2018年01月01日

2018年、新年のご挨拶

 新年あけましておめでとうございます。

 引き続きぼちぼちではありますけれども「人生でずっとやりたかったけれど、今までやれなかったこと」を形にしていきたいと思います。


 例年のごとく、ブログでは一回り前の年賀状に使ったデザインをアップしておきたいと思います。

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 戌年にちなんで馬琴の「八犬伝」をモチーフにしていました。
 参考文献は以下に。


●「完本 八犬伝の世界」高田衛 (ちくま学芸文庫)
 八犬伝は後世様々な解釈で再話され、今でもリメイクが続いている名作中の名作ですが、この本は馬琴の原著を徹底的に構造解析した一冊。
 知的好奇心を大いに満足させられる内容でした。

 イラストの方は、私のCG作品の中ではかなり初期のものですね。
 安物のペンタブレットを買い、ネットで拾ったフリーのペイントソフトで、一生懸命描いた覚えがあります。
 このペイントソフト、シンプル機能ながら中々の優れもので、筆圧対応のペンや水彩筆、消しゴムツールの描き味がほどよく、よく使っていました。
 最初のペンタブに安物を買ったのは失敗でした。
 苦労が多く楽しみが削られたので、ペンタブだけは「狭くてもいいから性能の良いものを!」という教訓を得ました。
 CGやペンタブレットについては、以前記事にしたことがあります。

 せっかくのペンタブ


 それでは神仏与太話ブログ「縁日草子」、今年もよろしくお付き合いください。
posted by 九郎 at 00:00| Comment(2) | 日記 | 更新情報をチェックする

2018年01月05日

PC環境再構築

 去年九月、九年モノのデスクトップXP機(オフライン専用)が、ついにクラッシュした。
 近所のPC修理屋に頼んでデータだけは無事取り出したが、しばらくサブのノートPCのみで過ごしていた。
 この2〜3年ほど、どちらかというとCGよりアナログ絵にをメインに制作していたので、ネットが出来て文章が打ち込めるノートPCさえあればなんとかなっていたのだが、さすがに「母艦」なしでは限界が来た。
 アナログ絵もデータ化して画質調整する必要があり、そんな時にはやはりノートでは無理がある。
 デジタルで修正したり加筆したりの編集作業には、デスクトップが不可欠だ。
 重い腰を上げ、年末にようやくデスクトップを新規購入した。
 動画編集や高画質のゲームを楽しむわけではないので、スペックは最低限で良い。
 画像管理や文書編集が中心の私の用途なら「売ってる中で一番安いの」でも十分だったりする。
 同じく十年以上使った骨董品ペンタブレット、サポートの切れたwordと共に買い直して、6万円以内に抑えた。

 しばらく使ってみたが、まだまだ慣らし運転が終らない。
 何しろXP以外のOSでの画像処理を、ほとんどやったことが無いのだ。
 色々勝手が違ったり、新しいペンタブの感触に馴染みが無かったり、各種フリーソフトを入れ直したりで苦戦中。
 しかしまあ、たまには新しい道具で刺激を受けるのも悪くないと、前向きに考えることにしている。

 こういう時にやることはたった一つ。
 とにかく席に付き、PCを起動し、手を動かすことだ。

 先延ばしにしてきた作業はいくらでもある(笑)
posted by 九郎 at 15:54| Comment(0) | 電脳覚書 | 更新情報をチェックする

2018年01月08日

絵本の哲人 加古里子

 先日、TVのニュースで絵本作家・加古里子(かこさとし)先生の新刊紹介があった。
 あの「だるまちゃんシリーズ」の最新作が、なんと三冊同時刊行されるという!


