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2018年03月25日

90年代スーパーロボット再評価

 80年代、とくに前半のTVアニメは、「機動戦士ガンダム」から始まったリアルロボット路線が隆盛した。
 そしてスーパーロボット路線がやや下火なまま時が流れた90年代初頭、アニメ「ゲッターロボ號」によってゲッターシリーズが再起動された。
 70年代ゲッターは合体変形に「マンガ・アニメ的なウソ」が多く、玩具ではそのギミックが再現されなかった。
 新しい90年代ゲッターは、そうした欠点を克服した上での再起動だった。
 80年代に飛躍的に進化したリアルなメカニックデザインや変形技術を吸収し、「実際に三機による三種類の合体変形ができるゲッター」としてリファインされたのだ。
 この作品も、そもそもはTVアニメ版先行の企画であったが、同時進行で執筆された石川賢によるマンガ版は、70年代マンガ版ゲッターの直接の続編として独自にストーリーが展開された。


●「ゲッターロボ號」
 前半の精緻なストーリー展開と、終盤のダイナミックプロ的な「暴走」のバランスが絶妙で、個人的に石川賢の最高傑作ではないかと思っている。
 中盤で世界各国のスーパーロボットチームが終結し、内部抗争を経て共闘する展開は、何度読んでも面白い。
 後に映画「パシフィックリム」を観た時、「このスタッフ、ぜったい石川賢読んでるやろ!」と思ったことを覚えている。

 その後も時間軸はやや前後しながら、ゲッターロボシリーズは「真ゲッターロボ」「ゲッターロボアーク」と、2003年まで描き継がれ、スケールの大きなSFサーガとして、石川賢の代表作に成長した。
 リアルロボット路線を経て目の肥えた年長のファン層にも十分応える水準に達し、ゲームとも連動して再評価につながったのだ。


●「真ゲッターロボ」
●「ゲッターロボアーク」

 スーパーロボットの創出者たる永井豪自身が、「Z」のマンガに全力を傾注する機会も、90年代初頭に連載された未完の大作「マジンサーガ」(90〜92年、週刊ヤングジャンプ連載)を待たなければならなかった。
 近未来の火星を主な舞台に、「マジンガ―Z」「グレートマジンガ―」「グレンダイザ―」に登場するキャラクター達が少しずつ役柄を変えながら登場するだけでなく、永井豪の過去作品の中から様々なイメージが再投影されている。
 70年代の「Z」とはまったく別作品で、実を言えば「スーパーロボット」ですらないのだが、青年誌連載で制約が少ない分、存分に永井豪の持ち味が発揮されている。
 さしずめ「スーパー永井豪ワールド大戦」と言った趣のある大活劇で、一読の価値はある。
 現在手に入りやすいのは数年前に再刊された以下の版。


●「マジンサーガ」

 連載当時から大幅な加筆があるが、それでも未完。
 永井豪の絵柄は90年代以降大きく変わってはいないので、加筆分もさほど違和感無く楽しめる。
 とくに戦闘シーンの加筆には、故・石川賢の作画スタッフが参加していると思われ、直近まで「ゲッターロボ」シリーズ等で練り上げられた描写力がよく活かされていると感じた。
 ダイナミックプロによるスーパーロボット路線の、現時点での最終到達点と言えるだろう。
(続く)
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2018年03月26日

70年代永井豪の「魔神懸かり」

 70年代、永井豪は「スーパーロボット」というサブカルチャーの巨大市場を産み落とした。
 これはTVアニメ、玩具販売と連動したチームプレイの産物であったが、より個人の力が発揮されるマンガ連載においても、同時期の永井豪は凄まじい作品を連発していた。

 永井豪の出世作とされているのが68年〜72年まで連載された「ハレンチ学園」である。
 掲載誌は当時創刊されたばかりの週刊少年ジャンプで、実写ドラマ化もされたこの作品のヒットにより、雑誌の人気も定着していった。
 当時の少年誌としては「過激」なエロ描写を導入したギャグ作品で、永井豪は「先鋭的なギャグ漫画家」、「週刊少年ジャンプの立役者」として、まずは地歩を築いたのだ。
 今の眼で見るとなんということもないエロ描写も、表現の開拓時代には激しい批判にさらされた。
 各地の教育委員会やPTAから目の敵にされ、焚書に近い扱いも受けたという。
 そうした「魔女狩り」にも似たヒステリックな排斥運動は作品にも反映され、作中の「ハレンチ大戦争編」では、排斥側とレギュラーキャラが激しい殺し合いを演じるまでにエスカレートした。
 他愛のないギャグで始まった作品が、一種の「終末」を描く展開へと暴走したのだ。


