先月5月末、作家の津本陽さんがお亡くなりになった。
当ブログでは、石山合戦や紀州雑賀衆について、あれこれ勉強を進めてきた。
その過程で、紀州出身で戦国時代の鉄砲戦術のリアルな描写を得意とする津本陽の作品についても、度々紹介してきた。
振り返りつつ、追悼にかえたい。
●新装版「雑賀六字の城」津本陽(文春文庫)
津本陽は和歌山市出身、雑賀衆の血筋に連なるという。
以前紹介した神坂次郎も同様なのだが、地元出身作家が郷土の歴史を扱う場合の強みは、なんと言っても言葉や気質、風俗、土地勘を熟知していることだろう。
鉄砲戦術や海戦術については、調べればそれなりの知識は得られるだろうが、言葉や気質についてはやはりネイティブに勝るものはない。
執筆されたのは1980年代前半。この時点で雑賀衆の内の沿海部と内陸部の利害関係をきちんとおさえ、史実の徹底的な分析を行っているのは、司馬遼太郎の先行作「尻啖え孫市」と差別化を図るには是非とも必要なことだったのではないだろうか。
司馬版「孫市」ではほとんど触れられていない部分、雑賀衆が行った様々な火気の新規開発、火薬の製造、毛利水軍と連携した海戦術の描写にも、著者の意気込みが見える気がする。
物語は雑賀の土豪の年若い末っ子・七郎丸が、石山合戦の渦に巻き込まれて地獄の戦場を駆けるようになる筋立てだ。
その視点は一貫して雑兵足軽と同じ、地を這い泥を啜り、血腥い戦争の現実を直視していくことになる。雑賀の地に住む一般民衆から見上げた場合、戦国武将の中でも人気の高い織田信長が、いかに冷酷無残な魔王に映ることか、読者は背筋の凍る思いで読み進めることになるだろう。
作中には「鈴木孫一」も登場するのだが、同じ雑賀衆からは「戦の実力は認めるものの、どこか信頼の置けない人物」と思われているところなど、実際ありそうな話なので非常に面白い解釈だ。
ただ、史実としては津本作品の方が正確なのだと思うが、司馬版「孫市」の陽性なキャラクターが存在しない戦争の、なんと殺伐として酸鼻を究めていることだろうか。
主人公が多感な十代の少年で、まだ人を殺めることに麻痺しきっていない点がせめてもの救いと言えるかもしれない。
この作品は近年、マンガ化もされており、かなり出来は良かった。
●「雑賀六字の城」全三巻 マンガ:おおのじゅんじ
津本陽の描く、戦国時代の紀州を舞台にした小説には、非常に「ご当地感」が醸し出されている。
●「鉄砲無頼伝」「信長の傭兵」(角川文庫)
タイトルに連続性がないので分かりにくいが、同じ物語の上下巻である。
主人公は紀州に鉄砲をもたらしたと伝えられる津田監物。
雑賀衆と並び称される戦国最強の鉄砲集団、根来鉄砲衆の始祖的人物だ。
物語はこの人物が紀州に鉄砲を持ち帰ったところから、石山合戦の終結までを描いている。
●「天翔ける倭寇〈上〉〈下〉」(角川文庫)
雑賀衆は鉄砲隊だけでなく、海洋交易の担い手としての面もあった。
この物語は雑賀衆の中の一団が「倭寇」として大陸に進出し、一獲千金の夢を求めて得意の鉄砲戦術で転戦を続ける様が描かれている。
これら二作、「鉄砲無頼伝」「天翔ける倭寇」については、かなり面白かったので、いずれまた単独記事で詳しく紹介してみたい。
これらの作品のセリフ回しは、戦国時代の実際の紀州言葉というわけではもちろんなく、現代の紀州(とくに和歌山市周辺)の言葉や気質をベースに再現された仮定の表現だ。
しかしそこには地元出身でないと決して醸し出せない「リアル」が、確かに存在する。
のんびりとした紀州言葉と、時に苛烈な気性の荒さの対比が、とんでもない実在感をもって迫ってくるのだ。
同じ著者、同じ時代設定のものには、以下の一冊がある。
●「火焔浄土―顕如上人伝」津本陽(角川文庫)
こちらは顕如上人を主軸に据え、石山合戦の事実関係を、小説の体裁をとりながら淡々と並べたような感じで、エンターテインメントとしては正直あまり面白い本ではない。
ただ、自分でも調べものをするときの道しるべにはなっている。
顕如上人の小説で面白いのは、こちらを参照。
地元出身、砲術や剣術も修める実践派。
紀州を舞台に「リアル」を求める場合、これ以上の水準は望みようがないはずだ。