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2018年08月02日

夏休みの工作まとめ(最新2018年版)

 夏休み真っ盛り!
 そろそろ工作関連記事へのアクセスが伸びてきました。
 当ブログはもちろん「神仏与太話」がメインの話題なわけですが、随時、工作的な作品の記事もアップしています。
 私としてはほんの息抜きのつもりで上げてきたのですが、アクセス解析を日々眺めていると、メインテーマの記事よりも、そうした季節のおりがみや工作紹介の方が、アクセス数が伸びたりするのがなんとも複雑な心境です(笑) 
 例年7月の後半から8月にかけては、夏休みの工作のネタ探しで検索してこられる皆さんが多いので、まとめ記事にしておきましょう。

【工作の基本素材】
 ホームセンターへ行こう!
 工作キットも良いですが、ホームセンターで端材の詰め放題を利用し、自由に作ってみるのがまずはお勧め。

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 挽き廻しタイプのノコギリが一本あると便利。

●OLFA カッター挽き廻し鋸 217B
 少し大き目のカッターと挽き廻しノコの二種類が一本になっている。
 日常の軽作業や工作に便利。

 着色には木材やプラスチックなど、素材を選ばないアクリル絵具を。

●サクラクレパス 工作用アクリルえのぐセット 10色(金銀入)
 パレットになるケースに、筆もセットされている。
 筆はちょっと使いにくいかもしれないので、ペンキ用の刷毛などを別途購入がお勧め。

【船の工作】
 船の工作まとめ
 海賊流行りが継続中なので、お手軽に作れる工作セットをご紹介。

●「海賊船キット(海洋ものがたり)目指せワンピース【ひとつなぎの大秘宝】」エコール教材 

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 夏休みの工作にまずは普通の海賊船を!
 上掲の海賊船工作キットのパーツをそのまま使用して作ってみました。

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 夏休みの工作「鉄甲船」ようやく完成!
 海賊船工作キット+「アイスの棒」で制作しています。アイスの棒は実際に工作できるほど短期間に集めようとするとお腹に悪いので(笑)、セット販売もあります。

 最近は100均でもアイスの棒のまとめ売りはあるようですので、まずはそちらからでもいいと思います。

 お手軽な船の工作キットとしては、他に以下のようなものがあります。


●「自由工作キット シップ6」加賀谷木材
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 上掲海賊船工作キットは、いかにも「工作」という感じの仕上がりですが、こちらは多少リアルな感じの完成品が作れるようです。
 同セットで、箱写真のような6種類の船の中から一つ選んで作ることができます。
 各種棒や角材がたっぷり入ったセット内容なので、工夫次第でそれ以外にも自由に作れます。
 小学校高学年以上で、図工の得意な人向けですね。
 工作から一歩進んで「模型」に近づいていきたい人にお勧めです。


●「自由工作キット ペットボトルシップ」加賀谷木材
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 ボトルシップというと、ちょっと難易度が高そうなイメージがあると思いますが、このキットはさほど難しくなく、雰囲気のある作品が完成させられます。
 このキットを入り口に、本格的なボトルシップ制作に進んで行くことも、十分可能だと思います。

 記事中紹介したキットは一応amazonのリンクを貼ってありますが、お近くのホームセンターやスーパーの夏休み工作コーナーで、もう少しお安く売っている場合があると思います。
 夏休み後半になると、更に値引きもありかもしれません。

 それから、あまり子供の「夏休みの工作」向けではありませんが、昨年は補陀落渡海船を作りました。

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【手作り楽器】
 カテゴリ音遊びでは、手作り楽器も色々紹介してきました。

 手作り楽器まとめ

 よく作ってきたのは、安価なウクレレキットです。
 縁日ウクレレ

●大人の工作キット ウクレレ BOOK <組み立てウクレレ付>
 このセット、手頃な価格で手作りウクレレが楽しめ、ブックレットもそれなりに充実した内容なので、悪くはないのですが、購入の際は少々注意点があります。
 まず、木工をやったことがない人には組立も塗装もけっこう難しいだろうと言うこと。
 一応完成させることは誰にでも出来ると思いますが、精密な「楽器」レベルにするのは難易度が高くなるので、「そこそこ遊べるオモチャウクレレ」程度に考えておいたほうが良いでしょう。
 夏休みの工作の素材としてなら十分です。

 同包のウクレレキット自体は、学校教材メーカーが販売している以下のものと、たぶん同じ内容。

●木工芸 工芸ウクレレ作り(アーテック)
 値段から分かると思いますが、木材は全てベニヤや集成材で、他のパーツもそんなにいいものはセットされていません。
 私は同じメーカーでもより自作度の高い、以下のセットをよく作っています。

