私が中高生の時期を過ごした80年代は、学歴信仰がかなり強く残っており、受験生の数自体も多い「受験戦争」の時代だった。
受験というものは、決まった年限がくれば必ず訪れ、その勝敗が必ず判明する。
これは、受験生本人にとっては一種の「ハルマゲドン」で、受験勉強が過酷であればあるほど、その価値を過大に評価すればするほど、カルト、オカルトの蔓延る土壌はあったのだ。
振り返ってみれば、当時の我が母校はまさにそうした「終末カルト」的な条件を備えていたと感じる。
時代背景から来る学歴信仰、受験競争の激化に対応し、現生利益として「進学実績」を歌っていた。
入学した生徒に対しては、その生活全てを「受験勉強」に傾注することを要求し、暴力によって強制した。
難関大学入学というバラ色の未来に向かうため、あらゆる無理難題は正当化され、異論反論は一切許されなかった。
全校集会の類では、常に「おまえたちは真のエリート校には入れなかった生徒である」「寸暇を惜しんで勉強する以外、難関大学入学の道はない」「いくら時代が変わろうと、本校の教育方針は未来永劫一切変わらない」等という訓戒が繰り返し刷り込まれた。
生徒は真夏の炎天下であろうと、寒風吹きすさぶ真冬であろうと、直立不動でそれを拝聴しなければならなかった。
私立だったので「嫌ならやめろ」「ついて来れないならやめろ」という理屈の下、入学時の人数の一割以上がまともに卒業できなかった。
私たちが在学時や卒業後に「よく似ている」と感じた集団は、たとえばマンガ「魁!!男塾」であり、北朝鮮の軍隊であり、カルト教団の信者の生活であった。
そしてマンガ「はだしのゲン」に描かれる戦時体制にもよく似ており、これは今となっては私の持ちネタでもあるのだが、わざわざ戦前の教科書を復刻して使っている教科すらあった。
似ているものは全て、絵に描いたような「カルト集団」である。
2010年代の今現在の価値観で見れば、「そんな酷い学校はさっさとやめるべきだ」とか「傷害で訴えるべきだ」と思う人は多いだろう。
しかし、そうした集団の「内部」にあっては、常識的な判断が下せない心理状態に囲い込まれてしまうのだ。
ごく普通の中高生にとって、学校生活というものは、自分の「全て」に等しい。
ましてや我が母校のような極端なスパルタ受験校では、「学校をやめる」とか「留年する」という事態は、ほとんど「この世の終り」と等価に感じられるものだ。
実際はそんなことはなく、思い切って学校を移ってうまく行った生徒は多かったし、長期的に見れば一年や二年の留年、浪人など、人生において何のマイナスにもならず、貴重な経験になることすらある。
そうした多様な価値観をシャットアウトし、内部の価値基準を暴力的に強制するところがカルトのカルトたる所以だ。
生徒は体罰の肉体的な恐怖と、ドロップアウトの心理的恐怖に、完全なコントロール下にあった。
何かあっても「全部自分が悪い」と思わされていたのだ。
もちろんそんな厳しい学校にも、普通に楽しい授業や行事、友人たちとの日常は、たくさんあった。
私は学校内では劣等生の部類だったので「苦しさ」の面を強く感じたが、大量の宿題を疑問なくこなせるタイプの優等生諸君は、理不尽を感じることは少なかっただろう。
むしろ、勉強に集中できる良好な環境だと思っていたかもしれない。
私は違った。
とくに高等部に入ってからは校風にあえて逆らうように「一人美術部」として活動し、勉強の方は留年しないぎりぎりのラインを攻めるようになった。
私が在学していた頃はまだ「成績別クラス編成」が残っていて、もちろん私はずっと下位クラスで過ごした。
下位クラスには学業こそ不振であるけれども、それぞれに個性的なメンバーが揃っていて、その様はマンガ「おれは鉄兵」の「東大寺学園戊組」を思わせた。
中でも卓越したセンスを感じさせた友人たちは、その個性に促されるように、次々と学校を去っていった。
私はと言えば、そうした「学校を横にはみ出した」友人たちほどのセンスも思い切りもなく、かと言って「学校の方針に真っ直ぐ従う」適性もなかった。
直進できず、別の道を選ぶ器量もない私にできるのは、「斜めにかわす」ことだけだった。
高二の冬ごろから教育学部系の美術志望に切り替えた顛末は、以前記事にしたことがある。
デッサンと見取り稽古
自分の数少ない手札から逆算し、針の穴を通すように「そこしかない」という進路を選んだことは、我ながら上出来だったと思う。
子供時代から存分にサブカルを享受し、「はだしのゲン」や「おれは鉄兵」を愛読するしぶといクソガキであったことが、最後の最後で私を「受験ハルマゲドン」からサバイバルさせた。
そしてそのまま持てる武器は全部抱えて、90年代の学生生活に突入していったのだ。
一方で、私のような半端なフェイクではなく、我が母校で課される苛烈な「修行」を、真正面から突破した秀才も多数いた。
80年代の大人は、濃淡の差はあれ、総じて以下のような要求をその子弟に強いていた。
「将来のため、中高生のうちは余計なことは考えず必死で勉強しろ! 無事大学に入ってから存分に遊べ!」
考えてみれば我が母校は、非常に極端な形ではあるけれども、そうした80年代的な大人の要求を体現していたのかもしれない。
そして後に報道で名の挙がることになった先輩は、そんな中でも修行を完璧にこなした、最高傑作の一人だったのではないだろうか。
90年代半ばの事件報道に接し、私が感じた「痛ましさ」の一端は、理解してもらえるのではないかと思う。
(続く)