私が子供時代を過ごした70年代後半から80年代初頭にかけては、TVのオカルト番組の盛り上がりが一つのピークだったのではないかと思う。
ただ、幼児期を過ぎ、番組内容を理解できるようになったその頃には、微妙に「超能力ブーム」は終息しつつあった。
スプーン曲げブーム直撃は、私たちの学年より少々上の「ちびまる子ちゃん」さくらももこ世代だろうけれども、他のテーマはまだまだ健在だった。
超能力、心霊現象、UMA(未確認生物)、UFO(未確認飛行物体)など、毎日のように取り上げられており、とくに長尺の特番は夏に放映される機会が多かった。
夏と言えば「怪談」というのは定番中の定番。
心霊に限らず、超常現象は全般に「怖さ」というジャンルの一つとして紹介されていたのだろう。
TV番組やイベントでは、夏の定番の範疇になぜか「恐竜」まで含まれていたりするが、これは「怖さ」というより「縁日」「見世物小屋」というジャンルで解釈すれば納得できる。
UFO番組で、浮遊しながら降下してきた異星人が生きた牛の臓物をホース状の装置で吸引する再現映像にショックを受け、夏の夜に窓を開けて寝るのがとても怖かった記憶がある。
当時はまだエアコンは普及しておらず、夏の夜は窓を開け、網戸で涼をとるのが普通だった。
UFO番組を視た後で布団に入り、電灯を消すと、施錠していない窓からホースを抱えた宇宙人がフワフワ入って来そうな気がして、ものすごく怖かったものだ。
他にも、怖さは控えめで楽しめたのが、洞窟に潜入する冒険モノや、謎の生物を捜索する未確認生物モノだった。
76年スタートの「水曜スペシャル」では、世界各地の秘境や未確認生物を探索して回る「川口浩探検隊」シリーズが人気で、大好きだった私は毎回必ずチェックしていた。
今振り返ると、川口浩探検隊シリーズは正しく「縁日」や「見世物小屋」の世界を継承したTV番組だった。
予告やプロローグで煽りに煽り、もったいぶった構成で引っ張りに引っ張るのだが、肝心の「モノ」は最後まで見せないことが多かった。
いきなり毒蛇が落下してきたリ、洞窟に白骨が散らばっている画面が頻出するのは、子供心にもちょっと疑問だったが、まだ「シコミ」という言葉は知らなかった。
「この探検隊は、けっこうアヤシイな……」
はっきりそう認識したのは、たぶん小学校高学年の頃のことで、「猿人バーゴン」を探索に出かけた回のことだったはずだ。
以下、当時の記憶を元に端折って紹介してみよう。
ジャングルの中で目撃された謎の猿人を捕獲するため、探検隊はいつもの如く長尺の冒険を経た後、ついにバーゴン(?)を捕獲する。
ボロボロの服を着た蓬髪髭面の男が、罠にかかったまま奇声を上げながら探検隊を威嚇するが、到着したヘリに乗せられ飛び立っていく。
静かな表情で見送る川口隊長。
私はTV画面を呆然と見つめながら、心の中で叫んでいた。
(猿人ちゃうやん! 完全におっさんやん!)
