70年代後半の子供は、まだまだ外遊びが多かった。
様々な理由が考えられるが、やはり「ゲームがない」という要素が大きいはずだ。
コンピューターゲーム自体は存在したが、遊べるのは喫茶店など、子供には敷居の高い場所に限られており、TVにつなぐゲーム機もまだまだ数が少なかった。
初の小型携帯電子ゲーム「ゲームウォッチ」の発売が80年からで、子供の世界にゲームが進出してきたのはそれ以降、そして子供の家遊びが本格化したのは83年のファミコン発売以降ではないかと思う。
もっと根本的な要素としては、団塊ジュニア世代が就学年齢に達しつつあったことだろう。
やたらに子供が多く、家から出れば必ず誰か遊べる相手がいたのだ。
近所にもいたし、公園や駄菓子屋に行けば打率百パーセントだったので、学校から帰ったら「とりあえず外に出ようか」と言うことになった。
おやつを食べるのも外だし、なんならマンガやプラモも外だった。
駄菓子屋で安いプラモとかビッグワンガムとかを買って、そのまま公園で組み立てたりしていた。
都心部以外では、まだまだ身近に子供が遊べる自然が残っていたということもある。
同時代の人気マンガ「おれは鉄兵」「釣りキチ三平」の自然描写、冒険描写に、感情移入できる環境があったのだ。
当時私が住んでいた地域は都市部と郡部の中間ぐらいで、住宅地と田んぼがモザイク状になっていた。
ため池がたくさんあり、フナ、コイ、ライギョ、カエル、ザリガニ、水棲昆虫など、子供が好む淡水生物は一通りいた。
そこにブラックバスやブルーギルが無断放流され、釣りが一気に流行した時期だった。
ただ、バスやギルはまだそんなに数はいなくて、ルアー釣りが子供には難しかったこともあり、実際はそんなに楽しめなかった。
当時の私は釣りの上手い友達がいて、そいつはルアー釣りをちょっとバカにしていた。
低学年の頃から同じ組だったその「達人」によると、「ルアーは金がかかるわりに釣れないから、面白くない」という意見だった。
私は同じクラスのその「達人」に、釣りを一から教わった。
いきつけの駄菓子屋には釣り道具も置いてあって、竹竿と仕掛けで確か300円ぐらいからあった。
達人は100円の仕掛けセットを買い、竿には適当な木の枝を使い、エサはメリケン粉を水で練ったものを使用していたので、私もそれにならった。
達人に連れて行かれたのは、ため池から田んぼへ水を引くための幅2mほどの農業用水路で、さほどきれいな水ではなかったが、小鮒の魚影がたくさん見えた。
達人は私に糸の結び方や仕掛けのつけ方、小鮒のよくいそうな場所を伝授してくれた。
釣り糸を垂らすと、暗い水中にメリケン粉のエサが白くぼんやり浮かぶ。
達人は私に、エサをつつく黒い魚影とウキの動きをよく見比べろと教えた。
何度か様子見でつついた後、小鮒は一気にエサを吸い込むので、それに「アワセ」ろと教えた。
完全に飲み込んでからでは針が外しにくいし、無駄に殺してしまうことになると教えた。
ここでコツをつかめば、直接見えなくてもウキの動きだけで水中の様子が分かるようになると教えた。
用水路の小鮒釣りで基本を学んだ私は、確かに少しばかり釣りの腕が上がった。
それから達人と一緒にため池に繰り出し、流行りのルアーで一向に釣れない子供たちを尻目に、安物の仕掛けと木の枝で、フナを釣りまくった。
コイがかかった時にはさすがに木の枝が折れてバラしてしまい、リベンジを誓った私たちはお年玉などをためて釣具屋で竿やリールを購入。
その後、コイやライギョなど、「ご近所の大物」にトライするようになったのだった。
達人は釣りの他にも、凧作りの名人でもあった。
ゴミ袋と竹ひご、タコ糸、セロテープさえあれば、高価なゲイラカイトよりよほど飛ぶ凧が作れるのだ(笑)
流行りのゲイラカイトで苦戦する子供たちを尻目に、例によって達人はありあわせの材料で作った凧を、その場の気象条件に合わせて調整し、グングン飛ばして見せていた。
まさに「弘法筆を選ばず」という言葉を体現したような子供だったのだ。
もちろん私はその凧の作り方を教えてもらった。
当時の達人の「金をかけなくても手持ちのもので凄い成果を上げる」という姿がめちゃくちゃカッコよく見え、私は今でもどこか、そういうカッコよさを追い求めているところがあるのだ。
2020年07月11日
2020年07月12日
70年代後半、小学生の愛読書
私は70年代当時の子供として、放課後は外遊びが基本だったが、家で一人、マンガを読んだり絵を描いたり工作したり、プラモを作ったりするのも好きだった。
時代を「70年代後半」に限定すると、子供向けの娯楽の王様は、やっぱりマンガかアニメだったのではないかと思う。
ゲームは80年代に入ってからで、プラモもガンプラブーム以前なので「みんなやっている」というレベルではなかった。
当時の時代背景では、マンガやTVアニメ、特撮などの子供向けサブカルは、「男の子向け、女の子向け」の区分がはっきりしていたが、幼年から少年にさしかかった男子児童の私の見ていた風景の中では、「現役トップスター」のマンガ家は藤子不二雄、石森章太郎、永井豪、ちばてつやあたりになるだろうか。
中でも藤子不二雄(今思い返すと主にF先生)は、私が生まれてはじめて認識した「好きな作家」だった。
小学校に上がったばかりの頃、確か風邪で休んでいた時に、親が小学舘の学習雑誌「小学一年生」を買ってきてくれた。
そこではじめて「ドラえもん」を読み、ハマってしまったのだ。
確か付録の小冊子がドラえもん特集で、藤子不二雄先生が二人コンビであることや、ドラえもん創作秘話、鉛筆で下描きしてペン入れと言うマンガ絵の描き方や道具の解説があったと思う。
昔はサジペンとインクくらいはある家が多く、親に聞いて見るとうちにもたまたまあった。
さっそくドラえもんの模写を描いたのが私のマンガ絵の始まりだった。
とにかくドラえもんを描きまくった。
後のアニメの「ドラえもんえかきうた」が、子供心にちゃちに感じられるくらいに描いた。
キャラクターの「似顔絵」だけでなく、好きなエピソード丸写しなどもやった記憶がある。
今考えるとF先生の極上ネームのコピーは、もっとやっておけばよかった。
あの時周囲の大人の反応は「写してどうする」的にイマイチだった。(無理もないが)
歴史改変ができるなら、エピソード丸写しにしている小学生の自分に「すごい! もっとやれ!」「オリジナルとか後でいいから、好きなものを写せ!」と正しくアドバイスしてあげられるのだが、タイムマシンが無いのでかなわぬ夢想である(笑)
藤子不二雄作品は幼児の頃からアニメの「オバQ」で親しんでいたが、同時代のマンガ作品としてハマったのはドラえもんが初だった。
F先生A先生お二人であることは知っていたが、作品ごとの区別はついていなかった。
振り返ってみると、当時好きだったのはF先生のクールなSFテイストで、「ドラえもん」はSFショートショートとして楽しんでいたのだと思う。
A先生の良さが身に染みたのは、もっと大人になってからだった。
そうこうしているうちに、77年には「コロコロコミック」が創刊された。
当時は週刊少年マンガ誌の読者の年齢層が上がっており、幼年向けの「テレビマガジン」「テレビランド」の少し上、小学生をメインターゲットにしたマンガ雑誌が空白域になっていたのだ。
毎号「ドラえもん」掲載、他のマンガも満載で極厚ボリュームの「コロコロ」は、当時の小学生にとって夢のような雑誌だったが、完全に「マンガ」なので親に買ってもらえるかどうかは微妙だった。
その点では「小学〇年生」の方が、たとえマンガと付録が主目的でも「学習雑誌」という建前があったので、買ってもらいやすかった。
まだまだマンガは日陰者だったのだ。
