しばらくがっちり人体描いてなくて、手が大分忘れてるのに気付いた。
ハシクレとは言え絵描きなので、一通り人体デッサンの訓練は積んでいるはずなのだが、「忘れる」ということは本当の意味で身にはついていなかったということか(苦笑)
これからも描いたり造ったりしていくために、ここらで一発、がっちり人体の復習をしたおこうと思い立った。
上手いデッサンの模写で「型稽古」しようと、書店で良いお手本を物色。
やっぱりダ・ヴィンチかなと思ってたら、頭のおかしい(最大級の賛辞)本を見つけてしまった!
●小田隆「うつくしい美術解剖図」(玄光社)
名画や彫刻作品をお題に、骨格や筋肉の解剖図に変換し、あらゆる角度からタッチを活かした鉛筆の線画で紹介している。
この「線画」という点が極めて重要!
写真でも3DCGでもなく線画!
輪郭線で囲むというのは、情報の高度な「編集」作業だ。
優れた絵描きの手で「編集」された図像を模写することで得られる学習効果は、極めて高い。
そして何よりこの本が「頭おかしい」(最大級の誉め言葉)点は、天使や人魚、ケルベロスやケンタウロス等の空想生物の骨格や筋肉、古生物の復元作例まで含めて収録されている点だ!
絵描きだけでなく、造形や生物的メカデザインをやってる人は必見なのである!
本を入手してから、さっそく模写&書写を開始。
図だけではなく、文章部分も「写経」するのが私の学習スタイルで、とくに目次の書写は学習見通しを立てるのに有効。
たまに美術系などの受験相談を受ける機会があるのだが、先行する表現者の模写や文献の筆写を勧めると、最近の子には変な顔をされがちで、まず実行はしてもらえない。
自分が敬意を払える絵や文を、知的興奮をもって写すのでなければ効果がないので、気乗りしないのを強いては勧めないのだが、「もったいないな」とは思う。
たとえば数学などで考えると「過去の歴史の蓄積を無視して一から数の仕組みを考える」ことの無謀が分かるはずなのだが……
ただ、相談される立場とは言え、上から目線で指示するだけでは信頼されないのもまた当然。
私の師匠がそうであったように、「目の前でやって見せる」プロセスは必要だ。
そんな時、「俺だってまだまだ、日々精進してるんやで!」という現物、スケッチや模写の束があると、がっちり完成した作品を見せるより、むしろ制作に対する姿勢が伝わるのだ。
限られた時間の中、学習の最大効果を上げるため、目的から逆算して模写の方法を設定。
・人体の構造を手で覚えなおすため、グリッド線を引いて形状・バランスはなるべく正確に写す。
・小田先生の見事な鉛筆タッチは今回は省略させてもらい、輪郭線を強く出して形状、空間の把握に努める。
本の第一章から順に手を動かしてると、だいぶ思い出してはくるのだが、骨格部分、とくに肋骨の重なりを描くのに難渋。
「俺こんなに下手やったかな?」
と、笑ってまうほど描けない。
しかし、地道に続けてれば意外と早く慣れてくるものだ。
スポーツやる人には、ブランクの後の復帰過程を思い浮かべてもらうと、感覚がわかってもらえると思う。
体幹骨格を正面、背面模写し終えたあたりで、背骨リズムというか肋骨リズムというか、そういうものがつかめてきた気がした。
著者の小田隆先生のTwitterを拝見していると、よくドローイングや板書の類がアップされているのでとても参考になる。
続いて頭骨。
これは手が結構覚えているし、線が少ないのでわりとスムーズに模写が進む。
頭骨のお勉強していて、自分でよくやっているマッサージポイントのことが少し理解できた。
弱視児童の頃、確か矯正の先生が教えてくれたのが、眼窩の周囲、こめかみの凹み、そして耳の後ろの乳様突起周辺のマッサージだった。
寝る前にやると寝つきがよくなり、疲れが取れやすいので、今でも活用している。
目と首、肩、腰は連動していて、乳様突起は胸鎖乳突筋で首、肩とつながる起点。
どうりで効くわけだ!
そうこうしているうちに、十一月中に第一章の模写完了。
今月も引き続き時間を見つけながら、ぼちぼち二章のダヴィデ像の模写に入っていきたいと思います。
2018年12月02日
2018年12月14日
怪人コトリ #全国妖怪造形コンテスト 前編
10月末に応募した第五回全国妖怪造形コンテスト、結果は残念ながら入賞ならずで、最終選考までは残してもらえました。
三年前に妖怪楽器山姫の歌声で応募した時と同じ。
なかなかハードルは高いですね(苦笑)
レベルの高いコンテストに参加できて、並み居るモデラーの皆さんの作品にもまれながら最終選考まで進めたのは満足です。
プラス志向で考えると、作品は手元に残り、紹介も自由にできます。
何より、この手に経験と技術が残りました。
これからぼちぼち、制作過程を振り返ってみます。
毎年、三種ほど妖怪をお題に募集される「全国妖怪造形コンテスト」。
今年はファイナルということで、柳田邦男「妖怪談義」に出てくる全てがOKで、まあ要するに自由テーマに近い感じでした。
私は「談義」の中から、子供をさらう「隠し神」をえらびました。
この妖怪、私が子供の頃は「コトリ」と呼ばれていて、「子盗り」要するに人さらいのことです。
大人がよく「そんなんしとったらコトリがくるぞ!」と脅していて、子供の頃は響きから「鳥の妖怪?」と勘違いしていました(笑)
まずは「妖怪談義」から気になるフレーズを書き出し、イメージをかきたてます。
スケッチを描きます。
自分が子供の頃の妄想を大切に。
一応立体を意識しながらもあまり固く考えず、勢い優先で。
鳥の正体を黒マントと帽子で隠し、捕まえた子供を詰める袋を担ぐ怪人コトリ。
とにかく手で考えながら枚数描きます。
ここから先の「モンスター造型」は、けっこう未知の領域です。
子供の頃からのプラモ、学生時代の彫塑、立体造型の経験は有りますが、そのものズバリのフィギュア制作はほぼ素人。
今も粘土造型を続けている弟の意見も参考に、大きさや素材を考えます。
あまり大きいと、重量や強度、材料費がたいへん。
あまり小さいと、細部の工作が困難。
ということで、ガンプラで言うとだいたい1/100サイズ、20p前後で作ることにしました。
材料は、芯材にアルミ線、固定に軽量紙粘土、肉付けに石粉粘土、細部の仕上げにエポキシパテと想定します。
色々手探りで制作を進め、結果的には以下の素材をメインで使いました。
●石粉粘土
「Mr.クレイ」(安価で軽量、乾燥後の盛り削りも可)
●エポキシパテ
「タミヤ エポキシ造形パテ 速硬化タイプ」
「Wave ミリプットエポキシパテ」
「Wave エポキシパテ 軽量・グレータイプ」
あらためて実物大でスケッチ。
お手本がない完全オリジナルなので「図面」ではありません。
アルミ線で芯を組むためのざっくりしたもの。
細部は作りながら考えることとします。
アルミ線を3本組み合わせ、ねじって嘴から尻尾までの体幹と、両手足の芯に。
次に、スケッチを参考にポーズを決め、タミヤエポキシで強度の必要な両足と尻尾の先端部分を付けます。この時点では三点接地でした。
軽量紙粘土でポーズ固定し乾燥。
両手はアドリブ対応できるようにアルミ線のまま。
石粉粘土で肉付け第一段階。
石粉粘土は乾燥後の盛り削りが容易なので、試行錯誤しながらの造形に向いています。
大体の姿勢が決まったら、難易度の高い頭部から作り、そこから辻褄を合わせていくことにして、エポキシパテでまずは嘴と眼球を付けてみます。
粘土へのパテの食いつきは良好。
すみません、ちょっと写真飛びます。
顔面、帽子、襟、コトリ袋の端を握った両手の順に、Waveエポキシパテ 軽量・グレータイプで造形。
軽量で硬化後もサクサク削れて使いやすいですが、パテ同士の食いつきは今一つ。
削りやすさと引き換えに粘り、強度もやや低めです。
ボディの大まかな造形を石粉粘土でやる時、面出しなどで活躍したのが写真の小刀。
これは大工だった私の祖父が自作したもので、刃先がゆるくカーブしているので、凹曲面も多少出せます。
強度を付けるため両腕は本体から離れておらず、レリーフ状になっています。
当初は両足と尾の三点で立たせるつもりでしたが、ここまで進めたあたりで二足自立出来そうな感じがしてきました。