●「ハレンチ学園」

 同時期にはもうひとつ、飛び抜けたギャグの傑作が「少年マガジン」に連載されている。


●「オモライくん」
 マンガ史上でも空前絶後の「不潔マンガ」である。
 物乞いの少年を主人公に、徹底的に「不潔」を極めたギャグは、あの筒井康隆が熱烈に称賛したことでも知られる。
 エロとは全く別の意味で、現在なら絶対連載不可能な作品である。
 しかし、汚物で埋め尽くされたストーリーの果てには、「命」の強さ、美しさが輝く感動の最終回が待っている。


 ギャグ作家としての実績を足掛かりに、70年前後からの永井豪は本来志向していたSF作品に傾斜していった。
 その代表が、73年から週刊少年マガジン連載された「デビルマン」だった。
 当時の永井豪の才能と狂気が結晶したような、日本マンガ史上最大級の問題作である。
 テーマがシリアスになり、作画密度が濃くなっていくにつれ、作品で描かれる「終末感」は、さらに強烈に研ぎ澄まされていった。
 前作「ハレンチ学園」でのエロ描写に続き、「デビルマン」ではアメコミ調の筋肉描写、血がしぶき肉が引き裂かれる激しいバイオレンス描写が導入された。
 永井豪は、少年誌における性と暴力の表現の開拓者であったのだ。

 私は14歳の頃、はじめてこの漫画版を読んだ。
 初出時からはかなり年数がたっていたが、昔は今よりずっと書店の本の回転が緩やかで、過去の名作が店頭に健在だったのだ。
 それまでにも石川賢マンガ版「ウルトラマンタロウ」や、TVアニメの「デビルマン」「マジンガーZ」「ゲッターロボ」などは大好きだった。
 私の世代は永井豪率いるダイナミックプロの作風で育ったような所があったのだが、漫画「デビルマン」の衝撃は、それまでとは全くレベルが違っていた。
 子供の頃好きだったアニメ版とは、基本設定に共通点はあるものの、ビジュアルもストーリーも完全に別物だった。
 凶悪なデーモンの合体を受け、狂った破壊衝動と正気の間でのた打ち回る主人公・不動明。
 悪魔と合体しつつも、最後まで自分自身の精神を守った主人公の姿は、読んだ当時の14歳という年齢のもたらす不安定な心身と同期して、まるでわがことのように感じられた。
 貪るように何度も繰り返し再読したため、コミック全五巻の内容を全て頭の中に再現できるようになった。
 寝ても覚めても「デビルマン」のことを考え続け、街中で「ビル・マンション」と書いてある看板が視界に入ると思わず振り返ったこともあった(笑)
 もちろん絵の模写もたくさん描いた。
 今風に言うなら完全に「中二病」なのだが、読むこと、描くことで癒される何者かが、確実に当時の私の中にあったのだ。
 私が「14歳の狂気」を乗り切れたのは、この漫画「デビルマン」のおかげと言っても過言ではない。
 
 今現在「自分の中の凶暴な何者か」と対決中の少年少女には是非手に取ってほしい本作だが、入手の際には注意が必要だ。
 多くの加筆バージョンや続編が刊行されているので、なるべく初出に近いものを手に取ってほしいのだ。
 敬愛してやまない永井豪先生には大変申し訳ないのだが、この作品ばかりは加筆が入る度にバランスが悪くなっていくように感じる。
 絵描き目線で言えば、技術的に未熟な(と本人には思える)過去の絵を直したくなる心情は痛いほどわかる。
 しかし作品というものは時として、作家自身にすらうかつに手を出せない、危ういバランスの上に成立した脆く美しい結晶体になるものだ。
 後年の加筆が少ないバージョンで、今現在入手し易いのが、以下の三種である。


●「デビルマン 愛蔵版」永井豪(KCデラックス)
●「デビルマン 全三巻」永井豪(KCスペシャル)
●「デビルマン 完全復刻盤 全五巻」永井豪(KCコミックス)

 そして今回の「画業50周年」を記念して刊行されたのが、以下の三巻完結版。


●「デビルマン THE FIRST」
 連載当時の誌面を、サイズはそのまま、紙質と印刷を高品質にした全三巻。
 本当に長らく待望されていた、この歴史的名作に相応しい仕様の単行本がついに出た!

