1950年代から60年代半ばにかけて、活動の最初のピークをむかえていた「マンガの神様」手塚治虫。
とくに63〜66年、国内初のTVアニメ「鉄腕アトム」放映期間は、絶頂期にあったと言って良い。
ほぼ同時期のTVアニメ「鉄人28号」「エイトマン」は、競合作であると共に、「SF・ロボット」というジャンルを盛り上げる同志的作品でもあった。
真の意味で子供向けTV番組の王座から手塚治虫を追い落としたのは、同じロボットアニメではなく、特撮による「怪獣」であったのではないだろうか。
【60〜70年代映画ゴジラシリーズ】
怪獣の始祖にして王者である「ゴジラ」は、マンガ版「鉄腕アトム」連載開始から二年後の54年に映画第一作、翌55年には第二作「ゴジラの逆襲」が公開され、一世を風靡した。
映画のゴジラシリーズが復活したのは62年の第三作「キングコング対ゴジラ」からで、64年の第四作「モスラ対ゴジラ」以降、75年の第十五作「メカゴジラの逆襲」まで毎年映画が公開された。
60年代以降は、ゴジラと他の怪獣の対決を描くバトル路線の導入で人気が安定したのである。
TVでも折々で放映された一連のゴジラ映画や、その他にも多数制作された怪獣映画により、「怪獣」は子供向けエンタメの定番の一つとして、がっちり定着したのである。
【60年代初期ウルトラシリーズ】
そしてゴジラが切り開いた「怪獣」「特撮」というジャンルをより深く子供たちの心に食い込ませたのが、TVで毎週放映の30分番組としての「ウルトラシリーズ」だった。
現在に続くウルトラシリーズの原点になった60年代の初期作は、円谷プロ制作の以下の三作品。
●「ウルトラQ」(66年1月〜7月、全28話)
●「ウルトラマン」(66年7月〜翌4月、全39話)
●「ウルトラセブン」(67年10月〜翌9月、全49話)
第一作「ウルトラQ」では「毎週30分の特TV撮番組」という高いハードルが克服され、「鉄腕アトム」で実現された「毎週30分のTVアニメ」と並ぶ子供向けエンタメジャンルの柱となった。
同時期にTVアニメ制作の渦中にあった手塚治虫は「毎週違うゴジラが出る特撮TV番組」が準備中という噂を聞きつけ、脅威を感じたという。
実際、この初期ウルトラシリーズの人気沸騰が「アトム」を過去の作品にしてしまった面はあるだろう。
第二作から登場したヒーロー「ウルトラマン」の存在も極めて大きい。
それまで巨大怪獣の脅威を前に右往左往するしかなかった人類に、強力な味方が現れたのだ。
東洋の仏像を思わせる「光の巨人」としてのヒーローデザインも素晴らしく、子供の持つ変身ヒーローへの憧れを巧みにすくい取り、敵味方の分かりやすいシンプルなバトルの構図が完成した。
以後「怪獣退治する巨大変身ヒーローの特撮番組」という形式は定番化し、幾多の作品、シリーズが生み出されていくことになる。
近未来SFの描く科学文明の光の反作用のように、そしてお茶の間に毎週襲来する巨大モンスターが呼び水となったように、高度経済成長に打ち捨てられた土俗の暗闇から蘇ってくる「怪異」もあった。
妖怪である。
【水木しげるの妖怪ブーム】
水木しげる(本名:武良茂)は1922年生まれ。
幼少期を鳥取県境港で過ごし、43年には帝国陸軍に召集、ラバウルに出征した際、左腕を失う。
46年、24歳で幅員し、美術を学びながらも職を転々とする。
1950年頃から神戸でアパート経営の傍ら紙芝居制作を開始、51年には「水木しげる」のペンネームで紙芝居作家としての活動を始める。
その後、急速なTVの普及と共に衰退した紙芝居に見切りをつけ、マンガ家への転身を目指し、57年に35歳で上京。
雑誌マンガに圧され、こちらも斜陽の貸本漫画の世界で貧窮しながらも、60年代前半には「墓場鬼太郎」「河童の三平」「悪魔くん」等、後の代表作となる作品の数々を執筆。
幼少の頃からの怪異体験や、戦地ラバウルでの現地人たちとの交流が、浮上の契機を作っていく。
そして苦節後の65年、43歳にして講談社「別冊少年マガジン」でメジャーデビューし、看板雑誌「週刊少年マガジン」にて『墓場の鬼太郎』連載開始。
翌年には水木プロダクション設立され、「悪魔くん」のTVドラマ化。
68年、「墓場の鬼太郎」から改題した「ゲゲゲの鬼太郎」がテレビアニメ化、妖怪ブームを巻き起こし、古の精霊たちが大挙して戦後日本に復活した。
アトム、怪獣、妖怪、それぞれに、本来の構図としては「文明批評」というメインテーマが含まれていたのだが、人気が定着するにあたって最も機能したのは「バトル要素の導入」であった。
子供、とくに男の子向けのエンタメにおいて、バトルは極めて強い訴求力を持つのだ。
バトル路線以外で人気が取れるとすれば、それはやはり「笑い」になってくる。
60〜70年代の代表的な児童ギャグマンガ家の軌跡を見ておこう。
【赤塚不二夫のギャグマンガ】
赤塚不二夫は1935年、満州生まれ。
敗戦により大陸から引き揚げ、困難な暮らしの中で幼少の頃からマンガを描き続けた。
中学卒業後は働きながら「漫画少年」に投稿を続け、18歳で上京した後、56年頃から貸本漫画家としての活動を開始。
当時は少女漫画を執筆していた。
メジャー誌で活躍し始めた62年、「おそ松くん」(週刊少年サンデー)、「ひみつのアッコちゃん」(りぼん)で一躍人気マンガ家になる。
66年「おそ松くん」TVアニメ化、67年「天才バカボン」」(週刊少年マガジン)「もーれつア太郎」(週刊少年サンデー)連載開始、69年「ひみつのアッコちゃん」「もーれつア太郎」TVアニメ化、71年「天才バカボン」TVアニメ化と切れ目なくヒットが続き。ギャグマンガ家としての人気が不動になる。
初期には日常生活の中に侵入してくる異形のキャラクター達の面白さ、魅力で人気を集め、70年代には次第にそうした「生活ギャグ」から離陸し、スラップスティック、シュールの領域へ踏み込んでいく。
【藤子不二雄】
ペンネーム「藤子不二雄」は、藤本弘(1933生)と安孫子素雄(1934生)のコンビ名でもある。
二人は富山県高岡市出身、小学校時代からの同級生だった。
子供の頃からマンガを通して友人関係を築き、高校時代からは合作で作品を執筆するようになる。