読み捨ての雑誌よりは買ってもらいやすかったので、「ドラえもん」の単行本は、どこの家にも最低一冊はあったと思う。
とくにアニメ版本格スタート以前に、まずマンガで読み込んでいたケースでは影響が大きいはずだ。
ロジカルな展開を楽しみ、知らぬ間に「読解力」「論理的思考」の下地を築いた子供は、実はかなり多いのではないだろうか。
科学や文明に対し、素朴な憧憬とともに批判的な視点も持てたし、また「当たり前のように反戦」という要素も外せない。
藤子不二雄はごく初期から手塚治虫の流れを汲むSF作品を描いてきたが、私が「ドラえもん」と並行して大好きだったのが、マイナーながら傑作の「モジャ公」だった。
F先生の低年齢向けのとぼけたギャグ作風の中に、初期作から続く文明批評が存分に叩き込まれており、加えて仮想現実や終末カルトまでテーマに入っている。
宇宙に家出で、ずぼらで行き当たりばったりで、異文化交流で、それでも結構命がけの冒険で、「裏・ドラえもん」みたいなリミッターの外れ方が本当に素晴らしかった。
私は子供の頃から、マンガ家のそういう「裏」作品に惹かれるところがあり、「モジャ公」にハマったのは幸運だった。
後に、「終末カルト」というテーマと向き合わざるを得なくなったことから考えても、そう本当にそう思う。
時代を「70年代後半」に限定すると、子供向けの娯楽の王様は、やっぱりマンガかアニメだったのではないかと思う。
ゲームは80年代に入ってからで、プラモもガンプラブーム以前なので「みんなやっている」というレベルではなかった。
当時の時代背景では、マンガやTVアニメ、特撮などの子供向けサブカルは、「男の子向け、女の子向け」の区分がはっきりしていたが、幼年から少年にさしかかった男子児童の私の見ていた風景の中では、「現役トップスター」のマンガ家は藤子不二雄、石森章太郎、永井豪、ちばてつやあたりになるだろうか。
中でも藤子不二雄(今思い返すと主にF先生)は、私が生まれてはじめて認識した「好きな作家」だった。
小学校に上がったばかりの頃、確か風邪で休んでいた時に、親が小学舘の学習雑誌「小学一年生」を買ってきてくれた。
そこではじめて「ドラえもん」を読み、ハマってしまったのだ。
確か付録の小冊子がドラえもん特集で、藤子不二雄先生が二人コンビであることや、ドラえもん創作秘話、鉛筆で下描きしてペン入れと言うマンガ絵の描き方や道具の解説があったと思う。
昔はサジペンとインクくらいはある家が多く、親に聞いて見るとうちにもたまたまあった。
さっそくドラえもんの模写を描いたのが私のマンガ絵の始まりだった。
とにかくドラえもんを描きまくった。
後のアニメの「ドラえもんえかきうた」が、子供心にちゃちに感じられるくらいに描いた。
キャラクターの「似顔絵」だけでなく、好きなエピソード丸写しなどもやった記憶がある。
今考えるとF先生の極上ネームのコピーは、もっとやっておけばよかった。
あの時周囲の大人の反応は「写してどうする」的にイマイチだった。(無理もないが)
歴史改変ができるなら、エピソード丸写しにしている小学生の自分に「すごい! もっとやれ!」「オリジナルとか後でいいから、好きなものを写せ!」と正しくアドバイスしてあげられるのだが、タイムマシンが無いのでかなわぬ夢想である(笑)
藤子不二雄作品は幼児の頃からアニメの「オバQ」で親しんでいたが、同時代のマンガ作品としてハマったのはドラえもんが初だった。
F先生A先生お二人であることは知っていたが、作品ごとの区別はついていなかった。
振り返ってみると、当時好きだったのはF先生のクールなSFテイストで、「ドラえもん」はSFショートショートとして楽しんでいたのだと思う。
A先生の良さが身に染みたのは、もっと大人になってからだった。
そうこうしているうちに、77年には「コロコロコミック」が創刊された。
当時は週刊少年マンガ誌の読者の年齢層が上がっており、幼年向けの「テレビマガジン」「テレビランド」の少し上、小学生をメインターゲットにしたマンガ雑誌が空白域になっていたのだ。
毎号「ドラえもん」掲載、他のマンガも満載で極厚ボリュームの「コロコロ」は、当時の小学生にとって夢のような雑誌だったが、完全に「マンガ」なので親に買ってもらえるかどうかは微妙だった。
その点では「小学〇年生」の方が、たとえマンガと付録が主目的でも「学習雑誌」という建前があったので、買ってもらいやすかった。
まだまだマンガは日陰者だったのだ。
読み捨ての雑誌よりは買ってもらいやすかったので、「ドラえもん」の単行本は、どこの家にも最低一冊はあったと思う。
とくにアニメ版本格スタート以前に、まずマンガで読み込んでいたケースでは影響が大きいはずだ。
ロジカルな展開を楽しみ、知らぬ間に「読解力」「論理的思考」の下地を築いた子供は、実はかなり多いのではないだろうか。
科学や文明に対し、素朴な憧憬とともに批判的な視点も持てたし、また「当たり前のように反戦」という要素も外せない。
藤子不二雄はごく初期から手塚治虫の流れを汲むSF作品を描いてきたが、私が「ドラえもん」と並行して大好きだったのが、マイナーながら傑作の「モジャ公」だった。
F先生の低年齢向けのとぼけたギャグ作風の中に、初期作から続く文明批評が存分に叩き込まれており、加えて仮想現実や終末カルトまでテーマに入っている。
宇宙に家出で、ずぼらで行き当たりばったりで、異文化交流で、それでも結構命がけの冒険で、「裏・ドラえもん」みたいなリミッターの外れ方が本当に素晴らしかった。
私は子供の頃から、マンガ家のそういう「裏」作品に惹かれるところがあり、「モジャ公」にハマったのは幸運だった。
後に、「終末カルト」というテーマと向き合わざるを得なくなったことから考えても、そう本当にそう思う。
2020年07月18日
70年代後半、「学習マンガ」の隆盛
70年代後半だと、まだまだマンガに対する世間の評価は低かった。
いくら人気があってもあくまで「サブカルチャー」であり、美術や図工の教科書には決して載らず、授業課題でマンガっぽい絵を描こうものなら注意を受ける時代だった。
それでも当時の小学生の親世代がマンガ育ちなせいもあり、「OKなマンガ」という領域が生じつつあった。
手塚作品や藤子不二雄作品はけっこうOKで、「はだしのゲン」は学校図書室でも読めるマンガ、後は各種「学習マンガ」の類がOKだった。
これは世代を超えた共通の条件になると思うが、お小遣い頼みの小学生のサブカルは、「親の同意」という要素が常に付きまとう。
いくら子供がハマっても、スポンサーが出資してくれるものでなければ商品として売れないのだ。
そういう意味では「子供が読みたい」と「親が買ってくれる」領域がうまく重なったのが、「学習マンガ」というジャンルだったのだろう。
子供は意外と「科学」「宇宙」「生命」「進化」「歴史」みたいな大きなテーマが好きで、当時はそうしたテーマをわりときちんとした内容で扱うマンガの市場が形成された時期だった。
中でも72年スタートの「学研漫画ひみつシリーズ」は人気で、初期名作「宇宙のひみつ」「恐竜のひみつ」「昆虫のひみつ」あたりは今でもよく覚えている。
団塊ジュニア需要に後押しされた当時の学研の勢いは凄まじく、私の身の回りの「小学館の学習雑誌」読者は、学年が進むと共に「学研の科学と学習」に鞍替えするケースが多かった。
何と言っても付録の品質が段違いだった。
紙製ですぐ壊れる「小学〇年生」の付録に対し、「科学と学習」ではプラ製の、わりとしっかりした実験用具や模型などが毎号ついていた。
雑誌の内容もマンガも載っていたがかなり「勉強」よりで、スポンサーである親の納得が得られやすかったのではないかと思う。
