もうかなり前のことになってしまったが、4月発売のマンガ雑誌「ビッグコミック」に、白土三平インタビューが掲載されていた。
久々の露出、そして久々のカムイのイラストに引きよせられて雑誌を手に取った。
いまだ描かれぬ「第三部」について、何か情報がないものかと淡い期待をいだいたのだが、主な内容は「狩猟」だった(苦笑)
白土三平は言わずと知れた忍者マンガの巨匠であり、「サスケ」「忍者武芸帳」等の代表作を持つ。
私にとっては、他のどの作品よりも「カムイ伝第一部」の作者だった。
孤高の抜け忍・カムイの物語としては、アニメ化された「カムイ外伝」の方が、一般の認知度は高いかもしれない。
(実はアニメ「忍風カムイ外伝」の後番組が「サザエさん」だったりする!)
並行して往年の「ガロ」で描かれた本編「カムイ伝 第一部」は、抜け忍・カムイに加えて武士の草加竜之進、農民の正助という三人の主人公が存在した。
とくに中盤からは正助の比重が増し、ストーリーの本流は壮大な百姓一揆に収斂されていった。
脇へと一歩引いたカムイの活躍をシンプルに描く場が、スピンアウトして「外伝」になったということだろう。
子供の頃、既にアニメ化されていたこともあり、この「外伝」の方は私もかなり早い時期から読んでいた覚えがある。
本編「カムイ伝」に手が伸びたのは思春期に入ってからで、マンガ版「デビルマン」とともに、当時最もハマって読み耽った作品だった。
●「カムイ伝 第一部」
主人公を始め、登場するキャラクターたちは、物語の進行と共に多くのものを失っていく。
失うのは身体の部位であったり、顔であったり、身分であったり、愛する人であったりするのだが、それでも生き残った者はより強く成長していく。
欠損することでオリジナルを得、失うことで心定まるキャラクター達の生命力に、思春期の私は深く感情移入していたのだ。
私が「第一部」を読み耽ってから数年後のタイミングで、「第二部」の連載がビッグコミックで始まった。
その後90年代を通じて断続的に執筆され、現在は一応「完結」したセットが刊行されている。
90年代当時の私はこの「第二部」の内容が、正直あまりピンと来なかった。
壮大なカタルシスのあった「第一部」の印象に引きずられ、いつまでもプロローグが終らずにページだけが重ねられていくような不満を感じていた。
もちろん、今は全く違った感想を持っている。
青年から大人に成長した主人公たちは、熱狂や祝祭のカタルシスではなく、淡々と続く日常の中でそれぞれの足場を固めながら、なお「志」を持続させるステージに至っていたのだ。
年齢を重ねた「かつての青年」が読むべきは、むしろこの「第二部」であろうと、今現在は感じている。
冒頭で紹介した雑誌インタビューの中で、まだ描かれていない「第三部」についても、最後に質問されていた。
笑いながら言葉を濁している白土御大だったが、私は「おや?」とかすかな期待を抱いた。
活きた線で描かれた、雀と戯れるカムイのイラストと、第三部についての質問も避けないその姿勢に、「まだ種火が残っているのではないか」と感じたのだ。
待ってみてもいいかもしれない。
当初の第三部の構想通り「シャクシャインの戦い」を長尺で描くことまでは望まない。
流れ流れて北の地に至ったカムイが、アイヌの暮らしの中に安息を見出す短編など、叶うことなら読んでみたい……
そう言えばしばらく前、サブカル作品のジャンル分けに、「抜け忍モノ」という切り取り方があることを知った。
主人公が、母体になった組織の「裏切者」であるという構造を持つ種類の物語を指す言葉である。
それこそ「カムイ外伝」が元祖に近いのだろうけれども、マンガを始めとするサブカルの世界では、定番中の定番設定と言って良い。
ヒーローが持つ特殊能力の理屈付けとして、実は戦うべき「悪役組織」の一員であったという基本設定は、まことに使い勝手が良いのだ。
この「抜け忍モノ」という言葉を聞いた瞬間、個人的に「ああ、そういうことだったのか!」と頭が物凄く整理される感覚があった。
思えば私の成育歴は「抜け忍モノ」と共にあり、それぞれの発達段階で感情移入し、影響を受けてきたのだ。
そのことについて、しばらく語ってみたいと思う。
次回記事より「抜け忍サブカルチャー」の章、はじまり、はじまり。