54年、二人で上京してからは、主に手塚治虫の影響下にあるシリアスな作品を制作し続ける。
64年連載開始の「オバケのQ太郎」(週刊少年サンデー〜66年)が大ヒットした後は、ギャグマンガ家として広く人気を博すようになる。
この「オバQ」で創案された、平凡な主人公の少年の家庭に「異物」としてのキャラクターが居候し、騒動と笑いを巻き起こすスタイルは藤子不二雄マンガの定番となり、数多くの作品が描かれた。
その中にはデビュー以来の本来の持ち味であるSF的なアイデアを存分に盛り込んだ「モジャ公」(69〜70)がある。
ユーモアを基調としながら、恐怖もあり、哲学的命題も含まれ、単行本ラストエピソードでは「終末」「カルト教祖」も扱われた傑作であったが、ハードなSFに振れ過ぎたせいかヒットとはならなかった。
その直後に連載開始された「ドラえもん」(70〜)では、SFセンスと大衆性は巧みにバランスされ、「オバQ」を超える代表作へと成長していくことになる。
手塚治虫が切り開いた戦後児童マンガ、TVエンタメの世界は、60年代後半には手塚治虫によって誘引された多数の優れた才能により「世代交代」が起こった。
そして、児童マンガで育った世代が青年期を迎える頃には、その受け皿になる対象年齢高めの作品が求められるようになって行った。
60年代後半から加速する「劇画」の隆盛も、その顕れ方の一つだった。
2019年07月01日
2019年07月11日
70年代サブカル前史:60年代「忍者」から「スポ根」へ
過去記事で、戦後の子ども向けエンタメ(とくに男の子向け)の祖型となった三つの50年代作品を元に、「うける」要素として以下のものを仮定してきた。
【月光仮面】バトル・変身・アウトロー
【ゴジラ】怪奇・異形
【鉄腕アトム】メカ・SF
50〜60年代の児童向けエンタメの中心軸は、「アトム」に代表される「メカ・SF」に、かなり引き寄せられた。
しかしそれは手塚治虫という異能であればこそ可能になった力技であって、基本的にはマニアックなジャンルであり、本来は児童向けエンタメの「王道」にはなり得ないものであった。
昔も今も、時代を超えて男の子が憧れる一番人気のテーマと言えばやはり「戦い」「強さ」であり、50年代のTV黎明期で言えば「月光仮面」がそれを代表していたのではないだろうか。
さすがの手塚、さすがのアトムと言えども、人気を安定させるためには本来の「文明批評SF」路線だけでなく、「ロボットバトル」の要素を大幅に導入せざるを得なかったのだ。
マンガ、アニメの世界で直接「強さ」「バトル」を前面に押し出し、60年代を牽引した異能の一人が、忍者ブームを巻き起こした白土三平だった。
【白土三平の忍者ブーム】
白土三平は1932年、東京で画家の父の家に生まれた。
十代で手塚漫画を知り、成人前には紙芝居の制作を開始している。
1957年頃から貸本漫画を描き始め、59〜62年には当時としては異例の長編にして初期の代表作「忍者武芸帳」を執筆。
並行して「サスケ」「シートン動物記」等を執筆し、64年には「ガロ」の創刊と共に代表作「カムイ伝」連載開始。
他作品のTVアニメ化(68年「サスケ」、69年「忍風カムイ外伝」等)の進行とともに、「カムイ外伝」「ワタリ」と並行して71年の第一部完結までを描き切った。
児童を含めた男性読者の「強さ」への憧れは、古くから剣豪物語や講談等で消費されてきた。
白土三平作品の一連の忍者マンガの特徴は、時に残虐ですらある激しい戦闘描写、当時としてはリアルな絵柄、そして「理屈付け」にあった。
登場する忍者や武芸者は超人的な技や強さを発揮するけれども、そこには必ず(実際に可能であるかどうかはともかく)合理的な解説があり、読者に「現実にあり得る」と納得させるリアリズムがあった。
強さの描写にリアリズムを追及する以上、あまり空想的なモンスターは登場させられない。
しょせん個人の「強さ」などたかが知れているという結論に向かわざるを得ず、「本当の強さ」を追求する過程で必然的に「社会と個人」の問題にまで、作品テーマは深化していった。
その集大成になったのが、70年前後に描かれた「カムイ伝第一部」ということになるだろう。
白土三平の忍者マンガは時代劇であったが、現代劇の中でもSF設定に頼らずに直接「強さ」を扱う作品も、60年代には次々にヒットするようになった。
不良少年のケンカ沙汰をメインテーマにした「番長モノ」である。
【子供向けヤクザ映画としての番長モノ】
法令順守、アウトロー排除の風潮が、私などから見れば行き過ぎと思えるほどに徹底される現代にあっても、ヤクザやヤンキーを主題としたフィクションは、根強い人気を持っている。
アウトローを主人公とした物語が好まれる傾向は時代を超えていて、直接的には江戸時代あたりまで遡ることができるだろう。
近代に入ってからも、たとえば浪曲のヒーローは大半がやくざ者であり、サブカルチャーの世界ではむしろそれが主流であったと言って良い。
少年マンガは戦後長らく子供向けサブカルチャーの華であったが、おそらく先行する浪曲の世界や、同時代に流行したやくざ映画の影響を受けていたはずだ。
番長モノの主人公の多くは「ケンカ自慢の不良」とは言うものの、恐喝等の犯罪行為や集団暴力に関与することは無い。
組織を嫌う一匹狼タイプであることが多く、一般生徒に手を出したり、犯罪行為を行う「悪い不良」を懲らしめ、改心させる役割を担う。
こうした作劇は、浪曲等に登場する「良いヤクザ」の任侠の世界観そのままで、ストーリー自体も下敷きにされている場合が多々ある。
そこに対象年齢を低くするための少年マンガ的な設定が加えられる。
物語冒頭は学園等の子供の日常空間を舞台とし、主人公はそこに通学する中高生とする。
バトルは「素手のタイマン」(一対一で武器は使用しない)が基本ルールで、あくまで「遺恨を残さない子供のケンカ」の範囲内で決着が付けられ、生死にかかわることはあまりない。
舞台設定が身近な「地元」からじわじわ拡大し、「強さのインフレ」とともに広域化して行く傾向は、現実の戦後やくざの抗争広域化、それをネタにした映画作品の影響があるかもしれない。