 序盤の作画にはさすがに時代を感じるが、ストーリーの衝撃は全く色褪せない。
 デーモンの無差別合体、第一次総攻撃を受け、人類が疑心暗鬼から相互に監視し合い、殺し合って自滅していく展開は、テロと分断の時代を迎えた今読むと、改めて慄然とさせられるのである。

 連載時の「デビルマン」は、必ずしも大ヒットした作品とは言えなかったが、後のエンタメ作品に与えた影響は計り知れない。
 現代から近未来を舞台にしながら、神や悪魔や妖怪、科学技術と呪術が混在する「伝奇SF」の世界観は、以後エンタメの一大ジャンルとして成長することになる。


 完膚なきまでに世界を滅亡させた「デビルマン」完結直後、その破滅の風景を引き継ぐように執筆開始されたのが「バイオレンスジャック」だった。
 73年から週刊少年マガジンで連載が開始されたこの作品は、巨大地震で破壊され、隔絶され、戦国時代さながらの無法地帯と化した関東を舞台とする。
 弱肉強食の荒野に忽然と現れた謎の巨人・バイオレンスジャックと、怪異な鎧を身にまとう魔王・スラムキング、そして懸命のサバイバルを続ける孤児集団の少年リーダー・逞馬竜を軸に、野望と絶望、希望渦巻く物語は展開されていく。
 今でこそ「近未来の破壊された無法地帯」という舞台設定は描き尽された感があるが、「バイオレンスジャック」は世界的に見てもかなり発表時期が早かった。
 映画「マッドマックス」より先行しているのである。
 74年に週刊連載終了後、月刊少年マガジンで77年〜78年まで連載された本作は、続く80年代、奔流のように描かれるようになった「終末後」という作品テーマの嚆矢となった。


●「バイオレンスジャック」(少年マガジン版)

 70年代の永井豪は、「全盛期」にあった。
 ここまで紹介してきた「ハレンチ学園」「マジンガーZ」「オモライくん」「デビルマン」「バイオレンスジャック」以外にも、「キューティーハニー」「手天童子」「凄ノ王」等々、ここにはとても書ききれないほど、マンガ史に残る傑作の数々を集中的に執筆している。


●「手天童子」「凄ノ王」

 まさに神か悪魔が取り憑いているとしか思えないような「魔神懸かり」の状態で、中でも突出した異常な傑作が「デビルマン」だったのだ。
(続く)
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2018年03月27日

今日もどこかで

 怒涛の70年代を通過した後の83年、永井豪は「バイオレンスジャック」の掲載誌を青年誌「週刊漫画ゴラク」に移し、再開させた。
 読者の間口の広さと引き換えに表現に制約の多い少年誌を離脱し、性と暴力の描写を存分に叩き込める場を得て、作品世界はビッグバンのような膨張を遂げた。
 永井豪の作品世界の80年代時点での集大成、最長編の大河ドラマとして、90年まで描き続けられることになった。
 それは、バイオレンスアクションであり、SFであり、神話であり、作者の内宇宙を反映したメタフィクションであり、破滅に終わった「デビルマン」への、長大な鎮魂歌でもあったのだ。


●「バイオレンスジャック完全版」

 バイオレンスジャックの世界には、「終末後」というテーマでは避けて通れない、注目すべきいくつかの「暗示」があった。

・世界が破壊されても、それで全てが終るわけではない。
・カタストロフの後も、なお人は生き延びる。
・壊れた世界には、虚飾を排した解放感はある。
・しかしそこは、むき出しの本能、むき出しの暴力が支配する修羅の世界である。
・それでも人は、その世界で強く生き抜かなければならない。

 そして95年、局地的なカタストロフに直面した私は、永井豪をはじめとする何人かの表現者の作品に、強く支えられることになった。
 その顛末は、カテゴリ90年代にて、長く語ってきた。


 永井豪は不世出の天才マンガ家である。
 しかしその永井豪ですら、真にクリエイティブで在れたのは、ぎりぎり80年代あたりまでだったとは思う。
 これは批判でも何でもなく、商業マンガの制作ペースで、二十年近く鋭敏な才気を保てたこと自体が凄いと評価すべきなのだ。
 ピークを過ぎて以降の永井豪も、セルフリバイバルを繰り返しながら、まだまだ独自の存在感を放っており、ファンとしては作品を追わざるを得なかった。
 90年代の作品の内、特筆すべきは、70年代初頭の二大代表作である「マジンガーZ」「デビルマン」のリバイバルだった。
 搭乗型兵器としてのスーパーロボット、「神と悪魔」や「終末」といったテーマを導入した両作品は、多くのフォロワーを生んだ不朽のパイオニアだった。
 しかし80年代以降、飛躍的に作画密度を増していった日本マンガの世界にあって、内容はともかくビジュアル面では粗さが否めなくなってきていた。
 自身の切り開いた不朽のテーマに、ビジュアル面の最新技術を導入して再生されたのが、先の記事で紹介した90年代初頭の「マジンサーガ」であり、正真正銘の世紀末に執筆された「デビルマンレディー」だったのだ。


●「デビルマンレディー」(97〜00年、週刊モーニング連載)

 作画密度に限って言えば、永井豪のピークはこの時期、90年代にあったと見て良いだろう。
 70年代全盛期の鬼気迫る緊迫感には及ばないものの、現実の世紀末に豪華絢爛のビジュアルと圧倒的なボリュームで終末を描き切った手腕は、やはり凄まじいのである。