付録では縄文土器の制作セットや遣唐使船の模型が記憶に残っていて、直販スタイルの「学研のおばさん」が毎月届けてくれるのが本当に楽しみだった。
学研では、図鑑シリーズも好きだった。
何冊か買ってもらっていたが、「大むかしの動物」「人とからだ」が特にお気に入りだった。
恐竜だけでなく古生物全般を、時代の流れとともにパノラマで紹介した「大むかしの動物」は、今思うと絵がブリアン等のパクりだったと思うが、当時は図像の引用にはまだまだ寛容(またはルーズ)な時代だった。
過去の優れた図像を踏襲するのは「博物画」というジャンルの伝統でもあるので、今の感覚とは分けて考えた方が良いと思う。
もう一つの「人とからだ」の方も、写真、イラスト共に面白いものが満載だった。
まるで宇宙船のメカニックのように精緻な眼球や内蔵の断面図や、荒野に立つ血管だけで描かれた男性像、足元にはゼリーのような血球が転がっている迫力満点のイラストに、二才下の弟とともに興奮しながらページをくっていたのを思い出す。
それが生ョ範義の筆によるものと知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
両親が共産党支持だったので、赤旗日曜版と提携していた「少年少女新聞」掲載の、井尻正二/伊藤章夫「科学まんがシリーズ」もよく読んでいた。
古生物や生物の体の仕組みを扱った「いばるな恐竜ぼくの孫」「先祖をたずねて億万年」「ぼくには毛もあるヘソもある」「キネズミさんからヒトがでる」「ドクターカックは大博士」等、当時の私の趣味にぴったりだった。
これらのマンガを読み込んでいたおかげで、私は大学入試に至るまで生物の授業で苦労せずに済んだ(笑)
少し下って80年代初頭には、小学館「少年少女日本の歴史」、赤塚不二夫「ニャロメのおもしろ数学教室」(シリーズ化)が刊行され、私の世代は随分楽に勉強できる環境があったのではないかと思う。
同時代では民放TVアニメでも「親と子供の利害が一致」していた番組があった。
75年放映開始の「まんが日本昔ばなし」と「世界名作劇場」である。
名作劇場で私たちの中で連続性があるのは、74年の「アルプスの少女ハイジ」以降、「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」「あらいぐまラスカル」「ペリーヌ物語」「赤毛のアン」、そして80年の「トム・ソーヤーの冒険」以後も長くシリーズは続いた。
私も含め、これらのTVアニメを間口にしてオーソドックスな読書の魅力を知った子供は多数にのぼるだろう。
こうした恵まれたサブカル環境は、当時の作り手の志の高さももちろんあるが、つまるところは「団塊ジュニア需要」に支えられていたのだと思う。
いくら人気があってもあくまで「サブカルチャー」であり、美術や図工の教科書には決して載らず、授業課題でマンガっぽい絵を描こうものなら注意を受ける時代だった。
それでも当時の小学生の親世代がマンガ育ちなせいもあり、「OKなマンガ」という領域が生じつつあった。
手塚作品や藤子不二雄作品はけっこうOKで、「はだしのゲン」は学校図書室でも読めるマンガ、後は各種「学習マンガ」の類がOKだった。
これは世代を超えた共通の条件になると思うが、お小遣い頼みの小学生のサブカルは、「親の同意」という要素が常に付きまとう。
いくら子供がハマっても、スポンサーが出資してくれるものでなければ商品として売れないのだ。
そういう意味では「子供が読みたい」と「親が買ってくれる」領域がうまく重なったのが、「学習マンガ」というジャンルだったのだろう。
子供は意外と「科学」「宇宙」「生命」「進化」「歴史」みたいな大きなテーマが好きで、当時はそうしたテーマをわりときちんとした内容で扱うマンガの市場が形成された時期だった。
中でも72年スタートの「学研漫画ひみつシリーズ」は人気で、初期名作「宇宙のひみつ」「恐竜のひみつ」「昆虫のひみつ」あたりは今でもよく覚えている。
団塊ジュニア需要に後押しされた当時の学研の勢いは凄まじく、私の身の回りの「小学館の学習雑誌」読者は、学年が進むと共に「学研の科学と学習」に鞍替えするケースが多かった。
何と言っても付録の品質が段違いだった。
紙製ですぐ壊れる「小学〇年生」の付録に対し、「科学と学習」ではプラ製の、わりとしっかりした実験用具や模型などが毎号ついていた。
雑誌の内容もマンガも載っていたがかなり「勉強」よりで、スポンサーである親の納得が得られやすかったのではないかと思う。
付録では縄文土器の制作セットや遣唐使船の模型が記憶に残っていて、直販スタイルの「学研のおばさん」が毎月届けてくれるのが本当に楽しみだった。
学研では、図鑑シリーズも好きだった。
何冊か買ってもらっていたが、「大むかしの動物」「人とからだ」が特にお気に入りだった。
恐竜だけでなく古生物全般を、時代の流れとともにパノラマで紹介した「大むかしの動物」は、今思うと絵がブリアン等のパクりだったと思うが、当時は図像の引用にはまだまだ寛容(またはルーズ)な時代だった。
過去の優れた図像を踏襲するのは「博物画」というジャンルの伝統でもあるので、今の感覚とは分けて考えた方が良いと思う。
もう一つの「人とからだ」の方も、写真、イラスト共に面白いものが満載だった。
まるで宇宙船のメカニックのように精緻な眼球や内蔵の断面図や、荒野に立つ血管だけで描かれた男性像、足元にはゼリーのような血球が転がっている迫力満点のイラストに、二才下の弟とともに興奮しながらページをくっていたのを思い出す。
それが生ョ範義の筆によるものと知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
両親が共産党支持だったので、赤旗日曜版と提携していた「少年少女新聞」掲載の、井尻正二/伊藤章夫「科学まんがシリーズ」もよく読んでいた。
古生物や生物の体の仕組みを扱った「いばるな恐竜ぼくの孫」「先祖をたずねて億万年」「ぼくには毛もあるヘソもある」「キネズミさんからヒトがでる」「ドクターカックは大博士」等、当時の私の趣味にぴったりだった。
これらのマンガを読み込んでいたおかげで、私は大学入試に至るまで生物の授業で苦労せずに済んだ(笑)
少し下って80年代初頭には、小学館「少年少女日本の歴史」、赤塚不二夫「ニャロメのおもしろ数学教室」(シリーズ化)が刊行され、私の世代は随分楽に勉強できる環境があったのではないかと思う。
同時代では民放TVアニメでも「親と子供の利害が一致」していた番組があった。
75年放映開始の「まんが日本昔ばなし」と「世界名作劇場」である。
名作劇場で私たちの中で連続性があるのは、74年の「アルプスの少女ハイジ」以降、「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」「あらいぐまラスカル」「ペリーヌ物語」「赤毛のアン」、そして80年の「トム・ソーヤーの冒険」以後も長くシリーズは続いた。
私も含め、これらのTVアニメを間口にしてオーソドックスな読書の魅力を知った子供は多数にのぼるだろう。
こうした恵まれたサブカル環境は、当時の作り手の志の高さももちろんあるが、つまるところは「団塊ジュニア需要」に支えられていたのだと思う。
2020年07月20日
70年代後半、60年代レジェンドの再生
60年代の子供向けサブカルを牽引し、その後も精力的な活動を続けたマンガ家ビッグスリーを挙げるとすれば、手塚治虫、横山光輝、水木しげるあたりになるかと思う。
70年代後半の小学生である私たちにとっては「レジェンド枠」で、自分たちが等身大で楽しむマンガ家先生の「そのまた先生」という感じだった。