主人公は「純情硬派」タイプで、性的にはむしろ潔癖であることが多い。
こうして列挙してみると、ウケるための二大要素である「バイオレンス」「エロ」に一定の歯止めがかけられているのがわかる。
そこで描かれるのは、義理人情、純情硬派、弱きをたすけ強きをくじく任侠道など、極めて古風な倫理観である。
不良を主人公とした少年マンガ作品が、アウトロー的な世界を描いているにもかかわらず、社会問題化することが少ないのもうなずけるのである。
私は世代的に60年代リアルタイムでは読んでいないが、アニメ化されたものを再放送で視たりして、一応記憶には残っている。
代表的な作品は、以下のものになるだろう。
●「ハリスの旋風」ちばてつや(65〜67年、週刊少年マガジン)
●「夕焼け番長」原作:梶原一騎、作画:荘司としお(67〜71年、冒険王)
●「男一匹ガキ大将」本宮ひろ志(68〜73年、週刊少年ジャンプ)
この三作を並べてみると、少年マンガ誌の王道中の王道テーマである「バトル」の基本的な創作スタイルは、「番長モノ」の系譜の中で形成されたのではないかと思えてくる。
とくにジャンプ創成期のヒット作である「男一匹〜」あたりの連載時期になると、後の「バトル作品」でも繰り返されることになる「強さのインフレ」や「無理な連載の引き延ばし」等も含め、良くも悪くも様々な要素が出揃っている感がある。
現実世界を舞台とし、あくまで少年同士のケンカに限定された「番長」の枠を取り外すと、後の様々な「バトル作品」に進化するのだろう。
SFやファンタジーの要素を導入すると、お話のスケールが大きくなり、絵的にも派手になるが、その分「強さのインフレ」の度合いも桁外れになり、構成が崩れやすくなる。
ちばてつやと梶原一騎はそのあたりのバランス感覚と、当時の少年マンガの中でのリアリズムの作り方が非常に巧みなマンガ家、原作者であったということだろう。
この二人は並行して「スポ根モノ」のヒット作も作り上げていく。
【60年代後半、スポ根モノの隆盛】
少年マンガのカテゴリで現代劇としてバトルを描く場合、様々な制約が生まれてくる。
いくらフィクションとは言え凄惨な戦いをリアルに描くことは難しく、武士や忍者の登場する時代劇でもないかぎり、殺し合いのような生の「実戦」を扱うことは不可能になる。
先に紹介した「番長モノ」の場合、一対一の素手のタイマンをバトルの基本ルールとすることで、最低限の倫理観はクリアされたが、「不良のケンカ」を作中で肯定的に描くことは、どこまで行ってもグレーゾーンでしかありえない。
そうした問題点を完全に払拭できるのが、バトル要素をスポーツ競技の枠内に収める「スポーツ根性モノ」だった。
スポーツであればルールがはっきりしているので勝敗が分かりやすく、団体競技ならチームバトルの面白さも出てくる。
格闘技のような極めて激しい戦いであっても「あくまでルール内の出来事」として、いわば「言い訳」が効くわけだ。
単に「スポーツ」を扱ったマンガ作品はそれ以前にも連綿と存在したが、梶原一騎が主導して付け加えた「根性」の部分に、60年代後半から隆盛を迎える「スポ根モノ」の独自性があった。
主人公が超人的な「根性、努力」により、必殺技や魔球を会得する様や、最先端のリアルな劇画調の絵柄は、先行する白土忍者マンガの要素をなぞっているけれども、何より読者がマンガと同じ競技を実際に体験できるのが強みだった。
この路線では「巨人の星」「タイガーマスク」を代表とする多くの作品が制作された。
中でも梶原一騎とちばてつやという、この分野の「二大巨頭」がタッグを組んだ最高傑作と言えるのが、1968年から週刊少年マガジンで連載された「あしたのジョー」だった。
この作品は通常、人気が定着し、TVアニメ第一作が放映されたタイミングから「70年代」と認識されることが多いと思うが、作中で描かれる時代背景は、どちらかと言うと60年代的な雰囲気が強い。
ちば作品の中では珍しく、梶原一騎(高森朝雄名義)の原作がついているが、他の「梶原マンガ」とは少し雰囲気が違って見える。
他の作品より、相対的にちばてつやの作風の割合が多いのではないかと感じるのだ。
梶原一騎の強烈な個性をねじ伏せ、「あしたのジョー」を他ならぬちばてつや自身の作品に見せているのは、一人一人のキャラクターを丁寧に掘り下げる執筆姿勢と、連載後期のあの切れ味鋭く濃密な描線あったればこそだろう。
連載初期の「あしたのジョー」は、それまでの子供向けちば作品のままに、わりとシンプルな線で描かれていた。
ところが、ライバルである力石を死に追いやった伝説の一戦前後から描線は飛躍的に密度を増していき、ラストのホセ・メンドーサ戦前あたりからは、どんな小さなコマ一つを切り取っても「絵」になっており、たっぷり感情がこもったキャラクターが描かれるという、奇跡のような高みにまで上り詰めている。
手練れの役者はさりげないシーンを演じながらも、そのシーンだけではなく役柄の日常生活まで感じさせる演技をするものだが、連載後期の「ジョー」の絵は確実にそのレベルまで到達していた。
世界に冠たるニッポンマンガ史上でも、これほどのレベルの神懸った描線に到達した例は、ごく少数を数えるのみなのではないかと思う。
そしてあまりにも有名な「真っ白に燃え尽きた」ラストシーンは、思春期前後の青少年の心に突き刺さる、奇跡のような一枚になったのだ。
60年代後半から70年代初頭にかけて、少年向けエンタメの中心軸は、アトムに発祥する「メカ・SF」から、バトルを中心軸に置いた「スポ根」に完全に移行していたのである。
【月光仮面】バトル・変身・アウトロー
【ゴジラ】怪奇・異形
【鉄腕アトム】メカ・SF
50〜60年代の児童向けエンタメの中心軸は、「アトム」に代表される「メカ・SF」に、かなり引き寄せられた。
しかしそれは手塚治虫という異能であればこそ可能になった力技であって、基本的にはマニアックなジャンルであり、本来は児童向けエンタメの「王道」にはなり得ないものであった。
昔も今も、時代を超えて男の子が憧れる一番人気のテーマと言えばやはり「戦い」「強さ」であり、50年代のTV黎明期で言えば「月光仮面」がそれを代表していたのではないだろうか。
