2018年01月22日

まとまらぬままに、心と身体

 西部邁さんがお亡くなりになった。
 状況から「入水自殺」とされているようだが、一種の「自決」ではないだろうか。
 私は世代的に、90年代「朝生」での激論から西部邁を知った。
 私はまあ、当時からパワーバランスとしての心情左翼だったので、TVでの論客ぶりはあまり好きではなかった。
 それでもたまに「本音」や「情」が垣間見える瞬間があって、保守派の中でも別格的に気になる存在ではあった。
 2000年代以降は、佐高信や宮崎学ら「左」の論客との対談本はよく読んだ。
 その頃になってはじめて、西部邁の真価に触れた気がした。

 自殺という在り方は簡単には肯定できない。
 しかし西部邁のような人が、自分の「生き方」として選んだであろう死を、簡単に否定することもできない気はする。

 直接関係ないけれども、最近ふと気になった呟きがあった。
 もと衆院議員で精神科医の水島広子さんのTwitterでの投稿だ。
 以下に引用してみよう。

私がよく患者さんに言うこと。「人間はなぜ生きなければならないのだろうか」という感じの悩みは、うつの症状だと思います。なぜなら、治ると現実生活に充実感が出てくるので「そんなこと考えても仕方ない」になるからです。闇をいくら探しても闇しかないのです。どうぞ光に触れてください。


 これも、まあ一般的にはその通りではないかと思う。
 ただ、何か表現をしようとする人間は、闇を丹念に掘り返す作業が必須ではないかとも思う。
 振り返ってみると90年代後半の私は、当時そのような認識は持っていなかったが、「うつ」に片足くらいは突っ込んでいたのかもしれない。

 祭の影-1
 祭の影-2

 自分なりに延々と「闇」を掘り返し続けながらも、娑婆でやっていく気になれたのは、様々な出会いのおかげだ。

 本をさがして-1
 本をさがして-2
 本をさがして-3
 本をさがして-4
 へんろみち-1
 へんろみち-2
 へんろみち-3
 へんろみち-4

 今の時点では、私が「自ら命を絶つ」という選択肢はない。
 基本的に、生老病死は「自然」に属するものであって、人為で制御するものではないと考える。
 思いがけず「授かる」のが命で、自然現象なのだから、急に電車の中で生まれてしまうことだってある。
 生まれてくる命は、前提として肯定すべしと考える。

 そして、思いがけずやってくる病や死に対して、できるのはリアクションだけだ。
 良いリアクションができるよう、精進はしたい。

 まとまらぬままに、いずれ来る死を折々で考える。
posted by 九郎 at 22:54| Comment(0) | 身体との対話 | 更新情報をチェックする