そう問われれば、私は2010年代の今現在でも「来る」とか、「もう来ている」と答えざるを得ない。
何度か書いてきたが、通常の科学的未来予測であっても、現代文明がこのまま千年も二千年も続くと考えるのは、かなり楽観的な論者によるものだろう。
人為的な「終末」はとっくの昔に可能になっていて、突発的な事故や戦争により、かなり短期間に破滅的状況が現出する可能性は、決してゼロにはならない。
それを回避できたとしても、環境破壊や資源の枯渇、散発する人為や自然災害により、現代文明が先細りになっていくという予測は、むしろ極めて常識的だ。
数百年もてば御の字ではないだろうか。
個人にとっての数百年は長く感じるけれども、たとえば地球の過去に起こった恐竜の大絶滅等と比較すれば、はるかに短い「一瞬の出来事」になってしまう。
そのような意味での終末、ハルマゲドンは、間違いなく進行中だ。
ただ、特定の年限を切ってバタバタと「人類滅亡」が訪れるというような予言の類は、はっきり否定する。
それは決して当たらないし、そのような言葉を吐くものは偽物だ。
その偽物が、金目当ての単なるペテン師であればまだ良い。
せいぜい財産を巻き上げられるだけで済む。
しかし、教祖が「本気」で幻想を信じている場合、金だけでは済まない「魂の地獄」が待っている。
自身が病んだ教祖の周囲には、似た傾向を持つ信者が誘引されていく。
閉鎖された相互の共振でハルマゲドンの病状は悪化していき、やがて臨界点を迎える時が来る。
ある程度人材のそろった集団が終末カルト化すると、かなりのことが出来てしまうのが現代社会だ。
それでも在野であり、私的な集団であるなら、自ずと限界はある。
ヤクザ、暴力団のことを近年は「反社会的勢力」と呼称するが、アウトロー集団は社会の歪みに便乗することは出来ても、社会自体を破壊する能力も意思もない。
いつの時代、どのような地域でも、「国や社会を壊す」結果を生むのは、国家体制たる「官」が腐敗したり、カルト化した場合だけだ。
そうした「国自体のカルト化」は、他ならぬ日本でも近代史の中で起こった。
戦前、戦中の国家神道体制である。
もっとも危険視すべきは、こうした事態だ。
日本古来の信仰とは何か?
この答えは一つではない。
歴史上のどの時点をスタンダードとするかで様々な考え方が可能だ。
一応「記紀神話」が日本古来のものとされることが多いが、それは近世になって以降の、国学〜復古神道〜国家神道という一連の流れをくんだ発想だ。
純粋な本来の神道というものが、歴史上のどこかの時点に存在したわけではない。
事実だけ視るならば、古事記・日本書紀は成立当時有力だった各氏族の伝承を(かなり政治的に)集大成した「その時点での創作神話大系」だ。
宗教、宗派に関わらず、改革や中興が行われる時にはしばしば「復古運動」の形が取られる。
しかしそれは、一種のフィクションだ。
実際の庶民の信仰では雑多な神仏習合の時代の方がはるかに長いし、長さだけで言うなら記紀よりはるか以前から続いたアニミズムこそが「本来の姿」ということになる。
国家神道などは「きわめて短期間で破綻した近代日本の新興宗教」でしかない。
史実ではありえない神話を現実の天皇制に仮託して強引に「復古」し、たった数十年ほどで破綻し、国を滅ぼした官製カルト宗教だったのだ。
旧日本軍の大半は、ろくな補給もなされないままに、無意味な精神論で追いたてられ、戦闘行為以前に飢えと病に倒れ、多くの若者が命を落としていった。
戦艦大和は時代遅れの大艦巨砲主義で実戦の役に立たず、神風特攻隊は戦局になんの影響もなかった。
銃後の国民生活は窮乏し、国土は灰燼に帰した。
国家神道は間違いなく日本史上最悪最凶のカルトで、これに比べれば90年代のテロ教団などミニチュア模型に過ぎないとも言える。
国家神道的、旧日本軍的在り方、デザインは、サブカルチャーとしてかなり強力だ。
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戦前戦中の日本人も大多数は、暴力的な強制ももちろんあったが、主にサブカルチャーとしての「八紘一宇」「七生報国」「神風特攻隊」に熱狂し、進んで挺身、戦争協力の泥沼に沈み込んでいった。
明治に新生した近代日本は、「国家の青年期」に終末カルト化し、自滅したという見方もできるだろう。
日本のファシズムに「次」があるとするなら、それは必ず強力なサブカルチャーと共にやってくる。
旧日本軍的デザインはスタイリッシュにリファインされ、「和」のテイストが強調されるだろう。