●木工芸 ウクレレ作り
●創作ウクレレ

 これらのセットは、一応弾いて遊べる程度のオモチャウクレレを、とにかく低価格で入手できることができるのが取り柄です。
 私はこの十年ほど同じセットで色々作り続けてきましたが、残念ながら品質は年々落ちてきています(悲)
 木材はけっこう当たり外れがあって、たまにネックの材が「まさかこれバルサじゃねーの?」と舌打ちするほどスカスカだったり、側面版が薄すぎて開封すると既に折れていたりするので注意。
 固定用のゴムバンドが劣化していてちょっと伸ばすだけでバツバツ切れたりすることも、過去にはありました。
 指板は「単に黒いプラスチック板」ですが、一応フレットは使えるレベル。
 付属の弦はなんだか釣り糸みたいな感じなので、市販のウクレレ弦を別途購入して張った方が良いでしょう。
 ちゃんとした楽器を期待すると失望しますが、そのかわり価格が安いので失敗を恐れず、思い切った工作やペイントを楽しむことができます。
 私の作例としては、以下のような「縁日ウクレレ」があります。

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 ここ十年ほど作り続けてきた上掲のウクレレ・キットですが、最近また値上がりした模様。
 円安誘導のアベノミクスは、工作素材の大敵です!!
 十年前は1200円程度で入手できていたのが、5年ほど前、1500円程度に値上がり。
 今年度は定価2000円以上になっているようですね。
 それでも現状、お手軽なウクレレキットを探すなら、やっぱりこれになるかなあ……

 この二年ほどは、上掲のウクレレキットがかなり値上がりしてしまったので、もっと安く簡単に作れるオモチャ楽器はないものかと、百均の木箱を使った弦楽器作りを色々試していました。

 夏休みの工作向けの作例は、こちら。
 百均ボックス三味線
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【プラ鉢鎧兜】
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 100均やホームセンターで売っているプラスチック製の植木鉢から、鎧兜を作りました。
 参照記事は以下に。
 雛形工作:プラ鉢鎧兜
 プラ鉢鎧兜 制作覚書

 よろしければ、各記事でより詳しい解説を参照してください!
posted by 九郎 at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ・マップ | 更新情報をチェックする

2018年08月06日

マンガ「はだしのゲン」関連記事集成

 本日は8月6日。
 第二次大戦中、アメリカによって広島に原爆が投下され、何の罪もない非戦闘員が大量虐殺された日である。
 核という最悪の兵器が、非戦闘員の大量虐殺を目的に実際に使用されたのは、今のところ人類史上で日本の広島と長崎のみ。
 しかし核兵器自体は性能を格段に向上させながら、世界中に拡散し続けている。

 毎年この時期になると、当ブログで何度か投稿してきたマンガ「はだしのゲン」関連記事へのアクセスが延びる。
 これまでの関連記事を再編したまとめを、再浮上させておきたい。
 
 
 マンガ「はだしのゲン」の作者である中沢啓治さんは、2012年にお亡くなりになってしまった。
 その何年も前から、視力が弱っていてもう漫画は描けなくなっていたことは知っていた。
 だから長らく構想中だった「はだしのゲン」の第二部、東京編がついに描かれなかったことについては、覚悟はできていた。
 それにしても、子供の頃から読み耽ってきたマンガの作者の訃報を耳にすると、強いショックは感じた。
 
 よく言われることだが、「はだしのゲン」は、作品の周囲にまとわりつく政治性によって毀誉褒貶の激しい漫画だったが、そんな雑音を超えて読み継がれるべき価値のある名作だった。
 ここに紹介されている呉智英の「不条理な運命に抗して」と言う一文に、そのことは的確に表現されている。
 以下、一部引用。
  
 私は他の場所で書いたことがある。「はだしのゲン」は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だと。
 二種類の政治屋とは、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。