既に評価の定まった古典として読んでおり、実際その当時「ビッグスリー」はそうした風格漂う作品を世に送り出していた。
【水木しげる】
60年代末、年齢的には遅咲きながら「ゲゲゲの鬼太郎」で妖怪ブームを巻き起こした水木しげるは、70年代後半には「字の本」をたくさん出し始めていた。
本の売り方としては鬼太郎に登場する妖怪や、世界観を紹介する図鑑と言う体裁をとっていたが、今思うと民俗学、人類学、博物学の、子供向けの手加減抜きの入門書になっていた。
マンガではなく「字の本」なので買ってもらいやすく、膨大な民族資料や図像、書籍を蒐集し、それを下敷きに新たに描き起こした精密なペン画イラストの数々には、小学生の目にも「本物」の迫力が感じられた。
マンガで使用する画材で、ここまでリアルに写実的に描けるのかという感動があったのだ。
●「妖怪世界編入門」
●「妖怪百物語」
●「鬼太郎なんでも入門」
●「妖怪なんでも入門」
【横山光輝】
70年代後半の横山光輝は、「マーズ」「時の行者」等でSFをやりつくし、じわじわと歴史モノ古典のマンガ訳にシフトしていく移行期だった。
それまでにも忍者モノ等で時代劇は描いていたが、67年「水滸伝」あたりを発端とし、72年「三国志」の途中から路線変更。
本来なら前半部のクライマックスにあたるはずの「官渡の戦い」がダイジェストで飛ばされたあたりで、はっきり作風が転換し、80年代以降は中国古典の絵解きが中心になっていく。
横山「三国志」を小学生の頃から読み込んでいたおかげで、以後の私は大学受験に至るまで、漢文で苦労することはなくなった。
作中で繰り返し描写される故事や、人々のものの考え方、中国文化のエッセンスのようなものを、長い長いマンガを繰り返し読むことで自然に身に付けられていたのだと思う。
【手塚治虫】
70年代後半の手塚治虫は「再起」の渦中にあった。
60年代末〜70年代初頭のスポ根モノの全盛期、子ども向けマンガの最前線からは後退、会社の倒産などの不遇から、ようやく復活しつつあったのだ。
72年〜「ブッダ」
73年〜「ブラックジャック」
74年〜「三つ目がとおる」
76年〜「火の鳥」再開
今から振り返ると、リアルタイムの人気はともかく、質的には黄金時代ではないかとすら思える。
絵的にも初期のシンプルなマンガ絵に、劇画の作画密度を無理なく組み込んだ、刺激に満ちた代表作揃いである。
当時の私にとっては敬愛する藤子不二雄の、そのまた先生にあたるレジェンドで、内容的には「少し背伸びして読む」感じだった。
少年誌で連載中だった「ブラックジャック」「三つ目がとおる」の単行本が、「ちょっと怖いけど面白い」という評判で友人の間で回し読みされていたのを覚えている。
うちの場合は、「リボンの騎士」育ちの母親が、おそらく自分で読みたくて買った「ブッダ」「火の鳥」大判の単行本を、私と弟も小学校低学年の頃から読んでいた。
父方が僧侶だったので幼い頃から仏教的なものの観方には関心があったのだが、この二作品はそうした興味に応えてくれる世界観に思えた。
輪廻、因果応報、宇宙、永遠、時空、生命……
難しい言葉や漢字は飛ばしながらだったが、手塚治虫の超絶作画とストーリーにより、今振り返ってもかなり正確に読解していたと思う。
当時うちにあった「ブッダ」は、初期の数巻だったと記憶している。
シッダルタの誕生前から幼少期、少年期から出家に向けて、まだ悟りを開く前の悩める王子のイメージが強かった。
ブッダとして悟りを開いて以降は、完結に向けて徐々に穏やかな描線、物語になっていくのだが、初期はかなりエモーショナルな作劇だった時期で、低学年の子供にとってはかなり強烈な読書体験になった。
連作形式の「火の鳥」の方は、各巻のエピソードごとに大袈裟ではなく宇宙が始まって終わっていくようなカタルシスがあり、当時私が読んでいたマンガの中でも何か特別な感じのする作品だった。
最初の「黎明編」と次の「未来編」で、歴史の始まりと終わりの時間軸が円環する構造で、「未来編」では宇宙の極大と極小の空間的な円環も描かれていた。
――個別の生命の輪廻と宇宙の輪廻が円環し、火の鳥は全にして一である「コスモゾーン」のモバイル端末……
そんな壮大な宇宙観を、絵と物語で小さな子供にも感覚的に伝えてしまうのが、「マンガの神様」手塚治虫の凄みだったのだろう。
SFである「火の鳥」で描かれる輪廻は、伝統宗教の「先祖の因縁」「親の因果が子に報い」とはちょっと違うイメージで描かれていた。
何に生まれ変わるかは善悪のカルマとは無関係で、今思うと科学的な物質の循環に近いイメージで設定されていて、子供の頃はそれがとても理不尽で恐ろしく感じた。
この時期感じた理不尽さ、割り切れなさは子供心に強く印象に残り、私は以後もずっと「輪廻転生」について考えるようになった。
70年代後半の小学生である私たちにとっては「レジェンド枠」で、自分たちが等身大で楽しむマンガ家先生の「そのまた先生」という感じだった。
既に評価の定まった古典として読んでおり、実際その当時「ビッグスリー」はそうした風格漂う作品を世に送り出していた。
【水木しげる】
60年代末、年齢的には遅咲きながら「ゲゲゲの鬼太郎」で妖怪ブームを巻き起こした水木しげるは、70年代後半には「字の本」をたくさん出し始めていた。
本の売り方としては鬼太郎に登場する妖怪や、世界観を紹介する図鑑と言う体裁をとっていたが、今思うと民俗学、人類学、博物学の、子供向けの手加減抜きの入門書になっていた。
マンガではなく「字の本」なので買ってもらいやすく、膨大な民族資料や図像、書籍を蒐集し、それを下敷きに新たに描き起こした精密なペン画イラストの数々には、小学生の目にも「本物」の迫力が感じられた。
マンガで使用する画材で、ここまでリアルに写実的に描けるのかという感動があったのだ。
●「妖怪世界編入門」
●「妖怪百物語」
●「鬼太郎なんでも入門」
●「妖怪なんでも入門」
【横山光輝】
70年代後半の横山光輝は、「マーズ」「時の行者」等でSFをやりつくし、じわじわと歴史モノ古典のマンガ訳にシフトしていく移行期だった。
それまでにも忍者モノ等で時代劇は描いていたが、67年「水滸伝」あたりを発端とし、72年「三国志」の途中から路線変更。
本来なら前半部のクライマックスにあたるはずの「官渡の戦い」がダイジェストで飛ばされたあたりで、はっきり作風が転換し、80年代以降は中国古典の絵解きが中心になっていく。
横山「三国志」を小学生の頃から読み込んでいたおかげで、以後の私は大学受験に至るまで、漢文で苦労することはなくなった。
作中で繰り返し描写される故事や、人々のものの考え方、中国文化のエッセンスのようなものを、長い長いマンガを繰り返し読むことで自然に身に付けられていたのだと思う。
【手塚治虫】
70年代後半の手塚治虫は「再起」の渦中にあった。
60年代末〜70年代初頭のスポ根モノの全盛期、子ども向けマンガの最前線からは後退、会社の倒産などの不遇から、ようやく復活しつつあったのだ。
72年〜「ブッダ」
73年〜「ブラックジャック」
74年〜「三つ目がとおる」
76年〜「火の鳥」再開
今から振り返ると、リアルタイムの人気はともかく、質的には黄金時代ではないかとすら思える。
絵的にも初期のシンプルなマンガ絵に、劇画の作画密度を無理なく組み込んだ、刺激に満ちた代表作揃いである。
当時の私にとっては敬愛する藤子不二雄の、そのまた先生にあたるレジェンドで、内容的には「少し背伸びして読む」感じだった。
少年誌で連載中だった「ブラックジャック」「三つ目がとおる」の単行本が、「ちょっと怖いけど面白い」という評判で友人の間で回し読みされていたのを覚えている。
