「なんだか連邦MSVよりジオン軍MSVの方が人気があったみたいだったネ」
このセリフ、往年のコアなMSVファン(たとえば1999年時点で上掲本を手に取ってしまう私のようなファン)にとっては、一種の「定説」として素直に受け入れられた。
実際、83〜84年にかけて全34種発売されたMSVプラモのうち、連邦系は9種にとどまり、後は全てジオン系、とりわけザクの派生デザインはそれだけで半数近くを占めていた。
シリーズ内でいくつも買い集めるようなファンが「ジオンの方が人気」と受け止めるのも無理はなく、とくに高校生から大学生あたりのミリタリー趣味から入ったファンや、雑誌に作例を発表するような人気モデラーの多くは、本質的には「ジオン贔屓」「ザク好き」だったはずだ。
当時子供だった私たちは、なんだかんだ言っても「主役」のガンダムが好きだったのだが、尊敬するモデラーの皆さんのそうした「気分」はなんとなく察し、ちょっと背伸びして受け入れていた。
99年時点でのマンガのセリフは、素朴に「往年のファンの気分」を反映したもので、とくに他意は無かったに違いない。
ところがつい先頃、そうした「気分」を真っ向から否定する本が刊行された。
●「MSVジェネレーション ぼくたちのぼくたちによるぼくたちのための『ガンプラ革命』」あさのまさひこ(太田出版)
ガンプラブームの期間を含む80〜84年の顛末を、送り手側の主要な関係者の事跡を軸に、主な消費者たる小中学生、高校生の視点と対照しながら時系列で追ったドキュメント。
カラーページでは当時の主要な雑誌記事や、MSVガンプラ全34種の箱絵と商品写真もラインナップ。
著者あさのまさひこは65年生まれ。
MSVブームの時期を高校生として過ごし、その直後にモデラー、編集者として活躍することになる。
私の記憶の中では、85年あたりにモデルグラフィックス誌で発表していたゼータガンダム関連のセンスのいい作例や、当時流行していたアイドルとからめたお遊び設定が印象に残っている。
創刊当時のモデルグラフィックス誌の異様な面白さについては、また機会を改めて語ってみたいが、今思うとあさのまさひこは、高校生の頃身に付けた「MSV的な楽しみ方」を、自分なりに作例や記事の中で再現していたのかもしれない。
熱心な高校生ファンから直接「送り手側」にまわったという経歴は、MSVブームを「気分」として語るだけでなく、客観的な事実関係として調べ、記述できる点で、たぶんこの人しかいないという著者である。
読んでみると当時の様々な記憶がよみがえり、疑問が解消される一冊だった。
・なぜ小田雅弘を始めとするストリームベースの面々は、老舗模型誌HJから、「たかが低年齢向けマンガ誌」ボンボンに主戦場を移したのか?
・なぜMSVプラモ第一作1/14406Rは、小田作例によく似ていたのか?
・なぜMSVプラモは、ザクで始まりガンダムで終わったのか?
子供の頃、なんとなく不思議に思っていたことが、まさか三十五年の時を経てすっきり納得できるとは思わなかった。
初代ガンダムやザクのプラモを担当した設計者のインタビューには、ちょっと感動してしまった。
この人こそが、現在のガンプラ文化の「生みの親」ではないだろうか!
旧キットのザクが、足首固定にも関わらず「一歩踏み出しポーズ」がけっこうきまるのは、計算の上でのことだったとは!
様々な驚きと感動のあるドキュメントだったが、その中の一つに「ジオン系人気の否定」があった。
確かにジオン系(特にザクの派生)MSVプラモは点数が多く、年長のファン層の受けは良かったのだが、一点ごとの売り上げでは圧倒的に連邦系、とくにガンダムのバリエーションが上回っていたという事実確認である。
一年戦争の設定上、MS開発に遅れを取った連邦側には、派生型を試行錯誤する時間はなかったはずで、論理的に考えればバリエーションは出せない。
しかし、プラモの主たる顧客である低年齢ファン層(小中学生)の人気は、やはりガンダムだったのだ。
ブームを加速させたマンガ「プラモ狂四郎」の主人公・狂四郎が作るのも、ほとんどガンダムばかりで、それは作中でネタにされるほどだった。
シリーズ継続のためにはそうした当時の小学生ファンのニーズにじわじわ合さざるを得ず、MSVにおける「主役機」であるフルアーマーガンダムを生み出す必要があったのだ。
こうしてMSVシリーズは、年長ファンを唸らせる緻密な考証と造形の06RザクUから始まり、最後はシリーズを買い支えてくれた年少ファンへのサプライズギフトのような「狂四郎ガンダム」で幕を閉じたのだった。
広く一般人気のガンダム、ファンの中での一番人気のザクが両輪となって、ブームを加速する――
考えてみればこれは、アニメの初代ガンダムの人気の構図と相似形である。
(続く)