さすがの手塚、さすがのアトムと言えども、人気を安定させるためには本来の「文明批評SF」路線だけでなく、「ロボットバトル」の要素を大幅に導入せざるを得なかったのだ。
マンガ、アニメの世界で直接「強さ」「バトル」を前面に押し出し、60年代を牽引した異能の一人が、忍者ブームを巻き起こした白土三平だった。
【白土三平の忍者ブーム】
白土三平は1932年、東京で画家の父の家に生まれた。
十代で手塚漫画を知り、成人前には紙芝居の制作を開始している。
1957年頃から貸本漫画を描き始め、59〜62年には当時としては異例の長編にして初期の代表作「忍者武芸帳」を執筆。
並行して「サスケ」「シートン動物記」等を執筆し、64年には「ガロ」の創刊と共に代表作「カムイ伝」連載開始。
他作品のTVアニメ化(68年「サスケ」、69年「忍風カムイ外伝」等)の進行とともに、「カムイ外伝」「ワタリ」と並行して71年の第一部完結までを描き切った。
児童を含めた男性読者の「強さ」への憧れは、古くから剣豪物語や講談等で消費されてきた。
白土三平作品の一連の忍者マンガの特徴は、時に残虐ですらある激しい戦闘描写、当時としてはリアルな絵柄、そして「理屈付け」にあった。
登場する忍者や武芸者は超人的な技や強さを発揮するけれども、そこには必ず(実際に可能であるかどうかはともかく)合理的な解説があり、読者に「現実にあり得る」と納得させるリアリズムがあった。
強さの描写にリアリズムを追及する以上、あまり空想的なモンスターは登場させられない。
しょせん個人の「強さ」などたかが知れているという結論に向かわざるを得ず、「本当の強さ」を追求する過程で必然的に「社会と個人」の問題にまで、作品テーマは深化していった。
その集大成になったのが、70年前後に描かれた「カムイ伝第一部」ということになるだろう。
白土三平の忍者マンガは時代劇であったが、現代劇の中でもSF設定に頼らずに直接「強さ」を扱う作品も、60年代には次々にヒットするようになった。
不良少年のケンカ沙汰をメインテーマにした「番長モノ」である。
【子供向けヤクザ映画としての番長モノ】
法令順守、アウトロー排除の風潮が、私などから見れば行き過ぎと思えるほどに徹底される現代にあっても、ヤクザやヤンキーを主題としたフィクションは、根強い人気を持っている。
アウトローを主人公とした物語が好まれる傾向は時代を超えていて、直接的には江戸時代あたりまで遡ることができるだろう。
近代に入ってからも、たとえば浪曲のヒーローは大半がやくざ者であり、サブカルチャーの世界ではむしろそれが主流であったと言って良い。
少年マンガは戦後長らく子供向けサブカルチャーの華であったが、おそらく先行する浪曲の世界や、同時代に流行したやくざ映画の影響を受けていたはずだ。
番長モノの主人公の多くは「ケンカ自慢の不良」とは言うものの、恐喝等の犯罪行為や集団暴力に関与することは無い。
組織を嫌う一匹狼タイプであることが多く、一般生徒に手を出したり、犯罪行為を行う「悪い不良」を懲らしめ、改心させる役割を担う。
こうした作劇は、浪曲等に登場する「良いヤクザ」の任侠の世界観そのままで、ストーリー自体も下敷きにされている場合が多々ある。
そこに対象年齢を低くするための少年マンガ的な設定が加えられる。
物語冒頭は学園等の子供の日常空間を舞台とし、主人公はそこに通学する中高生とする。
バトルは「素手のタイマン」(一対一で武器は使用しない)が基本ルールで、あくまで「遺恨を残さない子供のケンカ」の範囲内で決着が付けられ、生死にかかわることはあまりない。
舞台設定が身近な「地元」からじわじわ拡大し、「強さのインフレ」とともに広域化して行く傾向は、現実の戦後やくざの抗争広域化、それをネタにした映画作品の影響があるかもしれない。
主人公は「純情硬派」タイプで、性的にはむしろ潔癖であることが多い。
こうして列挙してみると、ウケるための二大要素である「バイオレンス」「エロ」に一定の歯止めがかけられているのがわかる。
そこで描かれるのは、義理人情、純情硬派、弱きをたすけ強きをくじく任侠道など、極めて古風な倫理観である。
不良を主人公とした少年マンガ作品が、アウトロー的な世界を描いているにもかかわらず、社会問題化することが少ないのもうなずけるのである。
私は世代的に60年代リアルタイムでは読んでいないが、アニメ化されたものを再放送で視たりして、一応記憶には残っている。
代表的な作品は、以下のものになるだろう。
●「ハリスの旋風」ちばてつや(65〜67年、週刊少年マガジン)
●「夕焼け番長」原作:梶原一騎、作画:荘司としお(67〜71年、冒険王)
●「男一匹ガキ大将」本宮ひろ志(68〜73年、週刊少年ジャンプ)
この三作を並べてみると、少年マンガ誌の王道中の王道テーマである「バトル」の基本的な創作スタイルは、「番長モノ」の系譜の中で形成されたのではないかと思えてくる。
とくにジャンプ創成期のヒット作である「男一匹〜」あたりの連載時期になると、後の「バトル作品」でも繰り返されることになる「強さのインフレ」や「無理な連載の引き延ばし」等も含め、良くも悪くも様々な要素が出揃っている感がある。
現実世界を舞台とし、あくまで少年同士のケンカに限定された「番長」の枠を取り外すと、後の様々な「バトル作品」に進化するのだろう。
SFやファンタジーの要素を導入すると、お話のスケールが大きくなり、絵的にも派手になるが、その分「強さのインフレ」の度合いも桁外れになり、構成が崩れやすくなる。
ちばてつやと梶原一騎はそのあたりのバランス感覚と、当時の少年マンガの中でのリアリズムの作り方が非常に巧みなマンガ家、原作者であったということだろう。
この二人は並行して「スポ根モノ」のヒット作も作り上げていく。
【60年代後半、スポ根モノの隆盛】
少年マンガのカテゴリで現代劇としてバトルを描く場合、様々な制約が生まれてくる。
いくらフィクションとは言え凄惨な戦いをリアルに描くことは難しく、武士や忍者の登場する時代劇でもないかぎり、殺し合いのような生の「実戦」を扱うことは不可能になる。