うちの場合は、「リボンの騎士」育ちの母親が、おそらく自分で読みたくて買った「ブッダ」「火の鳥」大判の単行本を、私と弟も小学校低学年の頃から読んでいた。
父方が僧侶だったので幼い頃から仏教的なものの観方には関心があったのだが、この二作品はそうした興味に応えてくれる世界観に思えた。
輪廻、因果応報、宇宙、永遠、時空、生命……
難しい言葉や漢字は飛ばしながらだったが、手塚治虫の超絶作画とストーリーにより、今振り返ってもかなり正確に読解していたと思う。
当時うちにあった「ブッダ」は、初期の数巻だったと記憶している。
シッダルタの誕生前から幼少期、少年期から出家に向けて、まだ悟りを開く前の悩める王子のイメージが強かった。
ブッダとして悟りを開いて以降は、完結に向けて徐々に穏やかな描線、物語になっていくのだが、初期はかなりエモーショナルな作劇だった時期で、低学年の子供にとってはかなり強烈な読書体験になった。
連作形式の「火の鳥」の方は、各巻のエピソードごとに大袈裟ではなく宇宙が始まって終わっていくようなカタルシスがあり、当時私が読んでいたマンガの中でも何か特別な感じのする作品だった。
最初の「黎明編」と次の「未来編」で、歴史の始まりと終わりの時間軸が円環する構造で、「未来編」では宇宙の極大と極小の空間的な円環も描かれていた。
――個別の生命の輪廻と宇宙の輪廻が円環し、火の鳥は全にして一である「コスモゾーン」のモバイル端末……
そんな壮大な宇宙観を、絵と物語で小さな子供にも感覚的に伝えてしまうのが、「マンガの神様」手塚治虫の凄みだったのだろう。
SFである「火の鳥」で描かれる輪廻は、伝統宗教の「先祖の因縁」「親の因果が子に報い」とはちょっと違うイメージで描かれていた。
何に生まれ変わるかは善悪のカルマとは無関係で、今思うと科学的な物質の循環に近いイメージで設定されていて、子供の頃はそれがとても理不尽で恐ろしく感じた。
この時期感じた理不尽さ、割り切れなさは子供心に強く印象に残り、私は以後もずっと「輪廻転生」について考えるようになった。
2020年07月23日
70年代オカルト、虚実の狭間の世界
私が子供時代を過ごした70年代後半から80年代初頭にかけては、TVのオカルト番組の盛り上がりが一つのピークだったのではないかと思う。
ただ、幼児期を過ぎ、番組内容を理解できるようになったその頃には、微妙に「超能力ブーム」は終息しつつあった。
スプーン曲げブーム直撃は、私たちの学年より少々上の「ちびまる子ちゃん」さくらももこ世代だろうけれども、他のテーマはまだまだ健在だった。
超能力、心霊現象、UMA(未確認生物)、UFO(未確認飛行物体)など、毎日のように取り上げられており、とくに長尺の特番は夏に放映される機会が多かった。
夏と言えば「怪談」というのは定番中の定番。
心霊に限らず、超常現象は全般に「怖さ」というジャンルの一つとして紹介されていたのだろう。
TV番組やイベントでは、夏の定番の範疇になぜか「恐竜」まで含まれていたりするが、これは「怖さ」というより「縁日」「見世物小屋」というジャンルで解釈すれば納得できる。
UFO番組で、浮遊しながら降下してきた異星人が生きた牛の臓物をホース状の装置で吸引する再現映像にショックを受け、夏の夜に窓を開けて寝るのがとても怖かった記憶がある。
当時はまだエアコンは普及しておらず、夏の夜は窓を開け、網戸で涼をとるのが普通だった。
UFO番組を視た後で布団に入り、電灯を消すと、施錠していない窓からホースを抱えた宇宙人がフワフワ入って来そうな気がして、ものすごく怖かったものだ。
他にも、怖さは控えめで楽しめたのが、洞窟に潜入する冒険モノや、謎の生物を捜索する未確認生物モノだった。
76年スタートの「水曜スペシャル」では、世界各地の秘境や未確認生物を探索して回る「川口浩探検隊」シリーズが人気で、大好きだった私は毎回必ずチェックしていた。
今振り返ると、川口浩探検隊シリーズは正しく「縁日」や「見世物小屋」の世界を継承したTV番組だった。
予告やプロローグで煽りに煽り、もったいぶった構成で引っ張りに引っ張るのだが、肝心の「モノ」は最後まで見せないことが多かった。
いきなり毒蛇が落下してきたリ、洞窟に白骨が散らばっている画面が頻出するのは、子供心にもちょっと疑問だったが、まだ「シコミ」という言葉は知らなかった。
「この探検隊は、けっこうアヤシイな……」
はっきりそう認識したのは、たぶん小学校高学年の頃のことで、「猿人バーゴン」を探索に出かけた回のことだったはずだ。
以下、当時の記憶を元に端折って紹介してみよう。
ジャングルの中で目撃された謎の猿人を捕獲するため、探検隊はいつもの如く長尺の冒険を経た後、ついにバーゴン(?)を捕獲する。
ボロボロの服を着た蓬髪髭面の男が、罠にかかったまま奇声を上げながら探検隊を威嚇するが、到着したヘリに乗せられ飛び立っていく。
静かな表情で見送る川口隊長。
私はTV画面を呆然と見つめながら、心の中で叫んでいた。
(猿人ちゃうやん! 完全におっさんやん!)
古生物マニアでもあった当時の私にとって、「猿人」の概念はけっこう厳密だったのだ。
翌日からはしばらく、友人や二つ下の弟と共に、やけくそ気味の「猿人バーゴンごっこ」に興じた覚えがある。
小学校時代の何かの文集に猿人バーゴンネタを書いたような気もするが、どうせろくでもないアホな文章であろうから、実家で発掘などはしないでおく。
この「猿人バーゴン」回、当時の多くの子供の心に衝撃を与えた回であったらしく、ネットで検索してみると多くの「思い出話」がヒットする(笑)
誰もがどこかの時点、何らかのきっかけで、オカルト番組の「仕掛け」に気付く瞬間があるものだが、「川口浩探検隊」がそのきっかけになったケースはかなり多いのではないだろうか。
私の場合は他にも、小学校の校門前に物を売りに来るおっさんや、縁日の店先の「当てもん」の類で小遣い銭を巻き上げられたりしながら、ウソとマコト、世の中の仕組みについて、色々学ぶところはあった。
子供の遊びで済む段階、小遣い銭で済む段階で、軽く騙したり騙されたりしておくことも、人生においては必要なことなのではないかと思うのである。
60年代で既に一周回っていた子供向けマンガやアニメ等のサブカル作品は、70年代に入ると絵や表現にもう一段進んだ「リアル志向」を加えて進化しようとしていた。
ボクシングマンガで言えば「あしたのジョー」から「がんばれ元気」へ、プロレス・格闘技マンガで言えば「タイガーマスク」から「空手バカ一代」「プロレススーパースター列伝」へ。
現実の世界でも72年発足の新日本プロレスは「最強」「キングオブスポーツ」を前面に打ち出し、70年代後半からは異種格闘技戦に乗り出すようになった。
世の中には「虚実の狭間を読む楽しみ」というものがあり、オカルトやプロレスはその最たるものだ。
それは、「完全なリアル」ではない。
それは、「完全なフィクション」でもない。
全肯定と全否定の間にグラデーションがあり、結論が出ないことに面白さがある。
本で言えば「実話」「実録」系がそれにあたり、多くの場合それは「怖い本」だった。
現在なら怖さの種別にホラー、サスペンス、オカルトなど細かく嗜好が分かれたりすると思うが、80年代以前の時点では、まださほど明確なジャンル分けではなかったと記憶している。
これは「怖い本」に限らないが、虚実の匙加減で言えば、以下のような段階が考えられるだろう。
1、純然たるフィクション。
2、実際の出来事や体験を元にしながら、あくまでフィクションとして描かれた作品。
3、実録と称したフィクション。
4、実録の体裁で、一部フィクションも交えた作品。
5、純然たる実録。