 私も作品内に一部含まれる「政治性」は、描かれた時点の「時代の空気」みたいなものであって、そこを云々することに大した意味は無いと考えている。
 それはたとえば平安時代の文学作品に対して「方位や日時の吉凶を気にしてばかりいるのは誤った迷信である」などと批判することが無意味であるのと同様だ。
 この作品の凄みは、作者自身が実体験として潜り抜けてきた、戦中の軍国主義や原爆の惨禍、そして国が「国民の生命と生活を守る」という正統性を失った戦後の混乱期の描写が、どれも間違いなく「本物」としての質量を備えているということにあり、その点において空前絶後の漫画作品なのだ。
 それも、現実の悲惨さのみを強調するのではなく、生きるためなら罪を犯すこともいとわず、あくまで明るく「ガハハ」と笑いながら戦中戦後を駆け抜ける爽快さがあり、「生きのびる」ということに対する大肯定があるところが凄いのである。
 こうした爽快さがあってこそ、昨今の「サヨク排斥」の風潮が強いネット掲示板の中においてすら、「はだしのゲン」は根強い人気で年若い読者の心をいまだにつかみ続けているのである。

 私はネットをはじめてそろそろ十五年になろうとしているけれども、その最初期に某巨大掲示板の「はだしのゲン」テーマのスレッドを読み、そのあまりのカオスぶりにのけぞってしまった記憶がある。
 何しろ書き込みの大半が広島弁で、無意味に「ギギギ…」とか「ラララ…」とか「ラわーん」とか「くやしいのう、くやしいのう」「おどりゃ、クソ森!」などのレスが連なり、それでも作品への愛情に満ちていて、たまに訪れるネット右翼的な荒らしに対しても「きたえかたがちがうわい!」と余裕の対応を返す、素晴らしすぎる雰囲気だった。
 そうしたネット住人の「悪乗りも含めた作品への愛情」は、「はだしのゲン」の公式サイトにも濃縮されて刻み込まれている。
 子供の頃、一度でも読んだことのある人なら抱腹絶倒まちがいなしの、異常な公式サイトである。
 もう一度書くけど、これ、ファンサイトじゃなくて「公式」ですよ!
 中でも、「はだしのゲン」のあらすじをAAで再現し尽くした「はだしのゲソ」は感動モノとしか言いようがない。
 作者である中沢啓治さんは作中のゲンのイメージそのままに、組織嫌いで頑固な一匹オオカミであったが、ファンに対しては限りなく寛容だったのだ。
 
 結局「はだしのゲン」は戦後の広島編までが描かれ、生き残ったゲン、隆太、勝子それぞれが東京に旅立つシーンで完結となった。
 もし続きが描かれたとしたら、ゲンはおそらくこの後も様々な苦難に遭遇しながらも、絵描きとして身を立てていったことだろう。
 少し心配なのが、隆太だ。
 願わくば、再びヤクザの鉄砲玉になってしまっていませんように……
 隆太なら、戦後広島編でも才能を発揮していた「啖呵売」の腕がある。
 あの才能があれば、たとえば葛飾柴又あたりのテキ屋の親分さんに見出されるかもしれないし、年代的には寅さんとも面識ができていたりするかもしれない。
 そんな妄想とともに、中沢先生の死を悼んだことを覚えている。

 マンガ「はだしのゲン」と、その関連書籍の主なものは以下の通り。

●「はだしのゲン」汐文社版
 他の版は表現に一部修正があるそうなので、「昔読んだものをもう一度読みたい」という場合はこれ。
●「はだしのゲン自伝」
 著者中沢啓治の自伝。「はだしのゲン」は、事実そのものではないものの、元々著者の自伝的な作品なので、描かれなかった続編をあれこれ想像するヒントがここにある。
●「絵本はだしのゲン」
 マンガ版を元に、原爆投下前後をフルカラーで再現した取扱注意な一冊。

 昔は学級文庫にも「ゲン」や「カムイ伝」などの強烈な作品が置かれていたものだが、今はもうそんなことはないのだろうなあ……
 広島の原爆資料館のマネキン人形も撤去されたと聞く。
 3.11後の日本で、今後ますます大切になってくる作品だと思うのである。
 
 この時期になると、コンビニに漫画「はだしのゲン」の廉価版がよく並んでいた。
 かなり以前から恒例化していて、確か刊行されていない年もあったと思うのだが、ほぼ毎年店頭にあった。
 昔の「週刊少年ジャンプ」掲載分の「第一部」のみが集英社から刊行されることが多かったが、続編に当たる「第二部」も中公から廉価版で出されていた年もあった。
 今年はまだ見ていないが、そろそろ棚に並ぶかもしれない。

 何年か前、学校や図書館からの排斥運動が起こったりもしているけれども、何か騒ぎが起きる度に注目が集まり、逆に本は売れ、読者は増え続けている。
 世の中にはいじればいじるほどでかくなる不死身の怪物が存在する。(やや下ネタでスマン)
 漫画「はだしのゲン」もまさにそうした生命力をもつ怪物で、焚書しようと下手に手を出せば、必ず逆効果になる。 