●「だるまちゃんとかまどんちゃん」
●「だるまちゃんとはやたちゃん」
●「だるまちゃんとキジムナちゃん」
(いずれも福音館書店)

 私は70年代生まれなので、かのシリーズについては当時刊行されていた初期数冊分は大好きで、小さい頃繰り返し読んでいた。
 一般的にはやはり「だるまちゃんとてんぐちゃん」が一番人気だと思う。


●「だるまちゃんとてんぐちゃん」
 もちろん私も大好きだったのだが、個人的には「だるまちゃんとかみなりちゃん」がフェイバリットだ。


●「だるまちゃんとかみなりちゃん」
 だるまちゃんが連れていかれたかみなりの国の描写が素晴らしい。
 パノラマ図で次々と紹介される、「かみなり文明」ともいうべき異世界に圧倒される。
 まずテンポの良い詞書にのせられて次々とページを繰っていく楽しみがあり、一通り読み終わると見開きの細部を隅々まで楽しむことで二度美味しいのだ。
 大人になって読み返すと、作者の「演出」の妙に唸りつつまた楽しめる、一生ものの一冊である。

 幼少の頃、絵本は母親が存分に買い与えてくれて、なかでも加古里子の本は母子ともにお気に入りだった。
 母も父も、寝る前にけっこう読み聞かせをしてくれたので、私と二歳下の弟は共に本好きになった。
 加古里子の絵本から入って読書の楽しみに目覚めた子供は、たぶん膨大な人数になるはずだ。
 科学絵本も数多く制作されていたので、小学生になってからも加古里子作品はずっと追っていた。
 さすがに中高生以上になると読まなくなっていたが、十年ほど前にまた絵本に興味が出た。
 ちょうどその頃、恥ずかしながら絵本の文章パートを書く機会があり、その勉強もかねて書店や図書館を渡り歩くようになった。
 そして書店の絵本コーナーに行ってみると、懐かしい「だるまちゃんシリーズ」や「からすのパンやさん」「どろぼうがっこう」等の作品に、三十年の時を経ていっぱい続編が制作されているのを知り、驚愕した。
「え! かこ先生って今おいくつ?」
 調べてみると、その頃すでに八十歳を超えておられたのだった。
 絵を拝見する限り、ちょっと視力が落ちておられるのかなという気はした。
 しかしそれは必ずしもマイナスには働いておらず、ふわりと柔らかな絵の雰囲気には、新たな魅力を感じた。
 それぞれの年齢で描ける絵がある、視えない中でも描ける絵があるということは、本当に素晴らしい。

 子供の頃はただただ絵本に入り込むばかりだったが、大人になって読み返す加古里子作品には、「繰り出される妙技に酔う」という新たな楽しみがある。
 声に出して読み、ページをめくる。
 見開きの絵と詞書の配列が最適かつ簡潔で、次の見開きが目に飛び込んでくる「間」に唸る。
 絵本としては文字数多めの作品が多いのだが、構成の上手さで無理なく読めてしまう。
 そうした創作技術は、以下の本でかなり詳しく紹介されている。


●「絵本への道」加古里子(福音館書店)
 前半は自伝的な構成になっている。
 それによると先生は若い頃演劇や紙芝居を経験し、働きながら徐々に絵本の世界に入っていったとのこと。
 不特定多数の読者に対する作品を手がける以前に、観客(とくに子供)直接対面する形の表現をやっておられたことが、あの構成の妙を生んだのだなと、あらためて納得できる。
 人形劇、紙芝居、絵本、マンガ、それぞれの表現形式違いが事細かに解説してあり、かなり理詰めで制作しておられるのがよく分かる。
 絵本に限らずビジュアル表現、とくに作品内に「時間の流れ」がある表現形式を志す人にとっては、必携の一冊ではないだろうか。

     *     *     *

 そして今、九十歳を超えた絵本の哲人・加古里子、まもなくの三冊同時刊行である。
 いざ絵本コーナーへ!
posted by 九郎 at 23:49| Comment(0) | 児童文学 | 更新情報をチェックする

