタッチに変化する。
●描き起こされた時点の作者の年齢が三十歳前後。
商業誌のマンガ家のデビューは早く、十代から二十代前半であることが多い。
初期には読者と「同年代」的な感性の作品で腕を磨き、実力を蓄積する。
若くしてデビューしたマンガ家はある意味「純粋培養」で、実体験と言えるのは「マンガを描くこと」だけだ。
アラサーくらいの年齢で一度「元々持っていた青少年期の感性」が全部吐き出され、「完全燃焼」の作品が生まれる。
作中の主人公と共に、表現者として一度死ぬ。
読者の方も、少年期から青年期にかけて、心の在り方が変化する。
青年はいずれ大人にならざるを得ず、自分というものが一度リセットされ、疑似的な死と再生を経なければならない刻限が迫ってくる。
そうした不安定な時期に、同じようにもがく作者と作品は、心に深く刺さりやすい。
いつの時代も青年は、「青年の死」を描いた作品や、夭折した青年表現者の作品に心ひかれるものだ。
もしかしたら70年代に多く描かれた終末物語は、大枠としてはそうした青春物語の中に含まれながら、20世紀末の世相を反映した一変種であったのかもしれない。
ただ「主人公の死」と「世界の終り」が同期した終末物語には、他にはない危うさも含まれている。
今の自分が無くなるくらいなら、この世界も無くなってしまえばいい……
ありがちな短絡だが、それを乗り超え、この泥まみれの世の中で、役を演じていけるかどうかが問われることになる。
そこで道を踏み外せば、ピュアであるほど地獄は深くなるのだ。
20世紀末へ向けての助走が始まっていた80年代、とくに中盤以降は「終末後のサバイバル」を描く作品が全盛期を迎えていた。
詳細は以下の記事。
80年代「終末後」のサブカル
中でもメガヒットとなった「北斗の拳」「風の谷のナウシカ」「AKIRA」が、その後のマンガ、アニメ等のサブカルチャー作品に与えた影響は計り知れない。
ビジュアル面の密度も、この三作以前と以後では、全く次元が違ってしまったのだ。
そうしたシリアスな近未来モノの隆盛に先立ち、80年代の初頭から爆発的にヒットし始めていたのが、ベクトルとしては真逆を指すような「ラブコメ」だったことは興味深い。
こちらも多くの作品が制作されたが、代表作は以下の二つになるだろう。
●「タッチ」あだち充(81〜86年、週刊少年サンデー)
●「めぞん一刻」高橋留美子(80〜87年、週刊スピリッツ)
恋愛をテーマにしたマンガ作品はそのずっと以前から存在していたが、80年代ラブコメの特徴は、主に男性向けの少年誌、青年誌で連載されたことだ。
少年マンガ、青年マンガのカテゴリの中で、ストーリーの添え物ではなく主題として恋愛が描かれることは、それまでほとんど無かった。
派手なバトル描写に代わり、キャラクター達が非常に細やかな演技し、感情表現し、絵柄も洗練されていた。
目の肥えた女性読者の鑑賞に堪えるレベルの「恋愛」が導入されることで、少年誌、青年誌の表現の幅は格段に広がったのだ。
80年代はバブルによる好景気で、物質的には非常に恵まれた時代だった。
明るい青春、楽しい青春
かけがえのない青春
謳歌すべき青春
その裏では「このままの狂騒がいつまでも続くはずがない」という漠とした不安も、確かに存在した。
70年代から持ち越された戦争や環境破壊の危機感は、何一つ解消されないままに拡大していたのだ。
終末後のサバイバルの物語
青春期の日常の細やかな機微を描いたラブコメ
一見真逆に見える作品群が、ほぼ並走するようにヒットしていたことは、実は同じコインの裏表であったのかもしれない。
(続く)