昨夏、同時刊行された川奈まり子「少女奇譚」「少年奇譚」の二冊。
●「少女奇譚」「少年奇譚」川奈まり子(晶文社)
そのうち前者については以前
レビューを書いた。
もう一冊の「少年奇譚」の方もぼちぼち読み進め、年明けにようやく読了。
自分が「かつての少年」であったせいか、「少女奇譚」とは読んだ感触が全く違う。
怪異譚というより「ご近所冒険」というか、部室で友人の打ち明け話を聞いている感じというか。
かつての少年の語る奇譚は即ち、「おバカな男子のおバカな失敗談」である傾向が強くなる。
やっぱり少女よりかなりアホっぽいかなと思った。
もしかしたらこの作品における作者は、「男子のおバカな話を聞いてくれる女の先輩」的な位置になるのかもしれない。
前書きで触れられているけれども、男性の怪異体験が成人前に多いというのは、私自身の見聞からも首肯できる。
もう少し踏み込むなら、「彼女」ができて「友だち」の比重が軽くなるまで、という傾向はあるかもしれない。
以下に、いくつか語れるエピソードを挙げてみたい。
●「宝ヶ池のハク」
冒頭エピソードから、完全に心を持っていかれてしまった。
ふとしたきっかけで、大人になってから急に蘇ってくる古い記憶。
そこには今はもう会えなくなった友だちがいて、楽しい思い出と共に、切ない別れがあって。
そして今にして思うと、この世のものならぬ不思議があって。
私は元来、子供の頃の友だち、心の中の友だちに思い入れの強い人間なので、よけいに心惹かれるのかもしれないが、読後少し涙ぐんでしまった。
今回の「少年奇譚」を音楽のアルバムに見立てるならば、シングルカットされるのは「宝ヶ池のハク」、そしてB面は、このあと紹介する「僕の左に」になるだろうか。
記憶の中の古い友だちに対する郷愁が、そんな昭和のアナログ音楽の有り様を思い出させる。
最初のエピソードはそれだけ印象深く、この一冊のイメージを代表しており、読み進めるごとにここに立ち戻るような感覚がある。
●「僕の左に」
この本の基調のような「心の中の友だち」にまつわる切ないエピソード。
幼い子供の友情は、強固であると同時に意外にうつろいやすく、壊れやすい。
悪気なくやってしまった仕打ちが友だちを「置き去り」にし、取り返しのつかない結果に。
私はこの手のお話はいつも「置き去りにされた方」に感情移入してしまうのだが、この年になってみるとどちらが「置き去り」なのかは一概には言い切れない、とも思う。
治療のため、片目の視界が覆われたことで「異界」が見えてくる様も、元弱視児童の私にとって非常に興味深い。
そう言えば私も、幼児の頃は右目の視力がかなり低く、裸眼では見えていなかった。
その後のリハビリ中は、悪い方の右目の訓練のために見えている方の左眼をアイパッチで塞いでいた時期もあった。
色々思い当ってくるのである。
最初の修行1 最初の修行2 最初の修行3 最初の修行4●「上海トンネルのジョシュア」
児童虐待にまつわる怪異。
この年になってようやく、昔の経験に理解が追いつくことがある。
子供の頃の友だちに幾人か、程度の差はあれ「あれは虐待をうけていたのではないか」と思い至ることもある。
確かめようもないけれども、それぞれの人生を生きていてくれればいいなと、本当にそう思う。
●「玄の島」
少年の体験する怪異が「おバカな男子のおバカな失敗談」めいてくる典型のようなエピソード。
男子の失敗談には「オチンチンと糞尿」が付き物なのである(苦笑)
●「悲鳴の灯台」
和歌浦雑賀崎を舞台にした小編。
作中で描かれている通り、かつて賑わい、今は忘れられかけた観光地での怪異の断片。
私はこの場所に程近いある小さなビーチに、特別な思い入れがある。
私の中の少年と大人、心の中の友だちをつなぐ地である。
久々に連絡をとった中高生の頃の友だちに誘われ、不思議な祭に参加した90年代の手記。
月物語●「刀奇譚」
幼少の頃から自宅で不穏な気配や金縛りに遭遇してきた少年が、中高生になって武道を習い、鍛練のための模擬刀を手に入れてから、平穏を得るまでのお話し。
私にとって、かなり「わかる気がする」エピソードである。
私も幼少時から金縛りや悪夢、怪夢があり、また中学生の頃に心身の不安定を経験した。
金縛りと幽体離脱 これまでにも何度か書いてきたが、私は私立中高出身で、当時ですら時代錯誤の「虐待指導」を受けてきた。
入学したての中一の頃は、膨大な宿題を全部真面目にやろうとして、できないと殴られるのを避けるために、家の二階の窓から飛び降りて骨折くらいしてやろうかと思ったこともあった。
正直、かなりストレスで追い込まれていたと思う。
その時に心の安定に役立ったと思われるのが「剣道」だった。
それまでごく真面目で大人しい方だったのだけれども、中二くらいで凶暴さというか闘争心が急に強くなって、小学校時代からやっていた剣道が、その格好の捌け口になった。
ある時期から「ああ、俺はいざとなったら人の頭をカチ割れるのか」とわかってくると、暴力体育教師への恐怖がやや後退した。
武道で段位をとるというのは、「下手にキレたらヤバいな」という「自分に対する恐怖」が刻まれる一面があると思う。
相手への恐怖と自分への恐怖で相殺される分、多少は追い詰められなくなると言おうか。
それがなかったら、中学の時に潰れていたかもしれないし、最悪他者に矛先が向いていたかもしれない。
あくまで私自身のことではあるけれども、あの頃なんとなく感じていた「不穏な気配」は、自分の中の破壊衝動のようなものが部屋の壁や暗闇等に投影されていたのではないかと、今は思う。
自分の暴発を恐れる心が、「戈を止める」スキルである武道の鍛練で、ある程度鎮められたのではないかと思うのだ。
●「まあちゃん、行こっか」
●「祖母をすくう」
少年と祖父母の死にまつわるエピソード。
孫は祖父母に「死」を教わることが多い。
そして大好きだったおじいちゃん、おばあちゃんとの別れは、時に「この世のものならぬ」領域に踏み込む。
私は幼少時、両親が共働きだったので、昼間の時間帯を母方の祖母に見てもらっており、初孫でもあったので、つながりが深かった。
その祖母が亡くなったのは私に長男が生まれて一年ほど経った頃のこと。
体調を崩して入院中の祖母が「夢に〇〇と〇〇(私と長男の名)が出てきて、不思議そうな顔でこちらを見ていた」と、語ったという。
気になった私はその後見舞いに行ったが、もう意識ははっきりせず、話せずじまいになった。
今思うと、あれはたぶん「お別れの夢」だったのではないかと思う。
おばあちゃん子の私だったが、自分のことに手いっぱいでとくになんの恩返しもできないままになった。
亡くなる前年、ひ孫である上の子を抱かせてあげられて本当に良かったと思う。
【おやまのこもりうた】
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こちら(mp3ファイル/約5分30秒/10MB)ヘッドフォン推奨
川奈まり子 の実話奇譚を読むと、自分の過去の体験が「怪異」という切り口で次々に怪しく掘り返されて来るのを感じる。
明らかな怪異体験まで行かない紙一重であれば、誰でも日常的に遭遇しているのではないだろうか。
じわじわと読み進めながら思うところあり、自分の幼児の頃の原風景のスケッチを開始した。
原風景スケッチ1 原風景スケッチ2 そういう「振り返り」が促される一冊だった。