先に紹介した「番長モノ」の場合、一対一の素手のタイマンをバトルの基本ルールとすることで、最低限の倫理観はクリアされたが、「不良のケンカ」を作中で肯定的に描くことは、どこまで行ってもグレーゾーンでしかありえない。
そうした問題点を完全に払拭できるのが、バトル要素をスポーツ競技の枠内に収める「スポーツ根性モノ」だった。
スポーツであればルールがはっきりしているので勝敗が分かりやすく、団体競技ならチームバトルの面白さも出てくる。
格闘技のような極めて激しい戦いであっても「あくまでルール内の出来事」として、いわば「言い訳」が効くわけだ。
単に「スポーツ」を扱ったマンガ作品はそれ以前にも連綿と存在したが、梶原一騎が主導して付け加えた「根性」の部分に、60年代後半から隆盛を迎える「スポ根モノ」の独自性があった。
主人公が超人的な「根性、努力」により、必殺技や魔球を会得する様や、最先端のリアルな劇画調の絵柄は、先行する白土忍者マンガの要素をなぞっているけれども、何より読者がマンガと同じ競技を実際に体験できるのが強みだった。
この路線では「巨人の星」「タイガーマスク」を代表とする多くの作品が制作された。
中でも梶原一騎とちばてつやという、この分野の「二大巨頭」がタッグを組んだ最高傑作と言えるのが、1968年から週刊少年マガジンで連載された「あしたのジョー」だった。
この作品は通常、人気が定着し、TVアニメ第一作が放映されたタイミングから「70年代」と認識されることが多いと思うが、作中で描かれる時代背景は、どちらかと言うと60年代的な雰囲気が強い。
ちば作品の中では珍しく、梶原一騎(高森朝雄名義)の原作がついているが、他の「梶原マンガ」とは少し雰囲気が違って見える。
他の作品より、相対的にちばてつやの作風の割合が多いのではないかと感じるのだ。
梶原一騎の強烈な個性をねじ伏せ、「あしたのジョー」を他ならぬちばてつや自身の作品に見せているのは、一人一人のキャラクターを丁寧に掘り下げる執筆姿勢と、連載後期のあの切れ味鋭く濃密な描線あったればこそだろう。
連載初期の「あしたのジョー」は、それまでの子供向けちば作品のままに、わりとシンプルな線で描かれていた。
ところが、ライバルである力石を死に追いやった伝説の一戦前後から描線は飛躍的に密度を増していき、ラストのホセ・メンドーサ戦前あたりからは、どんな小さなコマ一つを切り取っても「絵」になっており、たっぷり感情がこもったキャラクターが描かれるという、奇跡のような高みにまで上り詰めている。
手練れの役者はさりげないシーンを演じながらも、そのシーンだけではなく役柄の日常生活まで感じさせる演技をするものだが、連載後期の「ジョー」の絵は確実にそのレベルまで到達していた。
世界に冠たるニッポンマンガ史上でも、これほどのレベルの神懸った描線に到達した例は、ごく少数を数えるのみなのではないかと思う。
そしてあまりにも有名な「真っ白に燃え尽きた」ラストシーンは、思春期前後の青少年の心に突き刺さる、奇跡のような一枚になったのだ。
60年代後半から70年代初頭にかけて、少年向けエンタメの中心軸は、アトムに発祥する「メカ・SF」から、バトルを中心軸に置いた「スポ根」に完全に移行していたのである。
2019年07月12日
青年はサブカルチャーに一度死ぬ
戦後まもなくの50年代から始まる戦後サブカルチャーの歩みは徐々に加速し、60年代からはTVアニメ・ドラマとマンガのメディアミックス、関連グッズによるキャラクタービジネスが開始された。
それと共に雑誌連載マンガは読者を開拓していき、マンガを読む習慣を持つ年齢層は次第に広がり、70年頃には少年誌が青年読者にも購読されるようになった。
その過程は、戦後生まれの団塊世代が物心ついて以来の50〜60年代、マンガ・アニメ・TVの発達と共に消費者として成長し、成人年齢に達してきた歩みともシンクロしているはずだ。
1970年前後の雑誌連載マンガは「受ける」「売れる」ためのテーマやノウハウが一通り出揃った感がある。
質的にも一つのピークをむかえており、後続の作品に多大な影響を及ぼしたものは数多い。
読者の年齢層が上がり、単に「売れる」というにとどまらない「歯ごたえ」が求められるようになった。
必ずしもハッピーエンドにならず、主人公の死や破滅が描かれる作品も数多くあり、さらには70年代初頭の終末ブームの世相を背景に、幾多の「世界滅亡」までが描かれるようになった。
70年代前後に青年層に支持され、「青年の死」や「世界滅亡」が描かれた作品の中で、後続作品に多大な影響を残した例として、以下の四作を挙げてみたい。
以下に制作年と当時の作者の年齢をまとめてみよう。
【カムイ伝】(1964〜71年)
白土三平(32〜39歳)
【幻魔大戦】【新幻魔大戦】(1967年、1971〜74年)
原作:平井和正(29歳、33〜36歳)
マンガ:石森章太郎(29歳、33〜36歳)
【あしたのジョー】(1968〜73年)
原作:高森朝夫=梶原一騎(32〜37歳)
マンガ:ちばてつや(29〜34歳)
【デビルマン】(1972〜73年)
永井豪(27〜28歳)
多少のバラつきはあるものの、以下のような共通点が見受けられる。
・1970年前後に制作され、青年層に支持される。
・シリアスでリアルな展開の末、主人公の「死」が描かれる。
・作品制作中に絵柄がリアルタッチに変化する。
・描き起こされた時点の作者の年齢が三十歳前後。
商業誌のマンガ家やマンガ原作者のデビューは早く、十代から二十代前半であることが多い。
初期には読者と「同年代」的な感性の作品で腕を磨き、実力を蓄積する。
早熟な場合はこの時期からヒットを飛ばす。
そして幾多の淘汰を超え、構成力や画力が向上し、体力的にも充実した三十歳前後のタイミングで、「完全燃焼」の作品が生まれる……
週刊マンガ誌を追っていると、そんなケースを目にすることが多い。
デビューが早く、純粋培養のマンガ家は、「マンガを描く」以外の社会経験に乏しい。
三十歳前後の年齢で一度「元々持っているもの=青少年期の感性」が全部吐き出され、作中の主人公と共に、表現者として一度死ぬ。
それで本当に燃え尽きてしまい、作品が描けなくなるマンガ家も多い。
