今までハマらずに済んできた理由としては、「そのような縁が無かった」という偶然の要素が、たぶん一番大きい。
90年代にテロ事件を起こしたかの教団の信者と私の間には、さほど大きな距離は無い。
若者がカルト的な集団に最もハマりやすいタイミングとしては、親元から半ば自立しながら、いまだ社会的な経験に乏しい学生時代、それも新たな交友関係がまだ出来ていない入学直後あたりが、一つのピークではないだろうか。
学生サークルの新歓時期には、宗教や自己啓発の団体が当り障りのないよう偽装したサークルの勧誘も、非常に活発になる。
私が恵まれていたとすれば、大学入学以前にそうしたカルト的なモノに対する「嗅覚」、「免疫」が出来ていたということだと思う。
小学生の頃、駄菓子屋や縁日の店先、学校の前に物を売りに来るおっさんを相手に、ちょっとインチキの入った商売で騙されたり見破ったりの、「小遣い争奪バトル」を繰り広げた日々。
「当てもん」の達人
TVのオカルト番組をドキドキして視ながらも、あちこちおかしなところを「あら探し」していた日々。
黒い本棚
本章でも紹介してきた通り、カルト教団めいた超スパルタ受験校で、中高六年間を劣等生としてサバイバルし、批判精神が養われたこと。
そして何より、70〜80年代サブカルチャーを存分に享受し、オカルトやフィクションに対する目利きがかなり鍛えられていたことが挙げられる。
こうして書き出してみると、どれも褒められた要素ではない。
つまるところ子供の頃の私は遊び呆けたクソガキで、中高生の頃もその延長で遊び続けていただけだったのだ。
一般的な若者のレジャーはすっぽり抜け落ちていたが、その分、絵や文章、造形などの「創作」に充てる時間が大きかった。
積極的に「勉強」はしなかったが、この「創作」が間接的に受験にも役立って、なんとか進路をでっち上げることができたのだろう。
虚構と現実、オリジナルと引用、パクリ、フェイクの関係についても、自分なりにかなり認識を深めていたはずだ。
かの教祖名義の本に目を通してみて、直観的に「フェイクだ」と判別できたのは幸運だった。
教祖本人についても、80年代の「ムー」時代からメディア越しに眺めた限りでは、子供の頃バトルを繰り広げた「子供だまし」のおっさん達と、等質のものを嗅ぎ取っていた。
直接対面してみればそれなりに「迫力」があり、ある種の「霊力」も持つ宗教者としての一面はあったのだろう。
同時に、自分を何層倍にも見せるペテン師の能力も高かったのだろう。
純粋に宗教者だけ、純粋にペテン師だけなら、自らも破滅させる無差別テロまでは突き進まなかったはずで、そこに教祖の謎と闇がある。
教祖の「闇」については、以下の書籍をお勧めしたい。
●「黄泉の犬」藤原新也(文春文庫)
●「A3 (上)(下)」森達也(集英社文庫)
90年代初頭には、新興宗教の教祖の内面を真正面から描いた、空前絶後の週刊連載マンガもあった。
●「祝福王」全四巻 たかもちげん(講談社文庫)
そんじょそこらの「現実」には到達できない、「虚構の中の真実」がここにはある。
教祖というものに興味を持つなら、せめてこの水準の物語に触れておくべきだ。
優れた虚構で鍛えられた審美眼は、紛い物の現実を駆逐する。
終末カルトに対する批評眼という意味では、当時の私が最も影響を受けていたのが、SF作家平井和正だった。
この稀有な作家については、これまでにも繰り返し記事にしてきた。
80年代「終末後」のサブカル
数ある平井作品の中でも毀誉褒貶が激しいのが「幻魔大戦シリーズ」、とくに角川小説版だ。
(現在この文庫本で全に十巻の「禁断の書」は、kindle合本で刊行されている)
派手な超能力アクション小説が突然、カルト教団の動向を描く展開にシフトしたのだから、これは仕方がない。
著者が一時期、あるカリスマに傾倒していたことは知られていたので、「宗教にかぶれた変節作家」というレッテルも貼られがちだった。
しかし事実関係を確認すると、平井和正は「教団」に入信したことは一度もなく、九か月間ほど「あるカリスマ」と対話を続け、著書のゴーストライターをつとめた後、「決別」したということだ。
80年代にハイペースで幻魔大戦シリーズを執筆していた時期は「決別後」にあたり、むしろカリスマ的指導者やカルト教団の危険性を、強く警告する内容になっている。
当初は「現代に現れる真の救世主」を、まともに描くことを企図していたようだが、ベストセラー小説の中で「それ」をやってしまうことの危険に、途中で気付いてしまったのかもしれない。
危機的な世相を背景に、大衆が強いカリスマ、強いヒーロー、救世主を求める心理自体が、独裁者や偽救世主を呼び寄せる。
そうした「終末感」は、サブカルチャーによって強く増幅され、実際にハルマゲドンを誘発しかねない。
平井和正は作家的な潜在意識を「言霊」と表現するが、少なくとも幻魔大戦の言霊は、物語を「救世主ストーリー」として描くことにブレーキをかけた。
主要なシリーズ2本とも、物語の半ばで「救世主」と目された主人公が失踪し、そのまま戻ってこなかったのだ(!)
――救世主を求める者は滅ぶ
そんな暗示を残して80年代の幻魔大戦は終結し、まるで作中のカルト教団が現実化したような事件の勃発する90年代へと、日本は突入していったのだった。
90年代の平井和正
80年代半ば以降、私は平井作品をほぼリアルタイムで追うようになったのだが、その頃はちょうど、平井和正の作風の移行期にあったと思う。
●85〜86年「黄金の少女」(全五巻)
●88〜92年「地球樹の女神」(全14巻)
●93〜95年「犬神明」(全十巻)
これらの作品に共通しているのが、以下の暗示だった。
――ハルマゲドンはまず青年の内面に起こる
青年の心の中で起こる「ハルマゲドン局地戦」を、「異界」と組み合わせて語るスタイルは、以後の平井作品でも繰り返され、深化していった。
90年代初頭の私の学生時代は、ちょうど「地球樹の女神」が完結に向かう時期と重なった。
何度か紹介した「お山」に登るようになったのは、この作品の影響だ。
その経験からいくつかの絵と文章のインスピレーションを持ち帰り、卒業と前後するタイミングで、当時としては「完全燃焼」の作品に仕上げることができた。
少年期の私の中にはカルト志向が存在したし、心の片隅ではハルマゲドンを待望する病んだ部分があった。
幼い頃の傷や、カルト教団じみた環境にあった中高生の頃の感情を、一旦吐き出す。
それも「破滅」や「死」で終わらない形できれいに完成させる。
未熟な若書きがら、自ら課したそれだけのミッションを完遂することで、私は自分の「青春ハルマゲドン」を一旦終結させることができた。
そのプロセスを終えた後に、震災とカルトの年である95年を迎えられたことは、非常に幸運だったと思う。
(次回、最終回)