二足自立出来るなら、その方がポーズ、バランスにリアリティが出ます。
三年前に妖怪楽器山姫の歌声で応募した時と同じ。
なかなかハードルは高いですね(苦笑)
レベルの高いコンテストに参加できて、並み居るモデラーの皆さんの作品にもまれながら最終選考まで進めたのは満足です。
プラス志向で考えると、作品は手元に残り、紹介も自由にできます。
何より、この手に経験と技術が残りました。
これからぼちぼち、制作過程を振り返ってみます。
毎年、三種ほど妖怪をお題に募集される「全国妖怪造形コンテスト」。
今年はファイナルということで、柳田邦男「妖怪談義」に出てくる全てがOKで、まあ要するに自由テーマに近い感じでした。
私は「談義」の中から、子供をさらう「隠し神」をえらびました。
この妖怪、私が子供の頃は「コトリ」と呼ばれていて、「子盗り」要するに人さらいのことです。
大人がよく「そんなんしとったらコトリがくるぞ!」と脅していて、子供の頃は響きから「鳥の妖怪?」と勘違いしていました(笑)
まずは「妖怪談義」から気になるフレーズを書き出し、イメージをかきたてます。
スケッチを描きます。
自分が子供の頃の妄想を大切に。
一応立体を意識しながらもあまり固く考えず、勢い優先で。
鳥の正体を黒マントと帽子で隠し、捕まえた子供を詰める袋を担ぐ怪人コトリ。
とにかく手で考えながら枚数描きます。
ここから先の「モンスター造型」は、けっこう未知の領域です。
子供の頃からのプラモ、学生時代の彫塑、立体造型の経験は有りますが、そのものズバリのフィギュア制作はほぼ素人。
今も粘土造型を続けている弟の意見も参考に、大きさや素材を考えます。
あまり大きいと、重量や強度、材料費がたいへん。
あまり小さいと、細部の工作が困難。
ということで、ガンプラで言うとだいたい1/100サイズ、20p前後で作ることにしました。
材料は、芯材にアルミ線、固定に軽量紙粘土、肉付けに石粉粘土、細部の仕上げにエポキシパテと想定します。
色々手探りで制作を進め、結果的には以下の素材をメインで使いました。
●石粉粘土
「Mr.クレイ」(安価で軽量、乾燥後の盛り削りも可)
●エポキシパテ
「タミヤ エポキシ造形パテ 速硬化タイプ」
「Wave ミリプットエポキシパテ」
「Wave エポキシパテ 軽量・グレータイプ」
あらためて実物大でスケッチ。
お手本がない完全オリジナルなので「図面」ではありません。
アルミ線で芯を組むためのざっくりしたもの。
細部は作りながら考えることとします。
アルミ線を3本組み合わせ、ねじって嘴から尻尾までの体幹と、両手足の芯に。
次に、スケッチを参考にポーズを決め、タミヤエポキシで強度の必要な両足と尻尾の先端部分を付けます。この時点では三点接地でした。
軽量紙粘土でポーズ固定し乾燥。
両手はアドリブ対応できるようにアルミ線のまま。
石粉粘土で肉付け第一段階。
石粉粘土は乾燥後の盛り削りが容易なので、試行錯誤しながらの造形に向いています。
大体の姿勢が決まったら、難易度の高い頭部から作り、そこから辻褄を合わせていくことにして、エポキシパテでまずは嘴と眼球を付けてみます。
粘土へのパテの食いつきは良好。
すみません、ちょっと写真飛びます。
顔面、帽子、襟、コトリ袋の端を握った両手の順に、Waveエポキシパテ 軽量・グレータイプで造形。
軽量で硬化後もサクサク削れて使いやすいですが、パテ同士の食いつきは今一つ。
削りやすさと引き換えに粘り、強度もやや低めです。
ボディの大まかな造形を石粉粘土でやる時、面出しなどで活躍したのが写真の小刀。
これは大工だった私の祖父が自作したもので、刃先がゆるくカーブしているので、凹曲面も多少出せます。
強度を付けるため両腕は本体から離れておらず、レリーフ状になっています。
当初は両足と尾の三点で立たせるつもりでしたが、ここまで進めたあたりで二足自立出来そうな感じがしてきました。
二足自立出来るなら、その方がポーズ、バランスにリアリティが出ます。
(続く)
2018年12月15日
怪人コトリ #全国妖怪造形コンテスト 後編
(続き)
フィギュア造形の経験値が低いうちは、顔や手足の末端など、細工の難しい所から作り、周辺で辻褄を合わせた方が完成しやすいです。
そうした末端部分、そして体表の羽毛表現のために、泥縄的に図書館で鳥類図鑑を観ながらスケッチを重ねました。
中でも参考になったのが、赤勘兵衛「鳥の形態図鑑」(偕成社)でした。
細密な線画で描かれた鳥類の図像は、写真よりはるかに理解しやすかったです。
しょせん架空のモンスターなんですけど、想像で作るにしても材料がないと無理。
「このような形をなぞれば鳥的に見える」ということをまずはスケッチで手になじませ、造形に入ります。
羽毛等の細工には、百均のネイルアート用具が役立ちました。
とくに先が樹脂製のヘラは、粘土やエポキシパテがけば立たずに溝を刻むことができ、めっちゃ小さい指先を手に入れたような感覚でした。
Twitterで紹介されていた便利用具です!
翼などの薄い末端部分は粘り強度のあるタイプのエポキシパテ。
硬化前にヘラなどでぐいぐい形を刻みます。
三年ほど前にプラモ復帰して以来の経験から、塗装を想定しながら体表を作ります。
さほどテクがあるわけでもないので、そこそこモールドがあった方がそれに助けてもらえます。
そう言えば夏に作ったガジロウ(今回のコンテストの福崎町の妖怪プラモ)が塗りやすかったことなど思い出しながら。
作り込む所は作り込みますが、メリハリをつけて小刀の削り跡そのままのような所も残します。
全てを緻密にやる技術はないのと、動きや勢いを出しやすいためです。
そして造形段階の最後の難関、「怪人コトリが担ぐコトリ袋に浮かんだ、攫われた子供たちの無念の表情」を制作します。
あらためて文字で書くと、我ながらどうかしてます(苦笑)
顔一つずつエポキシパテを盛りつけ、百均ネイル用品でそれぞれ別の表情を刻みます。
作ってる間、それぞれの顔と同じ表情をしていました(笑)
写真はサーフェイサーを吹いた状態。
造形が終わったら、目立つ粗だけ修正しながらサフを重ね、全体につや消しブラック。
そしてアクリルガッシュの茶色をざっと下塗り。
下塗りまで進めながら、同時進行で着色案。
例によって泥縄で鳥類図鑑をめくりながら、色合いを模索します。
結局、ヒクイドリやキジの配色を参照することに。
ドライブラシっぽく色を重ねていきます。
ノートに書きだした「妖怪談義」の記述を眺めながら、妄想を掻き立てて塗り重ねます。
地方によっては「脂を搾って南京皿を焼くのに使う」とか。。。
あちこちのエッジ部分にゴールド系のドライブラシをかけ、仕上げ。
確か昔のソフビ怪獣に、こういうアクセントがあったはず。
一応尾は浮いていて、細い足の二足自立ですが、広がった四本指なので見た目よりは安定しています。
最後にトップコートでつやを整え完成です。
応募結果は前回記事冒頭でお知らせしたとおり。
残念ではありますが、とても充実した制作ができました!
そして、この怪人の制作過程で人体デッサンの必要性にあらためて思い至ったことから、先月再勉強をはじめたのでした。
フィギュア造形の経験値が低いうちは、顔や手足の末端など、細工の難しい所から作り、周辺で辻褄を合わせた方が完成しやすいです。
そうした末端部分、そして体表の羽毛表現のために、泥縄的に図書館で鳥類図鑑を観ながらスケッチを重ねました。
中でも参考になったのが、赤勘兵衛「鳥の形態図鑑」(偕成社)でした。
細密な線画で描かれた鳥類の図像は、写真よりはるかに理解しやすかったです。
しょせん架空のモンスターなんですけど、想像で作るにしても材料がないと無理。
「このような形をなぞれば鳥的に見える」ということをまずはスケッチで手になじませ、造形に入ります。
羽毛等の細工には、百均のネイルアート用具が役立ちました。
とくに先が樹脂製のヘラは、粘土やエポキシパテがけば立たずに溝を刻むことができ、めっちゃ小さい指先を手に入れたような感覚でした。
Twitterで紹介されていた便利用具です!