広告には国家予算が投じられ、アイドルユニットやリアルメカアニメ等のキャラクター商品展開も活用されるだろう。
手続き上はあくまで「民主主義」の形が守られながら、事態は粛々と進行する。
戦闘員調達は給付型奨学金などの経済支援とセットにされ、形式としては「志願兵」の建前を持った「経済徴兵制」がとられるだろう。
スピリチュアル的な「魂の不滅」「魂の進化」の物語が、「七生報国」「神風特攻隊」を復活させるかもしれない。
サブカルチャーで「何を」「どのように」表現すれば売れるかというノウハウには、既に膨大な蓄積がある。
後は「強権的な国家の予算投入」の一押しだけで、それらは簡単に実現してしまう可能性がある。
直近に迫った「国家イベント」で、どのように金が使われ、どのような広告戦略で、どのように人員が調達されるか、醒めた目で観察しておくのが良い。
* * *
夭折の詩人やミュージシャン、自殺した作家や表現者、主人公の「死」で終わる物語に心惹かれる若者は、心しておいた方が良い。
青年はサブカルチャーに一度死ぬ
そうした傾向を持つ若者の中には、短期的なハルマゲドン幻想に呑み込まれやすいタイプが一定数存在する。
心の中に抱え込んだ傷に突き動かされ、世界もろとも「純粋な今の自分」を燃やし尽くす幻想に憑依されるのだ。
そのような兆候を感じたら、教祖探しなどする前に、まず以下の一冊を手に取ってみることをお勧めしたい。
●「青春の夢と遊び」河合隼雄(岩波現代文庫)
死や世の終末、オカルトに惹かれることは、本来は青年期にありがちな心の傾きの一つだ。
この一冊は、そうした心情が決して「異常」ではなく、心の成長の大切な一過程であることが、ふわりと抱擁するような筆致で解説されている。
青年の心のハルマゲドンは、できれば個人の内面や表現行為の中で、収束させるのが望ましい。
ラストシーンを「ハッピーエンド」の形に持っていけるなら、なお良い。
それが可能になるよう手助けしてもらえる相談者こそ求めるべきで、カリスマ教祖である必要はないのだ。
人間は、いともあっさり死ぬことも確かにあるが、大多数はなかなか楽には死ねないものだ。
戦争や経済崩壊、事故や自然災害があったとしても、そんな破局状況の中で人は、食べたり眠ったり楽しんだり悲しんだりという日常生活を送っていかなければならない。
泥まみれ、汚染まみれで黄昏を迎えたこの娑婆で、もがきながらも生きて行くしかない。
あのテロ事件の教祖も信者も、「自作自演したハルマゲドン」以後の、気の遠くなるような長い長い日常を、今も生きている。
何よりも大切なのは、平凡な日常をしぶとく生きるタフさだ。
90年代の「青春ハルマゲドン」を生き残って(あるいは死に損なって)、本当にそう思う。
* * *
一年ほど前、映画「この世界の片隅に」を観た。
印象的な画面が目白押しの素晴らしい映画だったが、今でもたまに反芻するシーンがある。
終戦の場面である。
玉音放送を聴いた主人公・すずさんが、一人裏庭に出て、地面を叩きながら慟哭する。
その時の独白が、言葉通りに受け取ると非常に「好戦的」で、まるで敗戦を悔しがり、戦い抜きたがっているかのようなのだ。
(あの大人しいすずさんが、なぜ?)
そんな疑問を感じた人も、多かったのではないだろうか。
その時すずさんが感じた「悔しさ」、私はなんとなくわかる気がするのだ。
何度も書いてきたが、私は中高生の頃、カルト教団じみた、または戦前の軍国主義じみた、超スパルタ受験校に通い、過酷な体罰教育を受けてきた。
もちろん中高生としての楽しい思い出もたくさんあったのだが、反発が大きすぎて、卒業後はなるべく母校とは距離を置き、関わらずに過ごしてきた。
そして90年代、卒業から十年ほど経った頃、我が母校が進学実績の伸びと共に、ごく常識的な範囲の「普通の校風」に脱皮していったことを、風の便りに知った。
それ自体は「良いこと」で、後輩たちのことを考えれば、まことに好ましい変化だ。
しかし、私がその時反射的抱いたのは、「悔しさ」に似た感情だった。
カルトな校風に馴染めず、卒業せずに去っていった友人たちのことや、どうにかサバイバルした自分の感情が蘇ってきた。
そして、母校の「最高傑作」の一人でありながら、後にカルト教団に走ってしまった面識のない先輩のこと。
映画館でラストに近づく画面を観ながら、そんなことを思い返していた。
そう言えば映画の中のすずさんも、戦争で大切なものをたくさん失いながらも、淡々とした日常に還っていったのだった。
あの終盤の流れ、映画館の暗闇でひっそり涙しながら、見入ってしまった。
(「青春ハルマゲドン」の章、了)