 色々と議論はあっても、作品が数十年にわたって読み継がれるのには理由がある
 単純に、漫画としてむちゃくちゃ面白いのだ。

 反戦反核の内容であるということは、読み継がれている理由の一要素に過ぎない。
 内容が「重要だ」という理由だけでは、多くの人はわざわざ作品を手にとったりしない。
 人は日々生きることに忙しく、いくら重要な事柄が描かれた作品であっても、その重要さだけを理由に鑑賞する意欲を持つのは、よほど真面目な人だけである。
 唯一「読んで面白い」という要素だけが、多くの読者の財布の紐を緩ませ、ページをめくる時間を割かせるのである。

 作者の中沢先生には、そのあたりのことがよく分かっていたのだろう。
 大切なことを描いているということ自体に寄りかからず、甘えず、漫画としての面白さを保持しながら、血を吐くような自信の思いを込めて作品を紡ぐという離れ業をやってのけたのだ。
 その背景にはおそらく、原爆が投下された地獄の広島を、誰にも頼らず生き抜いてきた経験があったことだろう。
 地べたを這いずる庶民の乾いたリアリズムが、作品の内容にも制作姿勢にも貫かれているからこそ、エンターテイメントとして優れた作品が生まれたのだ。

 出版不況の中、コンビニ版が毎年のように刊行されたのも、それだけの売り上げが見込めるということだろう。
 資本主義社会において「エンターテイメントとして優れている」「面白い」ということは最強なのだ。
 売れる本は時代を超えて刊行され続け、いくら内容が良くても売れない本は消えていく。
 
 原爆地獄の広島で、家族や友人たちを虐殺され続けたかつての少年が、その怨念を背負ってたった一人、ペンをとった。
 単身、人類最強兵器や超大国に喧嘩を売ったのだ。
 戦時中の爆撃機VS竹槍どころではない、核兵器VSペンなのだ。
 まともに考えれば勝てるわけがないのである。
 事実、作者が希求した核廃絶への道のりはまだまだ遠い。
 核抑止論という極めて原始的なパワーバランスの在り方は、原始的であるだけに、突き崩すことは容易ではない。
 世界中の頭脳が知恵を結集しても、いまだこの野蛮な理屈をひっくり返せていない。
 それでも、「はだしのゲン」は世界中で読み継がれている。
 野蛮な最強兵器の存在に、ほんの一矢でも反撃し得ているのが、知識人の言説などではなく、一匹狼気質の被爆者が描いた「たかがポンチ絵」なのだ。
 これを「奇跡の善戦」と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
 野蛮で巨大な力に対抗できるのは、こちらも原始的な、虐殺された側の「怨」の一念という情動しかないのである。
 
 およそ勝てるはずのない喧嘩を売って、けっこう戦えてしまっている男を見たとき、たとえその男の政治的発言に考えの違うところがあったとしても、私の美意識では「およばずながら助太刀いたす」と呟くのが正しい。
 義侠心とか大和魂とか武士道とか、呼び方はなんでもかまわないのだが、腹をくくって戦いを挑む男を後ろから切りつけるような真似は美しくないのである。

 助太刀と言っても、せいぜいマイナーなブログで本を紹介し、自分でもコンビニ版を購入して再読するくらいしかできないのがなんとも歯がゆいのであるが。

 ともかく、「はだしのゲン」をもっと世界に!


【関連記事】
映画「この世界の片隅に」
posted by 九郎 at 08:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ・マップ | 更新情報をチェックする

2018年08月08日

今はただ

 沖縄のために戦い続けた翁長知事が、本日急逝された。

 今はただ、安らかに。

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posted by 九郎 at 21:42| Comment(0) | 沖縄 | 更新情報をチェックする

2018年08月10日

お盆休みの読書

 今年はやっぱりこれ!


