2018年02月10日

しゅうりりえんえん

 本日、作家の石牟礼道子さんがお亡くなりになったという。90歳。
 ご高齢であり、もうずっと長く闘病なさっていることは書籍などで読んでいたのだが、訃報を聞くとやはりショックはある。
 石牟礼道子の名は子供の頃から知っていて、ずっと気になる語り手だった。
 しかし、テーマの重さから中々手が出せず、結局これまでに読んだのは、数冊の作品と、数冊の関連書だけだった。
 逆に言えば、これから読むべき本がまだまだ残されていることになる。
 今後少しずつ、手に取っていきたい。

 当ブログ内を検索してみると、石牟礼道子関連では、過去に何度か記事を書いてきている。
 内容を振り返りながら、今日この日の覚書にしておきたい。

     *     *     *

 石牟礼道子と言えば、やはり水俣病の惨禍の語り部としての活動が浮かぶ。


●「苦海浄土」石牟礼道子

 私は70年代初頭の生まれなので、子供の頃、公害問題は既に社会科の教科書にも掲載されていた。
 学校教材以外にも、様々な場面で公害を扱った文章や写真、映像に触れる機会があった。
 その中で、子供心にとても印象的だった写真の記憶がある。
 白っぽい着物の人たちが、黒い旗を林立させている。
 白黒写真なので、もしかしたら本当は違う色なのかもしれなかったが、見慣れない装束の白と、幟旗の黒の対比が強烈だ。
 そして黒旗には異様な漢字一文字が白く染め抜かれている。
 「怨」
 子供の私はまだその漢字の読みと意味を知らない。
 後にマンガ「はだしのゲン」で、被爆者の白骨死体の額部分に同じ文字が描きこまれるシーンを読み、ようやく私は「怨」という文字の読みと意味を知った。
 いつ、どこでその写真を目にしたのか、はっきりとは覚えていない。
 もしかしたら、同じような写真を見た複数回の記憶をごっちゃにしている可能性もある。
 ずっと後になって、私はその写真が水俣病患者の皆さんを写したものだということを知った。
 1970年、水俣病の加害企業であるチッソが大阪で株主総会を開いた時、はるばる水俣から株主としての患者の皆さんが乗りこんできたワンシーンだったのだ。
 お遍路に使用する白装束に「怨」の黒旗、そして総会の場で死者を鎮魂するための御詠歌を朗々と合唱する姿。
 それは一方的に虐殺され、何の武器も持たされないままに闘わざるを得なかった庶民が、国と巨大企業に向けて突き刺した精一杯の哀しい刃だっただろう。
 経済の最先端の場で、被害者のやり場のない感情を、祖先より伝来された習俗に乗せて真正面から叩きつける。
 物質次元においてはまったく無力な抵抗だったかもしれないが、心の次元においては凄まじい威力を発揮したに違いない。
 この「怨」の幟旗による抗議を発案したのが石牟礼道子であったらしいことを、さらにずっと後になってから知った。
 私はごく幼い頃から、この作家の「言魂」に影響を受けてきたことになる。

 70年代から80年代にかけて子供時代を過ごした私は、社会科教育や様々なメディアを通して、公害や環境の問題について、自然と関心を持ち、学んできた。
 その関心の持ち方にはたぶん、弱視児童であった私自身の生い立ちも関係している。
 
 水俣病の経緯を、おおよそ20年ごとに、ごく簡単に(本来はあまり簡単にまとめてしまってはいけないのだが)概観すると以下のようになると思う。

 1950年代、地元企業による汚染で「水俣病」が発生。
 1970年代近くになって、ようやくその企業が汚染源であると断定。
 1990年代、水俣湾は美しさを回復しつつも、公害病認定をめぐる訴訟はいまだ継続。
 2012年7月31日、水俣病被害者救済特別措置法に基づく救済策の申請が、国により一方的に締め切られる。

 凄惨な公害の、被害者の多くが、数十年の単位で救済されないまま切り捨てられ、分断され、差別され、いまだにそれが継続している現実がある。

 ついでながら、「とある政治家にして作家」の言動も、並行した20年刻みでまとめてみる。
 
 1977年の環境庁長官当時、陳情に来た水俣病患者の団体を門前払いにしてテニスに興じる。直訴文を「IQの低い人が書いたような字だ」と発言。さらに「補償金目当てのニセ患者もいる」と発言し、問題化。後に患者に対して土下座。
 1990年代末、知事就任。重度障害者施設を視察後、「ああいう人ってのは人格あるのかね」と発言。
 2011年3月14日、東日本大震災について、「日本人のアイデンティティーは我欲、物欲、金銭欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言。