オカルトテーマを論じる時、この「匙加減」がけっこう問題になる。
たとえばスプーン曲げなどの超能力ネタで言えば、90年代以降に活躍したミスターマリックの「超魔術」は、1〜2の「フィクション」の分類になるだろう。
表現形態は超能力っぽく見える演目だが、演者自身も観客も完全に「トリックである」という前提で楽しんでいるはずだ。
70年代のスプーン曲げブームの立役者であるユリ・ゲラーは、3の「トリックを超能力として客に見せた」ケースであったことが、既に明らかになっている。
その「商売の手法」を、エンタメの範囲内として許容できるかどうかで、評価は分かれるだろう。
日本におけるスプーン曲げの第一人者であるKさんの場合は、ちょっと微妙なものを含んでいる。
私は一度だけ、とある機会に至近距離で「スプーン折り」を見、お話を聞かせていただいたことがある。
その時の印象や、以下の本の詳細な取材を読んでみたところでは、おそらくKさんご自身の意識としては、「トリックでスプーン曲げをやってはいない」ということだろうと思う。
●「職業欄はエスパー」森達也(角川文庫)
少年時代の過酷なTV番組収録の中で、トリックを使ってしまったことがあるのはご本人も認めておられる事実だが、決してそれ「だけ」ではなさそうだ。
ただ、本人の意識ではトリックでやっていないその現象には、「超能力」以外の物理学の範囲内の解釈もあり得るはずで、先の分類の「5、純然たる実録」と言い切るには、ややためらいがある。
話を「怖い本」に戻すと、このジャンルには「3、実録と称したフィクション」がけっこう多い。
一応実話を元にしていても、恐怖感を煽るためにかなり脚色し、ほとんどフィクションと化すことは多々ある。
また、不出来なフィクションに手っ取り早くリアリティを付加する手段として「実録詐称」することもある。
その場合は、とくにヤマもオチもないような地味な展開が、逆にリアルに見えたりしてくるものだ。
その場で楽しんだらおしまいのエンタメであれば、こうした「詐称」にも罪はない。
しかし、霊感商法やカルト宗教の勧誘手段に使われると「悪質」ということになる。
ただ、幼児期を過ぎ、番組内容を理解できるようになったその頃には、微妙に「超能力ブーム」は終息しつつあった。
スプーン曲げブーム直撃は、私たちの学年より少々上の「ちびまる子ちゃん」さくらももこ世代だろうけれども、他のテーマはまだまだ健在だった。
超能力、心霊現象、UMA(未確認生物)、UFO(未確認飛行物体)など、毎日のように取り上げられており、とくに長尺の特番は夏に放映される機会が多かった。
夏と言えば「怪談」というのは定番中の定番。
心霊に限らず、超常現象は全般に「怖さ」というジャンルの一つとして紹介されていたのだろう。
TV番組やイベントでは、夏の定番の範疇になぜか「恐竜」まで含まれていたりするが、これは「怖さ」というより「縁日」「見世物小屋」というジャンルで解釈すれば納得できる。
UFO番組で、浮遊しながら降下してきた異星人が生きた牛の臓物をホース状の装置で吸引する再現映像にショックを受け、夏の夜に窓を開けて寝るのがとても怖かった記憶がある。
当時はまだエアコンは普及しておらず、夏の夜は窓を開け、網戸で涼をとるのが普通だった。
UFO番組を視た後で布団に入り、電灯を消すと、施錠していない窓からホースを抱えた宇宙人がフワフワ入って来そうな気がして、ものすごく怖かったものだ。
他にも、怖さは控えめで楽しめたのが、洞窟に潜入する冒険モノや、謎の生物を捜索する未確認生物モノだった。
76年スタートの「水曜スペシャル」では、世界各地の秘境や未確認生物を探索して回る「川口浩探検隊」シリーズが人気で、大好きだった私は毎回必ずチェックしていた。
今振り返ると、川口浩探検隊シリーズは正しく「縁日」や「見世物小屋」の世界を継承したTV番組だった。
予告やプロローグで煽りに煽り、もったいぶった構成で引っ張りに引っ張るのだが、肝心の「モノ」は最後まで見せないことが多かった。
いきなり毒蛇が落下してきたリ、洞窟に白骨が散らばっている画面が頻出するのは、子供心にもちょっと疑問だったが、まだ「シコミ」という言葉は知らなかった。
「この探検隊は、けっこうアヤシイな……」
はっきりそう認識したのは、たぶん小学校高学年の頃のことで、「猿人バーゴン」を探索に出かけた回のことだったはずだ。
以下、当時の記憶を元に端折って紹介してみよう。
ジャングルの中で目撃された謎の猿人を捕獲するため、探検隊はいつもの如く長尺の冒険を経た後、ついにバーゴン(?)を捕獲する。
ボロボロの服を着た蓬髪髭面の男が、罠にかかったまま奇声を上げながら探検隊を威嚇するが、到着したヘリに乗せられ飛び立っていく。
静かな表情で見送る川口隊長。
私はTV画面を呆然と見つめながら、心の中で叫んでいた。
(猿人ちゃうやん! 完全におっさんやん!)
古生物マニアでもあった当時の私にとって、「猿人」の概念はけっこう厳密だったのだ。
翌日からはしばらく、友人や二つ下の弟と共に、やけくそ気味の「猿人バーゴンごっこ」に興じた覚えがある。
小学校時代の何かの文集に猿人バーゴンネタを書いたような気もするが、どうせろくでもないアホな文章であろうから、実家で発掘などはしないでおく。
この「猿人バーゴン」回、当時の多くの子供の心に衝撃を与えた回であったらしく、ネットで検索してみると多くの「思い出話」がヒットする(笑)
誰もがどこかの時点、何らかのきっかけで、オカルト番組の「仕掛け」に気付く瞬間があるものだが、「川口浩探検隊」がそのきっかけになったケースはかなり多いのではないだろうか。
私の場合は他にも、小学校の校門前に物を売りに来るおっさんや、縁日の店先の「当てもん」の類で小遣い銭を巻き上げられたりしながら、ウソとマコト、世の中の仕組みについて、色々学ぶところはあった。
子供の遊びで済む段階、小遣い銭で済む段階で、軽く騙したり騙されたりしておくことも、人生においては必要なことなのではないかと思うのである。
60年代で既に一周回っていた子供向けマンガやアニメ等のサブカル作品は、70年代に入ると絵や表現にもう一段進んだ「リアル志向」を加えて進化しようとしていた。
ボクシングマンガで言えば「あしたのジョー」から「がんばれ元気」へ、プロレス・格闘技マンガで言えば「タイガーマスク」から「空手バカ一代」「プロレススーパースター列伝」へ。
現実の世界でも72年発足の新日本プロレスは「最強」「キングオブスポーツ」を前面に打ち出し、70年代後半からは異種格闘技戦に乗り出すようになった。
世の中には「虚実の狭間を読む楽しみ」というものがあり、オカルトやプロレスはその最たるものだ。
それは、「完全なリアル」ではない。
それは、「完全なフィクション」でもない。
全肯定と全否定の間にグラデーションがあり、結論が出ないことに面白さがある。
本で言えば「実話」「実録」系がそれにあたり、多くの場合それは「怖い本」だった。
現在なら怖さの種別にホラー、サスペンス、オカルトなど細かく嗜好が分かれたりすると思うが、80年代以前の時点では、まださほど明確なジャンル分けではなかったと記憶している。
これは「怖い本」に限らないが、虚実の匙加減で言えば、以下のような段階が考えられるだろう。
1、純然たるフィクション。
2、実際の出来事や体験を元にしながら、あくまでフィクションとして描かれた作品。
3、実録と称したフィクション。
4、実録の体裁で、一部フィクションも交えた作品。
5、純然たる実録。
オカルトテーマを論じる時、この「匙加減」がけっこう問題になる。
たとえばスプーン曲げなどの超能力ネタで言えば、90年代以降に活躍したミスターマリックの「超魔術」は、1〜2の「フィクション」の分類になるだろう。