 そして世紀末を通過した2000年代、CGをはじめたばかりの頃の私は、ペンタブレットの練習に、中高生の頃から描き慣れたデビルマンの絵を何枚も描いた。
 中々思い通りに動いてくれないカーソルを、リハビリのようなつもりでのたくらせながら、ひたすら描いた。
 絵描きとしてもう一度生まれなおすつもりで、ただ黙々と懐かしい「デビルマン」のキャラクター達を描き続けるうちに、思春期の頃、明確な意志をもって絵を描き始めた時の熱が、私の中に蘇ってきた。

 同じ時期、悪評高い実写版映画「デビルマン」が公開された。
 いい年こいて大人げないとは思いながらも黙っていることができなくて、当時全盛期だった某巨大ネット掲示板の当該スレッドで、固定HNで実写版批判の急先鋒に立ったこともあった(苦笑)
(当時の熱気は「映画デビルマンを徹底的に叩く」で検索すると……)
 映画自体は本当にどうしようもない「伝説の駄作」だったが、古参のファンがデビルマン軍団の如く結集するきっかけにはなった。
 スレッドで、私と同じように思春期をデビルマンで過ごした「同志」の皆さんと交流しながら、ネットでのやりとりについて多くのことを学んだ。
 大人になってからも、私は「デビルマン」に支えてもらったのだ。

 2010年代に入って久しい今現在も、永井豪のデビルマン物語は続いている。
 70年代の執筆当時の制作秘話を綴った作品は、熱心なファンにとっては既知の話題が多いものの、やはり興味深く読み込めるものであった。


●「激マン!デビルマン編」全六巻

 永井豪自身によるデビルマン物語の、おそらく最終長編になるかもしれない作品も、現在連載中である。


●「デビルマンサーガ」
 現在7巻まで刊行、以下続刊。

 思春期にもっともハマった作品について、今でも考え続けることができるのは本当に素晴らしいことだ。
 永井豪がこれからも生涯現役で描き続けてくれることを、強く強く祈念する。

(「サブカルカイザー永井豪」の章、了)
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2018年03月29日

「ふるさと」をうたえるか?

 先日、財務省の元高級官僚の証人喚問があった。
 洗いざらい「ありのままの事実」を明らかにするという選択もあったはずだが、彼の選んだのは「人事権を握った権力者を守り切る」という道だった。
 本来の意味での「公の僕」の立場を、最後の最後で投げ捨てたのだ。
 人は生きるために色んなものを背負わなければならない。
 綺麗事ばかりでは済まないことは、よくわかる。
 一概に彼個人を攻めることはできない。
 しかし自己責任で選択したからには、それが傍からどのように見えるかということも、全て受け入れなければならない。

 貧しくはあるが、しがらみのない素浪人たる私からは、彼の人生は「悲惨」そのものに見える。

 彼は福島県の出身。
 中学生の頃父を亡くし、三人の兄弟に助けられながら二浪で東大に入ったという。
 その後、大蔵省へ入り、官僚として階梯を昇り詰めていく。
 不遇を乗り越え、故郷に錦を飾った立身出世譚の見本のような人物になるはずだった。
 しかしそのキャリアの最終段階に立場上仕えた政治家が、最悪であった。

 その政治家、総理も財務大臣も、貧しさの中から努力で這い上がった彼とは正反対の生い立ちを持っていた。
 特権階級に生まれたが、実業では使い物にならないので、血筋だけを材料に早々に政治の世界に送り込まれた二人である。
 とくに総理は、2006年の第一次内閣の際、福島原発の「全電源喪失」の危険性を問われ、そのような事態は「起こり得ない」と答弁し、3.11の惨禍の遠因を作った当人である。
 故郷の山河を汚染した責任者の立場を守るために公文書改竄という重大犯罪に手を染めさせられ、それが発覚して以降、組織内から自殺者まで出しながら、なおひたすら隷従させられ続けている。
 彼も馬鹿ではないだろうから、様々な損得勘定、自分と家族の利害を検討しつくした上での選択であろうけれども、明らかに先の見えた政権に這いつくばる様は少々異様だ。
 カルト宗教の洗脳にも似て見えるし、そうでなければ先の文科省官僚の造反劇のように、何らかの弱みを握られているのかもしれない。
 現在東大で学ぶ学生は、こうした事態を冷めた目で観察していることだろう。
 果たして今後も、官僚の世界に真に優秀な人材が集まるだろうか。

 やはり私には「悲惨」の二文字以外、浮かばない。
 彼は今、唱歌「ふるさと」を、心の痛みなしにうたえるのだろうか?



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posted by 九郎 at 18:15| Comment(0) | | 更新情報をチェックする