2018年01月17日

カテゴリ「平井和正」

 本日1月17日は、阪神淡路大震災のメモリアルだ。
 私の被災体験、そしてその前後の90年代に見聞きしてきたことの多くは、カテゴリ:90年代として書き続けてきた。

 生涯忘れ得ぬこの日付なのだが、三年前からは新たな意味が加わった。
 青春期にあった私が最も敬愛していた作家・平井和正が亡くなった日でもあるのだ。

 平井和正は60年代の日本SF創成期から活躍し、現行枚数が万を超える壮大ななシリーズを複数抱えた人気作家である。
 中でも終生のテーマとして「ハルマゲドン」を追求し続けたことは、上掲カテゴリ:90年代でも度々紹介してきた。

 私は80年代の中高生の頃から熱烈な愛読者になり、ほぼ全作品を読み尽くしてきた。
 90年代のカタストロフ、狂乱を乗り越えられたのは、平井作品のおかげであったと言っても過言ではない。
 思い入れが強すぎてかえって語りづらく、ずっと記事には出来ずにいたのだが、去年あたりからようやく筆が進み始めた。
 ぼちぼち、作品紹介や手持ちのイラストをアップしていきたい。


 初回は代表作「幻魔大戦」より、サイボーグ戦士ベガと恋人アリエータ。
 数年前に描いたものだが、発表のあてがないままになっていた。

 ベガのデザインとしては、60年代石森章太郎マンガ版や、80年代の小説版の生頼範義イラスト、角川映画版の大友克洋版などが人気だと思う。



 そうした私も大好きな先行デザインを参考に、小説の描写からイメージを膨らませる。

 何度も改造を繰り返され、全身兵器の塊と化した怪異な姿。
 戦闘マシーンの身体に閉じ込められた、孤独な少年の魂。

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posted by 九郎 at 22:44| Comment(2) | 平井和正 | 更新情報をチェックする

2018年01月22日

まとまらぬままに、心と身体

 西部邁さんがお亡くなりになった。
 状況から「入水自殺」とされているようだが、一種の「自決」ではないだろうか。
 私は世代的に、90年代「朝生」での激論から西部邁を知った。
 私はまあ、当時からパワーバランスとしての心情左翼だったので、TVでの論客ぶりはあまり好きではなかった。
 それでもたまに「本音」や「情」が垣間見える瞬間があって、保守派の中でも別格的に気になる存在ではあった。
 2000年代以降は、佐高信や宮崎学ら「左」の論客との対談本はよく読んだ。
 その頃になってはじめて、西部邁の真価に触れた気がした。

 自殺という在り方は簡単には肯定できない。
 しかし西部邁のような人が、自分の「生き方」として選んだであろう死を、簡単に否定することもできない気はする。

 直接関係ないけれども、最近ふと気になった呟きがあった。
 もと衆院議員で精神科医の水島広子さんのTwitterでの投稿だ。
 以下に引用してみよう。

私がよく患者さんに言うこと。「人間はなぜ生きなければならないのだろうか」という感じの悩みは、うつの症状だと思います。なぜなら、治ると現実生活に充実感が出てくるので「そんなこと考えても仕方ない」になるからです。闇をいくら探しても闇しかないのです。どうぞ光に触れてください。


 これも、まあ一般的にはその通りではないかと思う。
 ただ、何か表現をしようとする人間は、闇を丹念に掘り返す作業が必須ではないかとも思う。
 振り返ってみると90年代後半の私は、当時そのような認識は持っていなかったが、「うつ」に片足くらいは突っ込んでいたのかもしれない。

 祭の影-1
 祭の影-2

 自分なりに延々と「闇」を掘り返し続けながらも、娑婆でやっていく気になれたのは、様々な出会いのおかげだ。

 本をさがして-1
 本をさがして-2
 本をさがして-3
 本をさがして-4
 へんろみち-1
 へんろみち-2
 へんろみち-3
 へんろみち-4

 今の時点では、私が「自ら命を絶つ」という選択肢はない。
 基本的に、生老病死は「自然」に属するものであって、人為で制御するものではないと考える。
 思いがけず「授かる」のが命で、自然現象なのだから、急に電車の中で生まれてしまうことだってある。
 生まれてくる命は、前提として肯定すべしと考える。

 そして、思いがけずやってくる病や死に対して、できるのはリアクションだけだ。
 良いリアクションができるよう、精進はしたい。

 まとまらぬままに、いずれ来る死を折々で考える。
posted by 九郎 at 22:54| Comment(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする

2018年01月27日

イラスト魔神、封印は解かれた!