●緊急出版! 枝野幸男、魂の3時間大演説「安倍政権が不信任に足る7つの理由」

 意味不明な不誠実答弁が常態化した国会で、本当に久々の「すっきり論理が通った名演説」である。
 3時間近くの長丁場、しかも文字起こしするだけで本になる演説を、数枚のレジュメだけでやってのけた枝野代表の凄まじさ。
 後々の語りぐさになる一冊、しかも、「民主主義とは何か」を問う、教科書のような一冊である。
posted by 九郎 at 21:59| Comment(0) | | 更新情報をチェックする

2018年08月14日

再掲、映画「この世界の片隅に」

 稀にみるロングランを続け、アナザーバージョンの公開も決定した映画「この世界の片隅に」について。

 噂にたがわぬ良い作品だった。
 戦争や原爆はテーマとして厳然とあるのだけれども、描写の中心は名もない庶民のごく普通の生活風景だ。
 ちょっとぼんやりした、絵を描くのが好きな女性「すずさん」の眼と手を通して、戦前から戦中、戦後の広島近辺の風景が、ていねいにていねいに描かれる。
 精緻を極めた絵作りがなされているはずなのに、原作マンガ家・こうの史代の画風もあって、観客の眼に入る映像はあくまでさりげない。
 絵作りに全力を傾注しているはずの作り手の熱意が、前面に出過ぎていないのがまた素晴らしい。
 そうした細やかな生活描写や、情のやりとりが描かれてこそ、徐々にスクリーンに侵攻してくる戦争の暴威が、強烈なコントラストを感じさせるのだ。

 映画を観ながら、なんとなく石牟礼道子の著作のことを思い出していた。
 水俣の語り部であるかの作家も、公害の惨禍だけでなく、それ以前の美しく懐かしい水俣の海山、民俗の在り様を作品として結晶させ続けてきた。
 作品に少し「異界」とか「幻視」の要素が含まれていることも、共通しているように感じる。
 理不尽な暴虐に対する時、失われたものの美しさを描き残すことこそが、もっとも強い力を発揮することもあるのだ。
 そう言えば3.11後の反原発デモでも、幾多の力のこもった演説にもまして多くの人の心を打ったのは、唱歌「ふるさと」だった。

 絵描きのハシクレとして観るならば、主人公のすずさんが空襲時に呆然と空を眺めながら「今絵の具があったら」と夢想するシーンが心に突き刺ささる。
 そう、絵描きはそのように感じるのだ。
 現実と並行してふと夢想が混ざり込み、そんな物語を描き留めたくなる感覚は本当によくわかる。
 それは絵描きの「業」だ。
 すずさんは状況的に描けなかったけれども、絵描きの業を背負った者は、できることならそんな時は、まわりにどう思われようと、やはり描いた方が良いのだ。
 

 あまり人には言わないけれども、私は毎日のように「絵を描く手がなくなったら」とか「目が見えなくなったら」と、ひとしきり想像する時間を持っている。
 実際そうなってみないと分からないが、もしそうなっても描けるようにと、そのような想定をする時間を持つように心がけている。
 明日何が起こるかわからないのが人生だ。
 元弱視児童であり、阪神淡路大震災の被災者でもある私は、そのことを身に染みて知っている。

 描き残す、そして書き残すということについて、深く感ずるところの多い、本当に良い映画だったと思う。

 印象的な画面が目白押しだったが、観てからかなりの時間が経過した今でも、たまに反芻するシーンがある。
 終戦の場面である。
 玉音放送を聴いた主人公・すずさんが、一人裏庭に出て、地面を叩きながら慟哭する。
 その時の独白が、言葉通りに受け取ると非常に「好戦的」で、まるで敗戦を悔しがり、戦い抜きたがっているかのようなのだ。
(あの大人しいすずさんが、なぜ?)
 そんな疑問を感じた人も、多かったのではないだろうか。
 その時すずさんが感じた「悔しさ」、私はなんとなくわかる気がするのだ。

 何度も書いてきたが、私は中高生の頃、カルト教団じみた、または戦前の軍国主義じみた、超スパルタ受験校に通い、過酷な体罰教育を受けてきた。

 青春ハルマゲドン

 もちろん中高生としての楽しい思い出もたくさんあったのだが、反発が大きすぎて、卒業後はなるべく母校とは距離を置き、関わらずに過ごしてきた。
 そして90年代、卒業から十年ほど経った頃、我が母校が進学実績の伸びと共に、ごく常識的な範囲の「普通の校風」に脱皮していったことを、風の便りに知った。
 それ自体は「良いこと」で、後輩たちのことを考えれば、まことに好ましい変化だ。
 しかし、私がその時反射的抱いたのは、「悔しさ」に似た感情だった。
 カルトな校風に馴染めず、卒業せずに去っていった友人たちのことや、どうにかサバイバルした自分の感情が蘇ってきた。
 そして、母校の「最高傑作」の一人でありながら、後にカルト教団に走ってしまった面識のない先輩のこと。
 映画館でラストに近づく画面を観ながら、そんなことを思い返していた。

