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2020年07月20日

70年代後半、60年代レジェンドの再生

 60年代の子供向けサブカルを牽引し、その後も精力的な活動を続けたマンガ家ビッグスリーを挙げるとすれば、手塚治虫、横山光輝、水木しげるあたりになるかと思う。
 70年代後半の小学生である私たちにとっては「レジェンド枠」で、自分たちが等身大で楽しむマンガ家先生の「そのまた先生」という感じだった。
 既に評価の定まった古典として読んでおり、実際その当時「ビッグスリー」はそうした風格漂う作品を世に送り出していた。

【水木しげる】
 60年代末、年齢的には遅咲きながら「ゲゲゲの鬼太郎」で妖怪ブームを巻き起こした水木しげるは、70年代後半には「字の本」をたくさん出し始めていた。
 本の売り方としては鬼太郎に登場する妖怪や、世界観を紹介する図鑑と言う体裁をとっていたが、今思うと民俗学、人類学、博物学の、子供向けの手加減抜きの入門書になっていた。
 マンガではなく「字の本」なので買ってもらいやすく、膨大な民族資料や図像、書籍を蒐集し、それを下敷きに新たに描き起こした精密なペン画イラストの数々には、小学生の目にも「本物」の迫力が感じられた。
 マンガで使用する画材で、ここまでリアルに写実的に描けるのかという感動があったのだ。



 
●「妖怪世界編入門」
●「妖怪百物語」
●「鬼太郎なんでも入門」
●「妖怪なんでも入門」

【横山光輝】
 70年代後半の横山光輝は、「マーズ」「時の行者」等でSFをやりつくし、じわじわと歴史モノ古典のマンガ訳にシフトしていく移行期だった。
 それまでにも忍者モノ等で時代劇は描いていたが、67年「水滸伝」あたりを発端とし、72年「三国志」の途中から路線変更。
 本来なら前半部のクライマックスにあたるはずの「官渡の戦い」がダイジェストで飛ばされたあたりで、はっきり作風が転換し、80年代以降は中国古典の絵解きが中心になっていく。
 横山「三国志」を小学生の頃から読み込んでいたおかげで、以後の私は大学受験に至るまで、漢文で苦労することはなくなった。
 作中で繰り返し描写される故事や、人々のものの考え方、中国文化のエッセンスのようなものを、長い長いマンガを繰り返し読むことで自然に身に付けられていたのだと思う。



【手塚治虫】
 70年代後半の手塚治虫は「再起」の渦中にあった。
 60年代末〜70年代初頭のスポ根モノの全盛期、子ども向けマンガの最前線からは後退、会社の倒産などの不遇から、ようやく復活しつつあったのだ。

 72年〜「ブッダ」
 73年〜「ブラックジャック」
 74年〜「三つ目がとおる」
 76年〜「火の鳥」再開




 今から振り返ると、リアルタイムの人気はともかく、質的には黄金時代ではないかとすら思える。
 絵的にも初期のシンプルなマンガ絵に、劇画の作画密度を無理なく組み込んだ、刺激に満ちた代表作揃いである。
 当時の私にとっては敬愛する藤子不二雄の、そのまた先生にあたるレジェンドで、内容的には「少し背伸びして読む」感じだった。
 少年誌で連載中だった「ブラックジャック」「三つ目がとおる」の単行本が、「ちょっと怖いけど面白い」という評判で友人の間で回し読みされていたのを覚えている。

 うちの場合は、「リボンの騎士」育ちの母親が、おそらく自分で読みたくて買った「ブッダ」「火の鳥」大判の単行本を、私と弟も小学校低学年の頃から読んでいた。
 父方が僧侶だったので幼い頃から仏教的なものの観方には関心があったのだが、この二作品はそうした興味に応えてくれる世界観に思えた。
 輪廻、因果応報、宇宙、永遠、時空、生命……
 難しい言葉や漢字は飛ばしながらだったが、手塚治虫の超絶作画とストーリーにより、今振り返ってもかなり正確に読解していたと思う。
 当時うちにあった「ブッダ」は、初期の数巻だったと記憶している。
 シッダルタの誕生前から幼少期、少年期から出家に向けて、まだ悟りを開く前の悩める王子のイメージが強かった。
 ブッダとして悟りを開いて以降は、完結に向けて徐々に穏やかな描線、物語になっていくのだが、初期はかなりエモーショナルな作劇だった時期で、低学年の子供にとってはかなり強烈な読書体験になった。

 連作形式の「火の鳥」の方は、各巻のエピソードごとに大袈裟ではなく宇宙が始まって終わっていくようなカタルシスがあり、当時私が読んでいたマンガの中でも何か特別な感じのする作品だった。
 最初の「黎明編」と次の「未来編」で、歴史の始まりと終わりの時間軸が円環する構造で、「未来編」では宇宙の極大と極小の空間的な円環も描かれていた。
――個別の生命の輪廻と宇宙の輪廻が円環し、火の鳥は全にして一である「コスモゾーン」のモバイル端末……
 そんな壮大な宇宙観を、絵と物語で小さな子供にも感覚的に伝えてしまうのが、「マンガの神様」手塚治虫の凄みだったのだろう。
 SFである「火の鳥」で描かれる輪廻は、伝統宗教の「先祖の因縁」「親の因果が子に報い」とはちょっと違うイメージで描かれていた。
 何に生まれ変わるかは善悪のカルマとは無関係で、今思うと科学的な物質の循環に近いイメージで設定されていて、子供の頃はそれがとても理不尽で恐ろしく感じた。
 この時期感じた理不尽さ、割り切れなさは子供心に強く印象に残り、私は以後もずっと「輪廻転生」について考えるようになった。

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posted by 九郎 at 18:21| Comment(0) | 青春ハルマゲドン70s | 更新情報をチェックする