古生物マニアでもあった当時の私にとって、「猿人」の概念はけっこう厳密だったのだ。
翌日からはしばらく、友人や二つ下の弟と共に、やけくそ気味の「猿人バーゴンごっこ」に興じた覚えがある。
小学校時代の何かの文集に猿人バーゴンネタを書いたような気もするが、どうせろくでもないアホな文章であろうから、実家で発掘などはしないでおく。
この「猿人バーゴン」回、当時の多くの子供の心に衝撃を与えた回であったらしく、ネットで検索してみると多くの「思い出話」がヒットする(笑)
誰もがどこかの時点、何らかのきっかけで、オカルト番組の「仕掛け」に気付く瞬間があるものだが、「川口浩探検隊」がそのきっかけになったケースはかなり多いのではないだろうか。
私の場合は他にも、小学校の校門前に物を売りに来るおっさんや、縁日の店先の「当てもん」の類で小遣い銭を巻き上げられたりしながら、ウソとマコト、世の中の仕組みについて、色々学ぶところはあった。
子供の遊びで済む段階、小遣い銭で済む段階で、軽く騙したり騙されたりしておくことも、人生においては必要なことなのではないかと思うのである。
60年代で既に一周回っていた子供向けマンガやアニメ等のサブカル作品は、70年代に入ると絵や表現にもう一段進んだ「リアル志向」を加えて進化しようとしていた。
ボクシングマンガで言えば「あしたのジョー」から「がんばれ元気」へ、プロレス・格闘技マンガで言えば「タイガーマスク」から「空手バカ一代」「プロレススーパースター列伝」へ。
現実の世界でも72年発足の新日本プロレスは「最強」「キングオブスポーツ」を前面に打ち出し、70年代後半からは異種格闘技戦に乗り出すようになった。
世の中には「虚実の狭間を読む楽しみ」というものがあり、オカルトやプロレスはその最たるものだ。
それは、「完全なリアル」ではない。
それは、「完全なフィクション」でもない。
全肯定と全否定の間にグラデーションがあり、結論が出ないことに面白さがある。
本で言えば「実話」「実録」系がそれにあたり、多くの場合それは「怖い本」だった。
現在なら怖さの種別にホラー、サスペンス、オカルトなど細かく嗜好が分かれたりすると思うが、80年代以前の時点では、まださほど明確なジャンル分けではなかったと記憶している。
これは「怖い本」に限らないが、虚実の匙加減で言えば、以下のような段階が考えられるだろう。
1、純然たるフィクション。
2、実際の出来事や体験を元にしながら、あくまでフィクションとして描かれた作品。
3、実録と称したフィクション。
4、実録の体裁で、一部フィクションも交えた作品。
5、純然たる実録。
オカルトテーマを論じる時、この「匙加減」がけっこう問題になる。
たとえばスプーン曲げなどの超能力ネタで言えば、90年代以降に活躍したミスターマリックの「超魔術」は、1〜2の「フィクション」の分類になるだろう。
表現形態は超能力っぽく見える演目だが、演者自身も観客も完全に「トリックである」という前提で楽しんでいるはずだ。
70年代のスプーン曲げブームの立役者であるユリ・ゲラーは、3の「トリックを超能力として客に見せた」ケースであったことが、既に明らかになっている。
その「商売の手法」を、エンタメの範囲内として許容できるかどうかで、評価は分かれるだろう。
日本におけるスプーン曲げの第一人者であるKさんの場合は、ちょっと微妙なものを含んでいる。
私は一度だけ、とある機会に至近距離で「スプーン折り」を見、お話を聞かせていただいたことがある。
その時の印象や、以下の本の詳細な取材を読んでみたところでは、おそらくKさんご自身の意識としては、「トリックでスプーン曲げをやってはいない」ということだろうと思う。
●「職業欄はエスパー」森達也(角川文庫)
少年時代の過酷なTV番組収録の中で、トリックを使ってしまったことがあるのはご本人も認めておられる事実だが、決してそれ「だけ」ではなさそうだ。
ただ、本人の意識ではトリックでやっていないその現象には、「超能力」以外の物理学の範囲内の解釈もあり得るはずで、先の分類の「5、純然たる実録」と言い切るには、ややためらいがある。
話を「怖い本」に戻すと、このジャンルには「3、実録と称したフィクション」がけっこう多い。
一応実話を元にしていても、恐怖感を煽るためにかなり脚色し、ほとんどフィクションと化すことは多々ある。
また、不出来なフィクションに手っ取り早くリアリティを付加する手段として「実録詐称」することもある。
その場合は、とくにヤマもオチもないような地味な展開が、逆にリアルに見えたりしてくるものだ。
その場で楽しんだらおしまいのエンタメであれば、こうした「詐称」にも罪はない。
しかし、霊感商法やカルト宗教の勧誘手段に使われると「悪質」ということになる。