翼などの薄い末端部分は粘り強度のあるタイプのエポキシパテ。
硬化前にヘラなどでぐいぐい形を刻みます。
三年ほど前にプラモ復帰して以来の経験から、塗装を想定しながら体表を作ります。
さほどテクがあるわけでもないので、そこそこモールドがあった方がそれに助けてもらえます。
そう言えば夏に作ったガジロウ(今回のコンテストの福崎町の妖怪プラモ)が塗りやすかったことなど思い出しながら。
作り込む所は作り込みますが、メリハリをつけて小刀の削り跡そのままのような所も残します。
全てを緻密にやる技術はないのと、動きや勢いを出しやすいためです。
そして造形段階の最後の難関、「怪人コトリが担ぐコトリ袋に浮かんだ、攫われた子供たちの無念の表情」を制作します。
あらためて文字で書くと、我ながらどうかしてます(苦笑)
顔一つずつエポキシパテを盛りつけ、百均ネイル用品でそれぞれ別の表情を刻みます。
作ってる間、それぞれの顔と同じ表情をしていました(笑)
写真はサーフェイサーを吹いた状態。
造形が終わったら、目立つ粗だけ修正しながらサフを重ね、全体につや消しブラック。
そしてアクリルガッシュの茶色をざっと下塗り。
下塗りまで進めながら、同時進行で着色案。
例によって泥縄で鳥類図鑑をめくりながら、色合いを模索します。
結局、ヒクイドリやキジの配色を参照することに。
ドライブラシっぽく色を重ねていきます。
ノートに書きだした「妖怪談義」の記述を眺めながら、妄想を掻き立てて塗り重ねます。
地方によっては「脂を搾って南京皿を焼くのに使う」とか。。。
あちこちのエッジ部分にゴールド系のドライブラシをかけ、仕上げ。
確か昔のソフビ怪獣に、こういうアクセントがあったはず。
一応尾は浮いていて、細い足の二足自立ですが、広がった四本指なので見た目よりは安定しています。
最後にトップコートでつやを整え完成です。
応募結果は前回記事冒頭でお知らせしたとおり。
残念ではありますが、とても充実した制作ができました!
そして、この怪人の制作過程で人体デッサンの必要性にあらためて思い至ったことから、先月再勉強をはじめたのでした。
2018年12月16日
上手(かみて)と下手(しもて)
日本の演劇の用語に「上手(かみて)」「下手(しもて)」というものがあります。
客席側から舞台を見て、右が「上手」、左が「下手」になります。
昔、少しだけ関西小劇場の舞台美術をやっていたのですが、恥ずかしながら上手下手の区別にいつも数秒かかってました。
迷わなくなったのは、実をいうと劇団から手を引いた後、ようやく見分け方に気付いてからです。
それは以下のようなもの。
「吉本新喜劇で三色チンピラが出てくる方が下手!」
今から思うと劇団時代の私は、上下を自分から見て右左で暗記しようとしてわちゃわちゃしてしまっていたのです。
今なら「方向」としてではなく、「機能」「概念」としてわかる気がします。
日本の伝統的な舞台では(たぶん絵巻物から受け継いだのだと思いますが)、基本的に上手から下手方向に時間が流れています。
だから主役、主人、上位者は上手から登場し、敵や客は下手から向かってきます。
(現代の新作芝居はそのあたり、もっと自由になっています)
吉本新喜劇などに今でも残っている観客から見て舞台の「上手から下手へ」という基本的な物語の進行方向は、お芝居の「わかりやすさ」を担保する約束事として機能しています。
同じ構成は、絵巻物の系譜に連なる縦書き右開きの日本のマンガや絵本の世界でも守られています
日本のマンガで、主要キャラの顔が「左向き」が多いのは、下手に向けてお話が進行しているからです。
マンガ好きの中高生が、ちょっと本気でマンガ絵を描き始めようとする時も、右手で描きやすいこともあって、左向きの顔が多くなり、右向きキャラを描くのが、技術的な最初の壁になったりします(笑)
日本以外の横書き左開き文化圏のマンガは、上手下手が逆転し、お話は右方向へ進行します。
日本のマンガを海外向けに翻訳する場合、本格的にやると言葉の翻訳だけでは済まず、上下の進行方向まで根本的に逆転する必要があるため、かなり高い「障壁」になっています。
コンピューターゲーム(たとえばマリオなど)の横スクロール画面も同じ「上下(かみしも)逆転」の形式が多くなっていますが、これはコンピューターがそもそも横書きに対応して作られているためでしょう。
マンガであれ絵本であれ、右開きであれ左開きであれ、キャラがお話の進行方向の流れに沿って動く分には、絵は描きやすいです。
難しいのは、その流れに逆らうような動きを描く必要がある時で、たとえば「ひっぱる」という行為をそれらしく見せるのは、意外に難しいです。
名作絵本「おおきなかぶ」は彫刻家・佐藤忠良が絵を担当し、横書き左開きで進行します。
話の流れは右向きなので、当然目的物である「おおきなかぶ」は、右側に配置されています。
「ひっぱる」という行為はページ進行、読者の視線の動きと逆向きになるので、どんなに絵で上手く描いても伝わりにくくなります。
下手すると、同じ絵でも全く逆の動作に見えてきてしまいます。
重力や力のかかり方、動きの表現のプロである彫刻家・佐藤忠良にとっても「絵本の進行方向と逆にひっぱる」というのは難題だったらしく、描いていてどうしても「押している」ように見えてきてしまい、何度も描きなおしたという逸話があります。
それほど、お話の進行上の「上下(かみしも)」の感覚は、画面を支配します。
絵画や一枚イラストと、マンガや絵本等のお話の進行の上下(かみしも)が存在する絵との、一番の違いがこれで、「絵の技術」だけではマンガが描けないのは、このためです。
時間芸術と空間芸術という分類があります。
時間芸術は作品内に「時間経過」があるもの。
広く捉えれば音楽や映像、演劇、文学もこれに入ります。
空間芸術は絵画や彫刻など、基本的に静止した作品を鑑賞するだけで成立するジャンルを指します。
絵巻物、絵本、マンガ等は、手法としては絵の要素が大きいのですが、分類としては時間芸術の方に入るのです。
現代演劇では舞台の「上手下手」の機能は薄れつつあります。
また実写映像や3DCGでは、物語が「画面奥」へと進行していく、あらたな「上下(かみしも)」の基本形があるようです。
ただ「シンプルな分かりやすさ」という点においては、まだまだ横スクロール型の物語進行は有効性をもっているわけです。
客席側から舞台を見て、右が「上手」、左が「下手」になります。
昔、少しだけ関西小劇場の舞台美術をやっていたのですが、恥ずかしながら上手下手の区別にいつも数秒かかってました。
迷わなくなったのは、実をいうと劇団から手を引いた後、ようやく見分け方に気付いてからです。
それは以下のようなもの。
「吉本新喜劇で三色チンピラが出てくる方が下手!」
今から思うと劇団時代の私は、上下を自分から見て右左で暗記しようとしてわちゃわちゃしてしまっていたのです。
今なら「方向」としてではなく、「機能」「概念」としてわかる気がします。
日本の伝統的な舞台では(たぶん絵巻物から受け継いだのだと思いますが)、基本的に上手から下手方向に時間が流れています。
だから主役、主人、上位者は上手から登場し、敵や客は下手から向かってきます。
(現代の新作芝居はそのあたり、もっと自由になっています)
吉本新喜劇などに今でも残っている観客から見て舞台の「上手から下手へ」という基本的な物語の進行方向は、お芝居の「わかりやすさ」を担保する約束事として機能しています。
同じ構成は、絵巻物の系譜に連なる縦書き右開きの日本のマンガや絵本の世界でも守られています
日本のマンガで、主要キャラの顔が「左向き」が多いのは、下手に向けてお話が進行しているからです。
マンガ好きの中高生が、ちょっと本気でマンガ絵を描き始めようとする時も、右手で描きやすいこともあって、左向きの顔が多くなり、右向きキャラを描くのが、技術的な最初の壁になったりします(笑)
日本以外の横書き左開き文化圏のマンガは、上手下手が逆転し、お話は右方向へ進行します。
日本のマンガを海外向けに翻訳する場合、本格的にやると言葉の翻訳だけでは済まず、上下の進行方向まで根本的に逆転する必要があるため、かなり高い「障壁」になっています。
コンピューターゲーム(たとえばマリオなど)の横スクロール画面も同じ「上下(かみしも)逆転」の形式が多くなっていますが、これはコンピューターがそもそも横書きに対応して作られているためでしょう。
マンガであれ絵本であれ、右開きであれ左開きであれ、キャラがお話の進行方向の流れに沿って動く分には、絵は描きやすいです。
難しいのは、その流れに逆らうような動きを描く必要がある時で、たとえば「ひっぱる」という行為をそれらしく見せるのは、意外に難しいです。
名作絵本「おおきなかぶ」は彫刻家・佐藤忠良が絵を担当し、横書き左開きで進行します。
話の流れは右向きなので、当然目的物である「おおきなかぶ」は、右側に配置されています。
「ひっぱる」という行為はページ進行、読者の視線の動きと逆向きになるので、どんなに絵で上手く描いても伝わりにくくなります。
下手すると、同じ絵でも全く逆の動作に見えてきてしまいます。
重力や力のかかり方、動きの表現のプロである彫刻家・佐藤忠良にとっても「絵本の進行方向と逆にひっぱる」というのは難題だったらしく、描いていてどうしても「押している」ように見えてきてしまい、何度も描きなおしたという逸話があります。
それほど、お話の進行上の「上下(かみしも)」の感覚は、画面を支配します。
絵画や一枚イラストと、マンガや絵本等のお話の進行の上下(かみしも)が存在する絵との、一番の違いがこれで、「絵の技術」だけではマンガが描けないのは、このためです。
時間芸術と空間芸術という分類があります。
時間芸術は作品内に「時間経過」があるもの。
広く捉えれば音楽や映像、演劇、文学もこれに入ります。
空間芸術は絵画や彫刻など、基本的に静止した作品を鑑賞するだけで成立するジャンルを指します。
絵巻物、絵本、マンガ等は、手法としては絵の要素が大きいのですが、分類としては時間芸術の方に入るのです。
現代演劇では舞台の「上手下手」の機能は薄れつつあります。
また実写映像や3DCGでは、物語が「画面奥」へと進行していく、あらたな「上下(かみしも)」の基本形があるようです。
ただ「シンプルな分かりやすさ」という点においては、まだまだ横スクロール型の物語進行は有効性をもっているわけです。
2018年12月22日
2018年12月23日
ジオン系MS「モノアイレール」についての覚書
1979年放映のTVアニメ「機動戦士ガンダム」は、ロボットアニメに多くの革新をもたらしました。
デザインの上では、主役メカのガンダムと同等かそれ以上に、敵役の量産機「ザク」の功績が大きく、作品の「リアル」な側面を担っていました。
ザクで創出された意匠は数多いですが、とりわけ印象深かったのが「モノアイ(単眼)」です。
モノアイが優れている点は、非人間的なメカニックでありながら、レールに沿って頭部をグルッと周回することで「表情」が出せることです。
ガスマスクを被ったようなおよそ人間離れしたデザインで無表情なザクに、巧みに「演技」をさせてしまうのです。
真っ暗なレールの中から「ビーン」とピンクのモノアイが点灯し、左右に動いてザク同士アイコンタクトするあのゾクゾク感は、時代を経ても色褪せません。
ザク以降のジオン軍MSでも、モノアイの演出上の面白さは有効に活用されてきました。
ドムが登場した時の「おお! 上下にも動くんかい!」という驚きも忘れられません。
水陸両用MSになると、さらにモノアイは進化します。
実質「頭部」が無くなり、胴体に直接レールが敷かれることで可動範囲が飛躍的に広まり、ピンクのモノアイが自由自在に動きはじめます。
その究極がゾック!
しかも、「見た目より性能高いアピール」で、物凄く素早くモノアイを動かしてみたものの、一撃でやられるオチ付き!
ある意味あれも衝撃でした(笑)
ただ、ファーストガンダムのジオン系MSの中で、終盤登場のゲルググ(実質富野デザイン)だけはちょっと変わっていて、モノアイレールの可動幅が小さく、ファースト以降の続編に登場したジオン系MSに近い雰囲気です。
ここは子供の頃から気になって、「後頭部のトサカがセンサーになってて、視野の狭さを補ってる?」などと妄想してました。
しかしジオン最終MS ジオングになると、モノアイレールの可動が最大限に復活します。
ピンクのモノアイが登頂部を通ってグリグリ動き回る演出が、異形を際立たせて記憶に残っています。
こうして振り返ると、ジオン系モノアイデザインの面白さは、レール上の可動込みのものだったのかなと思います。
ガンダム第一作以降のジオン系MSの新規デザインで、うまく継承しきれていないなと感じる点が、このモノアイレールで、「単眼」という点だけはクリアされていますが、レールに沿ってグルっと可動するイメージが薄くなっています。
続編「Ζガンダム」に初期から登場したリックディアスのモノアイが、その典型であるように感じます。
単眼がレール上を周回するのではなく、設置位置はそのままで角度を変えて視認方向を変える感じのものが多い印象です。
一見レールに似たスリットがデザインされている場合でも、可動範囲はきわめて狭く、印象に残るシーンが少なくなっています。
ゼータ以降のMSデザインの骨格を作ったのは永野護で、リックディアスも永野護の手によります。
そう言えば永野護は好きなファーストガンダムのMSとして、ゲルググを挙げていたことがありました。
MSデザインを大河原邦男一代限りにせず、他のデザイナーにバトンリレーさせた永野護の功績は大ですが、残念ながら「モノアイレール」にはあまり関心がなかったのかもしれません。(ハンブラビという異様な「例外」もあるので話はまたややこしくなるのですがw)
一応補足しておくと、私はファースト原理主義者ではありませんし、中高生の頃はむしろ永野信者でした。
ゼータの永野原案MSは、今から見るとどれも実にMSらしいMSで、好きなのばかりです。
あくまで「モノアイレール」についての感想です。
リックディアス的なモノアイ解釈は、小顔で洗練されたカッコよさは出ます。
続編「逆シャア」のサザビーや、近年作「UC」のシナンジュはそのデザイン的な精華でしょう。
ただ、ファーストのジオン系MSの、なんともいえぬ異形、なんともいえぬ武骨なイメージは薄れたのではないかと思います。
デザインの上では、主役メカのガンダムと同等かそれ以上に、敵役の量産機「ザク」の功績が大きく、作品の「リアル」な側面を担っていました。
ザクで創出された意匠は数多いですが、とりわけ印象深かったのが「モノアイ(単眼)」です。
モノアイが優れている点は、非人間的なメカニックでありながら、レールに沿って頭部をグルッと周回することで「表情」が出せることです。
ガスマスクを被ったようなおよそ人間離れしたデザインで無表情なザクに、巧みに「演技」をさせてしまうのです。
真っ暗なレールの中から「ビーン」とピンクのモノアイが点灯し、左右に動いてザク同士アイコンタクトするあのゾクゾク感は、時代を経ても色褪せません。
ザク以降のジオン軍MSでも、モノアイの演出上の面白さは有効に活用されてきました。
ドムが登場した時の「おお! 上下にも動くんかい!」という驚きも忘れられません。
水陸両用MSになると、さらにモノアイは進化します。
実質「頭部」が無くなり、胴体に直接レールが敷かれることで可動範囲が飛躍的に広まり、ピンクのモノアイが自由自在に動きはじめます。
その究極がゾック!
しかも、「見た目より性能高いアピール」で、物凄く素早くモノアイを動かしてみたものの、一撃でやられるオチ付き!
ある意味あれも衝撃でした(笑)
ただ、ファーストガンダムのジオン系MSの中で、終盤登場のゲルググ(実質富野デザイン)だけはちょっと変わっていて、モノアイレールの可動幅が小さく、ファースト以降の続編に登場したジオン系MSに近い雰囲気です。
ここは子供の頃から気になって、「後頭部のトサカがセンサーになってて、視野の狭さを補ってる?」などと妄想してました。
しかしジオン最終MS ジオングになると、モノアイレールの可動が最大限に復活します。
ピンクのモノアイが登頂部を通ってグリグリ動き回る演出が、異形を際立たせて記憶に残っています。
こうして振り返ると、ジオン系モノアイデザインの面白さは、レール上の可動込みのものだったのかなと思います。
ガンダム第一作以降のジオン系MSの新規デザインで、うまく継承しきれていないなと感じる点が、このモノアイレールで、「単眼」という点だけはクリアされていますが、レールに沿ってグルっと可動するイメージが薄くなっています。
続編「Ζガンダム」に初期から登場したリックディアスのモノアイが、その典型であるように感じます。
単眼がレール上を周回するのではなく、設置位置はそのままで角度を変えて視認方向を変える感じのものが多い印象です。
一見レールに似たスリットがデザインされている場合でも、可動範囲はきわめて狭く、印象に残るシーンが少なくなっています。
ゼータ以降のMSデザインの骨格を作ったのは永野護で、リックディアスも永野護の手によります。
そう言えば永野護は好きなファーストガンダムのMSとして、ゲルググを挙げていたことがありました。
MSデザインを大河原邦男一代限りにせず、他のデザイナーにバトンリレーさせた永野護の功績は大ですが、残念ながら「モノアイレール」にはあまり関心がなかったのかもしれません。(ハンブラビという異様な「例外」もあるので話はまたややこしくなるのですがw)
一応補足しておくと、私はファースト原理主義者ではありませんし、中高生の頃はむしろ永野信者でした。
ゼータの永野原案MSは、今から見るとどれも実にMSらしいMSで、好きなのばかりです。
あくまで「モノアイレール」についての感想です。
リックディアス的なモノアイ解釈は、小顔で洗練されたカッコよさは出ます。
続編「逆シャア」のサザビーや、近年作「UC」のシナンジュはそのデザイン的な精華でしょう。
ただ、ファーストのジオン系MSの、なんともいえぬ異形、なんともいえぬ武骨なイメージは薄れたのではないかと思います。
2018年12月25日
年を忘れつ師を想う
忘年会シーズンである。
百点満点には程遠いけれども、まんざら捨てたものでもなかったこれでの人生、全員参加の強制忘年会のある職場と今まで無縁だったのは、とくに幸運だったことの一つだ。
酒はまあ、嫌いではないけれども、飲みたくもない場で飲みたくもない人間と飲むのは、難行苦行に近いだろう。
若い頃は師匠によく飲みに連れていってもらったが、義理で付き合ったことは一度もない。
俺も師匠も泡盛好きで、むしろ俺が師匠の話を聴きたかったので、そこにハラスメントの要素は一切なかった。
数年前に亡くなってから、かえって師匠のことをよく思い出す。
俺の師匠が偉かったのは、人間としてはあくまで対等で、技や知識の面でだけ圧倒的であったこと。
技は、目の前でやって見せる。
知識は、日常会話の端々に溢れだす。
それで、たまたま俺の方がちょっとだけできることや知ってることがあると、「おお、なるほど!」と喜んですぐ取り入れる。
本物の実力と自信がないと、なかなかできることじゃない。
やっぱり師匠は偉かった。
師匠がこんな感じだったら、敬意はほっといても湧いてくる。
教わる方の目が確かなら、上下など関係必要ないのだ。
俺も年食ってあの頃の師匠に近くなったけど、あれは見習わんといかんなと、あらためて思う。
実力のないバカほどどうでもいいことでマウントを取りたがるし、我がニッポンのセンセーや上役の大半は、そういうバカで溢れているのだ。
自戒を込めて。
思い返せば、俺は中高と超スパルタ受験校で、当時ですら時代錯誤の軍隊式体罰指導を受け続け、心のどこかが酷く傷ついてしまっていたのだ。
師匠はそんな俺に、至極真っ当な師弟の在り方で接してくれた。
あまりこの言葉は好きではないが、それはやはり「癒し」であったと思う。
今でもついつい「スパルタ」と書いてしまうのだが、あれは正しくは「虐待」であった。
虐待は俺の魂の深部に刻まれ、多分一生消えることはない。
無意識のうちに「スパルタ」と書いてしまうのがその証。
心底恐るべきは虐待の連鎖だ。
どのように恫喝し、追い込めば、人は隷従するか。
そのノウハウを俺は刷り込まれてしまっているので、加害者になる危険性は十分ある。
だからこそ、つらいばかりでなくもちろん楽しいこともあり、自然豊かで牧歌的なバンカラ気風の魅力もあった我が母校のかつての指導方針を、ここはあえて「虐待であった」と言い切らねばならぬ。
負の連鎖を自分一代でなんとか断ち切るために。
師匠は俺に良心回路を組み込んで、虐待経験に上書きしてくれたが、残念ながらその効果は不完全だ。
心身の疲弊などの隙を突き、いつでも悪魔回路の方が起動する。
キカイダーの「ギルの笛」が鳴るようなものだ。
それをよく自覚しておくことだけが、加虐衝動を抑止する。
自分に刻まれた虐待を、なるべく冷静に分析する事で分かることは多い。
虐待は必ずしも身体的な暴力や感情的な暴言に限らない。
笑顔と善意と優しさに満ちた虐待というものもあり得る。
鞭と鎖の散在しない、「厚待遇の奴隷」が存在するのと同様である。
俺が中高生の頃受けた体罰指導は、教師にとっては善意であり、熱意であった。
今にして思えば歪んだ嗜虐も間違いなくあったと分かるのだが、当時の俺にはそこまで見えていなかった。
厳しい体罰指導と引き換えの進学実績により、善意の虐待体制の完成する。
これは昨今表面化している部活の体罰と全く同質で、「熱心な指導」という建前で、体罰(=虐待)や、長時間の練習、非科学的な食事の強制がまかり通る。
ほんの一握りの成功事例(それも指導の賜物であるかは疑わしい)のために、潰された児童生徒が山と積み上げられる。
そうした指導に馴らされた者が指導者に回り、虐待は連鎖する。
もちろん疑問を感じて連鎖を断ち切る者もいるが、自己否定を伴うのでかなり難しい。
俺が通っていた中堅私立受験校でも、純粋培養のOB教師が多くて、確実に虐待は連鎖していた。
当時ですら時代錯誤の校風には、そのような背景があった。
虐待は、肉体的にはもちろんのこと、精神的な被害も深刻だ。
本当に嫌な言葉だが「奴隷根性」というものはある。
恫喝で馴らされた者は主体性を喪失し、進んで隷従を求めるようになる。
嬉々として他人にも奴隷根性を強い、従わない者を憎悪するようになる。
長い受験勉強から解放された大学時代、カルトにハマる真面目で優秀な学生の事が度々話題になる。
俺の見聞きした範囲では、大学で急にカルト志向になったのではなく、そもそも幼少の頃から受けた指導がカルトじみていたケースが数多い。
一見「熱心な指導」の皮を被った虐待は、世に蔓延しているのだ。
日本では学校でも社会でも奴隷根性を強いられる場面が多々あるが、大学というのは例外的にそうした圧力が低い。
難関大学合格者の中には幼少の頃からの厳しい受験指導しか受けてこず、主体性が全く育成されないままに、いきなり「自由」に放り出され、途方に暮れるケースがある。
保護者も受験校教師も、生徒を難関大学に押し込みさえすれば自分の役目(善意の虐待)は終わったつもりで、「後は自由に楽しく生きよ」と放置する。
しかしそれは、お座敷犬をいきなりサバンナに放つのと同じ種類の、新たな虐待行為だ。
主体的に歩むことを成育歴の中で全く教えられなかったタイプの大学生は、いきなり与えられた自由と自己責任に戸惑い、強制を受けないことにむしろ物足りなさを感じ、かつて受けた「善意の虐待」と同じようなものを求めるようになる。
私の知る範囲でも、そのような流れでカルトに走った同窓生が何人かいた。
青春ハルマゲドン(後半)
表面上は「体罰」という肉体的な暴力を使っていなくとも、子供の自主性を奪い、奴隷根性を植え付ける指導法は色々ある。
宿題を大量に出す教師や塾講師、とにかく長時間の練習を課すコーチなどがそれにあたる。
保護者にとっては「極めて熱心な先生」に映るが、指導の実態は虐待だ。
むやみに大量の宿題や長時間の練習を課す指導者が多いのは、それが一番簡単に「熱心さ」を誇示できるからであって、生徒のためを思ってのことではない。
無能な指導者ほど、生徒の大切な生活時間を浪費させることに熱心だ。
それで結果が出ないと、自身の無能を棚に上げ、生徒の努力不足を責める。
すると素直な「いい子」は、以下のように自分を責める。
「先生はこんなに熱意をもって指導してくれているのに、自分の努力が足りないばかりに結果が出ず、そのことで先生を苦しめている」
この「先生」の部分を入れ替えれば、学校であれ部活であれ塾であれ、または宗教であれ企業であれ、どこでも虐待カルトは成立する。
もちろん国や軍隊でも同じだ。
最近Twitterで以下のような呟きを目にした。
「圧倒的努力は必ず報われます。報われないのはそれが圧倒的努力ではないからです」
指導者として無能な者の典型的な言い種であるが、これが言論機関たる出版社の経営者の発言であるのだから絶望的な気分になる。
何事かを為すには、個人の資質、適切なノウハウに沿った努力、そして何よりも運や巡り合わせが不可欠だ。
根性論だけが成功の鍵であるかのように言う者は、自分に都合の良い奴隷を欲しているのである。
この手の妄言は「善意の虐待大国」ニッポンに蔓延している。
虐待や酷い搾取の被害者側が、このような妄言を嬉々として持ち上げるサンプルとして、先の妄言に多数の賛同のコメントがぶら下がっている。
これも一種の「虐待の連鎖」である。
幼い頃から表面上は暴力に見えない「善意の虐待」に馴らされた若者は、「自分の頭で考え、意思決定する自由」を与えられると逆に戸惑い、再び善意の虐待へと回収されていく。
カルト的な受験指導を受けた優秀な大学生が、入学後の自由から逃げるようにカルト団体に入るのと同じ構図だ。
このような世相の中、個人にできることは限られるけれども、まずは自分の中の虐待の連鎖を断ち切ることから始めるべし。
それこそが、今は亡き師匠への、最良の供養になるだろう。
カテゴリ「夢」:本当のおわかれ
百点満点には程遠いけれども、まんざら捨てたものでもなかったこれでの人生、全員参加の強制忘年会のある職場と今まで無縁だったのは、とくに幸運だったことの一つだ。
酒はまあ、嫌いではないけれども、飲みたくもない場で飲みたくもない人間と飲むのは、難行苦行に近いだろう。
若い頃は師匠によく飲みに連れていってもらったが、義理で付き合ったことは一度もない。
俺も師匠も泡盛好きで、むしろ俺が師匠の話を聴きたかったので、そこにハラスメントの要素は一切なかった。
数年前に亡くなってから、かえって師匠のことをよく思い出す。
俺の師匠が偉かったのは、人間としてはあくまで対等で、技や知識の面でだけ圧倒的であったこと。
技は、目の前でやって見せる。
知識は、日常会話の端々に溢れだす。
それで、たまたま俺の方がちょっとだけできることや知ってることがあると、「おお、なるほど!」と喜んですぐ取り入れる。
本物の実力と自信がないと、なかなかできることじゃない。
やっぱり師匠は偉かった。
師匠がこんな感じだったら、敬意はほっといても湧いてくる。
教わる方の目が確かなら、上下など関係必要ないのだ。
俺も年食ってあの頃の師匠に近くなったけど、あれは見習わんといかんなと、あらためて思う。
実力のないバカほどどうでもいいことでマウントを取りたがるし、我がニッポンのセンセーや上役の大半は、そういうバカで溢れているのだ。
自戒を込めて。
思い返せば、俺は中高と超スパルタ受験校で、当時ですら時代錯誤の軍隊式体罰指導を受け続け、心のどこかが酷く傷ついてしまっていたのだ。
師匠はそんな俺に、至極真っ当な師弟の在り方で接してくれた。
あまりこの言葉は好きではないが、それはやはり「癒し」であったと思う。
今でもついつい「スパルタ」と書いてしまうのだが、あれは正しくは「虐待」であった。
虐待は俺の魂の深部に刻まれ、多分一生消えることはない。
無意識のうちに「スパルタ」と書いてしまうのがその証。
心底恐るべきは虐待の連鎖だ。
どのように恫喝し、追い込めば、人は隷従するか。
そのノウハウを俺は刷り込まれてしまっているので、加害者になる危険性は十分ある。
だからこそ、つらいばかりでなくもちろん楽しいこともあり、自然豊かで牧歌的なバンカラ気風の魅力もあった我が母校のかつての指導方針を、ここはあえて「虐待であった」と言い切らねばならぬ。
負の連鎖を自分一代でなんとか断ち切るために。
師匠は俺に良心回路を組み込んで、虐待経験に上書きしてくれたが、残念ながらその効果は不完全だ。
心身の疲弊などの隙を突き、いつでも悪魔回路の方が起動する。
キカイダーの「ギルの笛」が鳴るようなものだ。
それをよく自覚しておくことだけが、加虐衝動を抑止する。
自分に刻まれた虐待を、なるべく冷静に分析する事で分かることは多い。
虐待は必ずしも身体的な暴力や感情的な暴言に限らない。
笑顔と善意と優しさに満ちた虐待というものもあり得る。
鞭と鎖の散在しない、「厚待遇の奴隷」が存在するのと同様である。
俺が中高生の頃受けた体罰指導は、教師にとっては善意であり、熱意であった。
今にして思えば歪んだ嗜虐も間違いなくあったと分かるのだが、当時の俺にはそこまで見えていなかった。
厳しい体罰指導と引き換えの進学実績により、善意の虐待体制の完成する。
これは昨今表面化している部活の体罰と全く同質で、「熱心な指導」という建前で、体罰(=虐待)や、長時間の練習、非科学的な食事の強制がまかり通る。
ほんの一握りの成功事例(それも指導の賜物であるかは疑わしい)のために、潰された児童生徒が山と積み上げられる。
そうした指導に馴らされた者が指導者に回り、虐待は連鎖する。
もちろん疑問を感じて連鎖を断ち切る者もいるが、自己否定を伴うのでかなり難しい。
俺が通っていた中堅私立受験校でも、純粋培養のOB教師が多くて、確実に虐待は連鎖していた。
当時ですら時代錯誤の校風には、そのような背景があった。
虐待は、肉体的にはもちろんのこと、精神的な被害も深刻だ。
本当に嫌な言葉だが「奴隷根性」というものはある。
恫喝で馴らされた者は主体性を喪失し、進んで隷従を求めるようになる。
嬉々として他人にも奴隷根性を強い、従わない者を憎悪するようになる。
長い受験勉強から解放された大学時代、カルトにハマる真面目で優秀な学生の事が度々話題になる。
俺の見聞きした範囲では、大学で急にカルト志向になったのではなく、そもそも幼少の頃から受けた指導がカルトじみていたケースが数多い。
一見「熱心な指導」の皮を被った虐待は、世に蔓延しているのだ。
日本では学校でも社会でも奴隷根性を強いられる場面が多々あるが、大学というのは例外的にそうした圧力が低い。
難関大学合格者の中には幼少の頃からの厳しい受験指導しか受けてこず、主体性が全く育成されないままに、いきなり「自由」に放り出され、途方に暮れるケースがある。
保護者も受験校教師も、生徒を難関大学に押し込みさえすれば自分の役目(善意の虐待)は終わったつもりで、「後は自由に楽しく生きよ」と放置する。
しかしそれは、お座敷犬をいきなりサバンナに放つのと同じ種類の、新たな虐待行為だ。
主体的に歩むことを成育歴の中で全く教えられなかったタイプの大学生は、いきなり与えられた自由と自己責任に戸惑い、強制を受けないことにむしろ物足りなさを感じ、かつて受けた「善意の虐待」と同じようなものを求めるようになる。
私の知る範囲でも、そのような流れでカルトに走った同窓生が何人かいた。
青春ハルマゲドン(後半)
表面上は「体罰」という肉体的な暴力を使っていなくとも、子供の自主性を奪い、奴隷根性を植え付ける指導法は色々ある。
宿題を大量に出す教師や塾講師、とにかく長時間の練習を課すコーチなどがそれにあたる。
保護者にとっては「極めて熱心な先生」に映るが、指導の実態は虐待だ。
むやみに大量の宿題や長時間の練習を課す指導者が多いのは、それが一番簡単に「熱心さ」を誇示できるからであって、生徒のためを思ってのことではない。
無能な指導者ほど、生徒の大切な生活時間を浪費させることに熱心だ。
それで結果が出ないと、自身の無能を棚に上げ、生徒の努力不足を責める。
すると素直な「いい子」は、以下のように自分を責める。
「先生はこんなに熱意をもって指導してくれているのに、自分の努力が足りないばかりに結果が出ず、そのことで先生を苦しめている」
この「先生」の部分を入れ替えれば、学校であれ部活であれ塾であれ、または宗教であれ企業であれ、どこでも虐待カルトは成立する。
もちろん国や軍隊でも同じだ。
最近Twitterで以下のような呟きを目にした。
「圧倒的努力は必ず報われます。報われないのはそれが圧倒的努力ではないからです」
指導者として無能な者の典型的な言い種であるが、これが言論機関たる出版社の経営者の発言であるのだから絶望的な気分になる。
何事かを為すには、個人の資質、適切なノウハウに沿った努力、そして何よりも運や巡り合わせが不可欠だ。
根性論だけが成功の鍵であるかのように言う者は、自分に都合の良い奴隷を欲しているのである。
この手の妄言は「善意の虐待大国」ニッポンに蔓延している。
虐待や酷い搾取の被害者側が、このような妄言を嬉々として持ち上げるサンプルとして、先の妄言に多数の賛同のコメントがぶら下がっている。
これも一種の「虐待の連鎖」である。
幼い頃から表面上は暴力に見えない「善意の虐待」に馴らされた若者は、「自分の頭で考え、意思決定する自由」を与えられると逆に戸惑い、再び善意の虐待へと回収されていく。
カルト的な受験指導を受けた優秀な大学生が、入学後の自由から逃げるようにカルト団体に入るのと同じ構図だ。
このような世相の中、個人にできることは限られるけれども、まずは自分の中の虐待の連鎖を断ち切ることから始めるべし。
それこそが、今は亡き師匠への、最良の供養になるだろう。
カテゴリ「夢」:本当のおわかれ
2018年12月26日
小田雅弘「ガンダムデイズ」
今年10月、私たちガンプラブーム世代のかつての「神」小田雅弘の「ガンダムデイズ」が刊行された。
●「ガンダムデイズ 」小田雅弘(トイズプレス)
読んでいるとあの頃の記憶が次々によみがえってきたので、覚書として書き留めておきたいと思う。
80年代初頭、大学生だった小田雅弘はじめとするモデラー集団「ストリームベース」は、当時のプラモ少年にとって、ガンプラブームを牽引するカリスマ集団だった。
私たち小学生の間でも「ストリームベースの小田さん」と言えば、「世界一ザクを作るのが上手い人」だったのだ。
とくにキットの胴体肩部分を「ハの字」にカットし、下から見上げた形にパースをつける加工法は衝撃で、日本中のガンプラファンが真似したのではないかと思う。
同じ頃の私はと言えば本当に子供だったので、ガンプラ制作と言っても成型色以外をはみ出さずに塗ることで精いっぱい。
ザクの肩のハの字切りは、果たせぬ夢だった。
それからはるかに時は流れ、数年前にガンプラ復帰してから早々にハの字切りリベンジは果たした!
夢を果たしてみれば、土偶だなんだと言われる旧キットの、なんと愛しいことか。
今風のカッコよさとは全然違うけど、意外と大河原設定画に忠実だし、足首無可動でもつま先形状のおかげで「一歩踏み出し」が決まるのだ!
小田さんと言えばなんと言ってもザクなのだが、それに匹敵する衝撃だったのが「HOW TO BUILD GUNDAM2」のジオング。
今回の「ガンダムデイズ」によると、あのダークでメカニックな作例は、実はかなり突貫工事で、天井に張り付けた設定画を就寝前に夜ごと眺めながら制作されたとのこと。
去年私が旧キットのジオング作った時も、やっぱり小田さんの伝説の作例が頭にあった。
技術的に難しいことはできないのでとりあえず素組してみると、形状自体は全然悪くなかった。
今でもジオングの改造素体としては安くて良いものではないかと思う。
せめて塗りは頑張ろうと思い、小田さんのダークな色遣いや、大河原御大のポスターカラーイラストの筆遣いを参考に塗った。
金属シャフトで可動が限られてるけど、見る角度によっては十分カッコよく、自己満足にふけることができた。
本を読んでいてちょっと衝撃だったのが、MSV第一弾の旧キット1/144 06Rのこと。
最初期ガンプラで、子供心に色々不満があった旧キットのノーマルザクに比べ、小田さんの作例を模したと思しき06R は、箱絵も含めて本当にカッコよく見えて熱狂した。
私たちガンプラ少年は、「これ、小田さんのザクや!」と感動したものだったが、ご本人はあのキットも箱絵も不本意で、結局一度も作らなかったそうだ。
小田さんの「ザク愛」を、逆に強く感じるエピソードであった。
MSVシリーズで第二次ガンプラブームになり、小田さんご自身はジオン系にしか関心がなかったようだが、当時のメイン顧客はやはり小学生。
膨大な数の小学生ファンのもたらす売り上げが、年齢層の高いジオン好きのマニア層の趣味を買い支えるという構図が既にあった。
そして当時の私を含む小学生は、なんだかんだ言ってやっぱりガンダムを欲しがった。
そこで「プラモ狂四郎」のパーフェクトガンダムと、小田さん、大河原御大の合作で出来たのが、MSVシリーズの「主役機」フルアーマーガンダムである。
年長ファンのザク愛と年少ファンのガンダム愛、その両輪が生んだあの奇跡については、今年先行して刊行された「MSVジェネレーション」(あさのまさひこ)関連記事で存分に語ったことがある。
分岐点1983 その4
●「MSVジェネレーション ぼくたちのぼくたちによるぼくたちのための『ガンプラ革命』」あさのまさひこ(太田出版)
今年はあれから35年のメモリアル。
当時を振り返る書籍がいくつも刊行される年になった。
●「MSV THE FIRST」 (双葉社MOOK)
83〜84年当時のMSVやMSXにまつわる設定画やパッケージアートを、大きいサイズのカラーでほぼ網羅してある。
印刷物からのスキャンデータらしく、色味の精度はやや低いが、これだけの図版が一冊で揃うのは貴重。
当時の関連年表や、関係者へのインタビューも豊富。
●「GUNDAM CENTURY RENEWAL VERSION―宇宙翔ける戦士達」(樹想社)
ガンダム世界のSF考証の原点となった伝説の特集本。
2000年に一度復刻されるも、長らく古書価格が高騰し、入手困難だった。
しかしつい先ごろ樹想社の通販で、定価の半額の2000円+送料で通販が開始。
何らかの事情あってのことかもしれないが、ここは「買って応援」の場面ではないだろうか。
今年はtwitterで多くの凄腕モデラーの皆さんとも出会い、サブカルチャーについて様々に考えることのできた一年になった。
●「ガンダムデイズ 」小田雅弘(トイズプレス)
読んでいるとあの頃の記憶が次々によみがえってきたので、覚書として書き留めておきたいと思う。
80年代初頭、大学生だった小田雅弘はじめとするモデラー集団「ストリームベース」は、当時のプラモ少年にとって、ガンプラブームを牽引するカリスマ集団だった。
私たち小学生の間でも「ストリームベースの小田さん」と言えば、「世界一ザクを作るのが上手い人」だったのだ。
とくにキットの胴体肩部分を「ハの字」にカットし、下から見上げた形にパースをつける加工法は衝撃で、日本中のガンプラファンが真似したのではないかと思う。
同じ頃の私はと言えば本当に子供だったので、ガンプラ制作と言っても成型色以外をはみ出さずに塗ることで精いっぱい。
ザクの肩のハの字切りは、果たせぬ夢だった。
それからはるかに時は流れ、数年前にガンプラ復帰してから早々にハの字切りリベンジは果たした!
夢を果たしてみれば、土偶だなんだと言われる旧キットの、なんと愛しいことか。
今風のカッコよさとは全然違うけど、意外と大河原設定画に忠実だし、足首無可動でもつま先形状のおかげで「一歩踏み出し」が決まるのだ!
小田さんと言えばなんと言ってもザクなのだが、それに匹敵する衝撃だったのが「HOW TO BUILD GUNDAM2」のジオング。
今回の「ガンダムデイズ」によると、あのダークでメカニックな作例は、実はかなり突貫工事で、天井に張り付けた設定画を就寝前に夜ごと眺めながら制作されたとのこと。
去年私が旧キットのジオング作った時も、やっぱり小田さんの伝説の作例が頭にあった。
技術的に難しいことはできないのでとりあえず素組してみると、形状自体は全然悪くなかった。
今でもジオングの改造素体としては安くて良いものではないかと思う。
せめて塗りは頑張ろうと思い、小田さんのダークな色遣いや、大河原御大のポスターカラーイラストの筆遣いを参考に塗った。
金属シャフトで可動が限られてるけど、見る角度によっては十分カッコよく、自己満足にふけることができた。
本を読んでいてちょっと衝撃だったのが、MSV第一弾の旧キット1/144 06Rのこと。
最初期ガンプラで、子供心に色々不満があった旧キットのノーマルザクに比べ、小田さんの作例を模したと思しき06R は、箱絵も含めて本当にカッコよく見えて熱狂した。
私たちガンプラ少年は、「これ、小田さんのザクや!」と感動したものだったが、ご本人はあのキットも箱絵も不本意で、結局一度も作らなかったそうだ。
小田さんの「ザク愛」を、逆に強く感じるエピソードであった。
MSVシリーズで第二次ガンプラブームになり、小田さんご自身はジオン系にしか関心がなかったようだが、当時のメイン顧客はやはり小学生。
膨大な数の小学生ファンのもたらす売り上げが、年齢層の高いジオン好きのマニア層の趣味を買い支えるという構図が既にあった。
そして当時の私を含む小学生は、なんだかんだ言ってやっぱりガンダムを欲しがった。
そこで「プラモ狂四郎」のパーフェクトガンダムと、小田さん、大河原御大の合作で出来たのが、MSVシリーズの「主役機」フルアーマーガンダムである。
年長ファンのザク愛と年少ファンのガンダム愛、その両輪が生んだあの奇跡については、今年先行して刊行された「MSVジェネレーション」(あさのまさひこ)関連記事で存分に語ったことがある。
分岐点1983 その4
●「MSVジェネレーション ぼくたちのぼくたちによるぼくたちのための『ガンプラ革命』」あさのまさひこ(太田出版)
今年はあれから35年のメモリアル。
当時を振り返る書籍がいくつも刊行される年になった。
●「MSV THE FIRST」 (双葉社MOOK)
83〜84年当時のMSVやMSXにまつわる設定画やパッケージアートを、大きいサイズのカラーでほぼ網羅してある。
印刷物からのスキャンデータらしく、色味の精度はやや低いが、これだけの図版が一冊で揃うのは貴重。
当時の関連年表や、関係者へのインタビューも豊富。
●「GUNDAM CENTURY RENEWAL VERSION―宇宙翔ける戦士達」(樹想社)
ガンダム世界のSF考証の原点となった伝説の特集本。
2000年に一度復刻されるも、長らく古書価格が高騰し、入手困難だった。
しかしつい先ごろ樹想社の通販で、定価の半額の2000円+送料で通販が開始。
何らかの事情あってのことかもしれないが、ここは「買って応援」の場面ではないだろうか。
今年はtwitterで多くの凄腕モデラーの皆さんとも出会い、サブカルチャーについて様々に考えることのできた一年になった。
2018年12月28日
さらば愛用のソロテント
年賀状ミッションをなんとかクリアーし、片づけていたら、昔描いたハガキイラストが出てきた。
たぶん90年代にテント泊した時にスケッチしたもの。
おぼろげな記憶では、当時よく出かけていた熊野遍路ではなく、もっと近場に単発で泊まった時のものだと思う。
初代のテントを紛失し、二代目のテントを買って試しに一泊という感じだったのではないだろうか。
ロゴスのソロテントで愛用してたけど、加水分解で劣化。
今年久々に日よけとして使ってみたら、表面がベタベタしてしまっていたので、やむなく処分。
写真も残っているが、スケッチを描いておいて本当に良かった。
長らくお世話になりました!
たぶん90年代にテント泊した時にスケッチしたもの。
おぼろげな記憶では、当時よく出かけていた熊野遍路ではなく、もっと近場に単発で泊まった時のものだと思う。
初代のテントを紛失し、二代目のテントを買って試しに一泊という感じだったのではないだろうか。
ロゴスのソロテントで愛用してたけど、加水分解で劣化。
今年久々に日よけとして使ってみたら、表面がベタベタしてしまっていたので、やむなく処分。
写真も残っているが、スケッチを描いておいて本当に良かった。
長らくお世話になりました!
2018年12月29日
書籍版「サルまん3.0」!?
年末になるとその年読んだ本を振り返ることが多くなる。
何をどれだけ読んだか忘れてしまうほどたくさん読む年もあれば、振り返ってみると数えるほどしか読んでない年もある。
今年は冊数こそ少ないが、印象深い本ばかり手に取ってきた印象。
4月に刊行された以下の本は、これまでに何度か読み返してきた。
●「フリーランス、40歳の壁 自由業者は、どうして40歳から仕事が減るのか?」竹熊健太郎(ダイヤモンド社)
著者・竹熊健太郎の作品は、90年代初頭に「サルでも描けるまんが教室」を読んで以来、ついたり離れたりしながら追っている。
この「サルまん」と続編については、以前記事にしたことがある。
野望は死なず
90年代(とくに半ば以降)、私自身が阪神淡路大震災に被災したりその他諸々の事情で、フィクションを楽しむ余裕がなかなか持てなかった。
そんな中「再会」した竹熊健太郎の本が、以下の一冊だった。
●「私とハルマゲドン」竹熊健太郎(ちくま文庫)
狂乱の90年代を潜り抜けた著者が90年代半ばのカルト教団によるテロ事件を題材に、語りつくした一冊。
カルト信者と同世代があの事件を語ろうとすると、どうしても「自分語り」になってしまうという感覚。
それはあの頃20代から30代で、サブカル界隈に生息していた人間だと、かなりの割合で「わかる」感覚なのではないかと思う。
直接の知り合いとまで行かなくとも「知り合いの知り合い」くらいの距離感の出家信者がいた人は多数にのぼるだろう。
「自分と出家信者の間の違いってなんだ?」「自分があちら側に行かなかったのは単なる幸運ではないか?」
自分の歩いてきた道を振り返り、その分岐点を確認したくなる衝動にかられる。
私もそうだった。
青春ハルマゲドン(後半)
20代から30歳前後の「壁」というのは、人によっては「心のハルマゲドン」みたいに機能するのではないだろうか。
以前、マンガの例を引きながら、作者が30歳前後のタイミングで「私(わたくし)ハルマゲドン」的な作品が生み出されることについて、考えてみたことがある。
青年はサブカルチャーに一度死ぬ
竹熊健太郎(そしてコンビの相原コージ)の場合、「サルまん」が「私ハルマゲドン」にあたっていたのではないかとも思う。
作品の中で、そして自分の中でハルマゲドンが起こってしまった時、作者はそこで燃え尽きてしまったり、最悪命に関わることもある。
生き残った場合も、荒涼とした破滅後の世界を、自分で一から開墾していくようなサバイバル生活が始まるのだ。
それがうまく作品に反映されれば良いけれども、ピークの後はどうやっても悩み苦しむことの方が多い。
竹熊健太郎のケースでは、「サルまん」完結が91年、件のテロ事件を受けた「私とハルマゲドン」の初出が95年。
同時期の著者は、自分の原点を再確認するようなインタビューを重ねており、それをまとめた一冊も、私の大好きな本だ。
●「篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝」(河出文庫)
今年刊行の「フリーランス、40代の壁」は、サブカル界隈で独自の活動を展開する人々への取材が一方の軸としてあり、そしてもう一方の軸として2000年以降、著者が40代に入ってからの自伝的な内容がある。
それはまさに「七転八倒、七転び八起き」というに相応しく、差し引きでマイナスの方がはるかに多い中でもがく内容なのだが、なぜか「軽み」と「笑い」の絶えない筆致になってしまうのが、竹熊健太郎の持ち味なのだろう。
2000年代半ばのブログ「たけくまメモ」開設以降の内容は、今回の本以前にリアルタイムの動向としてネット上で追っていた。
実態はかなり深刻でドロドロしていたはずのアレコレも、これまでの竹熊作品と同じノリで読めるように料理されており、こういうのが「人徳」というのだろう。
以前ネット上で竹熊健太郎は、自身の運営するWebマガジン「電脳マヴォ」を、「これは実質『サルまん3.0』である」と解説していたことがあったと思う。
ならばさしずめ今年の新刊は、ネット上に散らばった膨大なピースを一冊の本に編み上げた「書籍版サルまん3.0」ではないだろうか。
最初の「サルまん」から30年、作中の「竹熊」はじわじわとリアル竹熊健太郎とフュージョンし、今完全に一体となって怒涛の人生を刻み続けているのかもしれない。
この現世は「サルまん」か?
今後も著者の動向から目が離せないのである。
Twitterアカウント:竹熊健太郎
Webマガジン:電脳マヴォ、投稿マヴォ
何をどれだけ読んだか忘れてしまうほどたくさん読む年もあれば、振り返ってみると数えるほどしか読んでない年もある。
今年は冊数こそ少ないが、印象深い本ばかり手に取ってきた印象。
4月に刊行された以下の本は、これまでに何度か読み返してきた。
●「フリーランス、40歳の壁 自由業者は、どうして40歳から仕事が減るのか?」竹熊健太郎(ダイヤモンド社)
著者・竹熊健太郎の作品は、90年代初頭に「サルでも描けるまんが教室」を読んで以来、ついたり離れたりしながら追っている。
この「サルまん」と続編については、以前記事にしたことがある。
野望は死なず
90年代(とくに半ば以降)、私自身が阪神淡路大震災に被災したりその他諸々の事情で、フィクションを楽しむ余裕がなかなか持てなかった。
そんな中「再会」した竹熊健太郎の本が、以下の一冊だった。
●「私とハルマゲドン」竹熊健太郎(ちくま文庫)
狂乱の90年代を潜り抜けた著者が90年代半ばのカルト教団によるテロ事件を題材に、語りつくした一冊。
カルト信者と同世代があの事件を語ろうとすると、どうしても「自分語り」になってしまうという感覚。
それはあの頃20代から30代で、サブカル界隈に生息していた人間だと、かなりの割合で「わかる」感覚なのではないかと思う。
直接の知り合いとまで行かなくとも「知り合いの知り合い」くらいの距離感の出家信者がいた人は多数にのぼるだろう。
「自分と出家信者の間の違いってなんだ?」「自分があちら側に行かなかったのは単なる幸運ではないか?」
自分の歩いてきた道を振り返り、その分岐点を確認したくなる衝動にかられる。
私もそうだった。
青春ハルマゲドン(後半)
20代から30歳前後の「壁」というのは、人によっては「心のハルマゲドン」みたいに機能するのではないだろうか。
以前、マンガの例を引きながら、作者が30歳前後のタイミングで「私(わたくし)ハルマゲドン」的な作品が生み出されることについて、考えてみたことがある。
青年はサブカルチャーに一度死ぬ
竹熊健太郎(そしてコンビの相原コージ)の場合、「サルまん」が「私ハルマゲドン」にあたっていたのではないかとも思う。
作品の中で、そして自分の中でハルマゲドンが起こってしまった時、作者はそこで燃え尽きてしまったり、最悪命に関わることもある。
生き残った場合も、荒涼とした破滅後の世界を、自分で一から開墾していくようなサバイバル生活が始まるのだ。
それがうまく作品に反映されれば良いけれども、ピークの後はどうやっても悩み苦しむことの方が多い。
竹熊健太郎のケースでは、「サルまん」完結が91年、件のテロ事件を受けた「私とハルマゲドン」の初出が95年。
同時期の著者は、自分の原点を再確認するようなインタビューを重ねており、それをまとめた一冊も、私の大好きな本だ。
●「篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝」(河出文庫)
今年刊行の「フリーランス、40代の壁」は、サブカル界隈で独自の活動を展開する人々への取材が一方の軸としてあり、そしてもう一方の軸として2000年以降、著者が40代に入ってからの自伝的な内容がある。
それはまさに「七転八倒、七転び八起き」というに相応しく、差し引きでマイナスの方がはるかに多い中でもがく内容なのだが、なぜか「軽み」と「笑い」の絶えない筆致になってしまうのが、竹熊健太郎の持ち味なのだろう。
2000年代半ばのブログ「たけくまメモ」開設以降の内容は、今回の本以前にリアルタイムの動向としてネット上で追っていた。
実態はかなり深刻でドロドロしていたはずのアレコレも、これまでの竹熊作品と同じノリで読めるように料理されており、こういうのが「人徳」というのだろう。
以前ネット上で竹熊健太郎は、自身の運営するWebマガジン「電脳マヴォ」を、「これは実質『サルまん3.0』である」と解説していたことがあったと思う。
ならばさしずめ今年の新刊は、ネット上に散らばった膨大なピースを一冊の本に編み上げた「書籍版サルまん3.0」ではないだろうか。
最初の「サルまん」から30年、作中の「竹熊」はじわじわとリアル竹熊健太郎とフュージョンし、今完全に一体となって怒涛の人生を刻み続けているのかもしれない。
この現世は「サルまん」か?
今後も著者の動向から目が離せないのである。
Twitterアカウント:竹熊健太郎
Webマガジン:電脳マヴォ、投稿マヴォ