 先週から通販の告知があった「生ョ範義展図録」滑り込みでゲットオオオオ!

 年頭から上野の森美術館で開催されている生頼範義展については、もちろん、もちろん、知っていて、数限りないネットのレビューを読み漁っていた。

 生頼範義

 敬愛してやまないイラスト魔神については、当ブログでもカテゴリを設けて語り続けてきた。
 2016年、明石で開催された展覧会には通い詰めて、上掲カテゴリでレビューを書きまくった。
 生頼範義展覧会が極めて盛況の今では想像しにくいかもしれないが、2016年明石では客足が少なくて、ほとんど独占的に鑑賞できたんですよ(苦笑)
 あのガラガラぶりは、ある意味「伝説」として後世に語り継がれるかもしれず、私は歴史の目撃者になったのかもしれない!

 今回の展示も、本当に本当に行きたかった。
 魔神のあの600号の幻の傑作「破壊される人間」も展示されるとあっては、もうじっとしていられない気持ちだったのだが、残念ながら一つの美術展を見に行くためだけに上京できる身分ではない。
 血の涙を流しながら、それでも図録だけは何としても入手したくて、通販の告知を知ってからすぐ申し込み、なんとか間に合った!
 今回の図録のお目当ても、何と言っても最大傑作「破壊される人間」のサイズの大きな図版だ。
 カバー裏全面を使った図版を、届いてからずっと飽きずに眺め続けている。

 生頼範義は日本を代表する商業イラストレーターであるけれども、この大作は「商売抜き」で描かれた。
 納期のあるイラスト仕事の合間に、準部も含めると十年近くの歳月を描き続けたという「絵画」作品だ。

 プロにこういうことをさると、ちょっと困ってしまうのである。
 プロはプロとして、採算と納期の枠内で仕事をしてもらわないと、困ってしまうのである。
 採算度外視、納期無しは、本来アマチュアの「シマ」だ。
 プロ中のプロである生頼範義のような人がアマチュアのシマを奪ってしまうと、後にはぺんぺん草も生えなくなってしまうのである。
 凄いのである。
 本当に凄いのである。
 いつか必ず、実物を観たい。
 観られるようになりたい。

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 今回の展覧会残り一週間、とっとと観に行くがいい!
 東京の人間ども!
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2018年01月29日

「剛速球」の思い出

 一月も終わろうとしている。
 年度末へ向け、なんだかんだとやることが多く、日々感じたことも忙しさに押し流されてしまいがちだが、なるべく書き留めておきたい。

 1.17の阪神淡路大震災メモリアルを前に、目にとまったニュースがあった。

――松村邦洋が炊き出しを続ける理由 神戸・長田

 そんなヘッドラインで、タレントの松村邦洋さんの活動を紹介した記事だった。
 熱狂的な阪神ファンで知られる松村さんが、長田区出身の元阪神サウスポー投手との交流をきっかけに、毎年この日に炊き出しイベントをするようになったと言う。
 残念ながらその元投手、安達智次郎さんは2016年、41歳の若さで亡くなってしまったが、今も炊き出しは続けている――

 一読して「あ! あの安達投手がお亡くなりになっていたのか!」と今さら知り、驚いた。
 一軍での登板機会に恵まれなかった投手なので、阪神ファンでも知らない人が多いかもしれないが、私にとっては印象に残る名前だった。
 以下、事実関係に記憶違いもあるかもしれないが、覚えているまま書いてみよう。