 そう言えば映画の中のすずさんも、戦争で大切なものをたくさん失いながらも、淡々とした日常に還っていったのだった。
 あの終盤の流れ、映画館の暗闇でひっそり涙しながら、見入ってしまった。
posted by 九郎 at 08:07| Comment(0) | | 更新情報をチェックする

2018年08月15日

再掲:旧日本軍の大半は飢えと病で死んだ

 終戦の日という表現にはずっと違和感を持っている。
 本日は「敗戦の日」だ。

 70年以上前、政治力・外交交渉の敗北から日本が開戦に追い込まれ、多くの国民を失い、国土を灰塵に帰した後、敗戦が確定した日だ。
 戦争の真実は勇ましげな戦記だけでは理解できない。
 旧日本軍の大半は、ろくな補給もなされないままに、何の実効性もない精神論で追いたてられ、戦闘行為以前に飢えと病に倒れ、命を落としていった。
 そうした悲惨な現実は、実際に南方戦線に兵士として出征し、片腕を失って帰ってきた水木しげるの作品の中に、多数描き残されている。


●「総員玉砕せよ!」(講談社文庫)


●「水木しげるのラバウル戦記」(ちくま文庫)


●「ねぼけ人生」(ちくま文庫)
 水木しげるは多くの自伝的な作品を描いているが、中でも定番ともいうべき一冊がこの「ねぼけ人生」だ。
 故郷である境港、その習俗のエキスパートである「のんのんばあ」に子守をしてもらった幼児期から、水木しげるの「妖怪人生」は始まっている。
 太平洋戦争に向けて徐々に窮迫する世相、南方戦線への出征、片腕を失った顛末など、昭和史の貴重な証言になっており、まさに今、読むべき内容と言える。
 特筆すべきは、ラバウルの戦場での現地の人々との交流の記録だ。
 ろくな補給もなく、玉砕前提の戦場で兵士の大半が餓死、病死していく中、水木しげる本人は現地人の間で「大地母神」のように慕われるおばあさんに気に入られ、辛うじて命をつなぐ。
 地獄の戦場のすぐ隣には、天国のような自然と共に生きる「土の人」の世界があったのだ。
 戦争が終り、すっかり気に入られた水木は村人たちに引き留められるのだが、上官に説得され、再び返ってくることを約束して日本に帰国し、やがてマンガの世界に飛び込むことになる……
 本書「ねぼけ人生」は人気の高いマンガ作品ではないけれども、水木しげるの作品世界に含まれる要素が全て詰まった、代表作と言える一冊である。



 先に紹介した中沢啓治「はだしのゲン」とともに、これらは今後もずっと長く読み継がれるべき作品だと思う。
 
 戦後七十年を越えてなお、我が祖国ニッポンは相も変わらず政治は無策、外交交渉は貧弱、国民に補給は与えず無意味な精神論ばかり押し付ける国であり続けている。
 このような状態で戦争をやれば、次も必ず負ける。
 国民目線から見れば、負ける戦争は決してやってはいけないのだが、積もり積もった失政のつけを戦争でチャラにしようと目論む奴等は、着々と準備を進めているのである。
posted by 九郎 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | | 更新情報をチェックする

2018年08月17日

絵本「夏のトンネル」

昨年投稿していた連作イラストに、ふと着想が訪れたので詞書をつけてみます。
(タイトルは「夏のトンネル」、画像をクリックすると拡大表示されます)

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お兄ちゃんと妹が
チョウを追いかけ森の中
森は緑のトンネルで
迷い込んだらどこまでも

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トンネル進むと虫の世界
お祭さわぎか合戦か
二手に分かれてエンヤラヤ
いつまでたっても終わりません

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さらに進むと蓮の池
カエルの説法オタマジャクシ
二人は夢中で水遊び
虫とりあみと虫かごは
おきっぱなしで忘れられ

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カラカラ回る風車
おじぞうさまのまわりでは
草のお面の虫たちが
ぐるり輪になり盆踊り

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ワッショイワッショイお神輿の
踊りの列を追ううちに
二人は夏のトンネルを
抜けて夕日のヒガンバナ
いつのまにやらヒガンバナ