表現形態は超能力っぽく見える演目だが、演者自身も観客も完全に「トリックである」という前提で楽しんでいるはずだ。
70年代のスプーン曲げブームの立役者であるユリ・ゲラーは、3の「トリックを超能力として客に見せた」ケースであったことが、既に明らかになっている。
その「商売の手法」を、エンタメの範囲内として許容できるかどうかで、評価は分かれるだろう。
日本におけるスプーン曲げの第一人者であるKさんの場合は、ちょっと微妙なものを含んでいる。
私は一度だけ、とある機会に至近距離で「スプーン折り」を見、お話を聞かせていただいたことがある。
その時の印象や、以下の本の詳細な取材を読んでみたところでは、おそらくKさんご自身の意識としては、「トリックでスプーン曲げをやってはいない」ということだろうと思う。
●「職業欄はエスパー」森達也(角川文庫)
少年時代の過酷なTV番組収録の中で、トリックを使ってしまったことがあるのはご本人も認めておられる事実だが、決してそれ「だけ」ではなさそうだ。
ただ、本人の意識ではトリックでやっていないその現象には、「超能力」以外の物理学の範囲内の解釈もあり得るはずで、先の分類の「5、純然たる実録」と言い切るには、ややためらいがある。
話を「怖い本」に戻すと、このジャンルには「3、実録と称したフィクション」がけっこう多い。
一応実話を元にしていても、恐怖感を煽るためにかなり脚色し、ほとんどフィクションと化すことは多々ある。
また、不出来なフィクションに手っ取り早くリアリティを付加する手段として「実録詐称」することもある。
その場合は、とくにヤマもオチもないような地味な展開が、逆にリアルに見えたりしてくるものだ。
その場で楽しんだらおしまいのエンタメであれば、こうした「詐称」にも罪はない。
しかし、霊感商法やカルト宗教の勧誘手段に使われると「悪質」ということになる。
2020年07月24日
70年代オカルト、サブカル死生観
超能力やUFO、UMA、そしてプロレスや格闘技等のジャンルに比して、心霊現象を取り扱うオカルト番組は、宗教とも領域が重なるので「危うさ」が漂う。
72年からワイドショーの一コーナーでスタートした「あなたの知らない世界」は、視聴者の恐怖体験を再現ドラマで紹介するが人気で、これも夏休みになると連日放映されていた。
わざわざ夏休みにまとめて放映するのは、完全に子供ウケをねらってのことだったのだろう。
その頃の心霊番組で今でもよく覚えているのは、ある「除霊」の映像。
再現ドラマではなく、実録の体裁で撮影されたものだった。
年配の女性に「蛇の霊が憑いている」という触れ込みで、祭壇を前にしたお坊さん(?)が経文を唱えると、その女性が苦しみだす。
両手を身体の前でつぼみのような形に合わせ、くねらせながら呻いている姿を、「経文の力で蛇の霊が苦しんでいる」と解説されていた。
私は瞬間的に「あれっ? おかしいやん!」と違和感を持った。
何分子供なのでさほど論理立てて判断できたわけではないが、今言葉を補って当時の違和感を表現すると、以下のようになる。
もし女性に本当に蛇の霊が取り憑いて苦しんでいるなら、頭は頭として床に寝転がり、蛇のようにのたうつならまだわかる。
わざわざ手で蛇の頭の形を作ってくねらせるのは、おかしいのではないか?
これは演技をしているか、または女性本人が「蛇の霊に憑かれていると本気で思い込んでいる」かの、どちらかではないか?
完全なフィクションではないにしても、心の中だけで起こっている「事実」があり得る?
そんな印象を持ったのだ。
この時の強い印象はずっと残っていて、私の「霊」に対する受け止め方に後々まで影響した。
とくに熱心な信仰を持っていなくとも、日本人はぼんやりとした「あの世」のイメージは持っている。
最近はそうでもないが、以前はアニメ「サザエさん」にも、たまにあの世のイメージが描かれることがあった。
波平と同じ顔をした「ご先祖さま」が、墓石や床の間にポワンと姿を現すシーンを記憶している人は多いのではないだろうか。
あの雰囲気が日本人の思い描く「あの世」の、一つの典型を示しているのかもしれない。
もう少しイメージスケッチを続けてみよう。
亡くなった人の魂は、消滅することなく死出の旅路に入り、あの世へ行く。
行きっぱなしではなく、盆と正月には家に帰ってくるし、それ以外の時でも仏壇やお墓を通し、なんとなく通信可能だ。
あの世がどこにあるのか、誰もはっきりとは知らない。
山里ならお山の向こう、海辺なら海の彼方、あるいは墓場の下の地下の世界など、自分の思い入れの深い故郷の自然の「向こう」にあるらしいと、なんとなく受け止められている。
あの世はさほどこの世と変わらないが、やや苦労が少なく、お花に包まれた美しい所だ。
地獄や極楽はもちろんお話としては知っているが、自分や身内の死後、あまり「大層な」世界に行くとは考えにくい。
よほどの悪人や飛び抜けた善人でない限り、大多数の人は死後「ほどほどに善いところ」に行き、のんびり暮らす。
ただ、生前の行状により、「あの世」に至れるまでの期間には個人差が出る。
行いの良くなかった者や、弔ってもらえない者、この世に執着を残した者などは、道に迷って到着に時間がかかる。
とくに悪業が深かったり、恨みを残した悲惨な境遇の死者は、容易に死出の旅に出ず、この世に留まって災いを為すこともある。
しかし長いスパンで見ればあらゆる死者はあの世に至り、いずれまたこの世に、たいていは子孫の誰かとして生まれ変わる……
おおよそこんな感じの死生観を「なんとなく」描いている人は現代でも数多いだろう。
似たような死生観は、世界中のアニミズム信仰で見られるので、日本人は仏教などの外来宗教を受け入れながらも、わりと古層の信仰を保ってきたのかもしれない。
実話とフィクションの狭間を行き来しながら、それでも上質のエンタメとして成立しているオカルトマンガの嚆矢が、70年代半ば、ほぼ同時に週刊連載された、つのだじろうの代表作二作だ。
●「うしろの百太郎」73〜76年、週刊少年マガジン
●「恐怖新聞」73〜76年、週刊少年チャンピオン
私が内容を理解できる年齢に達した80年前後の時点でも、本屋の棚には現役で並んでいて、子どもたちを恐怖のどん底に叩き落し続けていた。
主人公に強力な守護霊がついている「うしろの百太郎」の方は、いくら怖くても安心感があった。
一方「恐怖新聞」は、主人公が「ポルターガイスト」に憑依され、最後まで除霊できないままに終わる救いのない展開で、本当に怖かった。
先の分類では「2」にあたり、あくまでフィクションではあるけれども、作品に盛り込まれたオカルト情報・知識自体は出典のある「実録」テイストで、作品にリアリティを持たせていた。
このあたりの虚実の匙加減、リアルな描写は、同作者の直近のヒット作である「空手バカ一代」で体得したものかもしれない。
実録を交え、リアルさを売りにしたフィクションには、常に「読者が真に受ける」というリスクが付きまとう。
ましてや子供向けマンガのヒット作であり、作者のつのだじろうは霊や超能力が「実在する」というスタンスで描いている。
当時もそれなりに批判はあったはずだが、今読み返してみると、非常に「節度」の感じられる描写になっていると思う。
ブームだった「コックリさん」など、遊び半分で霊を扱うことや、金儲け目的のインチキ宗教に対してはかなり批判的に解説している。
善悪の基準はオーソドックスな倫理で貫かれていて、決して逸脱することはない。
ある意味「真っ当」な少年マンガなのだ。
この世の出来事全てが科学で解明できるわけではない以上、オカルトというジャンルの需要が尽きることはないし、一定割合でハマる人はハマる。
