昨年末より、折にふれ実話奇譚の書き手、川奈まり子の著書を読み継いでいる。
先月末、新刊が二冊刊行された。
それぞれ少年少女がテーマの「怖い話」である。
●「少女奇譚」「少年奇譚」川奈まり子(晶文社)
人生半ばを過ぎると、夏は追憶の季節である。
何かと移動の多い季節の読書にぴったりだと感じ、さっそく購入。
さてどちらから読もうかと、著者のTwitterアカウントをのぞいて見ると、以下のようなtweetが目にとまった。
「ナメクジの王様を描いてみたけど下手なので上手な絵師様に描いてほしい。『少女奇譚』のナメクジの王様って可愛いすぎる話だと思うんですよ。シャーリーテンプルのスカートはいた双子ちゃんと巨大ナメクジの邂逅。」
呟きには可愛らしいイラストが添えられており、エピソードへの興味がかき立てられた。
一応絵描きのハシクレなので、この「ナメクジの王様」が非常に気になり、「少女奇譚」の方から開いてみることにした。
ゆっくり味読し先ごろ読了したので、いくつかのエピソードを紹介してみよう。
■「ナメクジの王様」
怖いというより、何か絵本の世界のお話のようだった。
双子の幼女たちがひらひらした可愛い服を着て、二人ではしゃいで近所の木立を駆け回っているだけでも十分絵本っぽいのだが、そこに妖怪じみた謎の生物まで登場するとなると……
そう言えば以前、梅雨時のコンクリート壁にナメクジが大量発生しているのを目撃したことがある。
雨模様の薄暗い歩道脇のコンクリート擁壁に、びっしり張り付いたナメクジの大群には、生理的なショックがあった。
もしそこに、ナメクジに似た質感の「何か大きな這う生き物」が居合わせたら、それは「ナメクジの王様」に見えたかもしれない。
ふとそんなことを思い出しながら、スケッチを一枚描いてみた。
■「階段の花子さん」
いわゆる「学校の怪談」の無い学校にはいじめがあって風紀が悪く、ある学校にはいじめがなかったと言う記述に、ふと視線が止まる。
一般化は出来ないだろうけれども、そうした傾向はやっぱりあるのではないかと感じる。
この日常世界とは違う「異界」の効用、「怖い話」があることでそこにまとめて回収される暗い感情、情念というものは、有りそうだ。
学校にありがちな「不可解で不気味なスペース」についても、少し思うところはある。
設計がうまくいってなくて、予期せぬ「意味ありげなスペース」ができてしまうことは、実はよくある。
はっきり「設計ミス」というほどでなくとも、うまく空気が流れなくて湿気がこもり、異様な雰囲気のする特定の場所ができたりすることは、ままあるのだ。
古い建物に後からエアコンを後から導入したり、耐震補強することで、かえって「へんなこと」になるケースも、これまたよくある。
そうした「隙間」に、行き場のない児童生徒たちの情念は滞留し、それをエネルギーとした怪異が呼び込まれる――
そんな可能性は、十分考えられるのではないか。
■「十字路より」「憑依体質」
思春期の少女に目覚める「霊能」に関するエピソード。
身近な友人や地域の「霊能者」のサポートで、予期せぬ能力に目覚めた少女は家族関係や学校生活を大きく破綻させることなく、日常に不時着する。
弓道部で少女たちが繰り返し弓を引くうち、憑霊現象が起きる描写に、「これは」と思い当たる読者も多いはずだ。
共同体の中で果たされる「魔女」の役割。
ある種の少年少女には、魔女やスナフキンの存在が必要なのだ。
思い返してみれば「アナと雪の女王」は、強力な魔女の資質を持った少女の身近に「先達」となる魔女が存在せず、国ごと滅びかけた世界観であろうか。
【当ブログ「アナと雪の女王」レビュー】
ダブルミーニングの魔力1
ダブルミーニングの魔力2
劇中歌としての「Let it go」は「人間やめます」ソング?
及ばずながら私も、町外れに住むちょっと頭のおかしい絵描きとして、主流からこぼれ落ちてくる少年少女に幾ばくかの安心を与えられる存在でありたいと思うのだ。
■「教える生首」
冒頭「皆さんは何歳からの記憶をお持ちだろうか」という問いかけと例示、解説。
個人差はあるものの「いつ、どこで、何をした」とつなげられるのは三歳以降が多く、それ以前の記憶も消えたわけではなく、「思い出せない」だけ、とのこと。
私の最初の記憶は、たぶん「ベビーベッドに座り、柵に付属しているプラ製のオモチャを熱心に回している風景」である。
まさか私自身が赤ちゃんの時ではないだろうから、二つ下の弟がベビーベッドを使用していた時の記憶ではないかと思われる。
それならば二歳半〜三歳くらいで辻褄は合う。
作中の「生首」ほど特異なイメージでなくとも、乳幼児たちが「何者か」と独自にコミュニケーションしているケースは多いのではないか。
私も母親に「赤ちゃんの頃、一人でよく何か言っていた」と聞かされたし、何もない空間を見つめたり、ムニャムニャ一人でしゃべったりする乳幼児はよくいる。
もしかしたら私もあなたも、今は忘れているだけの、「幼い頃の密かな友だち」がいるのではないか?
そんな不思議な感覚を抱くエピソードだった。
■「前夜に視たこと」「夢枕に立つ」
読みながら、90年代にお世話になり、数年前に亡くなった師匠のことを思い出す。
今でもごくたまに夢枕に立ち、折々的確な示唆を与えてくれている師匠……
本当のおわかれ
夢が介在すると、現実と怪異はスムーズに地続きになり、境界線は朧になってくるのである。
■「呪殺ダイアリー」
以前ネットで読んで恐ろしさのあまり身震いしたエピソード。
かなり陰惨で、ちょっと誰にでもお勧めというわけにはいかない感じがするが、強く印象に残ることは間違いない。
作中でも紹介されている通り、「生と死」「聖と魔」は表裏一体なところがある。
以前調べた明治期の女性教祖の家系でも、「呪力」の双貌を思わせる怪異譚がたくさんあった。
大本(教)開祖・出口なおの全生涯を描いた実録小説「大地の母」(出口和明)については、以前ブログで記事にしたことがある。
ある夏の記憶:出口和明「大地の母」のこと
魔女と神女は別のものではなく、同じ力の「右手と左手」なのだ。
■「二人のハルキ」
もう一人のハルキのフェードアウトに涙する。
幼い日の美しい夢、半ば物質化する「霊」の優しさ。
ゆっくり時間をかけた、家族ぐるみの悲嘆の受容。
■「蛇を殺すな。触るな。目も合わせるな。」
民俗信仰、神隠しなど古の世界が「現代」と混交する最終エピソード。
宇迦之御魂神と蛇神、女神の親和性を思いつつ、余韻に浸りながら、充実した読書体験を閉じる。
蛇と狐と女神
補足として、関連すると思われる図像をご紹介。
蛇神の姿の宇迦之御魂を頭上に頂いた「荼吉尼天曼荼羅」の中尊、そして「夜叉神」あるいは「三天神」「玉女」と呼ばれるもの。
笑う三面神
今回の川奈作品も、他者の怪異譚を読みながらも、自身の記憶が様々によみがえってくる一冊だった。
夏休みはそろそろ終わろうとしているが、この切なさの中でもう一冊の「少年奇譚」を開いてみようと思う。