(「夏のトンネル」了)
posted by 九郎 at 00:15| Comment(0) | 季節の便り | 更新情報をチェックする

2018年08月19日

星の王子さま

 子供の頃から「本好き」を自認してきて、実際分量としてはかなり読んでいる方だと思う。
 しかし「一人の作者や一つのテーマにハマる」傾向はずっとあって、読書は「狭く、深く」偏りがちだ。
 分量・冊数読んでいる割には、意外に有名どころがぽっかり抜け落ちていたりもする。
 恥ずかしながら、今回取り上げる「星の王子さま」も、そんな中の一冊だ。
 ずっと興味はあり、何度か手に取って最初の数ページ(あのウワバミのくだり)だけは面白く読んでいたのだが、なぜかその後が続かなかった。
 心のタイミングがうまく合わず、「縁」がなかったということだろう。
 それでもいつか読もうと思いながら、未読のままに、すっかりおっさんになってしまっていた。

 この度、改めて読む気になったのは、しばらく前の、某プラントハンター氏の「暴挙」がきっかけだった。
 あまり愉快でない話題について詳述する意欲は湧かないので、心覚えにキーワードのみ記しておく。

「プラントハンター 西畠清順 星の王子さま 改変 バオバブ」

 改変騒動に関する記事を眺めながら、何となく「今なら読めそうだ」と感じて図書館に直行。
 最もオーソドックスな岩波ハードカバー版を借りてきて、一気読みした。

 結論から言うと、生きてる間に読めて本当に良かった!
 そういう意味では某氏に反面の感謝である。

 様々なバージョンが出版されているが、原著者の挿絵はやはり必要不可欠だと感じる。
 今、岩波の内藤濯(ないとう あろう)訳を求めるなら、以下の中から選ぶことになりそうだ。


●「星の王子さま―オリジナル版」
●「愛蔵版 星の王子さま」
●「星の王子さま」(岩波少年文庫)

 カテゴリとしてはもちろん「児童文学」になるけれども、全てのすぐれた作品がそうであるように、「大人にこそ読まれるべき」「今、この私のために書かれた」と感じられる作品だった。
 私なりの分類で言えば、これは「心の中の友だち」の物語だった。

 心の中の友だち、心の中の恋人

 そして、基本的には「友だち」の構図を持ちながら、大人が読む場合はさらに重層的な受け止め方になってくるはずだ。

 少年時代の自分
 少年時代の友だち
 今交流のある少年たち、あるいは自分の子どもたち

 様々な位相の「子ども」との対話が、読み進めながら、心の中で繰り広げられるはずだ。

 人生の中で、繰り返し、何度も、味わうための一冊。 
 私の「縁」は遅くなってしまったけれども、別に早い遅いは関係ない。
 今借りている本は図書館に返却するとして、やはり手元に一冊、作者挿絵の入った本が欲しいのである。
posted by 九郎 at 00:35| Comment(0) | 児童文学 | 更新情報をチェックする

2018年08月20日

妖怪プラモ「河童のガジロウ」

 もう三年前のことになりますが、妖怪造形コンテストというものに応募したことがありました。

 山姫の歌声

 このコンテストは民俗学者・柳田國男の故郷、兵庫県神崎郡福崎町が主催しているもので、今年が最終回になるそうです。
 締め切りは十月末、せっかくだし、また何か作れたらいいなと思っていた時、近所のお店で当の福崎町発売の河童のプラモを見つけました。
 そんなに高くないし、ちょうど手ならしにいいかと思い、この夏、時間を見つけてはちょこちょこ作っていました。


●福崎町観光協会 福崎町妖怪プラモデルNo.1 河童のガジロウ

 組み立て前はこんな感じ。

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 茶色一色の成型色で、かなり細かく形状は再現してあることが、ランナー状態からもう分かります。
 ただ、切り離して仮合わせしてみると、パーツの合いは今一つで、調整が必要。
 あと、離型剤が少し残っている感じがしたので、接着と塗装の下準備に、台所洗剤と古歯ブラシで洗浄はしておいた方が良さそう。
 今風の組み立て楽ちん、塗装いらずのストレスフリーなプラモではありませんが、一昔前の「すごく出来のいいガレージキット」という印象です。
 ガンプラ世代には昔馴染みのプラモ作りのセオリーに沿って、制作を進めます。
 パーティングライン消し、擦り合わせ、溶着、パテで盛り削り、サーフェイサー吹き……
 手足の各関節の接着角度は自分で探らなくてはならないので、慌てず乾燥時間を挟みながらの制作になります。
 暇を見つけて小一時間ずつじっくり作る、そんな昔ながらのプラモ作りが楽しめます。

 塗装は例によってつや消しブラックからのアクリルガッシュ筆塗り。
 ガッシュはザラッとしたつや消し仕上げになりますが、今回はモデルが「河童」。
 表面に両生類的な「ぬめり」が欲しかったので、最後に光沢のトップコートを吹いてみました。

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 今回は箱の完成品写真を参考に、私好みにやや色味とコントラストを強めに塗っています。
 架空の臓器「尻子玉」の色は、悩んだ末ゴールドに。
 この色だとなんか別のタマにも見えてしまいますが……

 モールドが細かくしっかりしているので、塗装が本当に楽しいです。
 技量不足のラフな塗りを、キットが助けてくれる感じ。
 特に甲羅が楽しかった!