筋の悪いものに最初に出会うのは良くないので、その点つのだ作品は、私が子供時代に出会った「オカルト」としては、非常にバランスのとれたフィクションだったと思う。
70年代は、近世を通じて共有されてきた素朴な死生観に生じた揺らぎが顕在化した時期ではないだろうか。
TVやマンガ等の「心霊サブカル」で描かれる悪霊、地縛霊、水子霊等は、もちろんそれ以前から存在した概念であっただろうけれども、そのままではなかった。
罪のない多数の死者が出てしまった第二次世界大戦、戦後の高度経済成長のダークサイドである公害の惨禍など、旧来の倫理観では吸収しきれない「巨大な理不尽」は、決壊寸前まで蓄積されていた。
ニュータウンに代表される近代以前の習俗から切り離された人工的な共同体の在り方は、死や怨念をうまく受け止めるには、まだまだ未完成だったことだろう。
メディア主導、そして団塊ジュニア需要に牽引されたサブカルの中で、旧来の死生観が非常に通俗的な形で読み替えられて行った可能性は考えておきたい。
72年からワイドショーの一コーナーでスタートした「あなたの知らない世界」は、視聴者の恐怖体験を再現ドラマで紹介するが人気で、これも夏休みになると連日放映されていた。
わざわざ夏休みにまとめて放映するのは、完全に子供ウケをねらってのことだったのだろう。
その頃の心霊番組で今でもよく覚えているのは、ある「除霊」の映像。
再現ドラマではなく、実録の体裁で撮影されたものだった。
年配の女性に「蛇の霊が憑いている」という触れ込みで、祭壇を前にしたお坊さん(?)が経文を唱えると、その女性が苦しみだす。
両手を身体の前でつぼみのような形に合わせ、くねらせながら呻いている姿を、「経文の力で蛇の霊が苦しんでいる」と解説されていた。
私は瞬間的に「あれっ? おかしいやん!」と違和感を持った。
何分子供なのでさほど論理立てて判断できたわけではないが、今言葉を補って当時の違和感を表現すると、以下のようになる。
もし女性に本当に蛇の霊が取り憑いて苦しんでいるなら、頭は頭として床に寝転がり、蛇のようにのたうつならまだわかる。
わざわざ手で蛇の頭の形を作ってくねらせるのは、おかしいのではないか?
これは演技をしているか、または女性本人が「蛇の霊に憑かれていると本気で思い込んでいる」かの、どちらかではないか?
完全なフィクションではないにしても、心の中だけで起こっている「事実」があり得る?
そんな印象を持ったのだ。
この時の強い印象はずっと残っていて、私の「霊」に対する受け止め方に後々まで影響した。
とくに熱心な信仰を持っていなくとも、日本人はぼんやりとした「あの世」のイメージは持っている。
最近はそうでもないが、以前はアニメ「サザエさん」にも、たまにあの世のイメージが描かれることがあった。
波平と同じ顔をした「ご先祖さま」が、墓石や床の間にポワンと姿を現すシーンを記憶している人は多いのではないだろうか。
あの雰囲気が日本人の思い描く「あの世」の、一つの典型を示しているのかもしれない。
もう少しイメージスケッチを続けてみよう。
亡くなった人の魂は、消滅することなく死出の旅路に入り、あの世へ行く。
行きっぱなしではなく、盆と正月には家に帰ってくるし、それ以外の時でも仏壇やお墓を通し、なんとなく通信可能だ。
あの世がどこにあるのか、誰もはっきりとは知らない。
山里ならお山の向こう、海辺なら海の彼方、あるいは墓場の下の地下の世界など、自分の思い入れの深い故郷の自然の「向こう」にあるらしいと、なんとなく受け止められている。
あの世はさほどこの世と変わらないが、やや苦労が少なく、お花に包まれた美しい所だ。
地獄や極楽はもちろんお話としては知っているが、自分や身内の死後、あまり「大層な」世界に行くとは考えにくい。
よほどの悪人や飛び抜けた善人でない限り、大多数の人は死後「ほどほどに善いところ」に行き、のんびり暮らす。
ただ、生前の行状により、「あの世」に至れるまでの期間には個人差が出る。
行いの良くなかった者や、弔ってもらえない者、この世に執着を残した者などは、道に迷って到着に時間がかかる。
とくに悪業が深かったり、恨みを残した悲惨な境遇の死者は、容易に死出の旅に出ず、この世に留まって災いを為すこともある。
しかし長いスパンで見ればあらゆる死者はあの世に至り、いずれまたこの世に、たいていは子孫の誰かとして生まれ変わる……
おおよそこんな感じの死生観を「なんとなく」描いている人は現代でも数多いだろう。
似たような死生観は、世界中のアニミズム信仰で見られるので、日本人は仏教などの外来宗教を受け入れながらも、わりと古層の信仰を保ってきたのかもしれない。
実話とフィクションの狭間を行き来しながら、それでも上質のエンタメとして成立しているオカルトマンガの嚆矢が、70年代半ば、ほぼ同時に週刊連載された、つのだじろうの代表作二作だ。
●「うしろの百太郎」73〜76年、週刊少年マガジン
●「恐怖新聞」73〜76年、週刊少年チャンピオン
私が内容を理解できる年齢に達した80年前後の時点でも、本屋の棚には現役で並んでいて、子どもたちを恐怖のどん底に叩き落し続けていた。
主人公に強力な守護霊がついている「うしろの百太郎」の方は、いくら怖くても安心感があった。
一方「恐怖新聞」は、主人公が「ポルターガイスト」に憑依され、最後まで除霊できないままに終わる救いのない展開で、本当に怖かった。
先の分類では「2」にあたり、あくまでフィクションではあるけれども、作品に盛り込まれたオカルト情報・知識自体は出典のある「実録」テイストで、作品にリアリティを持たせていた。
このあたりの虚実の匙加減、リアルな描写は、同作者の直近のヒット作である「空手バカ一代」で体得したものかもしれない。
実録を交え、リアルさを売りにしたフィクションには、常に「読者が真に受ける」というリスクが付きまとう。
ましてや子供向けマンガのヒット作であり、作者のつのだじろうは霊や超能力が「実在する」というスタンスで描いている。
当時もそれなりに批判はあったはずだが、今読み返してみると、非常に「節度」の感じられる描写になっていると思う。
ブームだった「コックリさん」など、遊び半分で霊を扱うことや、金儲け目的のインチキ宗教に対してはかなり批判的に解説している。
善悪の基準はオーソドックスな倫理で貫かれていて、決して逸脱することはない。
ある意味「真っ当」な少年マンガなのだ。
この世の出来事全てが科学で解明できるわけではない以上、オカルトというジャンルの需要が尽きることはないし、一定割合でハマる人はハマる。
筋の悪いものに最初に出会うのは良くないので、その点つのだ作品は、私が子供時代に出会った「オカルト」としては、非常にバランスのとれたフィクションだったと思う。
70年代は、近世を通じて共有されてきた素朴な死生観に生じた揺らぎが顕在化した時期ではないだろうか。
TVやマンガ等の「心霊サブカル」で描かれる悪霊、地縛霊、水子霊等は、もちろんそれ以前から存在した概念であっただろうけれども、そのままではなかった。
罪のない多数の死者が出てしまった第二次世界大戦、戦後の高度経済成長のダークサイドである公害の惨禍など、旧来の倫理観では吸収しきれない「巨大な理不尽」は、決壊寸前まで蓄積されていた。
ニュータウンに代表される近代以前の習俗から切り離された人工的な共同体の在り方は、死や怨念をうまく受け止めるには、まだまだ未完成だったことだろう。
メディア主導、そして団塊ジュニア需要に牽引されたサブカルの中で、旧来の死生観が非常に通俗的な形で読み替えられて行った可能性は考えておきたい。