読者の方も、少年期から青年期にかけて、心の在り方が変化する。
青年はいずれ大人にならざるを得ない。
子供なりに築き上げた「自分」というものが社会に出ることで一度リセットされる、疑似的な死と再生の刻限が迫ってくる。
そうした不安定な時期に、同じようにもがく作者と作品は、心に深く刺さりやすいに違いない。
鮮烈に描かれた「青年の完全燃焼の死の物語」は、民俗を喪失した現代の青年に、一種の「通過儀礼」として機能しているのかもしれないのだ。
少なくとも私には、その心当たりがあった。
とりわけ「主人公の死」と「世界の終り」が同期した「終末サブカルチャー」は、危うい魅力を持っている。
いつの時代も青年は自分しか見えていないものだ。
今の自分が無くなるなら、この世界も無くなってしまえばいい……
ありがちな短絡だが、それを乗り超え、この泥まみれの世の中で、役を演じていけるかどうかが問われることになる。
そこで道を踏み外せば、ピュアであるほど地獄は深くなる。
本物の物語作者は、「死」や「終末」を描いた後に、そのまま読者を放置したりしない。
必ず蘇って「再生」を描く。
先に挙げた作品で言えば、白土三平は後に「カムイ伝 第二部」を描き上げた。
平井和正と石森章太郎は「幻魔大戦」で滅びを描き、「新幻魔大戦」で再生を描いた。
ちばてつやは「ジョー」の直後に「おれは鉄兵」を描き、永井豪は「デビルマン」の直後に「バイオレンスジャック」を描いた。
それらの作品には、前作ほどの衝撃や切れ味はないかもしれない。
それでもしぶとく描かれた作品は、不思議な懐の深さをもって、青年の危機を迎えた読者に「それでも死ぬな。しぶとく生きろ」と語りかけたのである。
サブカルチャー作品の在り様で見る限り、60年代末から70年代初頭にかけて、様々な試みは既に「一周」してしまっている。
70年代も中盤以降はリバイバル、バリエーション、そしてパロディの周回に突入しており、そこには新たな顧客層が用意されていた。
50〜60年代サブカルを存分に浴びて育った団塊世代が成人し、「団塊ジュニア」が巨大なボリュームゾーンとして産み落とされた。
以後のサブカルチャーは団塊ジュニアによって消費されながら、TVを中心に咲き乱れていくことになる。
そして大枠で言えば、私自身もその真っ只中で成育歴を重ねてきたのだ。
それと共に雑誌連載マンガは読者を開拓していき、マンガを読む習慣を持つ年齢層は次第に広がり、70年頃には少年誌が青年読者にも購読されるようになった。
その過程は、戦後生まれの団塊世代が物心ついて以来の50〜60年代、マンガ・アニメ・TVの発達と共に消費者として成長し、成人年齢に達してきた歩みともシンクロしているはずだ。
1970年前後の雑誌連載マンガは「受ける」「売れる」ためのテーマやノウハウが一通り出揃った感がある。
質的にも一つのピークをむかえており、後続の作品に多大な影響を及ぼしたものは数多い。
読者の年齢層が上がり、単に「売れる」というにとどまらない「歯ごたえ」が求められるようになった。
必ずしもハッピーエンドにならず、主人公の死や破滅が描かれる作品も数多くあり、さらには70年代初頭の終末ブームの世相を背景に、幾多の「世界滅亡」までが描かれるようになった。
70年代前後に青年層に支持され、「青年の死」や「世界滅亡」が描かれた作品の中で、後続作品に多大な影響を残した例として、以下の四作を挙げてみたい。
以下に制作年と当時の作者の年齢をまとめてみよう。
【カムイ伝】(1964〜71年)
白土三平(32〜39歳)
【幻魔大戦】【新幻魔大戦】(1967年、1971〜74年)
原作:平井和正(29歳、33〜36歳)
マンガ:石森章太郎(29歳、33〜36歳)
【あしたのジョー】(1968〜73年)
原作:高森朝夫=梶原一騎(32〜37歳)
マンガ:ちばてつや(29〜34歳)
【デビルマン】(1972〜73年)
永井豪(27〜28歳)
多少のバラつきはあるものの、以下のような共通点が見受けられる。
・1970年前後に制作され、青年層に支持される。
・シリアスでリアルな展開の末、主人公の「死」が描かれる。
・作品制作中に絵柄がリアルタッチに変化する。
・描き起こされた時点の作者の年齢が三十歳前後。
商業誌のマンガ家やマンガ原作者のデビューは早く、十代から二十代前半であることが多い。
初期には読者と「同年代」的な感性の作品で腕を磨き、実力を蓄積する。
早熟な場合はこの時期からヒットを飛ばす。
そして幾多の淘汰を超え、構成力や画力が向上し、体力的にも充実した三十歳前後のタイミングで、「完全燃焼」の作品が生まれる……
週刊マンガ誌を追っていると、そんなケースを目にすることが多い。
デビューが早く、純粋培養のマンガ家は、「マンガを描く」以外の社会経験に乏しい。
三十歳前後の年齢で一度「元々持っているもの=青少年期の感性」が全部吐き出され、作中の主人公と共に、表現者として一度死ぬ。
それで本当に燃え尽きてしまい、作品が描けなくなるマンガ家も多い。
読者の方も、少年期から青年期にかけて、心の在り方が変化する。
青年はいずれ大人にならざるを得ない。
子供なりに築き上げた「自分」というものが社会に出ることで一度リセットされる、疑似的な死と再生の刻限が迫ってくる。
そうした不安定な時期に、同じようにもがく作者と作品は、心に深く刺さりやすいに違いない。
鮮烈に描かれた「青年の完全燃焼の死の物語」は、民俗を喪失した現代の青年に、一種の「通過儀礼」として機能しているのかもしれないのだ。
少なくとも私には、その心当たりがあった。
とりわけ「主人公の死」と「世界の終り」が同期した「終末サブカルチャー」は、危うい魅力を持っている。
いつの時代も青年は自分しか見えていないものだ。
今の自分が無くなるなら、この世界も無くなってしまえばいい……
ありがちな短絡だが、それを乗り超え、この泥まみれの世の中で、役を演じていけるかどうかが問われることになる。
そこで道を踏み外せば、ピュアであるほど地獄は深くなる。
本物の物語作者は、「死」や「終末」を描いた後に、そのまま読者を放置したりしない。
必ず蘇って「再生」を描く。