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 完成品は手のひらサイズ。
 最近のプラモとしてはお値段安目で、コスパの高い良キットでした。

 このシリーズ、他に天狗も発売されているようです。


●福崎町観光協会 福崎町妖怪プラモデルNo.2 天狗



 妖怪プラモ、けっこう気に入った!
 そう言えば、昔買ってまだ組んでなかった妖怪プラモ(というか鬼太郎プラモ)が、どっかにあったはず……


 ゴソゴソ。

 
 コンテストも何かネタは……

posted by 九郎 at 18:51| Comment(0) | サブカルチャー | 更新情報をチェックする

2018年08月23日

新旧「星の王子さま」

 しばらく前、本当に遅ればせながら、サン・テグジュペリ「星の王子さま」を、人生初めて通読した。
 最初は一番スタンダードなものをと、図書館で岩波書店の従来のハードカバー版を借りて読んだ。

 星の王子さま

 やっぱりというか、本当に良い本だったので、手元に一冊置きたいと思い、同じ岩波書店から2000年に発行された「オリジナル版」を入手し、読み比べてみた。
 色々感じる所があったので、まとめてみたいと思う。

 以下、それぞれ「旧版」「オリジナル版」と表記する。
 訳:内藤濯(ないとう あろう)であることは共通。


●旧版
・1962年発行 1972年改版発行
・22cm×15cm
・縦書き右開き
・「訳者あとがき」有り


●オリジナル版
・2000年発行
・18cm×11cm
・横書き左開き
・フレデリック・ダゲーの「まえがき」有り
・挿絵が作者による「原画」により近い

 旧版と比較して、挿絵に限って言えば、原画の色の濃淡や、描線の細かなニュアンスは、確かにオリジナル版の方が再現されているようだ。
 しかし、単純にオリジナル版が旧版の上位互換かというと、そこは好みが分かれる所だと思う。
 まず、版型が旧版の方が2倍近く大きいので、絵も文もはるかに見やすい。
 そして印刷設定の違いからか、オリジナル版の挿絵は全体にやや黄色味が強く、私の好みでは旧版の色合いの方が落ち着いていて良いと思う。
 何点か、旧版でカラーだった挿絵がオリジナル版でモノクロになっているケースもある。
 何よりも、旧版は日本における不動のスタンダードとして、既に多くの愛読者を獲得しているという現状がある。

 新旧の最大の違いは、挿絵の異同というより、縦書き右開きから横書き左開きへ変わっていることではないかと感じる。
 日本語版の元になった仏語版や英語版はもちろん横書き左開きなので、オリジナル版はそれに即した本作りと言うことになる。
 同じ挿絵でも、右開きと左開きでは「読者の感じ方」に違いが生じる。
 縦書き右開きの本の中では、読者の視線が順に左側に移動していくことになるので、挿絵の中の時間経過も左側に進行する。
 横書き左開きでは本の中の時間経過が逆方向になる。
 挿絵の中の「星の王子さま」は左向きで描かれていることが多い。
 この絵を旧版の中で眺めると、読者の視線は絵の中の王子さまの顔の向きとシンクロするので、感情移入の対象は王子さまになりやすい。
 同じ絵をオリジナル版(仏語版、英語版と同じ向き)で眺めると、挿絵の中の王子さまの視線は、読者の視線と相対することになる。
 すると読者は、「向こうの世界からやってきた王子さま」と、向かいあって対話しながら読み進める感覚になり易い。

 この縦横右左の違いの方が、挿絵の精度より、よほど読者の印象に影響するのではないかと思う。

 作者の意図に、より忠実なのはオリジナル版。
 旧版の方も、年少者も含めた日本人が読み易い一冊の本として、大変よくできている。

 これから「星の王子さま」を読もうとするなら、以上のようなことを考慮して選ぶのが良いと思う。


●「星の王子さま―オリジナル版」
●「愛蔵版 星の王子さま」
●「星の王子さま」(岩波少年文庫)
posted by 九郎 at 15:45| Comment(0) | 児童文学 | 更新情報をチェックする