それは90年代にテロ事件を起こしたかの教団の主要な信者層が、入信前に見てきた時代風景であり、当時20代であった私の中高生時代ともほぼ重なる。
率直に言って私は、かの教団信者とかなり近似した傾向を持っていたという自覚がある。
サブカルチャーとして「終末」も「オカルト」も存分に享受して育っていたし、生い立ちに絡んで宗教への関心は強くあった。
世間一般のレジャーや「明るい青春の謳歌」には何となく馴染めず、もっと深く自分を見つめ、燃焼させ得るものを求めていた。
だからこそ90年代の真っ只中、阪神淡路大震災に被災し、カルトに騒然となった時期には強い衝撃を受けたのだし、その後の二十年以上、何らかの「おとしまえ」をつけようと足掻いてきた。
私と、かの教団に入信した多くの同世代。
彼我を分けたのは何だったのか?
あるいは、分けるものなど何もなかったのか?
そろそろ、見えかけてきたことがある。
何度か書いてきたことだが、私は中高生の頃、中堅受験校に通っていた。
関西の片田舎にある私立の中高一貫校。
創立者の園長先生が、自分が青春時代を過ごした旧制高校に非常に思い入れのある人で、その校風を再現しようと努めた学校だった。
同じ通学圏内にはいくつかの「名門」と呼ばれる中高一貫校があったが、私が通っていた当時の母校は創立二十年ほどで、受験ランクではまだまだ発展途上だった。
――本物のエリート校に入れなかった生徒の受け皿。
そんな認識を、教師も父兄も、生徒自身も持っていた。
その分きつい生徒指導と留年基準で締め上げて合格実績を上げる、超スパルタ方針をとっていた。
80年代当時ですら非常に時代錯誤な、今から考えると驚きを通り越して失笑してしまうような、戦前回帰の指導が行われていたのだ。
教師による生徒への体罰は日常茶飯事だった。
先生方の中には体罰を好まない人もそれなりにいたはずだが、他ならぬ創立者の園長先生がバリバリの体罰教師だったので、それが「校風」になってしまっていた。
顔や尻が腫れ上がったり、鼻血が出たり、鼓膜が破れたりするのも、さして珍しくなかった。
体罰の理由としては、素行不良はもちろんだが、「宿題をやっていない」「忘れ物をした」「テストの点が悪い」等の、学業不振への罰であることが最も多かった。
厳しい校則と体罰と留年規定で縛り上げ、山ほど宿題を出し、難しい試験を受けさせ、とにかく詰め込むのが、当時の我が母校のスタイルだった。
生徒が恐怖で金縛りになり、萎縮し切った中で行われる授業が、全時間割の半分近くを占めていた。
劣等生の一日は、まずシバかれることから始まるのである。
平手によるビンタで済めばまだマシな方で、グーで殴られることや、棒で頭や尻を打たれることも多かった。
粗いコンクリートの上や、硬いプラスティックの泥落としの上に正座させられることもあり、「カムイ伝」読者であった当時の私は(ソロバン責めか!)と心の中で突っ込んでいた。
在校中の恐怖は深く生徒の心に刻み込まれる。
卒業後、かなり年月が経っても「授業中に恐怖に震える悪夢」を見たというOBは数多い。
今このように列挙すると「話を盛ってる?」と思われるかもしれないが、実態はもっと凄惨だった。
昔のこととはいえ、書くのがはばかられることもいっぱいあるのだ。
私はわりと最近まで感覚が狂っていて、新聞雑誌で「教師の不祥事」として報道される体罰事件の99パーセント以上は、「こんな些細なことがニュースになるのか」と感じていた。
今はそれが異常なことであると普通に感じられるようになってきたので、三十年越しにようやくマインドコントロールが解除されてきたのかもしれない。
時代錯誤な校風、しかもほぼ男子校(女子も少しだけはいた)、中学部だけでなく高等部も坊主刈りだったので、巷にあふれる青春物語等とは全く無縁な学校生活だった。
ちょうどマンガ「魁!男塾」の連載が始まった頃で、あのファンタジックな内容が「あるあるネタ」として仲間内では盛り上がっていた。
これも当時連載されていたマンガ「BE FREE!」の超管理教育の描写なども、「あるあるネタ」として読まれていた。
ずっと後になって北朝鮮の群体の様子が日本で紹介されるようになった時には、昔の仲間で飲んでいる時に「あれ見ると、なんか懐かしい気分がするな」と語り合ったものだ。
そしてもう一つ、90年代にカルト教団によるテロ事件が起きた時にも、当初は報道で流れる教団信者の生活を「どっかで見た風景やなー」と笑い合っていたのだが、すぐに笑い事では済まなくなった。
卒業生の中に、かの教団の主要メンバーがいるらしいことが分かってきたのだ。
事件後しばらくすると、直接の面識は無いものの、何年か上の先輩にあたるその人の名が、度々報じられるようになった……
(続く)