 とくに野球ファンというわけでもない私が、安達智次郎さんの存在を偶然知ったのは、90年代初頭、甲子園大会地区予選でのことだった。
 私は当時大学生で、母校の野球部が珍しく二回戦に進出したという話を人づてに聞いた。
 我が母校は、何度か紹介してきた通りの超スパルタ受験校であり、当時の部活は極めて低調。
 野球部もその例にもれず、一回戦敗退、それもコールドゲームが常だったので、その年は「奇跡」が起こったように感じられた
(ああ、あの先生、喜んでるだろうな……)
 噂を聞いた私は、野球部も担当していた英語の先生の顔を思い出した。
 体罰上等のカルト教団じみた私立校だったので、先生に対して親しみを持てるような環境ではなかったが、ごく少数の例外もあった。
 母校出身、新卒で帰ってきたその先生は、高校生の私たちと年齢が近かったし、何より「同じ地獄」を潜り抜けた先輩でもあったのだ。
 受験校なのに美術系志望の変わり種だった私に、授業以外でも声をかけてくれる数少ない先生の内の一人でもあった。
 二回戦が行われるのが、高校の頃よく遊んでいた公園内にある球場で、懐かしさもあって応援に行ってみることにした。
 当日の球場で、件の野球部の先生と出くわした。
「おお、来てくれたんか」
 先生は笑いながら言った。
「今年のチームはちょっとだけ強いんやけどな、今日は相手が悪いわ」
 その日の対戦相手が、高校時代の安達投手がエースの神戸村野工高だったのだ。
 まだ二回戦、しかも格下相手ということで、当然ながら相手チームはエース温存で試合が始まった。
 我が母校の野球部もそれなりに奮戦した。
 リードを許しながらも終盤にチャンスを作り、相手方エースを引っぱり出したのだ。
 マウンドに立った安達投手の姿は鮮烈だった。
 当時、かなり細身だったと記憶しているが、投げる球のレベルが、もう全く違っていた。
 野球マンガで言いう「剛速球」とは、こういうことかと思った。
 今調べると高校時代の安達投手は、実際に140キロ台後半を投げていたようなので、私の記憶もさほど過大なものではないはずだ。
(ああ、これはもうしょーがない! こんな球投げられたら、うちの選手も先生も負けて本望だろう!)
 試合結果は極めて順当に、母校の二回戦敗退で終わった。

 次に私が安達投手の名を目にしたのは、92年ドラフトのニュースだった。
 松井秀喜を外した阪神に、ドラフト1位指名で入団。
 外れ1位とは言え、相手はあの松井秀喜である。
 エース候補として堂々の入団だったと記憶している。
 ほんの一度だけだが高校時代の雄姿を見ていた私は、
「ああいう選手がプロになるんだなあ」
 と、感慨を新たにしながらニュースを見ていた。
 しかし、その後長らく、安達投手の姿を見ることはなかった。

 最後に私が安達投手の姿を目にしたのは、99年。
 阪神の監督に就任した野村克也さんの動向を報じるスポーツニュースの中でのことだった。
 あれこれチームの立て直しに取り組む中で、投手として結果が出ないままに二軍で外野に転向していた安達選手に、投手復帰を促すシーンがあった。
 再生工場と呼ばれたノムさんの目にも、「このまま終わらせるには惜しい」と感じさせる何かがあったのだろう。
 残念ながら再生ならず、この年現役引退。
 野村監督は翌年、打撃投手として安達さんを再び招いており、そこには優れた素質に対する「情」を感じる。

 安達智次郎さんの、とくにフィジカル面の才能は、超一級だったはずだ。
 子供の頃は小児がんを患い、スポーツもままならなかったという。
 中学でも「野球漬け」では全くなく、本格的に投手を始めたのは高校からで、ごく短期間で剛速球を投げてしまうのだから、まさに「天才」という他ない。
 プロで大成しなかった原因は色々あるのだろうけれども、微妙なバランス、巡り合わせ次第で、活躍できる可能性もたくさんあったのではないだろうか。
 才能の開花の難しさ、心と身体のバランスの不思議さを見る思いがする。

 引退後の安達さんは、少年野球の指導に力を尽くしていたという。
 子供の長所を伸ばす、良い先生だったに違いない。
posted by 九郎 at 21:22| Comment(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする