2019年03月06日

川奈まり子「実話怪談 出没地帯」

 昨年末、川奈まり子の新刊「実話奇譚 奈落」を味わいつつ読んだ。


●「実話奇譚 奈落」川奈まり子(竹書房文庫)

 二冊目、次はどの作品を読もうかと書店で探し、以下の本を手にとった。


●「実話怪談 出没地帯」川奈まり子(河出書房新社)

 序章「怖い私」が、本書を選ぶ決め手になった。
 著者が実話怪談を蒐集、執筆するようになった発端についての「エピソード0」であり、そういうことだったのかと、昨年来のあれこれに納得できたのだ。
 以下、掲載順とは異なるが、印象に残ったエピソードについての覚書を残しておきたい。

●「空き家じゃなかった」「辻に建つ家」
 本書にはタイトル通り「場所」「物件」に関するエピソードが多く収録されている。
 人や、あるいは「霊」のふるまいが、ある特定の場所の影響を受けることの不可解。
 理由が不明確であることがよけいに不気味さを呼び、恐怖を掻き立てる。
 地勢や家の造りが人に与える影響ついては、古来「風水」「家相」というものの考え方で、一定の説明がなされてきた。
 拙ブログで言えば、以下の記事。

 家相、風水
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 沖縄、石敢當
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 現代にも通じる合理性は、不可解な奇現象に対する疑問や恐怖の何割かは解消するが、全て打ち消すことはもちろん不可能だ。

●正月異聞「オミダマさま」
 身内に受け入れ難い不幸があると、受容の一つの在り方、プロセスとして、伝統習俗が機能することがある。
 それまで「葬式など要らない」と思っていた人が、近親者の死にあたって葬送儀礼の流れに身を委ねているうちに、悲しみの幾許かが癒されたという話はよく聞く。
 ただ、その不幸が習俗のキャパを超えた場合、時に「怪異」という顕れ方になるのかもしれない。

――普通でない死には、何か普通でないことがあってほしい。
――何かあってくれた方が、かえって納得できる。

 そんな一種の「倒錯」も、人の心には潜んでいるのではないだろうか。
 怪異の原因となった「若年者の急死」は、小さな騒動の内に、なんとなく鎮魂されっていたようにも読める。
 このエピソードでは結局「オミダマさま」という習俗は途絶してしまうのだが、またいつの日か親族中に何らかの「受け入れ難い不幸」があった折りには、ホコリを払って御用をつとめる日が来るかもしれない。

●「まいどの顔」「瓶詰めの胎児」
 子供の意外な観察眼、発想に感心する「まいどの顔」のエピソードに、古い記憶が呼び覚まされる。
 むかし「口裂け女」騒動があって、私たち小学生はビビッていたのだが、もう一つ地味に恐れられていたのが「コトリ」だった。
 遅くまで外で遊んだり、勝手に遠くへ行ったりすると、大人たちに「コトリに攫われるぞ」と脅されたものだった。
 コトリは「子盗り」、つまり「人攫い」のことで、子供の頃は名前の響きからなんとなく「鳥の妖怪」みたいなイメージを持っていた。
 攫われた子供がどうなるのか明確ではない所が、また怖かった。
 そんな子供の頃の思い出を元に、昨年造形したのが怪人コトリ

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 イメージを結晶させるために柳田国男「妖怪談義」を読み、コトリやそれに類する妖怪が「攫った子供の脂をしぼって南京皿を焼く」という伝承があることを知った。

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 エピソード「瓶詰めの胎児」作中の「コトリバコ」と、あるいは関連するのかもしれない。

●「けいこちゃん」
 子供の頃、盆暮れに祖父母の家で皆集まって、親戚や近所の子たちと遊んで、別れて、そんなサイクルが何度もあって……
 記憶の中の郷愁が、怪しく、哀しく、ゆらぎはじめるエピソード。
 読み進めるうちに、いつの間にか「けいこちゃん」に感情移入してしまっている自分に気付く。
 何の疑問もなく楽しく遊んでいた「おともだち」が、ある時期からふっと自分から離れていってしまう寂しさ。
 私もまた一人の「けいこちゃん」でないと、なぜいえようか。

 子供は、可愛くて不気味、懐かしくて残酷、未来であり追憶でもある。
 弘法大師が詠む、次のような一節を思い出す。

 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
 死に死に死に死んで死の終わりに冥し

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●「その肌、ちょうだい。」
 怪異は怪異でも、誰の身にも起こり得て、実際起こっているであろうレベルのエピソード。
 しかしそのレベルでも、感じようとしない者には永遠に感じられない。
 思春期、悪意なくやってしまった友への仕打ちが、心に痛く蘇る。

●「母校の怪談」「連れて逝く人」
 二十代前半というのは、幼年時代、ローティーン時代に次いで、怪異と出会う時期なのかもしれない。
 私な場合は「夢」だったけれども、その時期多くの悪夢、怪夢を見、金縛りや幽体離脱の類に遭遇した。
 学生時代、根をつめて卒業制作中にうつらうつらしていた時、その夢を見た。

 遊園地の鏡の間のような場所。
 自分の周りに無数の自分が映る。
 ふつう「合わせ鏡」の状態では、鏡像は正面と背面を交互に繰り返すはずなのに、映った自分全員がこちらを見ているのに気付き、ゾッとして我にかえる。
 そんな夢を思い出した。
 社会に出る前後、改めて「自分」と直面する危うい時期なのだろうか。

 同じ頃見た、地味に恐ろしい夢をもう一つ。

 発車時刻

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 自分が生きるこの現実と、近似しながらも少しずつ違う世界をいくつも横滑りしていく夢。
 醒めてから、果たしてここは本当に自分がいるべき場所なのかと、足元がぐらりと揺れるような不安に襲われた。
 そして、自分がフェイクでないとどうして言えるのかという疑問も湧いてきた。

●終章「分身」
 序章「怖い私」、途中の「タクシーの夜」等の作者自身の実話と響き合い、円環して一冊を締めるエピソード。
 この構成により、以後の川奈作品にも全て「怖い私」の物語が二重写しになって読めてくる。
 川奈作品二冊目にこの本を選んだのは正解だった。
 終章「分身」は、「表現者とドッペルゲンガー」というテーマに連なる物語だと思うが、作家が個人的な体験として「もう一人の自分と出会う」という範囲を、かなり踏み越えているようにも見える。
 赤の他人にまで頻繁に目撃され、会話まで交わされる「もう一人」の存在は、極めて不可解だ。
 著者が「映像メディアで姿を知られた人」であるという点に、何らかの鍵が隠されているかもしれないが、もちろんそれで全てがすっきり説明される訳でもない。
 不思議な「分身」が存在して、どうやらそれは著者の執筆活動と微妙に連動しているらしいことが、川奈作品を低音域で支えている。

 今も川奈まり子によって続けられている奇譚蒐集の先にどんな展開が待っているのか、今後もさらに追ってみたい。
posted by 九郎 at 00:11| Comment(0) | 怪異 | 更新情報をチェックする