先に挙げた作品で言えば、白土三平は後に「カムイ伝 第二部」を描き上げた。
平井和正と石森章太郎は「幻魔大戦」で滅びを描き、「新幻魔大戦」で再生を描いた。
ちばてつやは「ジョー」の直後に「おれは鉄兵」を描き、永井豪は「デビルマン」の直後に「バイオレンスジャック」を描いた。
それらの作品には、前作ほどの衝撃や切れ味はないかもしれない。
それでもしぶとく描かれた作品は、不思議な懐の深さをもって、青年の危機を迎えた読者に「それでも死ぬな。しぶとく生きろ」と語りかけたのである。
サブカルチャー作品の在り様で見る限り、60年代末から70年代初頭にかけて、様々な試みは既に「一周」してしまっている。
70年代も中盤以降はリバイバル、バリエーション、そしてパロディの周回に突入しており、そこには新たな顧客層が用意されていた。
50〜60年代サブカルを存分に浴びて育った団塊世代が成人し、「団塊ジュニア」が巨大なボリュームゾーンとして産み落とされた。
以後のサブカルチャーは団塊ジュニアによって消費されながら、TVを中心に咲き乱れていくことになる。
そして大枠で言えば、私自身もその真っ只中で成育歴を重ねてきたのだ。
(70年代サブカル前史:戦後〜60年代編、了)
2019年07月13日
アジサイスケッチ2019
今年は六月からアジサイのスケッチを重ねていました。
近所に何か所か綺麗に咲いていてスケッチも可能な場所があり、休日を利用してそれぞれ小一時間ほどで。
気付いたことをメモ。
アジサイの捉え方、描き方としては、単体の「花」というよりは「樹木」に近いかなと。
ボタニカルアート+やや風景。
水彩スケッチで描く場合、アジサイ自体をあまり描いちゃいかんかなと感じました。
花にスポットが当たった感じを出すには、むしろ周りの緑に手数を。
ガクアジサイを何枚か描いておきたい。
変な「馴れ」が出て手癖でテキトーに流さないように。
よく観る!
通りすがりで気に入った情景を、空気など読まず、予定も無視して描けるのが本物の絵描き。
今の私にはまだ無理なので、出来る範囲でやるしかありません。
おじいちゃんになる頃には本物になれるかな
そうこうしているうちに市街のアジサイが終わり、撮っていた写真から一枚スケッチ。
このタイプのガクアジサイが、じつは一番好きなのです。
少し山間部に入れば今しばらくの満開。
たくさん咲いている様も描いておきたい。
難しいけど風景画も。
野外スケッチで描きかけてタイムアップになっていたのを、写真を元に仕上げ。
約一ヶ月半のアジサイスケッチ、これにて終幕!
堪能しました!
近所に何か所か綺麗に咲いていてスケッチも可能な場所があり、休日を利用してそれぞれ小一時間ほどで。
気付いたことをメモ。
アジサイの捉え方、描き方としては、単体の「花」というよりは「樹木」に近いかなと。
ボタニカルアート+やや風景。
水彩スケッチで描く場合、アジサイ自体をあまり描いちゃいかんかなと感じました。
花にスポットが当たった感じを出すには、むしろ周りの緑に手数を。
ガクアジサイを何枚か描いておきたい。
変な「馴れ」が出て手癖でテキトーに流さないように。
よく観る!
通りすがりで気に入った情景を、空気など読まず、予定も無視して描けるのが本物の絵描き。
今の私にはまだ無理なので、出来る範囲でやるしかありません。
おじいちゃんになる頃には本物になれるかな
そうこうしているうちに市街のアジサイが終わり、撮っていた写真から一枚スケッチ。
このタイプのガクアジサイが、じつは一番好きなのです。
少し山間部に入れば今しばらくの満開。
たくさん咲いている様も描いておきたい。
難しいけど風景画も。
野外スケッチで描きかけてタイムアップになっていたのを、写真を元に仕上げ。
約一ヶ月半のアジサイスケッチ、これにて終幕!
堪能しました!
2019年07月21日
70年代サブカル:メディアミックスとマンガ
【メディアミックスとマンガ】
日本の子供向けTV番組は、長らく雑誌連載マンガと濃密な関連を持ってきた。
1953年に日本でTV放送が始まったごく初期段階から、メディアミックス的な作品展開はあった。
多人数を対象に無料で視聴できるTVでの露出は、ながらくメディアミックスの中心を占めてきたのだ。
そもそも日本初の30分枠TVアニメ「鉄腕アトム」は、監督である手塚治虫自身が雑誌連載していた同名作品をアニメ化したものだった。
その成功を受けて制作された初期TVアニメの多くは、原作マンガの人気が先行する「アニメ化作品」であった。
60年代の「人気マンガを原作とする初期のモノクロTVアニメ」には、例えば以下のようなものがある。
●鉄腕アトム(手塚治虫)
63年1月〜66年12月、全193話。
●鉄人28号(横山光輝)
63年10月〜66年5月、全97話。
●エイトマン(平井和正/桑田次郎)
63年11月〜 64年12月、全56話。
●オバケのQ太郎(藤子不二雄)
65年8月〜67年6月、全96話。
●おそ松くん(赤塚不二夫)
66年2月〜67年3月、全56話。
●ハリスの旋風(ちばてつや)
66年5月〜67年8月、全70話。
●サイボーグ009(石森章太郎)(劇場版1966年)
68年4月〜9月、 全26話。
●ゲゲゲの鬼太郎(水木しげる)
68年1月〜69年3月、全65話。
雑誌掲載マンガの人気作品がTVアニメ化され、メディアミックスで更に人気が沸騰するという形は、少年マンガのヒットパターンの王道として今に続いている。
人気マンガのアニメ化が相次いだ60年代だが、もちろんマンガを原作としないTV独自の子供番組も多く制作されていた。
ここで「コミカライズ」という言葉が登場する。
メディアミックスの在り方の一形態で、他のジャンルの作品をマンガに変換(コミック化)することを指す。
例えば現在でも人気の「月光仮面」は、川内康範の原作で1958年にTVドラマとしてスタートし、並行して貸本や雑誌連載のマンガ版も制作されており、雑誌連載版は開始当初、後に「8マン」で人気を博す桑田次郎が作画を担当していた。
映像コンテンツの録画や配信が広く一般化した現代と違い、80年代初頭までTVコンテンツは基本的に「放映されたらそれでおしまい」だった。