 このような人物が、長らく政治家として影響力を行使し、作家として活動を続けることができること自体、奇異に感じられる。
 少なくとも私の思う「作家」は、このような粗雑な精神の持ち主ではない。

 こうした原因企業及び国による、被害者切り捨ての在り様は、今後ますます周知され、記録と記憶に刻み込まれなければならない。
 なぜなら3.11以降の日本は、電力会社と国による、低線量被曝の人体実験の場と化してしまった感があるからだ。
 高度成長期に生み出された公害という地獄を経験し、日本は環境汚染に対して、それなりの規制は行うようになってきていた。
 放射線被曝に関しては、年間1ミリシーベルトのラインが設定され、まだよくわかっていない健康被害に対して予防的にきびしめの法規制が敷かれてきた。
 そうした過去に学ぶ姿勢が、3.11をきっかけに、国と一私企業が振りかざす偽りの「経済性」により、いとも簡単に投げ捨てられてしまい、放射能に関する様々な違法状態が、平然と放置される蛮行がまかり通っている。
 これからの20年後、40年後、60年後に何が起こるのか?
 それは祖型として既に示されているかもしれない。

 2010年と2011年、縁あって私は水俣の地に招いていただき、海を望む機会があった。

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 怖いくらいに美しい海を前にして、言葉が出てこなかった。
 そして二度目の水俣から帰ってきた直後、3.11を迎えてしまった。

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 水俣を語り継ぐ本は数あれど、まずは以下の一冊を開いてみてほしい。
 本物の作家、本物の絵師による、美しい絵本である。


●「みなまた海のこえ」石牟礼道子 丸木俊 丸木位里(小峰書店)


 2015年9月、書店でタイトルを見た瞬間に衝撃を受けた本があった。
 著者名を見て即買いし、読み耽った。


●「ふたり 皇后美智子と石牟礼道子」高山文彦(講談社)

 メインタイトル「ふたり」に表されている通り、様々な「ふたり」の関係がルポされている。
 中でも主軸になるのが、二人のミチコ、サブタイトルの「皇后美智子と石牟礼道子」である。
 皇后と、水俣の語り部にして「苦海浄土」の著者・石牟礼道子。
 立場も含め、全てが遠く隔たった二人に、いかなる関係が存在するのか?
 私は水俣と天皇家の「つながり」については多少の知識があったので、息を殺しながら、時間をかけて丁寧に読み進めた。
 結果、確かに二人のミチコの間には強い絆が存在すると納得した。
 それも、簡単にお互いへの敬意とか友情とか表現できるような絆ではない。
 そうした感情はもちろん含まれているだろうけれども、それはもっと激しく鋭利なものなのではないかと感じた。
 孤独な二人の幼女が、泣き叫びながら白刃を突き付け合って、それでもお互いから目を離せないでいる。
 あくまで私の勝手な想像だが、そんなイメージが浮かんでくる。
 読後からかなり時間の経った今でもこんな感想の断片しか書けないのだが、これからも折に触れ、読み返したい一冊である。
 これまでに読んだ本の中から、(ごく私的な捉え方として)深く関連すると考えるものを挙げておきたい。


●「なみだふるはな」石牟礼道子 藤原新也(河出書房新社)
●「黄泉の犬」藤原新也(文春文庫)


 そして昨年、映画「この世界の片隅に」を観たときのこと。
 原爆投下に至るまでの広島の庶民の暮らしを、丁寧に丁寧に、情感をこめて絵にしていく描写が、破壊の闇を一層深く抉り出す様を観ながら、なんとなく石牟礼道子の著作のことを思い出していた。
 水俣の語り部であるかの作家も、公害の惨禍だけでなく、それ以前の美しく懐かしい水俣の海山、民俗の在り様を、作品として結晶させ続けてきた。
 作品に少し「異界」とか「幻視」の要素が含まれていることも、共通しているように感じる。
 理不尽な暴虐に対する時、失われたものの美しさを描き残すことこそが、もっとも強い力を発揮することもあるのだ。
 そう言えば3.11後の反原発デモでも、幾多の力のこもった演説にもまして多くの人の心を打ったのは、唱歌「ふるさと」の合唱だった。


【唱歌 故郷(ふるさと)】(3分20秒/mp3ファイル/6MB)

 主著「苦海浄土」ほどには知られていないけれども、石牟礼道子の作品には、美しく懐かしい「異界」を描いたものがいくつもある。
 私が何度か読み返したのは、以下の一冊。


●「水はみどろの宮」(平凡社)

 言葉ということ、物語ということを、これからもう一度味わいなおしてみたい。
posted by 九郎 at 23:53| Comment(0) | | 更新情報をチェックする