もちろん、100%本気ではないのだろうけれども、思考実験としては面白い。
現代ニッポンに「大仏建立」はあり得るか?
あり得るとしたら、それはどんな大仏か?
具体的に、どの仏様を建立するか?
当ブログでは以前、内田樹さんのブログで論じられていた「うめきた大仏構想」に触発され、ビル越しの阿弥陀のスケッチを描いたことがある。

もし石山本願寺の寺内町で栄えた大阪の地に大仏を建立するなら、やはり阿弥陀さまが似合うのではないかと感じ、「山越しの阿弥陀」来迎図を元ネタに試作したスケッチだ。
ただ、阿弥陀さまだと現代ニッポンでは「宗派性」が出てしまうだろう。
阿弥陀信仰自体は特定の宗派の専有物ではなかったはずだが、鎌倉時代以降はどうしても浄土系の宗派のイメージが強くなる。
鎌倉仏教では、まだ「若い」のだ。
スケールの大きさでは大日如来が良いかもしれない。
宇宙大に広げられた大風呂敷の仏さまなら、設定上は「すべての仏菩薩」を包含しうる。

しかしこの仏さまも、空海の真言密教のイメージが強い。
誰もが違和感なく参拝するには、平安の真言天台でもまだ「若い」のかもしれない。
宗派横断で信仰されている仏菩薩と言えば、お地蔵さまと観音さまの名が浮かぶ。
お地蔵さまは地球菩薩なので、天変地異への祈りの対象としてはよく合っているかもしれない。

ただお地蔵さまの場合、路傍の小さな石仏のイメージが強いので、「大仏」には似合わないともいえる。
そして慈悲の化身の観音さまは、近代に入ってから(私の感覚としては巨大すぎる)大仏として、すでに造られすぎている印象がある。
あるいは五十六億七千万年後の未来に希望を託す弥勒菩薩では、遠すぎるか?

やはりここは、東大寺の盧遮那仏の出番だろうか?
仏教の蓮華蔵の世界観は広大だ。
そして華厳経の廬舎那仏は宗派性が薄いところもいい。

様々な前提をクリアーしつつ実際に大仏を建立すると仮定して、では一体だれが制作の指揮を執るのかという難問も残る。
西村公朝師であれば、伝統と現代の感覚を両立しながら、誰もが納得する仕事をなさったかもしれないが、すでに存命ではない。
いっそ「仏像」ではなく、現代芸術として作れる人はいないものか。
たとえば岡本太郎の「太陽の塔」のように、賛否を包み込んで、なおすっくと立つ「大いなる像」を建立できる人は?
……ちょっと名前が浮かばない。
現代における大仏建立、やはり一つの与太話として楽しむのが良さそうだ。