手に取ってストーリーをなぞれ、ビジュアルを紙で手にできるコミカライズ作品の果たす役割は大きかったのだ。
コミカライズの場合、マンガはあくまで派生作品であり、制作する側も鑑賞する側も「TVの再現」が主目的であった。。
そして70年代に入り、子供向けTVアニメや特撮番組が定着する中で、TVアニメの企画先行でマンガ家が作品を制作するという流れが出てきた。
以下に現在でも人気やシリーズ作品が継続しているTV番組を挙げてみよう。
●仮面ライダー(石森章太郎)
71年4月〜73年2月、全98話
●デビルマン(永井豪)
72年7月〜73年3月、全39話
●マジンガーZ(永井豪)
72年12月〜 74年9月 、全92話
●ゲッターロボ(永井豪/石川賢)
74年4月〜75年5月、全51話
●秘密戦隊ゴレンジャー(石森章太郎)
75年4月〜77年3月、全84話
こうして並べてみると、たった数年間に仮面ライダー、悪魔的ヒーロー、スーパーロボット、複数機変形合体、スーパー戦隊のフォーマットが、全部出揃ってしまっているのが凄まじい。
これらのTV企画先行作品は、マンガ版とTV版の間に「主従関係」は無い。
マンガ家の名前は「原作者」とクレジットされ、ほぼ同時進行で「原作マンガ」も雑誌掲載されたが、必ずしも同一内容ではなく、TV版とマンガ版でそれぞれ別の展開になることも多々あった。
アニメより制約が少ない分、「原作」が暴走し、ほとんど別作品のようになることすらあった。
そして目立って「暴走現象」の起こりやすいマンガ家の系譜として、石森章太郎を起点とする流れが挙げられるが、このことは記事を改めて詳述する。
70年代初頭に生まれた私は、これらの作品を全身に浴びながら育ったと言って良い。
70年代の子供向けエンタメ、サブカル作品は、60年代に一旦進化しつくしたノウハウをリバイバル、パロディ化しながら爛熟していった。
以下にその過程を概観してみよう。
日本の子供向けTV番組は、長らく雑誌連載マンガと濃密な関連を持ってきた。
1953年に日本でTV放送が始まったごく初期段階から、メディアミックス的な作品展開はあった。
多人数を対象に無料で視聴できるTVでの露出は、ながらくメディアミックスの中心を占めてきたのだ。
そもそも日本初の30分枠TVアニメ「鉄腕アトム」は、監督である手塚治虫自身が雑誌連載していた同名作品をアニメ化したものだった。
その成功を受けて制作された初期TVアニメの多くは、原作マンガの人気が先行する「アニメ化作品」であった。
60年代の「人気マンガを原作とする初期のモノクロTVアニメ」には、例えば以下のようなものがある。
●鉄腕アトム(手塚治虫)
63年1月〜66年12月、全193話。
●鉄人28号(横山光輝)
63年10月〜66年5月、全97話。
●エイトマン(平井和正/桑田次郎)
63年11月〜 64年12月、全56話。
●オバケのQ太郎(藤子不二雄)
65年8月〜67年6月、全96話。
●おそ松くん(赤塚不二夫)
66年2月〜67年3月、全56話。
●ハリスの旋風(ちばてつや)
66年5月〜67年8月、全70話。
●サイボーグ009(石森章太郎)(劇場版1966年)
68年4月〜9月、 全26話。
●ゲゲゲの鬼太郎(水木しげる)
68年1月〜69年3月、全65話。
雑誌掲載マンガの人気作品がTVアニメ化され、メディアミックスで更に人気が沸騰するという形は、少年マンガのヒットパターンの王道として今に続いている。
人気マンガのアニメ化が相次いだ60年代だが、もちろんマンガを原作としないTV独自の子供番組も多く制作されていた。
ここで「コミカライズ」という言葉が登場する。
メディアミックスの在り方の一形態で、他のジャンルの作品をマンガに変換(コミック化)することを指す。
例えば現在でも人気の「月光仮面」は、川内康範の原作で1958年にTVドラマとしてスタートし、並行して貸本や雑誌連載のマンガ版も制作されており、雑誌連載版は開始当初、後に「8マン」で人気を博す桑田次郎が作画を担当していた。
映像コンテンツの録画や配信が広く一般化した現代と違い、80年代初頭までTVコンテンツは基本的に「放映されたらそれでおしまい」だった。
手に取ってストーリーをなぞれ、ビジュアルを紙で手にできるコミカライズ作品の果たす役割は大きかったのだ。
コミカライズの場合、マンガはあくまで派生作品であり、制作する側も鑑賞する側も「TVの再現」が主目的であった。。
そして70年代に入り、子供向けTVアニメや特撮番組が定着する中で、TVアニメの企画先行でマンガ家が作品を制作するという流れが出てきた。
以下に現在でも人気やシリーズ作品が継続しているTV番組を挙げてみよう。
●仮面ライダー(石森章太郎)
71年4月〜73年2月、全98話
●デビルマン(永井豪)
72年7月〜73年3月、全39話
●マジンガーZ(永井豪)
72年12月〜 74年9月 、全92話
●ゲッターロボ(永井豪/石川賢)
74年4月〜75年5月、全51話
●秘密戦隊ゴレンジャー(石森章太郎)
75年4月〜77年3月、全84話
こうして並べてみると、たった数年間に仮面ライダー、悪魔的ヒーロー、スーパーロボット、複数機変形合体、スーパー戦隊のフォーマットが、全部出揃ってしまっているのが凄まじい。
これらのTV企画先行作品は、マンガ版とTV版の間に「主従関係」は無い。
マンガ家の名前は「原作者」とクレジットされ、ほぼ同時進行で「原作マンガ」も雑誌掲載されたが、必ずしも同一内容ではなく、TV版とマンガ版でそれぞれ別の展開になることも多々あった。
アニメより制約が少ない分、「原作」が暴走し、ほとんど別作品のようになることすらあった。
そして目立って「暴走現象」の起こりやすいマンガ家の系譜として、石森章太郎を起点とする流れが挙げられるが、このことは記事を改めて詳述する。
70年代初頭に生まれた私は、これらの作品を全身に浴びながら育ったと言って良い。
70年代の子供向けエンタメ、サブカル作品は、60年代に一旦進化しつくしたノウハウをリバイバル、パロディ化しながら爛熟していった。
以下にその過程を概観してみよう。